日本には季節を表す言葉として二十四節季がある。そのうちの一つの「立夏」が今日5月5日だ。
暦の上で夏の始まる日だ。
生活の上では、夏休みが8月にあるしルームクーラーがフル回転するのも8月である。「立夏」の今日より夏が始まるという実感がわかない。
しかし、俳句を作るには今日より夏の季語を使う。
不思議なもので「歳時記」に頼って俳句作りをしていると二十四節季に合せた季節の中にいられる。
今日よりは夏の「歳時記」をたよりに俳句作りをしていくことになる。
日本には季節を表す言葉として二十四節季がある。そのうちの一つの「立夏」が今日5月5日だ。
暦の上で夏の始まる日だ。
生活の上では、夏休みが8月にあるしルームクーラーがフル回転するのも8月である。「立夏」の今日より夏が始まるという実感がわかない。
しかし、俳句を作るには今日より夏の季語を使う。
不思議なもので「歳時記」に頼って俳句作りをしていると二十四節季に合せた季節の中にいられる。
今日よりは夏の「歳時記」をたよりに俳句作りをしていくことになる。
敷石をつかずはなれず春の鳥
遊歩道の歩みを阻む雪解水
ケーキ屋の幟揺れゐる桃の花
蒼天に息吹く畑面と斑雪
春眠や電車の揺れに擽られ
春の野に杖突く妻のふと見えし
膝小僧の出て仕舞湯日の永し
小刻みに土手駆けあがる春の鳥
今朝の予報違ひて厚着春浅し
察の順巡りくる日永かな
淡雪に平靴の女子高校生
逆よりの数を唱へて青き踏む
すれ違ふランナー無言や春浅し
襟立てて話しの尽きぬ春寒し
彫像の指差しそれる春の雲
昼中の不意の目覚まし猫の恋
妻のなお棲むや鏡の春の闇
現には妻のをらざる桃の花(現代俳句)
喪にあれば出づることなき雛かな
もういいかいいいよと返す遅日かな
傘に手をかけて躊躇の花の雨
散りやうを急ぎてをるや闇の花
宴終へ友を見送る春夜かな
腹ばいの子の唇に着く花片かな
欄春や覚むる昼寝の夕間暮れ
花の下笑まふ幼の仁王立
宵桜那須の辺りか新幹線
桜しべ降る頃となる家族旅
公園の彫塑の尻の艶めけり
翳す手にまた一つ見ゆ梅の花
黄昏の庭の草萌え朧なる
住職と会釈を交わす春めけり
重湯から全粥となる桜まじ
ふるさとの祖父の墓参や山笑ふ
終点の案内にさざめく桜バス
読みかけの頁をめくる春の風
シャンソンとコーヒーの香の春暖炉
指先の風に応える紙鳶かな
上空を斜ひにしていかのぼり
地を走る花片追いぬく春疾風
オペ終へて残る片目の大つつじ
諸脚の足裏の痺れ青き踏む
湯曇りを一筋拭ひて春の山
速足に曳かるるチワワ春の昼
ため口の幼児数ふる土筆かな
珈琲店の小窓の外の春時雨
大の字に一人仰向く花筵
葉桜も途切るることなき女声
ガラス浮きの中にいびつな春の湖
春暁や蠢きてゐる影の街
春果つる御堂の絵馬のゆるき音
木の芽風翁二人の立ち話
春一番天女の衣も奪わるる
春の野に稚追ふ母のもろてかな
見つめ合ふ母子の銅像春の昼
白内障手術後1ヶ月経過し、その検診のため眼科医院に行く。自宅は郊外のためバス便が少なく早めに家を出て、バスを降りたところのカフェで一休みしていくことにした。
珈琲とスナック菓子を注文し、代金支払いの時「領収書お入り用ですか」と聞かれた。なんとなく「はい」と言って受け取った。
ところが、次の客にもその次にも同じことを聞いている。不思議に思った。
領収書を出さないことで売り上げをごまかしているようには見えない。店員は邪気のない声で明るく事務的に呼び掛けているのだ。
ということは領収書を受け取らない人が多いのだろう。次の客はいりませんと言っていた。
私は習慣で領収はもらっているが、なにかのついでにわざわざ捨てるか、ポケットに入れたままになっていることが多い。カフェや食堂では領収書はもらわなくてもいい。
そう考えると、店員はむしろ客の気持ちを忖度して「領収書いりますか」と聞くのだ。
商法上問題がなければなくていいかも。
朝、ゴミだしの後、郵便受けを覗いたが何も入ってない。習慣でなんとなく郵便受けを除くが毎朝こうである。たまにポスティングの広告のチラシが入っていることがあるが。覗いた郵便受けが空というのはある意味心地よい。
実は今年の1月1日より新聞の購読を止めたのだ。
新聞を止めたことによる不都合は、県内市内の身近な情報が得られないこと。チラシ広告が見られないことからより身近な地区の情報が得にくいことである。
さらに、地元始発の小旅行の情報が得られないこともある。今までは日帰りまたは1泊程度の小旅行の情報は新聞広告だった。その新聞広告が手に入らなくなった。
街の旅行会社は海外、国内旅行の本格的な旅行案内で自分の求めているものとは違う。
今のところ、それ以外は不都合に思うことはない。
新聞なしの生活が4ヶ月過ぎたが、深刻な不都合にはなっていない。
今はインターネット、テレビ等で豊富な情報を得ることができる。それで間に合っている。