初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ヨハネス・ブラームス(第14話)

2007年02月18日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第14話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:P協奏曲第2番
フェレンチク(ヤーノシュ), カッチェン(ジュリアス), ロンドン交響楽団, ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【Johannes Brahms】

「ドイツ・レクイエム」「交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」と名曲を次々に生み出すブラームス。次はどんな曲を作曲するのでしょうか?その続きからです。

(第14話)【仕事と対人関係】
 ブラームスの創作意欲は留まる事を知りませんでした。ヴァイオリン協奏曲が完成させると、今度はヴァイオリンソナタ第1番を作曲します。歌曲「雨の歌」からフレーズを取ったこの曲は、ヴァイオリン協奏曲とは対照的に、ひっそりとした繊細な曲調が、協奏曲と同じく今でも多くの人に親しまれています。

 1879年、次々と名作を発表するブラームスに朗報がもたらされます。ブレスラウ大学から名誉博士号が授与されるのでした。これに対してあまり派手に騒ぎ立てる事を好まなかったブラームスは当初、御礼状を送っただけで済ませていたようですが、友人から「もう少し感謝の気持ちを大きく表現した方がいい」と助言されて、「大学祝典序曲」を作曲し、これに応えるのでした。

 こうして名実共に作曲家としての地位を確立したブラームスは、記念式典にも参加するようになっていました。1878年には故郷ハンブルクのフィルハーモニー協会の創立五十周年記念祝典に参加したり、1880年にはボンで行われたシューマン記念際にも参加していたようです。
 
 また、この頃ブラームスはこうした活動と同時に、旅行にも多く出かけていたようです。ドイツ各地は勿論のこと、オーストリア、スイス、イタリアなどの多くの都市をめぐり作曲の糧にしていたようです。しかし、唯一フランスだけは毛嫌いしていたらしく、ほとんど訪れる事はなかったようです。

 そして、ブラームスが次に挑戦した曲は「ピアノ協奏曲」でした。ヨーロッパ各地の旅行を続ける中で、着々とこの協奏曲に取り組み、ピアノ協奏曲第2番は1881年に完成します。
 初演はブタペストでブラームス自身のピアノ演奏で行われる事になります。すると当然のように大成功に終わります。

 すると当然各地で再演が行われる事になるのですが、翌年ウィーンで再演されたこの曲をリストが聴きに来ていたようですが、リストはこの作品の楽譜をブラームスから送ってもらうと、ブラームスへのお礼の手紙には、高評価を記していたと言われています。

 作曲活動では快進撃を続けるブラームスでしたが、この頃の友人関係はそれほどうまくいっていなかったようです。長年の友人だったヴァイオリニスト、ヨアヒムとの関係がうまくいかなかったのです。

 ヨアヒムは歌手のアマーリエと結婚していましたが、ブラームスはよく自分の声楽作品をこのアマーリエに歌ってもらう事も多く、自然に打ち合わせや練習などで会う機会も多くなっていましたが、これに夫ヨアヒムが疑念を抱き、嫉妬してしまうのでした。
 ヨアヒムの誤解を解こうとしたブラームスがアマーリエを慰める手紙を送ったところ、これが逆効果になってしまい、ブラームスとヨアヒムの関係は一時険悪なものになってしまうのでした。



作曲活動では快進撃が止まらないブラームス。友人関係が壊れてしまいますが、本人にはきっと悪気は無かったんでしょう、きっと。(マジメだし)
さて、少し長くなってしまったので明日からは少し曲を挟んで、このつづきはまた数日後。

♪大学祝典序曲の記事はこちら
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ヨハネス・ブラームス(第13話)

2007年02月17日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第13話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:VN協奏曲
ヨッフム(オイゲン), ミルシテイン(ナタン), ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, ライスター(カール), アマデウス弦楽四重奏団, ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【Johannes Brahms】

長年に渡り構想を練った交響曲第1番が完成したブラームス。創作意欲も高まっているようですが、次にはどんな曲を書くんでしょうか?今日はその続きからです。

(第13話)【交響曲から協奏曲へ】
 完成したブラームスの交響曲第1番は、指揮者ハンス・フォン・ビューローにも、偉大なる作曲家ベートーヴェンの9つの交響曲に続く第10番だとも評し、高い支持を与えられるのでした。

 ブラームスが交響曲第1番を初演した1876年には、ワーグナーがバイロイト祝祭劇場では楽劇「ニーベルングの指輪」でこけらおとしがされていた事が、いかにも対抗的に感じられるのは、過去の経緯から考えると偶然とは言い難いのかもしれません。

