たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はヨハネス・ブラームス(第15話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Johannes Brahms】
次第に名声を得て新作も次々に大成功を収めるブラームス。対人関係だけはどうも苦手だったようですが・・・、その続きからです。
(第15話)【交響曲第4番】
1883年2月、ブラームスに訃報が届きます。その作風の違いからブラームスの対立軸にいたと言われるワーグナーが亡くなったという報せでした。
当時のドイツ音楽界ではこの二人の音楽感を戦わせた論争が続いていたようですから、ワーグナーの訃報はブラームスにも影響を与えることになります。
この年にブラームスは交響曲第3番を完成させます。年末にはウィーンで初演が行われ、いつものように大成功を収めますが、この曲に批判をする人物が現れます。
ワーグナー派の評論家フーゴー・ヴォルフはブラームスの交響曲第3番に対して「陳腐な作品」と痛烈な批判をしますが、これはワーグナーが亡くなった後の作品と言うこともあり、ブラームスを批判する事でワーグナーの優位を強調する論調だったようです。
そして次に交響曲第4番の作曲に取り掛かり、約1年をかけて完成すると1885年にマイニンゲンで初演を行います。この初演では当時の大指揮者ハンス・フォン・ビュローのアシスタントをしていたリヒャルト・シュトラウスも演奏に加わり、トライアングルを担当していたようです。
初演当日は、こちらも大成功を収めますが、やはりフーゴーからは「虚無」や「偽善」などの批判を浴びてしまいます。そして、このときには、それまで一貫してブラームスの擁護をしていた、評論家ハンスリックも「万人向きではない」として評価を保留するような反応をしていたようです。
そんな世間の逆風がある一方、指揮者ハンス・フォン・ビュローだけはこの曲を絶賛し、初演の翌週にすぐ再演を行うほどその内容を高く評価していたようです。
今でこそ、ブラームスの交響曲第4番と言えば不動の人気を誇る彼の代表作のひとつですが、古風と言われたブラームスの作風の中から、その伝統に乗った形式で新しい曲を生み出す上で、結果的に当時としては独特な曲が出来上がってしまった事に、周りとしても、どう評価すればいいのか分からなかったのかもしれません。
ましてや、ワーグナーの対立軸の代表と目されていた訳ですから、攻撃的な批判を加える方としては、格好の餌食になってっしまったんでしょう。
こうして、様々な評価を受けるブラームスの交響曲第4番でしたが、これに負けずその後も多くの作品を生み出していくのでした。同時に演奏会をドイツ各地で行い既に巨匠の域に達していたブラームスでしたが、1887年こうした音楽に対する評価としてプロイセンから功労勲章を授与される事になります。
ブラームスの評価は年を追うごとに高まり、1889年にはオーストリア皇帝から、レオポルト勲章を授与されると、故郷ハンブルクからも名誉市民の称号を授与される事になります。
ハンブルクの名誉市民にはハンス・フォン・ビューローが強く推薦をしていたようです。これに対してブラームスは翌年60歳を迎えるビューローの誕生日に交響曲第3番の手書きの楽譜を贈ったと言われています。
ここに来て賛否両論の交響曲第4番ですが、その実績から各賞を授与されるブラームスの実力は誰もが認めるものとなっていきます。このつづきはまた明日。(そしてたぶん最終回)
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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今日はヨハネス・ブラームス(第15話)です。
≪作曲家の肖像≫
ブラームス:交響曲第4番ザンデルリンク(クルト), ドレスデン・シュターツカペレ, ブラームスコロムビアミュージックエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
次第に名声を得て新作も次々に大成功を収めるブラームス。対人関係だけはどうも苦手だったようですが・・・、その続きからです。
(第15話)【交響曲第4番】
1883年2月、ブラームスに訃報が届きます。その作風の違いからブラームスの対立軸にいたと言われるワーグナーが亡くなったという報せでした。
当時のドイツ音楽界ではこの二人の音楽感を戦わせた論争が続いていたようですから、ワーグナーの訃報はブラームスにも影響を与えることになります。
この年にブラームスは交響曲第3番を完成させます。年末にはウィーンで初演が行われ、いつものように大成功を収めますが、この曲に批判をする人物が現れます。
ワーグナー派の評論家フーゴー・ヴォルフはブラームスの交響曲第3番に対して「陳腐な作品」と痛烈な批判をしますが、これはワーグナーが亡くなった後の作品と言うこともあり、ブラームスを批判する事でワーグナーの優位を強調する論調だったようです。
そして次に交響曲第4番の作曲に取り掛かり、約1年をかけて完成すると1885年にマイニンゲンで初演を行います。この初演では当時の大指揮者ハンス・フォン・ビュローのアシスタントをしていたリヒャルト・シュトラウスも演奏に加わり、トライアングルを担当していたようです。
初演当日は、こちらも大成功を収めますが、やはりフーゴーからは「虚無」や「偽善」などの批判を浴びてしまいます。そして、このときには、それまで一貫してブラームスの擁護をしていた、評論家ハンスリックも「万人向きではない」として評価を保留するような反応をしていたようです。
そんな世間の逆風がある一方、指揮者ハンス・フォン・ビュローだけはこの曲を絶賛し、初演の翌週にすぐ再演を行うほどその内容を高く評価していたようです。
今でこそ、ブラームスの交響曲第4番と言えば不動の人気を誇る彼の代表作のひとつですが、古風と言われたブラームスの作風の中から、その伝統に乗った形式で新しい曲を生み出す上で、結果的に当時としては独特な曲が出来上がってしまった事に、周りとしても、どう評価すればいいのか分からなかったのかもしれません。
ましてや、ワーグナーの対立軸の代表と目されていた訳ですから、攻撃的な批判を加える方としては、格好の餌食になってっしまったんでしょう。
こうして、様々な評価を受けるブラームスの交響曲第4番でしたが、これに負けずその後も多くの作品を生み出していくのでした。同時に演奏会をドイツ各地で行い既に巨匠の域に達していたブラームスでしたが、1887年こうした音楽に対する評価としてプロイセンから功労勲章を授与される事になります。
ブラームスの評価は年を追うごとに高まり、1889年にはオーストリア皇帝から、レオポルト勲章を授与されると、故郷ハンブルクからも名誉市民の称号を授与される事になります。
ハンブルクの名誉市民にはハンス・フォン・ビューローが強く推薦をしていたようです。これに対してブラームスは翌年60歳を迎えるビューローの誕生日に交響曲第3番の手書きの楽譜を贈ったと言われています。
ここに来て賛否両論の交響曲第4番ですが、その実績から各賞を授与されるブラームスの実力は誰もが認めるものとなっていきます。このつづきはまた明日。(そしてたぶん最終回)
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