喫茶 輪

コーヒーカップの耳

井伏鱒二の筆跡

2019-11-23 09:45:08 | 原稿
次の原稿に井伏鱒二の筆跡に関した話を書こうと思って、わたしが所持する井伏の直筆書簡を読んだのだが、恥ずかしいことに字がなかなか読み取れなかった。


何日も眺めていて、やっと読めた。
昔の人なら簡単に読んだのでしょうね。
また若い人でも学のある人ならね。
もっと勉強しておくべきだった。
井伏のハガキの文末、「勉強なさい」が痛く胸に響きます。
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香落ちの将棋

2019-11-22 17:49:37 | 将棋
将棋天才少年I君だが、教え始めて早いものでもう3年を過ぎる。現在四年生。
最初は六枚落ちの大きなハンディからだったが、その後、四枚落ち、二枚落ち、一枚半(飛車香落ち)、飛車落ち、角落ちと進み、今は香落ちと、平手に近いハンディで指している。
これで今はいい勝負。
今日はわたしの2勝1敗。すべてきわどい勝負。
あと一年、いや半年もすれば、確実にわたしを上回る実力をつけるでしょう。
楽しみなことです。
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鉛筆削り

2019-11-22 14:49:36 | 懐かしい話
昨夜から大阪に用事でちょっと帰ってきている姫路の息子だが、
これを見て、

「まだ使ってるの?」と言う。
わたしが毎日のように使っている、鉛筆削り。
え?そんなに古いか?
「ぼくが小1の時のんやけど」と言う。
ということは、もう40年も前。
昔のものは頑丈に出来ていたのだ。
メーカーはどこ?と思って裏側を見ると、
「三菱電動シャープナー」とある。
そうか、「鉛筆削り」とは言わないのか。「シャープナー」ね。
で、この「シャープナー」と言う言葉をググってみると、包丁砥ぎのことのよう。
要するに、削るものということなんですね。
でも、やっぱりこれは「鉛筆削り」だ。
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原稿チェック。

2019-11-21 14:50:23 | 続・コーヒーカップの耳
仮称『続・コーヒーカップの耳』のゲラ前の原稿チェックをしてます。



集中してやってると、目と頭が少々疲れます。
今、ちょっと一服です。
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ジュンサグモ

2019-11-20 19:31:00 | 出石


江口さんから贈られた『多島海』に載っている「十三夜」という詩に「コガネグモ」というのが登場する。
どんなクモかと思ってネットで見ていたら、そばにいた家内がジュンサグモがどうとかこうとか言う。
「え?聞いたことない」というと、「たくさんいたよ」と言う。
で、ググってみたが「ジュンサグモ に一致する情報は見つかりませんでした。」と出る。漢字で「巡査グモ」と入れても駄目だ。
「そんな言葉無いって。それ、方言やろ?」と言うと、「失礼な!小野小学校ではみんなそう言ってた」という。
小野小学校とは、出石の山奥の学校です。
ブログもありますねえ。

現在在校生63人。しかし伝統は古く、創立約147年となっています。「約」というのがなんともおかしいですが。
校歌作曲者は、有名な木下保です。
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ねじの驚異

2019-11-20 10:24:52 | 本・雑誌
『ねじとねじ回し』を読み終える。
いやあ、面白い本だった。
ただし、わたしの理解を超える箇所は飛ばし読みしましたが。
今日読んだ最後のところ。

←クリック。
アルキメデスの凄さを改めて知りました。
正に「ねじの父」でもあります。

そして、小関智弘さんの解説のしめくくり。
←クリック。

本文から《才気ほとばしる発明家の心は、たしかに詩的である》を引用しておられて、大いに共感しました。
小関さん、お元気だろうか?
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「技術者か?芸術家か?」

2019-11-19 16:30:35 | 本・雑誌
『ねじとねじ回し』に「技術者か?芸術家か?」という項目がある。
その中にこんなことが書かれている。
《天才技師は天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることは間違いない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」(略)機械の複雑な関係を直感的に理解する、才気ほとばしる発明家の心は、たしかに詩的である。》
ところがこの後、こう続く。
《ねじ回しはといえば、詩的とは言いがたい。火縄銃兵が使ったスパナや武具師のペンチが進化してねじ回しを取り入れるようになったのか、あるいは曲がり柄錐の先をねじ回しにしたのか、いずれにしても「発明」というよりは、あくまでも実用性を追求した結果の進化である、といったほうがいいくらいのものだ。しかし、ねじとなれば、話はまったく別だ。》
なかなか複雑な話になってくる。

それから何ページかあって、
《古代ローマ人は――優れた鉄の加工技術をもち、釘を発明したにもかかわらず――ボルトとねじを組み合わせようとはしなかった、ということだ。古代ローマでねじとねじ回しが使われたという記録はなく、それらが発見されたこともない。(略)ねじは釘よりも優れた道具だった。それでも、技術上のさしせまた要請がなかったわけだ。したがって、ねじが現れるまでのは1400年という時間が必要だった。つまり、1400年後にようやく機械屋の詩人が気づいたのだ。》
と、いう話になる。
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「発明」ということ。

2019-11-18 16:07:36 | 本・雑誌
『ねじとねじ回し』(ヴィトルト・リプチンスキ著)という本を読んでいて、「発明」ということに感心させられている。