 1877年、交響曲が完成すると「秘密」「愛の歌」「昔の恋」などの歌曲集を次々に作曲し、再び声楽曲に取り組んでいます。

 この年には作曲に専念するためオーストリアの南、スロベニア国境付近の都市ベルチャッハに向かいます。自然のあふれるこの地で、ブラームスの創作意欲も旺盛になっていたようです。続く交響曲第2番を作曲します。

 第2番は第1番に比べると比較的短期間で作曲された事になりますが、第1番とは対照的に穏やかで牧歌的なこの曲はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」になぞらえて、「ブラームスの田園」と呼ばれるようになります。
 12月に行われた初演も大成功を収め、大喝采を受けることになります。

 ここで、少しさかのぼって1877年9月ブラームスは、バーデン・バーデンである演奏会を聴きます。ブルッフのヴァイオリン協奏曲をサラサーテが演奏した演奏会でしたが、これに感銘を受けたブラームスは交響曲に続きヴァイオリン協奏曲の作曲に挑む決意をするのでした。

 交響曲第1番以来、破竹の快進撃を続けるブラームスの作曲活動ですが、勢いは止まらず、翌1878年にもオーストリアのベルチャッハを訪れ、作曲に専念します。古典的な作風にこだわりを持つブラームスは、交響曲ではベートーヴェンを意識して作曲していたようですが、次に取り掛かった「ヴァイオリン協奏曲」でもベートーヴェンを意識していたようです。

 現在では「三大ヴァイオリン協奏曲」に数えられるほど屈指の名作として有名なこの曲ですが、自己批判意識が強く、他人の目が気になるブラームスは書きかけの楽譜を友人ヨアヒムに送り、感想を求めていたようです。

 ヨアヒムの助言を参考に試行錯誤を重ねながらブラームスのヴァイオリン協奏曲は完成します。
 初演は1879年1月ライプツィヒでブラームスが自ら指揮を執りヴァイオリンソロはヨアヒムが担当し演奏会が行われると、またしても大成功を収め、各地で再演が行われる事になるのでした。



次から次へと名曲を生み出すブラームス。この勢いはどこまで続くんでしょうか?
このつづきはまた明日。

♪ヴァイオリン協奏曲の記事はこちら
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ヨハネス・ブラームス(第12話)

2007年02月16日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第12話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:交響曲第1番
フルトヴェングラー(ウィルヘルム), ブラームス, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
東芝EMI

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【Johannes Brahms】

ウィーンでの評価も上々のブラームス。音楽活動では大成功の階段を一歩ずつ上っているようですが、今日はその続きからです。

(第12話)【待望の交響曲】
 1872年39歳の秋、ウィーンでも人気を集めたブラームスは、ウィーン楽友協会の芸術監督に就任します。

 ウィーンでは、以前ジングアカデミーの指揮を執っていたときと同じく、演奏会のプログラムもそれまでとは大きく違った内容になっていたようです。
 それまでの演奏会のプログラムは同時代の作曲家の作品を取り上げ、当時の新曲を演奏する事の方が多かったようですが、古典的な作風を好むブラームスはプログラムにもこれを反映していたようです。

 しかし、逆に新鮮だったこのプログラムが聴衆にも受けていたようです。また、一説によると、現在のようにクラシック(古典)音楽が過去の作曲家の作品を演奏するようになったのは、この事がきっかけだったとも言われているようです。(だとしたら、ああ、ありがとうブラームス!)

 こうして、ウィーン楽友協会の芸術監督の仕事をこなしつつ、1873年には「ハイドンの主題による変奏曲」などいくつかの作品を作曲し、1874年にはスイスへの演奏旅行を行うなど、多忙な毎日を過ごすようになっていくのでした。

 ところが真面目な性格だったブラームスは手を抜くことをせず、精力的にこうした活動をしていたため、少々疲れたのでしょうか?1875年、3年間勤め上げた芸術監督の職を辞任するのでした。

 多忙な事もそうですが、既にウィーンでは作曲家としての揺るぎない地位を獲得していたので、自作の出版費用だけでも、経済的に苦しむ事は無くなっていたため、作曲に専念するために辞職したようです。

 ブラームスはこの頃までに合唱曲や室内楽(ピアノソナタや弦楽四重奏曲ほか)を中心に作曲を続けていましたが、ここにきていよいよ交響曲の作曲に本格的にとりかかるのでした。

 実際にはブラームスも数年前から交響曲の作曲には取り掛かっていたようですが、他の作品や演奏会などの仕事の片手間になってしまい、作曲家にとってはその後の代表作にもなりうる「交響曲」の作曲を中途半端では終わらせたくなかったようです。

 1876年、ブラームスは作曲に集中するため、バルト海のリューゲン島で作曲活動に入ります。作曲が架橋に入ると保養地バーデン・バーデンに移りここで「交響曲第1番」を完成させるのでした。

