たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はヨハネス・ブラームス(第14話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Johannes Brahms】
「ドイツ・レクイエム」「交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」と名曲を次々に生み出すブラームス。次はどんな曲を作曲するのでしょうか?その続きからです。
(第14話)【仕事と対人関係】
ブラームスの創作意欲は留まる事を知りませんでした。ヴァイオリン協奏曲が完成させると、今度はヴァイオリンソナタ第1番を作曲します。歌曲「雨の歌」からフレーズを取ったこの曲は、ヴァイオリン協奏曲とは対照的に、ひっそりとした繊細な曲調が、協奏曲と同じく今でも多くの人に親しまれています。
1879年、次々と名作を発表するブラームスに朗報がもたらされます。ブレスラウ大学から名誉博士号が授与されるのでした。これに対してあまり派手に騒ぎ立てる事を好まなかったブラームスは当初、御礼状を送っただけで済ませていたようですが、友人から「もう少し感謝の気持ちを大きく表現した方がいい」と助言されて、「大学祝典序曲」を作曲し、これに応えるのでした。
こうして名実共に作曲家としての地位を確立したブラームスは、記念式典にも参加するようになっていました。1878年には故郷ハンブルクのフィルハーモニー協会の創立五十周年記念祝典に参加したり、1880年にはボンで行われたシューマン記念際にも参加していたようです。
また、この頃ブラームスはこうした活動と同時に、旅行にも多く出かけていたようです。ドイツ各地は勿論のこと、オーストリア、スイス、イタリアなどの多くの都市をめぐり作曲の糧にしていたようです。しかし、唯一フランスだけは毛嫌いしていたらしく、ほとんど訪れる事はなかったようです。
そして、ブラームスが次に挑戦した曲は「ピアノ協奏曲」でした。ヨーロッパ各地の旅行を続ける中で、着々とこの協奏曲に取り組み、ピアノ協奏曲第2番は1881年に完成します。
初演はブタペストでブラームス自身のピアノ演奏で行われる事になります。すると当然のように大成功に終わります。
すると当然各地で再演が行われる事になるのですが、翌年ウィーンで再演されたこの曲をリストが聴きに来ていたようですが、リストはこの作品の楽譜をブラームスから送ってもらうと、ブラームスへのお礼の手紙には、高評価を記していたと言われています。
作曲活動では快進撃を続けるブラームスでしたが、この頃の友人関係はそれほどうまくいっていなかったようです。長年の友人だったヴァイオリニスト、ヨアヒムとの関係がうまくいかなかったのです。
ヨアヒムは歌手のアマーリエと結婚していましたが、ブラームスはよく自分の声楽作品をこのアマーリエに歌ってもらう事も多く、自然に打ち合わせや練習などで会う機会も多くなっていましたが、これに夫ヨアヒムが疑念を抱き、嫉妬してしまうのでした。
ヨアヒムの誤解を解こうとしたブラームスがアマーリエを慰める手紙を送ったところ、これが逆効果になってしまい、ブラームスとヨアヒムの関係は一時険悪なものになってしまうのでした。
作曲活動では快進撃が止まらないブラームス。友人関係が壊れてしまいますが、本人にはきっと悪気は無かったんでしょう、きっと。(マジメだし)
さて、少し長くなってしまったので明日からは少し曲を挟んで、このつづきはまた数日後。
♪大学祝典序曲の記事はこちら
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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今日はヨハネス・ブラームス(第14話)です。
≪作曲家の肖像≫
ブラームス:P協奏曲第2番フェレンチク(ヤーノシュ), カッチェン(ジュリアス), ロンドン交響楽団, ブラームスユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
「ドイツ・レクイエム」「交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」と名曲を次々に生み出すブラームス。次はどんな曲を作曲するのでしょうか?その続きからです。
(第14話)【仕事と対人関係】
ブラームスの創作意欲は留まる事を知りませんでした。ヴァイオリン協奏曲が完成させると、今度はヴァイオリンソナタ第1番を作曲します。歌曲「雨の歌」からフレーズを取ったこの曲は、ヴァイオリン協奏曲とは対照的に、ひっそりとした繊細な曲調が、協奏曲と同じく今でも多くの人に親しまれています。
1879年、次々と名作を発表するブラームスに朗報がもたらされます。ブレスラウ大学から名誉博士号が授与されるのでした。これに対してあまり派手に騒ぎ立てる事を好まなかったブラームスは当初、御礼状を送っただけで済ませていたようですが、友人から「もう少し感謝の気持ちを大きく表現した方がいい」と助言されて、「大学祝典序曲」を作曲し、これに応えるのでした。
こうして名実共に作曲家としての地位を確立したブラームスは、記念式典にも参加するようになっていました。1878年には故郷ハンブルクのフィルハーモニー協会の創立五十周年記念祝典に参加したり、1880年にはボンで行われたシューマン記念際にも参加していたようです。
また、この頃ブラームスはこうした活動と同時に、旅行にも多く出かけていたようです。ドイツ各地は勿論のこと、オーストリア、スイス、イタリアなどの多くの都市をめぐり作曲の糧にしていたようです。しかし、唯一フランスだけは毛嫌いしていたらしく、ほとんど訪れる事はなかったようです。
そして、ブラームスが次に挑戦した曲は「ピアノ協奏曲」でした。ヨーロッパ各地の旅行を続ける中で、着々とこの協奏曲に取り組み、ピアノ協奏曲第2番は1881年に完成します。
初演はブタペストでブラームス自身のピアノ演奏で行われる事になります。すると当然のように大成功に終わります。
すると当然各地で再演が行われる事になるのですが、翌年ウィーンで再演されたこの曲をリストが聴きに来ていたようですが、リストはこの作品の楽譜をブラームスから送ってもらうと、ブラームスへのお礼の手紙には、高評価を記していたと言われています。
作曲活動では快進撃を続けるブラームスでしたが、この頃の友人関係はそれほどうまくいっていなかったようです。長年の友人だったヴァイオリニスト、ヨアヒムとの関係がうまくいかなかったのです。
ヨアヒムは歌手のアマーリエと結婚していましたが、ブラームスはよく自分の声楽作品をこのアマーリエに歌ってもらう事も多く、自然に打ち合わせや練習などで会う機会も多くなっていましたが、これに夫ヨアヒムが疑念を抱き、嫉妬してしまうのでした。
ヨアヒムの誤解を解こうとしたブラームスがアマーリエを慰める手紙を送ったところ、これが逆効果になってしまい、ブラームスとヨアヒムの関係は一時険悪なものになってしまうのでした。
作曲活動では快進撃が止まらないブラームス。友人関係が壊れてしまいますが、本人にはきっと悪気は無かったんでしょう、きっと。(マジメだし)
さて、少し長くなってしまったので明日からは少し曲を挟んで、このつづきはまた数日後。
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