初心者のクラシック

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ヨハネス・ブラームス(第2話)

2007年02月04日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ミュンシュ(シャルル),ボストン交響楽団 グラフマン(ゲーリー), ミュンシュ(シャルル), グラフマン(ゲーリー), ボストン交響楽団, ブラームス, メンデルスゾーン
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【Johannes Brahms】

フラフラになりながらもアルバイトをして家計を助けるブラームスでしたが、休暇をもらってヴィンセンで過ごしましたが、今日はその続きからです。

(第2話)【ドイツ演奏旅行】
 ヴィンゼンでリフレッシュしてハンブルクへ戻ったブラームスは、再びマルクスゼンの下でピアノの勉強を重ねていきます。マルクスゼンはピアニストとしてだけではなく作曲家という側面も併せ持っていましたから、当然ブラームスもその影響を受け、この頃にも既に多くの作品を作曲をしていたようです。

 しかし、自己批判の強い性格だったため若いこの頃の作品の完成度に満足できなかったらしく、自らが後日回収し、焼却処分してしまったので、現在ではほとんど残っていないようです。(う~ん残念)

 1850年3月ハンブルクにシューマンがやってきます。妻クララをピアニストに演奏会を行うと、ブラームスもこの演奏会を聴き、感銘をうけていたようです。そして、この機会を逃してはいけないとシューマンの滞在するホテルに自作の楽譜を郵送します。
 ところが、このときのシューマンはかなり多忙を極めていたらしく、ブラームスから送られた楽譜の封も切らずに送り返してしまうのでした。

 これには相当ショックを受けたらしく、この事が後日にも影響していたようです。楽譜を廃棄処分してしまったのは、この事も影響しているのかもしれません。

 そして、ピアノレッスンを続け徐々に実力を付けてきたブラームスはある人物と出会う事になるのでした。

 1848年、ヨーロッパでは「2月革命」の影響を受けて各地で革命運動が盛んになり、それに伴う亡命者も多数出ていました。ブラームスの住むハンブルクは港町という事もあり、ここからアメリカへ亡命する者も少なからず居たようです。
 
 ハンガリーで革命運動を行っていたヴァイオリニストのエドワルト・レメーニもそんな革命家の一人でアメリカに亡命していましたが1852年再びヨーロッパに戻ると、ハンブルクでピアニストのブラームスと出会う事になります。

 1852年、レメーニは若いブラームスを自分のヴァイオリンの伴奏者としてドイツ各地への演奏旅行へ誘います。
 そして、1853年4月、20歳のブラームスはこのレメーニと共にドイツ演奏旅行へと旅立ちます。二人はハンブルクを南下し、訪れる町で演奏を行うのでしたが、ツェレという町を訪れたときの事でした。演奏会場のピアノの調律が半音低くなっていたのでした。

 半音というと、ピアノの隣り合う鍵盤(黒鍵と白鍵)の分だけ音がズレていたようです。演奏会の直前にその事が分かり調律のやり直しは間に合いませんから、どちらかが楽器の音程を合わせなければいけません。
 しかし、ヴァイオリンをズレたピアノに合わせると曲の調整が変わってしまいますから、ピアノの音を実際の楽譜より半音ずらして弾かなければなりません。当日のプログラムはベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第7番でしたが…、このピアノパートをブラームスは、ほぼ即興で半音下げて見事に演奏して見せたのでした。



友人レメーニと演奏旅行に出ると、いきなりの困難にも荒業で潜り抜けるブラームス。この演奏旅行はうまく行くんでしょうか?つづきはまた明日。

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