4月に入るといろんな新しい事が始まります。企業では入社式、学校では入学式など、 何となく気持ちが新しくしてくれる季節の始まりです。自分でも入学式の事は案外覚えていて、 母につれられて照れながら恥ずかしさと大きな希望を抱いて校門をくぐったことが記憶にあります。 勉強がいかに楽しいものか、勝手に想像して楽しんでいたものでした。
やがて我が子が入学の番、小さい手をつないで学校に行ったことも忘れられません。これで後は 学校で教えてもらって、となんとなくホッとする気持ちができ、親のぼくも新鮮でした。この子たちは どのような教育を受けるのか、大きな関心を寄せていましたが、何よりどのような先生か、まず そこに大きな関心を寄せました。初めはみんないい先生なにみえるのです。
先生に預けるというのは信頼しているということですから、親の願いと期待が含まれているのです。 やがて先生方のご苦労がわかっていくのですが、中には困った先生もいる事も事実です。
4月から小学校で導入される「道徳教育」の教科化を文科省が決め、早速現場で取り組みが はじまるのでしょう。どんな評価になってしめされるのでしょうか。道徳教育を協力に推し進めようと しているのは日本だけです。道徳という言葉は古くからあり、ぼくも学校で習ったことがあります。
しかし、戦争を体験した者にとって「道徳」というのはどうも「押し付け人物像」を理想としていると しかえません。自由などない時代。軍部政治に逆らうことが出来ない世間。このような忌まわしい 環境の中、10代の若者は学業を放棄して戦場に向かったのです。結局は人に仕える人間ではなく、 国家のために命を捧げよ、殉職こそ本当の愛国者だと国家主義を強要した教育でした。
政府が道徳を持ち出すときには社会が乱れている時です。それは決まって大人ことにに政治や 経済の乱れ、旧国家体制に戻そうとする政権意図によって進められます。そしてその影響を最も 受け安い強制力の効く教育分野に目がいくのです。今の子どもたちに、今この時代に教えるべき 事は、自由とは何か、少数の人々の声を受け入れるにはどうするべきか。誰かの手をらないと 生きていけない人々にどうすればよいか、教育を受けたくとも貧困などいろな理由で断念している 人の貧困問題をどうするのか。この現実をしっかり教えることです。
いうまでもなくこれは政府の責務の問題です。でもこのような日々の生活の中で緊急課題の 克服なくして、いくら教育で人間を改良しようと国のリーダーたちが教科書を作ってもまずは自分 自身が模範になれるような人物になる謙虚な姿勢がないかぎり、単なる押し付け物になっていく のではないでしょうか。今後の緊急教科書はモラルやウソを平気でいう大人のための道徳教育を 子どもたちみんなで制作してはどうでしょうか。皮肉の一つもいいたくなります。
やさしいタイガー
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