 初演は1876年11月バーデン・バーデン近郊の宮廷劇場で行われ、大成功の内に終わるのでした。初演が終わると、その人気からブラームスの交響曲第1番は各地で演奏されるようになるのでした。



交響曲第1番は大成功しますが、その後の作曲活動は順調に行くんでしょうか?このつづきはまた明日。

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ヨハネス・ブラームス(第11話)

2007年02月15日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第11話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:P協奏曲第2番
フェレンチク(ヤーノシュ), カッチェン(ジュリアス), ロンドン交響楽団, ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【Johannes Brahms】

その作風から意図せずワーグナーの対立軸に祭り上げられてしまったブラームスですが、その後の音楽活動が気になります。

(第11話)【叶わぬ想い】
 ドイツ・レクイエムが大成功した同じ頃、1869年ブラームスは「ハンガリー舞曲集」を出版します。このときにはピアノ連弾用として作曲していたようですが、後に自分自身でピアノソロ用に編曲したり、友人のヨアヒムがヴァイオリン用に編曲したり、オーケストラ用にはブラームスもいくつか編曲しているようですが、ドヴォルザーク他多くの作曲家が編曲をしているようです。

 さて、作曲活動ではこれまでに無いほど充実した作品を生み出すブラームスですが、この頃密かに想いを寄せる女性が現れていたようです。クララとは恩師シューマンとの関係から複雑な心境で身を引いたブラームスでしたが、音楽仲間としてよい関係を保っていましたが、クララの家に何度か出入りをする内にその娘ユーリエ・シューマンに心を魅かれてしまうのでした。

 クララに似て美貌を持っていたユーリエに想いを寄せてしまうのは、当然と言えば当然のなりゆきなのかもしれませんが、しかし、またしても事もあろうに今度は恩師シューマンの娘とは・・・、

 しかし、その事を一番自覚していたのはブラームス本人だったようです。そのため、ユーリエに寄せる想いは誰にも言わずひた隠しにしていたようです。(そりゃ~そうだ)
 もちろんクララにもそんな感情を口に出来るはずもなく、唯々ユーリエを見つめるだけの日々が続いていたようです。

 そんなブラームスの秘めたる想いを知るはずもないクララは、1869年、年頃になった娘ユーリエをイタリアのマルモリート伯爵と婚約させてしまうのでした。ブラームス自身もおそらく届かぬ想いである事は分かっていたはずでしょうが、しかし、あまりにも急な出来事に大変ショックを受けてしまったようです。

 ブラームスのあまりにも切ない心境は作曲にも表れていたようです。この頃に作曲した「アルトラプソディー」はアルトソロと男声合唱の組み合わせという変わった編成の作品ですが、ユーリエに寄せた失恋の想いが表れている曲とも言われています。

 そんなユーリエの事を振り切るかのように、音楽に没頭していくのでした。この頃ブラームスは比較されていたワーグナーの作品も聴いていたようです。1870年にはミュンヘンに足を運び「ラインの黄金」「ワルキューレ」の初演を聴いていたようです。

 ブラームスは比較された事もあってか、ワーグナーの作品をよく聴きに行っていたようです。そして作風こそは違うもののワーグナーの作品を認め冷静な評価をしていました。

 こうして、プライベートではユーリエに失恋し、傷心のブラームスでしたが、音楽家としては「ドイツ・レクイエム」「アルトラプソディー」等により、ウィーンでの名声を着実なものにしていくのでした。



叶わぬ恋とは知りながら、結局不幸な結末を迎えてしまうあまりにも悲しすぎるブラームス。音楽活動は順調に進んでいるようですが、その後はどうなるんでしょう?つづきはまた明日。

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ヨハネス・ブラームス(第10話)

2007年02月14日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第10話)です。

≪作曲家の肖像≫
NHK DVD名曲アルバム 楽聖たちへの旅「ブラームス」

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【Johannes Brahms】

ドイツ・レクイエムは大喝采を浴びることになりますが、この大成功がブラームスにどんな影響を与えてしまうんでしょう?今日はそんなお話です。

(第10話)【ブラームスとワーグナー】
 ブラームスがブレーメンで「ドイツ・レクイエム」を初演した同じ頃、ドイツ南部のミュンヘンではワーグナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を行っていました。

 同時期に別の作曲家が自作の初演を行う事は、同時代を生きる作曲家同士であれば、それほど珍しくない事のはずですが、実は当時のドイツでは音楽の作風をめぐって対立が起こっており、ブラームスとワーグナーがその渦中の人となり、ドイツ音楽の話題の人になっていたのでした。

