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8月6日を知らない子供たち

2015-08-06 18:05:08 | 日記・エッセイ・コラム

 今日8月6日、広島に原爆が投下され、30万人もの犠牲者を出した忘れてはならない日だ。平和記念式典には世界50か国の要人が参列した。広島市長は自然も家族も戻してくれ、と非人道的行為を訴えた。また市長は、核廃絶にむけて世界の為政者は努力せよ、と訴え、日本国憲法の順守を明言した。それに比べ、安倍首相の挨拶は、きわめて形式的で自戒や痛みを負うような言葉はなく、空しいものだった。午前8時15分、黙とうの知らせが告げられると、街を歩く人も登校した子どもたちも一斉にこうべを垂れていた。

 被爆者は高齢化し、平均年齢も80歳を超えたという。まもなく体験者はいなくなることになろう。今、体験を継続する語り部が生まれてきているが、それにしても経験を語るということは、とても苦しいことだなのではないだろうか。語りたくないという被爆者はあまりにも残忍な情況を忘れられないからだと思う。それにしても受け継いでいかないといけないのだ。決して風化させてはならない。

 しかし、ややショッキングなことを知った。今の子どもたちの7割が8月6日は何の日か知らないという。広島や長崎在住の人は比較的低いが、それでも思いのほか低い。どうしてこういうことになるのか。 人の記憶は時代や年齢とともに薄れていくのはやむを得ないとはいえ、世界の唯一の被爆国として日本は本当に訴求力を持っているのだろうかと、ふと疑念がわく。

 国は、子供たちの教育の内容を改変しようとしている。今教育の現場に立つ教員たちは原爆も戦争も知らない世代だ。教科書は何らかの形でこの経験を真摯に受け止め、しっかり教えるよう勧めているのか、いやむしろ軽く流す程度に教え、反権力化を恐れての無言の抑圧ではないのか、とうがった考えも出てくる。

 平和教育の難しさもあるのだろうが、一瞬に命を奪うような出来事をなぜ主張できないのか、政府の非力を感ぜざるを得ない。それどころか、福島原発の爆発で大きな犠牲を強いてしまったことも東電や政府は責任を負うどころか、再稼働にゴーサインを出すありさま。こんなことがあってよいのか、といかりをもつひともおおいはずだ。

 少しでも思いを休めることなく、自分なりの意見を持って発進することが大切なことだとこの日にさらに思うのである。

やさしいタイガー


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