初心者のクラシック

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ヨハネス・ブラームス(第9話)

2007年02月13日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はヨハネス・ブラームス(第9話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
ブラームス:ドイツ・レクイエム
シノーポリ(ジュゼッペ), チェコ・フィルハーモニー管弦楽団, ポップ(ルチア), プラハ・フィルハーモニー合唱団, ブレンデル(ボルフガング), ブラームス
ユニバーサルクラシック

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【Johannes Brahms】

ウィーンに出て、一度はジングアカデミーの指揮者に就任したものの、すぐに辞めてしまったブラームス、作曲家一本でやっていけるんでしょうか?その続きからです。

(第9話)【ドイツ・レクイエム】
 1865年2月ブラームスの母親クリスティアーネが亡くなります。母親の死は作曲家ブラームスにも当然のように影響を与え、この頃の作品にはどこか陰のある悲しいものになっているようです。
 作曲に専念する一方で、ジングアカデミーを辞めたブラームスは無職になってしまいましらから、収入も限られたものになっていました。

 母親を失った感傷からなのか、収入源を意識した経済的な理由からなのか、ブラームスは演奏旅行を企画してスイスへと旅立ちます。

 スイスへの演奏旅行には友人の力も借りていたようです。ブラームスはスイスの出版社やチューリッヒの音楽愛好家で医学者でもあったテオドール・ビルロートなどと知り合いスイスでの音楽活動を彼らの支援により充実させていきます。

 特に医学者ビルロートはブラームスの音楽を大変気に入ったらしく、彼は自宅にもブラームスをはじめとする音楽家を招き演奏会を度々行っていたようです。こうしてスイス各地で演奏活動を行い、ブラームスはその知名度を上げていくのでした。

 スイスでは演奏活動を続けながら、かねてから構想を練っていたレクイエムの作曲にも本格的に取り掛かっていたようです。恩師シューマンの死、そして母親の死など、身近な存在の死がブラームスが「ドイツ・レクイエム」を作曲するきっかきになっていたのかもしれません。

 1865年4月には書きかけの「ドイツ・レクイエム」をクララのもとに送り、感想を求めたりしながら、更にこの曲を書き進めていくのでした。
 1866年秋頃にはほぼこれを完成させると、スイスから久々にウィーンに戻り、クララへのクリスマスプレゼントにするために、ピアノ用の楽譜を作成します。
 翌1867年12月、ウィーン楽友協会が1~3楽章までを演奏しますが、このときには練習不足もあって、かなり不評になったようです。

 おそらくこの事で慎重になったブラームスは「ドイツ・レクイエム」の初演をドイツ北部の都市ブレーメンで開催することを決めます。
 1868年4月、5楽章を除く(この頃にはまだ作曲されていなかった)全曲が、ようやく待望の初演に漕ぎ着けると大成功を収めることになります。初演当日までには、これにクララが間に合わない事を非常に残念がっていたブラームスでしたが、クララも上演までには、どうにか間に合って初演が聴けたようですから、クララの到着が「ドイツ・レクイエム」の大成功に花を添える形となりました。

 聴衆から大喝采を浴びたブラームスの「ドイツ・レクイエム」は翌1869年、5楽章を完成させてライプツィヒで演奏されると、これも大成功を収める事になります。



ドイツレクイエムが大成功に終わり大ヒットを飛ばすブラームスでしたが、この事が彼にとって大きな変化をもたらす事になろうとは、この頃のブラームスにはまだ知る由もありませんでした。このつづきはまた明日。

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