 そんな二人の初演が同時期に行われた事により、熱い論争が繰り広げられる事になるのでした。

 対立の内容としては、少し前にリストが音楽にタイトルをつける「交響詩」という新しい分野を開拓した事に対して、シューマンがこれに反発し、音楽を純粋に楽しむためにはテーマ性は必要無いと主張した事がきっかけとなり、革新派と保守派に別れた形となります。
 その後、リストと共にワイマールで音楽活動を行っていたワーグナーがその後継者とされ、一方シューマンによって雑誌で大きく取り上げられたブラームスが彼の後継者とみなされるようになり、二人の作風が対立して取り上げられる事になっていったようです。

 革新的な音楽を追及したワーグナーと古典的な作風を愛したブラームス、両者の作風をめぐった対立は、当時の周りにいた人物によって一層激しくなっていくのでした。

 こうして当時の音楽評論家や指揮者たちがふたりを担ぎ上げて、両者の音楽を批判し合っていましが、当の本人たちは・・・、

 ワーグナーは20歳も年下のブラームスの音楽を引き合いに出されて批判を受けるのは、当然気持ちのいいものであるはずもなく、「若いくせに古臭い音楽ばっかり作曲して、ちょっとくらい売れたからっていい気になるなよ」ぐらいには思っていたのかもしれません。周りに乗せられてブラームスの音楽を批判する事もあったようです。

 しかし、一方ブラームスは逆に20歳も年上のワーグナーに対して、半ば持ち上げられたような形で対立図式を作られてしまい、ワーグナーの音楽に対して何かを言うにも、周りを気にしながらの発言になってしまっていたようですが、年が若い分だけブラームスの方がワーグナーの音楽を冷静に評価して、彼に敬意を払う形で発言していたようです。

 こうして、「ワーグナーvsブラームス」の論争が物議をかもし出しす前に、実はこのふたりは過去に一度会っいたのでした。1864年ウィーンに居たワーグナーを訪ねたブラームスは彼の前で自作のピアノ作品まで演奏していたようです。
 若いブラームスの作品を聴いたワーグナーも、この頃にはブラームスに対しても一定の評価を与えていたようです。



う~んかつてはいい出会い方をしていたはずのブラームスとワーグナーなのに・・・よもやこんな形で論争を巻き起こしてしまうとは、人間関係っていつも微妙ですよね。
このつづきはまた明日。

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ヨハネス・ブラームス(第9話)

2007年02月13日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第9話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ブラームス:ドイツ・レクイエム
シノーポリ(ジュゼッペ), チェコ・フィルハーモニー管弦楽団, ポップ(ルチア), プラハ・フィルハーモニー合唱団, ブレンデル(ボルフガング), ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【Johannes Brahms】

ウィーンに出て、一度はジングアカデミーの指揮者に就任したものの、すぐに辞めてしまったブラームス、作曲家一本でやっていけるんでしょうか?その続きからです。

(第9話)【ドイツ・レクイエム】
 1865年2月ブラームスの母親クリスティアーネが亡くなります。母親の死は作曲家ブラームスにも当然のように影響を与え、この頃の作品にはどこか陰のある悲しいものになっているようです。
 作曲に専念する一方で、ジングアカデミーを辞めたブラームスは無職になってしまいましらから、収入も限られたものになっていました。

 母親を失った感傷からなのか、収入源を意識した経済的な理由からなのか、ブラームスは演奏旅行を企画してスイスへと旅立ちます。

 スイスへの演奏旅行には友人の力も借りていたようです。ブラームスはスイスの出版社やチューリッヒの音楽愛好家で医学者でもあったテオドール・ビルロートなどと知り合いスイスでの音楽活動を彼らの支援により充実させていきます。

 特に医学者ビルロートはブラームスの音楽を大変気に入ったらしく、彼は自宅にもブラームスをはじめとする音楽家を招き演奏会を度々行っていたようです。こうしてスイス各地で演奏活動を行い、ブラームスはその知名度を上げていくのでした。

 スイスでは演奏活動を続けながら、かねてから構想を練っていたレクイエムの作曲にも本格的に取り掛かっていたようです。恩師シューマンの死、そして母親の死など、身近な存在の死がブラームスが「ドイツ・レクイエム」を作曲するきっかきになっていたのかもしれません。

 1865年4月には書きかけの「ドイツ・レクイエム」をクララのもとに送り、感想を求めたりしながら、更にこの曲を書き進めていくのでした。
 1866年秋頃にはほぼこれを完成させると、スイスから久々にウィーンに戻り、クララへのクリスマスプレゼントにするために、ピアノ用の楽譜を作成します。
 翌1867年12月、ウィーン楽友協会が1~3楽章までを演奏しますが、このときには練習不足もあって、かなり不評になったようです。

