初心者のクラシック

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ヨハネス・ブラームス(第8話)

2007年02月12日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第8話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:交響曲第1番
ザンデルリンク(クルト), ドレスデン・シュターツカペレ, ブラームス
コロムビアミュージックエンタテインメント

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【Johannes Brahms】

さて、少しお待たせしましたが、ブラームス再開です。クララ、アガーテとの関係が終わりを告げると、次はどこへ??その続きからです。

(第8話)【ウィーンにて】
 ハンブルクで作曲活動を続けるブラームスでしたが、このままハンブルクで活動を続ける事に疑問を感じていたんでしょうか?

 ハンブルクの女声合唱団のメンバーから紹介をもらうと、1862年9月、29歳のブラームスはウィーンへ出かけます。当然ウィーンに知り合いがいる訳でもなく、ブラームスの名前もウィーンではまだ知る人も少なかったようです。

 しかし、合唱団のメンバーから紹介を受けると、そこからたくさんの音楽家と知り合うことになります。ウィーンの音楽界で知り合いが増えると、11月に初めてウィーンでの演奏会を開きます。

 ブラームスも自らがピアノを弾いた自作の「ピアノ四重奏曲」はウィーンの聴衆から大喝采を浴びる事になります。更にこの演奏会を聴いた権威のある評論家ハンスリックが、「ブラームスはウィーンを去るべきではない」と新聞記事を書くと、ブラームスの評判は一気にウィーン市民の知るところとなり、ウィーンでも名声を得ることになります。

 5月にハンブルクに戻ったちょうどその頃、故郷ハンブルクではジングアカデミー(声楽学校?みたいなヤツ)の指揮者のポストを探しているという噂がブラームスの耳に入るのでした。音楽の都ウィーンで好評を得たブラームスは当然そのポストが自分に回ってくると期待していたようですが、ハンブルクではブラームスの市民階級が低い事を理由に、ブラームスにそのポストを与えず、事もあろうにブラームスの友人でもあったシュトックハウゼンにその地位を与えたのでした。

 ところがその年の夏、今度はブラームス宛にウィーンからジングアカデミーの指揮者に迎えたいという内容の報せが届きます。この報せを受けてブラームスはウィーンへ向かい、1863年9月、30歳にしてウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任します。

 おそらく、これをきっかけにブラームスは本格的にウィーンに引越し、その後もこのウィーンを拠点に音楽活動を行っていく事になります。

 ようやくウィーンで定職をみつけたブラームスでしたが、このジングアカデミーの職責を重荷に感じたらしく、1年も経たないうちに1864年の4月にはこれを辞職し、夏にはドイツの保養地バーデン・バーデンで過ごします。

 実はこのバーデン・バーデンにはあのクララが住んでいたのです。シューマンの死後から、踏んだり蹴ったりがあって一時はギクシャクした関係のふたりだったようですが、この頃には、音楽仲間としてお互いに演奏や作品の意見を交換しあうようになっていたのでした。

 バーデン・バーデンでは、作曲活動に専念し多くの室内楽作品を作曲していたようです。冬にはウィーンに戻ると「ワルツ集」を完成し、次々に作品を生み出していくのでした。



音楽の道をウィーンに見つけるブラームスでしたが、ジングアカデミーもすぐに辞めてしまい、再び作曲活動に専念してしまうようですが、その後はどうするんでしょう?つづきはまた明日。

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