御託専科

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西部邁「友情 ある半チョッパリとの四十五年」

2005-07-18 00:50:06 | 書評
親族のために身を売られた母と、その母を身請けした、日本人に協力的だった朝鮮人の末の子として生まれた海野治夫という男と、著者西部氏の友誼の物語である。中学と名門の高校の同級生として過ごした2人は、貧しさとアウトロー的傾向を共有し、親しい間柄となる。その後著者は大学に進み学生運動に身を投じ逮捕され、アカデミズムに戻って、その後アウトロー的評論家として生きてゆくが、海野治夫は2年で高校を中退し、任侠の世界を生き始めた。40前後でヒロポン中毒となり、その後そこから生還するが、もとの稼業はうまくゆかず、恩人宅への放火という事件を機に組織に逆らい、そして自害する。海野氏は生前自分の来し方をつづって西部氏に送っており、西部氏は名誉ある義務を果たすべくこの本の出版にこぎつけたということのようだ。

話者の地位にかかわらず姿勢を正して読むべき話、聞くべき話というのは確かに存在するが、まさにこれはそれに当たる。これは鎮魂の書である。鎮魂の読経の音をいずまい正しく聞くのは当然である。
感想を2-3.第一に思うのは、戦後という時代はそれなりにひどい時代だったのだな、と思う。北海道という土地の問題、アウトローへの冷たい視線、朝鮮人問題、娼婦、BC級戦犯、貧困救済の仕組不足。海野氏や西部氏に社会がしたことを振り返れば、ひどい奴らとしかいいようがない。そして、その一方で、もしかしたら僕も彼らの至近距離にあれば、凡庸なひどい奴の一人に名を連ねていたかもしれない、と思う。
第二に思うのは、にもかかわらず西部氏の筆致にやわらかさが感じられることに意外さを覚えた。これまで13年間負債となってきたであろう、故海野氏の原稿と遺志にようやく答えられる安心感からか、軽やかというべき筆致である。あるいは西部氏ご本人が「丸くなった」ということだろうか。さしもの硬骨の論客も、「もういいや」という境地に達しつつあるのかもしれない。
第三に、西部氏の奥さんはとても素敵である。ところどころに脇役として登場するのであるが、なんとも頼もしい戦友であろうか、西部氏、故海野氏、そして潔い生を全うしようと生きる男どもにとって。まさに、士は自分を知るもののために死す、である。大衆に迎合せぬ気持ちのよい生き方をする人々の裏には必ず西部氏の奥方のような存在があるにちがいない、と思った。

昭和の悲哀を鎮魂する、一流の歌であった。 合掌。

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