51ページにこんなことが書かれている。
《寒さを防ぐ便利な道具であるにもかかわらず、人類は歴史のほとんどの期間を通じて、ボタンを知らずに過ごした。(略)日本人は着物を帯で締めていた。(略)13世紀に入ると、突如として北ヨーロッパでボタン――より正確にはボタンとボタン穴――が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。》
この『ねじとねじ回し』という本、11月16日の神戸新聞「正平調」に紹介されていたもの。
《理化学研究所などが科学の名著を紹介するブックレット「科学道100冊2019」をつくった。大人になる前に出会ってほしい本を理研の全職員に尋ねたうえで選んだといい、ホームページからでも見られる。》とあり、『ねじとねじ回し』はその中の一冊。
わたしももっと若い日に読みたかった。

本はこう続く。
《このきわめて単純な仕掛けを作り出すのに必要とされた発想の一大飛躍たるや、たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを言葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。ボタンのもう一つの謎は、それがいかにして見出されたか、である。だって、ボタンが徐々に発展していった様子など、とても想像できないではないか。つまり、ボタンは存在したか、しなかったかのどちらかしかないのだ。いったい誰がボタンとボタン穴を発明したのか知らないが、この人物――女性と考えるのが現実的だろう――は天才だったにちがいない。》
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『ねじとねじ回し』

2019-11-18 11:02:14 | 本・雑誌
新しく読み始めた本、『ねじとねじ回し』(2010年刊)の目次を見ていてびっくり。



解説を小関智弘さんが書いておられるのを知った。
最近は年賀状だけの交流になっているがお元気だろうか?
これを機にお手紙を書こう。
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キンカンの実

2019-11-18 10:10:30 | 地蔵さん
地蔵さんの境内のキンカンが今年もたくさん実をつけ、色づいてきた。
道端なので、通りがかりの人が取って行かれることがある。
一個や二個ならいいのだが、中には袋を準備してきて、素早くたくさんの実を持ち去る人がある。
一度そんな人を見つけて注意したことがある。
「近所で育てているのです。無断で盗って行かないで下さい」と。
するとその男の人は無言で立ち去った。
だから注意書きをぶら下げた。



「キンカンの実、盗って行かないで下さいね」
無粋なことだが仕方がない。
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『神戸のモダニズム Ⅱ』

2019-11-18 09:34:08 | 
お借りしている本、『神戸のモダニズム Ⅱ』(2013年・ゆまに書房)です。



大冊です。900ページを超えます。
暑さ53mm。

貴重な図版も。


これは「羅針」6号の表紙絵。
まさか、と思ったら、そのまさかの小磯良平。


このころ、後に画家として有名になった津高和一さんも詩を書いておられたのだ。
←クリック。

そしてわたしが興味を持つのは、やはり「羅針」の同人、山村順さん。
その詩集はすべてこの時点で絶版になってますね。
←クリック。

山村さんの詩集、わたし一冊だけ持ってますが、それは戦後、1957年に出たもの。

『奇妙な告白』400部限定です。
実は山村さんは、我が母校、隣の用海小学校の校歌の作詞者なのです。
わたしが4年生在校中に出来たのでした。
その校歌はごく易しい言葉で綴られています。
いかにも戦後民主主義の中で生まれた歌詞。
戦前のモダニズムの詩とは大いに違います。

さて、この本の編集者、季村敏夫さんの「おわりに」の文章が「神戸詩人事件」に関連して印象的です。
←二段階クリック。

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今日は原稿

2019-11-17 16:22:08 | 原稿
雑用が多い中で、今日はやっと原稿書き。



2本のうちの一本はほぼ仕上がってますが、もう一本はまだ草稿段階。
これから推敲です。
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「コミュニティースクール」についての懇談会

2019-11-16 13:35:58 | 用海のこと
久し振りに司会をしてきました。
地域の各団体の代表約20人が出席しての懇談会。
「宮っ子」用海版が主催してのもの。
小学校の校長先生から、新しく始まる「コミュニティースクール」についての説明が先ずあって、その後質疑。



討論や議論になる性質のものではなく、だれでもできる司会です。
昔、議論になって、司会のわたしも参加してしまい、「司会者横暴」と言われたこともありましたが、あんな面白いものではありませんでした。ということで、無事に何事もなく終わりました。
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やっと会える。

2019-11-15 17:23:10 | 宮崎修二朗翁
11日(月)にお会いしたいと思って施設に電話したのだが、先客が4人あるとのことで、断念。
宮崎修二朗先生のことです。
で、12日にもう一度電話。
どうしても急いでお会いしたかったのは、宮崎先生との書簡でのやり取りで、わたしの方に大失態があり、一日も早く誤解を解いておきたかったから。
ところが先生は「会えない」とのこと。
係の人に「ご体調でも悪いのでしょうか?」と訊くと、
「いえ、そんなことはありませんけど」と。
ありゃ、やっぱり先生、ご機嫌がお悪いのかな?と心配。
わたしのミスでもあるので、ちょっと後悔。
仕方なく、お便りを書いて出す。
正直に「わたしがバカでした」と、その言い訳も添えて。
そして今朝、先生から「今日、お会いできます」と電話があり、ホッとする。
で、行ってきました。

ベッドサイドには日本国語大辞典などがあり、お勉強しておられたご様子。
ただ、わたしがお伺いしたときにはおやすみになられていた。
しかも分厚いセーターを着て、布団をかぶって。「寒い」とおっしゃっていた。ちょっと心配でした。
出した手紙で誤解は解けていました。わたしの無知からくる笑い話でした。
一時間と少々、お話しをして帰ってきました。
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「神戸詩人」と神戸労働争議

2019-11-14 17:16:57 | 日記
ある人にお貸ししていた資料2点、返しに来てくださった。
「神戸詩人」第五冊(コピー)と1921年の神戸労働争議に関するフィルムが登場するテレビ番組の録画DVD。



録画を改めて見たが、やはり貴重なフィルムですね。



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