御託専科

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西脇順三郎「天気」について

2009-05-16 18:31:40 | 書評
調べたことちょっとだけ。

西脇順三郎のAmbarvalia の「天気」

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

うん、あいかわらずすごい詩だね。

全般のこと。室井犀星はこういう詩を作った詩人はあとは寝て暮らせばいいと言ったそうな。すごい賛辞だが一方で、あとで下手なの作って価値下げるなよ、という脅しみたいでもあるな、うん。

1行目の(覆された宝石)がカッコ付いているのはキーツのエンディミオンからの引用であるため。それで、「覆された宝石」の原文は upturn'd gem。 「白髪の老人グラウカスがエンディミオンの投げかけた、不思議な巻物の細かく引き裂いた細片を浴びて、忽然として青春の美に輝く若者の姿に戻った様を、うつむけていた宝石を、上向けにした時の、キラリと光る光躍になぞらえていった」ものだそうな(田中滋啓氏の論考より孫引き)。Upturn'd gem なら、「面を上げた宝石」とか、意訳になるが「遂に光をうけ輝く宝石」とか「覆いを除かれた宝石」とか、そういう言い方(に類するものを磨いた言い方)もあろうものを。「覆された」じゃあ、「覆された宝石箱」の誤りじゃなかろうか、とずっと思っていましたよ、うん。ま、それでも「覆された」という言い方は啓示に満ちているよな。
(ところで、おかげで「覆された宝石箱のような朝」のイメージはそれなりに広がったかな。夜明けの雲が紫を残しつつ赤に染まり、空は青く、オレンジの太陽が顔を出し始めている。)

2行目もねえ。西脇氏本人によれば、中世のゴシック調の家の中から外を見ていて、汚らしい街路の向こうのある家の戸口で2人の人が何かひそひそばなしをしている、という設定だそうな。 これはちょっとカクっと来たね。「何人(なんびと)」と「誰か」がそれぞれ1人づつのひとってことじゃあつまんないね。僕は
何人か戸口にて「誰か」とささやく
と解釈したね。窓の外の朝を見ている自分、その家の戸口の外では、何者かが「誰なんだ、誰なんだ」と、小声で言っている。大きな声で聞くことははばかられることなのである。多くの町の人たちが自分の家の戸口近くに集まっていて噂しているという設定でもよいし、ひとりまたは複数が自分の家の戸口に向かって(つまり自分に向かって)聞いているという設定でも良かろう。後者のばあいは自分が誕生した神であることの布石となる。

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