 おそらくこの事で慎重になったブラームスは「ドイツ・レクイエム」の初演をドイツ北部の都市ブレーメンで開催することを決めます。
 1868年4月、5楽章を除く(この頃にはまだ作曲されていなかった)全曲が、ようやく待望の初演に漕ぎ着けると大成功を収めることになります。初演当日までには、これにクララが間に合わない事を非常に残念がっていたブラームスでしたが、クララも上演までには、どうにか間に合って初演が聴けたようですから、クララの到着が「ドイツ・レクイエム」の大成功に花を添える形となりました。

 聴衆から大喝采を浴びたブラームスの「ドイツ・レクイエム」は翌1869年、5楽章を完成させてライプツィヒで演奏されると、これも大成功を収める事になります。



ドイツレクイエムが大成功に終わり大ヒットを飛ばすブラームスでしたが、この事が彼にとって大きな変化をもたらす事になろうとは、この頃のブラームスにはまだ知る由もありませんでした。このつづきはまた明日。

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ヨハネス・ブラームス(第8話)

2007年02月12日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第8話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:交響曲第1番
ザンデルリンク(クルト), ドレスデン・シュターツカペレ, ブラームス
コロムビアミュージックエンタテインメント

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【Johannes Brahms】

さて、少しお待たせしましたが、ブラームス再開です。クララ、アガーテとの関係が終わりを告げると、次はどこへ??その続きからです。

(第8話)【ウィーンにて】
 ハンブルクで作曲活動を続けるブラームスでしたが、このままハンブルクで活動を続ける事に疑問を感じていたんでしょうか?

 ハンブルクの女声合唱団のメンバーから紹介をもらうと、1862年9月、29歳のブラームスはウィーンへ出かけます。当然ウィーンに知り合いがいる訳でもなく、ブラームスの名前もウィーンではまだ知る人も少なかったようです。

 しかし、合唱団のメンバーから紹介を受けると、そこからたくさんの音楽家と知り合うことになります。ウィーンの音楽界で知り合いが増えると、11月に初めてウィーンでの演奏会を開きます。

 ブラームスも自らがピアノを弾いた自作の「ピアノ四重奏曲」はウィーンの聴衆から大喝采を浴びる事になります。更にこの演奏会を聴いた権威のある評論家ハンスリックが、「ブラームスはウィーンを去るべきではない」と新聞記事を書くと、ブラームスの評判は一気にウィーン市民の知るところとなり、ウィーンでも名声を得ることになります。

 5月にハンブルクに戻ったちょうどその頃、故郷ハンブルクではジングアカデミー(声楽学校?みたいなヤツ)の指揮者のポストを探しているという噂がブラームスの耳に入るのでした。音楽の都ウィーンで好評を得たブラームスは当然そのポストが自分に回ってくると期待していたようですが、ハンブルクではブラームスの市民階級が低い事を理由に、ブラームスにそのポストを与えず、事もあろうにブラームスの友人でもあったシュトックハウゼンにその地位を与えたのでした。

 ところがその年の夏、今度はブラームス宛にウィーンからジングアカデミーの指揮者に迎えたいという内容の報せが届きます。この報せを受けてブラームスはウィーンへ向かい、1863年9月、30歳にしてウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任します。

 おそらく、これをきっかけにブラームスは本格的にウィーンに引越し、その後もこのウィーンを拠点に音楽活動を行っていく事になります。

 ようやくウィーンで定職をみつけたブラームスでしたが、このジングアカデミーの職責を重荷に感じたらしく、1年も経たないうちに1864年の4月にはこれを辞職し、夏にはドイツの保養地バーデン・バーデンで過ごします。

 実はこのバーデン・バーデンにはあのクララが住んでいたのです。シューマンの死後から、踏んだり蹴ったりがあって一時はギクシャクした関係のふたりだったようですが、この頃には、音楽仲間としてお互いに演奏や作品の意見を交換しあうようになっていたのでした。

 バーデン・バーデンでは、作曲活動に専念し多くの室内楽作品を作曲していたようです。冬にはウィーンに戻ると「ワルツ集」を完成し、次々に作品を生み出していくのでした。



音楽の道をウィーンに見つけるブラームスでしたが、ジングアカデミーもすぐに辞めてしまい、再び作曲活動に専念してしまうようですが、その後はどうするんでしょう?つづきはまた明日。

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初心者のための有名な曲

2007年02月11日 | ◆はじめまして◆
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

という始まりでクラシックを初心者向けに紹介するために始めたこのブログ。

なんと今日で1年を迎えることになりました!!イエイ(^_^)v
最初の頃はオススメCDの載せ方がよく分からずにドデカイ画像をフレームいっぱいに使って載せてたりもしましたが、なんともはやもう1年が経ってしまいました。

