初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ヨハネス・ブラームス(最終話)

2007年02月22日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(最終話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:交響曲第1番
バンベルク交響楽団 岩城宏之, 岩城宏之, バンベルク交響楽団, ブラームス
コロムビアミュージックエンタテインメント

このアイテムの詳細を見る
【Johannes Brahms】

数々の名声を受けるブラームス。巨匠としての次の仕事は?今日はその続きからです。

(最終話)【最後の仕事】
 1889年ブラームスが56歳になった年の12月、ブラームスの元に変わったお客が訪ねてきました。エジソンの代理人と名乗る人物が蓄音機にブラームスの「ハンガリー舞曲」を録音させて欲しいと言うのです。

 この申し出を快く引き受けたブラームスは蓄音機に自分の演奏を録音させたようですが、自分の演奏を始めて録音で聴いたブラームスは衰えを感じ、かなりショックを受けてしまったようです。

 翌1890年、ブラームスは大好きなイタリア旅行に出かけ、その合間にいつものように作曲を続けていきますが、いつもなら次々に進める作曲活動がここにきて五線紙に走らすペンの動きが鈍ってきてしまったようです。
 昨年の録音がトラウマになってしまったのでしょうか?創作意欲にも老いを感じ始め、苦心の末「弦楽五重奏」を書き上げると、これまでの作品を整理し始めるのでした。

 しかし、1891年、マイニンゲンで優秀なクラリネット奏者ミュールフェルトを知ると、彼のためにクラリネット三重奏とクラリネット五重奏を作曲します。
 この年には恩師シューマンの「交響曲第4番」を編集して出版するのでした。
おそらくブラームスは自分の生きている間に恩師シューマンにも恩返しのつもりで、シューマンの交響曲に手を加えて出版するのですが・・・、

 クララには特に断りを入れずに独断でこれを行ってしまったため、クララはカンカンに怒ってしまい、ブラームスとの関係は絶縁状態になってしまうのでした。

 ブラームスとしては、良かれと思って行ったことですが、これではイカンと感じたブラームスは、すぐにクララに詫びの手紙を書き、クララとの関係をなとか修復するのでした。

 年齢と共にその名声を更に高めるブラームスは、1893年60歳を迎える年には盛大な祝賀パーティーが企画されていたようですが、あまり派手に騒がれる事を嫌ったブラームスは友人と共にイタリアに逃げるように出かけていってしまうのでした。

 1895年にはオーストリア皇帝から、「芸術と科学に対する十字勲章」を授与され栄光を受けるのでした。

 翌1896年、ブラームスの元に訃報が届きます。なんとクララが亡くなった報せです。連絡が遅かったため、急いで向かいますが葬儀には立ち会うことができず、ボンで埋葬されるクララを見送る事になりました。

 クララを失ったブラームスはそうとうショックを受けた事でしょう。一時は熱い想いを寄せ、またその後も音楽を共に作り出す上においてもブラームスには欠かせない存在だったはずです。その後、演奏会や旅行には足を運んでいたものの、まるでクララの後を追うように1897年3月に病床に着くと、4月に息を引き取ってしまうのでした。享年64歳の春でした。



仕事にも音楽にも真面目に取り組んだブラームス。ときにはその真面目さが仇になる事も多かったようですが、その作風にもブラームスの人間性を味わえる深いものが多い事も、きっとそのせいなんでしょう。


【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
   
「くつろぐ」ブログランキング⇔こちらもよろしく