今日は、昨夜来の雨の残りでしょうか、どんよりしています。66年前のこの日、ぼくは小学生低学年だったが、幾つかのことを覚えています。空は真っ青で、汗が吹き出るような暑い日でした。連日の焼夷弾の襲撃を受けてあちらこちらで火花が上がるのを恐怖の目で見ていたのです。
そして空襲のない静かな午前の時間、周辺の人びとが近くの広場に集められ、正装姿の軍人がこわばった顔をしてにらむように立っていました。鉱石ラジオから流れる誰かわからない雑音の多い声が途切れ途切れに聞こえてきました。何人かは顔を覆っていました。
戦争が終わったということは、後で知ったのです。けれども喜びを満面に表現することはありませんでした。町は静かに落ち着きを取り戻しつつあったのでしょう。戦火はいたるところに甚大な被害を与えてきました。これが戦争だったのだということを子ども心に感じていました。
大方の人びとは、この日を終戦記念日と位置づけています。それはそれでよいのですが、後年ぼくは、こだわりを持つようになり、大事なことは「敗戦」という言葉の重みを感じるようになりました。
「神国」だから、負けることはないと教え込まれていただけに、敗戦の経験は屈辱的でもあったと思われます。いついかなる時も、戦争を仕掛ける国は、初めから負けるとわかって戦う愚行はしないと思いたいが、現実は分かっていても、勝つことを信じ込ませて命を捨てさせる、これが日本の軍部の国家管理だったのです。
「負けた」のではないと主張する人がいるのかもしれませんし、戦争礼賛者がいることも事実です。永久に戦争をしないという考えを大事にするためには、敗戦という事実を謙虚に受け入れて、そこから最も平和を求めるのはわが国なのだという主張があってもよいのではないかと思っています。
多くの犠牲の上に今の日本があることを顧み、今日の8月15日を迎えたいものです。
やさしいタイガー
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