たまには…とか言いながら結局ほぼ毎日紹介してたりするんですが、
始めた頃は1年365日だから、クラシックの曲なら小出しにしていけば1年ぐらいなら普通に持つだろうと安易に初めていましたが、もちろんクラシック作品は数多くあるんですけど、自分の知ってる曲が思いのほか少なかったんですね。

そんなこんなで、「作曲家の生涯」とか「テレビでクラシック」なんかのカテゴリを増やしながら、どうにか1年持ちました。それもこれも飽きずに読んでくれた読者の皆さんのおかげですね。ありがとうございます。
(別に今日で終わるわけじゃないんですけどね。ブラームスのつづきもあるし。)


ただ、最近は有名な曲をほぼ紹介してしまったので、「初心者の」と言ってる割にはどうしてもマニアックな曲が増えているような気がします。そこで、初心に戻ってもう一度、クラシックに興味を持ったんだけど、どれから聴いていいか分からないという人のために(今更ですが)今日は有名な曲をもう一度一気にサラッと紹介してみることにしてみました。

 
 【アイネ・クライネ・ナハトムジーク(モーツァルト作曲)】
 名前だけでもこの曲は有名ですよね。聴けばすぐに分かるこの曲スッキリさわやか
 な響きはモーツァルトの代表作ですね。
 
 【カノン(パッヘルベル作曲)】
 学生時代に歌った事、聴いた事のある人も多いんじゃないでしょうか?
 「♪人はただ~」で始る日本語の歌詞も有名ですよね。
 
 【歌劇カルメン:前奏曲(ビゼー作曲)】
 TVタックルのゲスト紹介の時に流れるこの曲は、誰でも聴いた事があるハズ!
 前奏曲だけじゃなく、歌劇や組曲の中にも有名な曲がありますから、いろいろ
 聴いて楽しめる曲です。
 
 【グリーンスリーブス幻想曲(ヴォーン・ウィリアムズ作曲)】
 学校なら下校のときに、百貨店やスーパーなら閉店のときによく耳にする曲。
 初めて聴いても何故か懐かしい気がする一曲です。
 
 【タイプライター(ルロイ・アンダーソン作曲)】
 カタカタとタイプライターを打ち込む音をイメージしたこの曲。今ならパソコン
 とかキーボードとかいう名前になっていたのかも?
 
 【喜歌劇「天国と地獄」序曲(オッフェンバック作曲)】
 運動会でも定番のこの曲。にぎやかなこの曲はこころも踊り、いつ聴いても
 ドキドキワクワク感が味わえます。
 
 【ボレロ(ラヴェル作曲)】
 ただひたすら同じメロディをくりかえすだけのこの曲。なのに(なので?)
 ヤミツキになってしまう不思議な魅力の曲です。

 【劇音楽「真夏の夜の夢」:結婚行進曲(メンデルスゾーン作曲)】
 ちょっと前には「ぱぱぱぱ~ん」とか言ってぜクシィのCMでも歌ってた曲です
 けど、最近はこのCM見ないですよね。 

 【交響詩「モルダウ」(スメタナ作曲)】
 学校でも多くの人が習ったはずのこの曲。久々にゆっくり聴いてみても
 オーケストラのいろんな魅力がたっぷり味わえる曲です。

 【バレエ音楽「ロメオとジュリエット」(プロコフィエフ作曲)】
 ソフトバンクのCM「予想外の展開」で一躍有名になったこの曲、独特のリズム
 とメロディがなんとも斬新な感じです。
 
 【組曲「惑星」:木星〔ジュピター〕(ホルスト作曲)】
 中間部は平原綾香さんが歌って有名になりましたが、冒頭部は一時期、新生銀行
 がCMでも使ってましたから、ひょっとしたら聴いた事ある人もいるかも?
  
 【ワルキューレの騎行(ワーグナー作曲)】
 映画「地獄の黙示録」でも有名なこの曲。ワーグナーサウンドのダイナミックな
 迫力が魅力の一曲です。
 
 

どうでしょう?この他にも並べていくとキリが無いほど有名な曲はありますが、クラシックを知らない人でも、「コレって、ひょっとしたらアノ曲?」なんてメロディが浮かんでくるんじゃないでしょうか?

