ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

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夏祭りinお江戸 百鬼丸編

2009-07-14 13:36:31 | 舞台関係
いよいよ5年ぶりの『百鬼丸』でございます。
初演を見てはいるんですが、ストーリーよりもその暗さに印象があった作品。(物語そのものが暗いと言うより、舞台の全体的な雰囲気が闇っぽかったの)

さて、旅公演が残っておりますが、プチっとネタばれ感想を・・・
※以下これからご覧になられる方は、御注意下さい

手塚先生のキャスティングとは、ちょっとづつ違うわけですが(どろろが大人だったり、百鬼丸が赤子だったり・・・)概ね本編と変わらないのだと思う。←原作を全部読んでいないので、ハッキリとはわからない^^;

個人的に一番強く感じたことは、人とは揺らぐもの。魔物は揺らがざるもの。ってことでしょうか。

この物語の中で百鬼丸は、17歳であるにもかかわらず、48箇所の体のパーツがないために心のみで生きており、ゆえに赤子(肉塊)としての形状を留めている。
その百鬼丸が見込んだ男がどろろであり、どろろは戦で妻子を失った時、自分の心も失った男である。

百鬼丸の母親は、母であるために子を愛す。
母ゆえにその業は深く、その心は本当のものを見誤る。

百鬼丸の父は、理想を求め魔物の力を利用する。
その信念はあまりに強く固く閉ざされていた為、彼は本当の理想を見誤った。

人の心は、当たる光によってその影をいろんな形で浮き上がらせる。
良くも悪くも、ゆらゆらと揺らぐのが人の心なのだ。
魔物は闇に潜むので、その心に影はない。だから何かによって揺らぐことがないのだと思う。

肉塊の赤子だった頃の百鬼丸は、ある意味魔物に近かったのではないかと思う。
母の「生きよ」の言葉を一途に思い、揺らぐことなくまっすぐに生き続けた。

その体に血が流れ、人としての形を成したとたん、揺らいだ。
憎しみという力に揺らいだ。
体は心を閉め出し、怒りに任せて動き出した。

血の通っていなかった体には、体温は熱く、身を焦がす苦悩だったのだ。

長い旅の中で、どろろと百鬼丸の二人は、二人でいる事でようやく一人前の人間だったのですね。
どろろが死に、百鬼丸は人として完成しなければいけなくなった。
その時のどろろの言葉がすてきだった。
「何をやってもいいが、心にもないことをしちゃいけない。」
「唯一持って生まれたその心を手放しちゃいけない。」

どろろはこの言葉を伝えるために存在してたのだと思う。
魔物に近い百鬼丸を、人にするためにいた存在。

印象深い言葉に、白眼童子の「信頼しあいたいなら、魔物と手を組んじゃいけない」っての。なんだか深いなぁ・・・と。
それを選んだのはお前だ、と突きつけられた気分だった。
そしてこの言葉を聴いたとき、魔物ってブレない!って思った(笑)

最終的に、どろろと過ごした時間が百鬼丸を人間にし、百鬼丸と居た事でどろろは人として死ぬことが出来たのかな。
そんな人の脆さと縁の不思議を感じた今回の百鬼丸だった。


余談ですが今回観劇をして、いくつか思ったことがある。
魔物を解き放つ部分は、水滸伝や八犬伝。
魔物と契約をする所は、平将門公。
五行上人と上人様の使いは、観音様と恵岸行者。
それぞれに重なるなぁ・・・と。
(あとね、個人的に「蛇衆」っちゅー物語にも、ちと似てるなと。。ま、こっちの方がどろろよりぜんぜん後の作品ですが。)

そして体と心の関係。
以前、薬師寺のお坊さんがおっしゃっていた、金堂と講堂の関係に似ている。
心だけでも体だけでも人として成り立たない。
健体康心なんだなぁと。
目に見える痛み(体)と目に見えない痛み(心)は常に一緒にあるんだと。



とにもかくにも。
百鬼丸、すごい作品です。