金融的な問題と実体経済を切り分ける視点としては次のような段階わけが適切であると思う。
(1)金融は分配問題である
・乱暴に言ってしまえば金融は第一に分配の問題である。貯蓄とは現在の消費と将来の消費の分配であり、税金とはいったん各経済主体の懐に入った購買力の再配分である。また部門別の貯蓄超過と消費・投資超過は、現時点における購買力の分配であり、その結果として(または同時的現象として)貸借関係や贈与関係、さらに税による再配分が実施される。
(2)仮想的主体と実体的主体の区別
・主体の中には実質的主体と概念的主体が存在する。「国」「政府」は実質的要素を持ちつつも多くは支出を代行するための中間的概念主体に過ぎない。
たとえば、税金で公共投資をするとすれば、それは国民が橋や道路を「買った」のである。もしそれが国債発行によるのであれば、将来の税収をカタにして国民が橋や道路を買ったのである。国民は発行された国債分を債務として保有するが、一方で、財政赤字が国内でファイナンスされるとすれば、債権を持つのも国民である。従って、理論的には国民間の債権債務分配の問題である。
日銀の引き受けにより、資産として日銀が国債を保有するとすれば、それを支える日銀の債務、すなわち通貨を通して国民間の債務負担が行われる。ただし、償還時にはやはり将来税収で償還されるとすれば、日銀の部分は仮想的中間体に過ぎない。
(3)ではなぜ赤字は問題か
・赤字国債が問題になるのは、赤字自体と言うよりも、国民の代理人としての「国」が適切な買い物をしていない、ということである。国民は公務員の高給支払いや無駄な道路や橋は望まないだろう。また、割高になるような買い方も望まない。
・従って論議すべきは、いかに国民の総意に基づく誠実な買い物がなされるべきか、という問題である。従って、赤字黒字とは一義的には関係がない。代理人としての国がしぶちんで、橋がぼろぼろになるまで放置しつつ黒字を溜める、というのはやはり適切な代理人ではないということになる。
・民営化等の論議は実はこうしたことを推し進めるものである。少なくとも事業の継続性へのプレッシャーを通じて効率・収益は上がり、税の補助(将来的なものも含む)が減少する。
・民営化に限らず、いかに税・準税の支出の適切な執行者を決めるか、その仕組みを作るか、という問題は感情論を排して「勘定論」で論議される必要がある。実は国の予算執行自体もそうである。役人に節約・効率インセンティブを与える仕組みが必要である。
(4)真の政治ー公正な分配ー
・論議はここでとどまるわけではない。(3)までの論議をきれいに整理できたとしても、それは納税者という「株主」に正当に答える、政府という「経営者」ができるに過ぎない。「に過ぎない」と言っても、もちろんそこまで行けばたいしたものである。
・そうはいっても、国という共同体が企業を超えた正統性を持つとすれば、今度は価値の領域に踏み込まざるをえない。つまり、公正な分配あるいは再配分のルールとはなにか、ということである。
・ホームレスと「六本木ヒルズ族」のあいだに100億倍の分配の差を設けてよいのか、いやそれはせいぜい1万倍だというのか。じゃあ1万倍にするときに下をどの位あげるのか上をどの位削るのか。それはどうやって実現するのか。それに伴う全体としての生産低下はありうるのか、ありうるとすればそれはどのくらいまで受容可能か。そんなことを国民の信託のもと誠実に論議・実行するのが政治というものだろう。
普通の論議は(1)で躓くので、分配の正義なんてとてもとても。難しいもんです。
(1)金融は分配問題である
・乱暴に言ってしまえば金融は第一に分配の問題である。貯蓄とは現在の消費と将来の消費の分配であり、税金とはいったん各経済主体の懐に入った購買力の再配分である。また部門別の貯蓄超過と消費・投資超過は、現時点における購買力の分配であり、その結果として(または同時的現象として)貸借関係や贈与関係、さらに税による再配分が実施される。
(2)仮想的主体と実体的主体の区別
・主体の中には実質的主体と概念的主体が存在する。「国」「政府」は実質的要素を持ちつつも多くは支出を代行するための中間的概念主体に過ぎない。
たとえば、税金で公共投資をするとすれば、それは国民が橋や道路を「買った」のである。もしそれが国債発行によるのであれば、将来の税収をカタにして国民が橋や道路を買ったのである。国民は発行された国債分を債務として保有するが、一方で、財政赤字が国内でファイナンスされるとすれば、債権を持つのも国民である。従って、理論的には国民間の債権債務分配の問題である。
日銀の引き受けにより、資産として日銀が国債を保有するとすれば、それを支える日銀の債務、すなわち通貨を通して国民間の債務負担が行われる。ただし、償還時にはやはり将来税収で償還されるとすれば、日銀の部分は仮想的中間体に過ぎない。
(3)ではなぜ赤字は問題か
・赤字国債が問題になるのは、赤字自体と言うよりも、国民の代理人としての「国」が適切な買い物をしていない、ということである。国民は公務員の高給支払いや無駄な道路や橋は望まないだろう。また、割高になるような買い方も望まない。
・従って論議すべきは、いかに国民の総意に基づく誠実な買い物がなされるべきか、という問題である。従って、赤字黒字とは一義的には関係がない。代理人としての国がしぶちんで、橋がぼろぼろになるまで放置しつつ黒字を溜める、というのはやはり適切な代理人ではないということになる。
・民営化等の論議は実はこうしたことを推し進めるものである。少なくとも事業の継続性へのプレッシャーを通じて効率・収益は上がり、税の補助(将来的なものも含む)が減少する。
・民営化に限らず、いかに税・準税の支出の適切な執行者を決めるか、その仕組みを作るか、という問題は感情論を排して「勘定論」で論議される必要がある。実は国の予算執行自体もそうである。役人に節約・効率インセンティブを与える仕組みが必要である。
(4)真の政治ー公正な分配ー
・論議はここでとどまるわけではない。(3)までの論議をきれいに整理できたとしても、それは納税者という「株主」に正当に答える、政府という「経営者」ができるに過ぎない。「に過ぎない」と言っても、もちろんそこまで行けばたいしたものである。
・そうはいっても、国という共同体が企業を超えた正統性を持つとすれば、今度は価値の領域に踏み込まざるをえない。つまり、公正な分配あるいは再配分のルールとはなにか、ということである。
・ホームレスと「六本木ヒルズ族」のあいだに100億倍の分配の差を設けてよいのか、いやそれはせいぜい1万倍だというのか。じゃあ1万倍にするときに下をどの位あげるのか上をどの位削るのか。それはどうやって実現するのか。それに伴う全体としての生産低下はありうるのか、ありうるとすればそれはどのくらいまで受容可能か。そんなことを国民の信託のもと誠実に論議・実行するのが政治というものだろう。
普通の論議は(1)で躓くので、分配の正義なんてとてもとても。難しいもんです。