自分もそうでしたけど、最初はやっぱり有名な曲から聴いてましたね。それから綺麗なメロディや楽しいフレーズに魅かれて、いろいろ聴くようになりました。
もちろんいろんな曲がありますから、全部が全部を好きになれるとは限りませんが、多くの作曲家たちが数え切れない程の名曲を残していますし、その中にはきっと素晴らしいと思える曲があると思います。
そんな曲から聴いてみるのもいいかもしれないですね。


≪オススメCD≫
そんな有名な曲をちょっとずつたくさん集めたCDです。
100曲クラシック=ベストが10枚3000円=
アントルモン(フィリップ), ヴィト(アントニ), ウィーン室内管弦楽団, ホック(ベルタラン), ビレット(イディル), ポーランド国立放送交響楽団, グレムザー(ベルント), オムニバス(クラシック), チャイコフスキー, メンデルスゾーン
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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≪初心者のための有名な曲≫
モーツァルト:アイネクライネナハトムジーク
パッヘルベル:カノン
ビゼー:歌劇「カルメン」
ヴォーンウィリアムズ:グリーンスリーブス幻想曲
アンダーソン:タイプライター
オッフェンバック:「天国と地獄」序曲
ラヴェル:ボレロ
メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」~結婚行進曲
スメタナ:交響詩「モルダウ」
ホルスト:組曲「惑星」~ジュピター他
ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指輪」~ワルキューレの騎行 他

【初心者のための癒しの曲】【初心者のためのスカッとする曲】
【初心者のためのピアノ曲】 【初心者のためのヴァイオリンの曲】

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交響曲第4番  (ブラームス作曲)

2007年02月10日 | その他の作曲家
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

今日はブラームス:交響曲第4番です。

この曲はブラームスが残した最後の交響曲ですが、自らが指揮をして初演した当初には様々なエピソードが残されているようです。初演すると各楽章が終わる度に拍手が鳴り止まなかったとか、全曲演奏を終えると複数の楽章をアンコール演奏したとか、とにかく初演は大成功に終わり、すぐに再演されるなど大人気の曲だったようです。

その一方で、当時の音楽家からは「作風が古い」とか「万人うけする作風ではない」などの批判を浴びたりもしていたようです。しかし、現在ではブラームスの交響曲を代表する1曲である事は間違いないと思います。

曲調には激しく迫るものがあり、確かに先人の批評通り初心者には必ずしも万人うけする作風ではないのかもしれません。


 第1楽章:やわらかい弦楽器の音がさざ波のように流れてきます。しかし、どこか
 切ない影を残した曲調は、少し肌寒さを感じてしまいます。
 弦楽器のうねりは大きくなり、激しさを増していきますが金管楽器のファンファーレが
 終わると、チェロがリードして再び切ない旋律へ変わっていきます。
 しばらくすると、トランペットが響き一瞬明るい兆しが見えたように感じる
 ところもありますが、やはり弦楽器のフレーズは冒頭の寂しいフレーズから
 逃れられず、その後も管楽器がポツリポツリとつぶやくような静かな曲調に
 なります。
 そして最期には弦楽器が激しい感情をむき出しにしたような、鋭いフレーズが
 金管楽器と共に強烈なインパクトを残して終わります。

 第2楽章:ホルンの乾いたファンファーレが鳴り響くと、やはり切なく、もの悲しい
 雰囲気を感じます。
 後に続くクラリネットのやわらかい響きも、何故か虚しく響き渡ると言った感じ
 でしょうか?木管楽器を中心に続くフレーズも雨上がりの水溜りを気にしながら
 下を見てトボトボと歩いていくようなちょっと悲しいフレーズが続きます。
 しかし、弦楽器が美しいフレーズを鳴らすと一瞬だけ雲間から太陽が顔を出した
 ような、明るい光を見たように希望のようなフレーズがあふれ出します。
 やさしい弦楽器のフレーズは雨雲がどんどん遠ざかり見る見るうちに青空が広がる
 ようにも聴こえてきます。
 しかし、終盤には晴れたはずの空に雷鳴の如く響き渡るティンパニと弦楽器、
 そしてトロンボーン等の金管楽器が激しく打ち鳴らされます。
 最後はチェロから始まりヴァイオリンへと移るなめらかなフレーズが曲を包み、
 クラリネット、オーボエが伸び伸びとしたフレーズを聴かせると、フルートが
 静かに最後をしめくくります。

 第3楽章:弦楽器の賑やかなフレーズが明るく始ると、ホルンが更に輪を
 かけて大きく鳴り響きます。
 トライアングル、ティンパニが加わると壮大なスケールのオーケストラサウンドは
 圧巻です。
 フルートが間をつなぎ、激しいフレーズが始ると、喜び勇んで晴れ渡る大空へ
 はばたく大鷲が舞い上がるような晴れやかで勇ましいフレーズが最期まで続き
 とても爽快感のある曲になります。

 第4楽章:トロンボーン、ホルンのファンファーレが鳴ると、恐怖すら感じてしまう
 低音のトロンボーンが更に深く曲をえぐっていくように感じます。
 弦楽器が足を引きずって歩くかのような気だるいフレーズになったかと思うと
 鬼気迫る悲しい旋律に変わっていきます。
 そして、オーボエやクラリネットが弦楽器をなだめるようなフレーズを奏でると
 フルートの静かなフレーズが寂しく鳴り響いてきます。
 しかし、突如として激しく鳴り響く金管楽器のファンファーレは、急に訪れた
 悲劇を物語るかのように鋭く突き刺さります。
 緩急を交えながらも鋭さを増していくフレーズは、徐々に圧迫感を大きくして
 まさに、絶体絶命の状態で曲を終わります。


寂しいフレーズから始まり、一度は元気を取り戻したかの様にも見えますが、最後には深い悲しみが怒りに変わる瞬間を垣間見るようなこの激しい曲。ハッキリ言って最初に聴いたときは、言い知れぬ恐怖を感じたようにも思います。
ただ、弦楽器の美しい響き、木管楽器の艶やかな、それでいて切ない響き、そして金管楽器の鋭い響きの三者が、もつれ合いながら必死にひとつの曲を作り出そうとするこの曲は、聴けば聴くほど深い味わいを持っていますから、その意味では飽きの来ない一曲なんだと思います。


≪オススメCD≫
巨匠カール・ベームでお楽しみください
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90/交響曲第4番 ホ短調 作品98
ベーム(カール), ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【コレってどんな曲】
喜:☆☆★★★
怒:☆☆☆☆☆
哀:☆☆☆☆★
楽:☆★★★★

≪おすすめシチュエーション≫
こころの内に秘めた激しく苦しい感情を一気にぶちまけたような曲です。


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ヨハネス・ブラームス(第7話)

2007年02月09日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第7話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ブラームス:交響曲第1番
ボストン交響楽団, ブラームス, ミュンシュ(シャルル)
BMG JAPAN

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【Johannes Brahms】

アガーテと親密な関係を深めるブラームス、果たして今度はうまくいくんでしょうか?その続きからです。

(第7話)【恋の結末】
 どこから見ても微笑ましいブラームスとアガーテのカップル。トントン拍子に話は進み、ふたりは婚約する事になります。

 ところが、ブラームスが婚約者アガーテに送ったの一通の手紙から大変な事になってしまいます。手紙の内容はこうでした。「僕は仕事がとても忙しい、結婚によって束縛されるような事は避けたい。結婚するかどうかは君が決めて欲しい。」

 こんな内容の手紙を婚約者に送りつけたのです。これを受け取ったアガーテはかなりショックを受けてしまい、(そりゃぁそうだ)婚約の話は破談になってしまうのでした。

 それにしても、これがブラームスなりのプロポーズだったんでしょうか?それにしてはあまりにもデリカシーが無さ過ぎるこの手紙。普通なら「君の手料理が食べたい」とか「一生そばにいて欲しい」とか他にいくらでも言いようがあったと思うんですが、結果この婚約破棄を言い渡すような手紙によってふたりの関係は終わりを告げるのでした。

 クララのときと言い、今回のアガーテの事と言いブラームスは愛する女性と良い関係になると最後に自分から身を引いてしまうという、なんとももどかしい人物のようです。それと同時に、やはり人一倍自己批判の精神が強く自分の行動にも自ら制限をかけていたようです。

 更に言えば一度はアガーテとの結婚を決意したブラームスの頭にはクララの事が頭をよぎったのかもしれません。現在ではそのような説もあるようですが、今となってはブラームスにしか、その真意を知る人はいないでしょう。

 そんな中、作曲活動を続け「ピアノ協奏曲第1番」を作曲し、1859年1月、友人ヨアヒムの指揮で自らがピアノを弾いてハノーファーとライプツィヒでこの初演を行いますが、結果は失敗に終わり、故郷ハンブルクへと帰って行きます。

 ハンブルクでは女声合唱団の指揮をしたり、そのための歌曲を作曲したりしていたようですが、アガーテとの一件はブラームスにも少なからず影響を与えていたようです。あんな手紙を送ってしまった事を後悔していたのでしょうか?1864年に弦楽六重奏曲第2番を作曲すると、ヴァイオリンのフレーズにアガーテ(AGA[T]HE)という音を使っているようです。

 そして、友人にも「これでようやく自分を解放した」と漏らしていたようです。



せっかくうまくいきそうだったアガーテとの関係をまるで自ら断ち切ってしまうような手紙を送ってしまうブラームス。こんな結末になってしまうなんて。
さて、きりのいいところで、今回も少し長くなりそうなのでこのつづきは曲を挟んでまた来週。

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