ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

コメント大歓迎!BUT訳の解らない書き込みはザクザク消しますッス!

コロポックルに導かれて

2017-02-17 16:30:16 | 大切な人
大好きな児童文学の作家、佐藤さとる先生の訃報が舞い込んだ。

2017年2月9日 心不全の為に時を止められたとのこと。

先生のお誕生日は2月13日で、ミクシィのコミュニティにお誕生日のメッセを書くのがいつも14日になっちゃう私は、今年もやっぱり14日なっちゃって、「ごめんなさい、先生」って書いていた。
でも実はその頃には、先生は遠い旅路へと立たれた後だったわけです。

人は自分の誕生日近くに亡くなることが多いって言いますが、ホントかもしれませんね。




私はもともと活字が嫌いで、読書の基準は絵の多さでした。
本を選ぶ基準も、イラストの好みで選んでましたから、ほんとに内容重視ではなかったのです。
まぁ、そのあたりは今もそう変わらないのですが(苦笑)

そんな私が、小学生の時に出会ったのが佐藤さとる先生のコロポックルシリーズでした。

もちろん前記の理由から、手に取った切っ掛けは村上勉さんの素敵なイラストだった訳ですが、読み終わったときにはすっかり先生の描くコロポックルの世界にドップリ浸っておりました。


登場人物の名前の付け方がとても優しくて大好き。
生き生き駆け回るコロポックルたちが、自分も見てくれてるようで不思議。
この物語の世界のどこかに自分もいるようなワクワク感。
日常生活の中に隠れた、いや、気づかなかった「あれ?」に気づかせてくれる嬉しさ。。。

どれもこれも、今まで本を読んだ時には感じなかったことばかり。
活字を追うのを楽しいと感じた瞬間かもしれない。


そこから、先生の作品は自分の手に届く範囲ではあったけれどいろいろ読んだ。


赤んぼ大将シリーズも大好き。
これを読んで以降、ショベルカーなどの重機が恐竜に見えたりして。

机上庵先生はかなり大きくなってから読んだ。



先生の作品を思うと、私の思い出も一緒に引っ張られて出てくる。
それが私にとっての、先生の作品。






どこかで読んだ先生の言葉。



児童書が一番難しい。
大人の読者はその文章で騙すことができるが、子供はそうはいかない。
子供は機敏にその嘘を感じ取る。
だから、ファンタジーであっても嘘はつけない。













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背の君の眠る山

2013-06-20 12:50:39 | 大切な人
5月の上旬に、会社帰りにふらりと行ってきました。


阿倍野橋から電車に揺られて。
遠くに見えるあれは生駒かなー( ´・_・`)

上ノ太子を過ぎると、線路がゆるりとカーブする。
そーして見えてくるのだ、かの山が。


これは二上山駅近く。
二上だけど、見えるのは雄岳の一上のみ。

二上山の山裾に沿って、電車が走る。


二上山神社口をすぎてしばらくすると雌岳が見えてくるので、いわゆる二上山の形になる。


當麻の町ではしっかり二上。


日が落ちてきました。
6月の中旬には、雄岳と雌岳の間に日が落ちるそう。
一回見たいんだけれど、なかなかお天気に恵まれないと見られませんからねぇ。。。


山の端。
山際。
山の稜線が一番綺麗に際立って見えるのがこのくらいの明るさの時。


二上山に寄り添って走っていた列車も、當麻の駅を出ると少しづつ離れていきます。
そーして空は、どんどん暮れゆく。


電車の窓にへばりついて、二上山を写メする怪しいオイラ(笑)


日が落ちて。山のシルエットが闇と重なる頃、橿原神宮前につくのでありました。
日中ならば、近鉄橿原線からもチラチラと遠くに二上山が見えるんだけど。











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昨日でした。

2011-12-02 20:36:11 | 大切な人
昨日はばーちゃんの命日でした。
三回忌は11月の26日に済ませてたんだけど。。。

あまりの忙しさにすっかり命日忘れてたばーちゃん不孝者のオイラ^^;
ギリギリ昨日のウチに母から「命日やで」と告げられて気づく始末。
ほんま、ごめん。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

カーネーションを見て気に入って見てるんですが、その中で、「あぁ、この人たちは守ってくれる人ではなくなって、ウチが守らなアカンひとなんや、て思いました。」と主人公の糸子が祖父母に対して思うシーンがありました。
オイラはそんなこと思わずに、ずーっとばーちゃんに甘えてばかりでした。
カーネーションを見ていると、ばーちゃんの事、いろいろ思いだして泣けてきます。

あれも、これも、、、
言い出したらきりがないけれど、してあげたかった事はいっぱいありますね。
最大の喜び(=結婚→出産)をお見せできなかった以外は後悔はないくらい、ばーちゃんと共に過ごしたけれど、やってあげたかった事は生きてる次から次へと限り出てくるんだろうなって思う。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

ワタクシ、○○記念日っちゅーのを覚えないタイプ。っつか、覚えられないタイプなんですね。
出会った日とか、○○の一周年記念とか。そーゆーの。
さすがに自分と家族の誕生日くらいは覚えているけれど^^;
ばーちゃんの命日も、そんなにはっきりは覚えてない(いや、覚えてますよ。意識してないの方が正解かな)。。。あの日の記憶は鮮明なのに、あの日と同じ日が巡ってくる事には鈍感です。

ばーちゃんに限らず、あの人の命日も、あの子の命日も、あいつの命日も、この人の命日も。。。全部ちゃんと意識してないなぁ。。。(あ、フトドキモノですか?すみません)

忘れちゃう事は自覚してるので、思いだしたとき自由気ままに故人には語りかけることにしてます。
お月さん綺麗ねーとか桜が咲いたよ、とか、雪だねーとか、残業しんどい!とか!!(笑)



 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


そんなこんな。
いろいろ考える12月の始まり。
あぁ、一年経つのが早すぎます。








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初盆

2010-08-17 14:08:22 | 大切な人
今年は祖母の初盆でございました。
っつーても、いつも通りのお盆の日程でしたが。。。

宗派によっていろいろ違うんでしょうけれど、ウチのお寺さん、「いつも通りでいいですよ。おばあちゃんの好きやったものを供えてあげて」と言っただけでした。
初盆って普段よりちょっと早くからお飾り出すとか、お経がちょっと違うとか、そーゆーのんないの?と訝ってしまう^^;

だって昔々、オイラがまだ小さかった頃、祖母と一緒に祖母の田舎へお盆のお墓参りに行った時、少し先の方にあった祖母の遠い親戚の家の前に提灯とかお花とか飾りが出てたんですよ。不思議に思ったオイラが「おばーちゃん、あれ何?」と聞くと、祖母は「あぁ、新盆やからなぁ。帰ってくる家間違えへんように早めに目印出してあげてるねん」と言いました。オイラは納得して、そうかぁ。そやね。と思った記憶があります。
祖母の家は浄土宗なんですけど。

ま、代も変わって信心深くない節約主義の叔父が家を継ぐわけで。お寺さんも人を見て言ってたのかもしれませんけどねぇ。
オイラが口出すことではないんですが、何だかなぁと思ったりもします。

さてさて、そんなことがありつつも、オイラのお盆は今まで通り。
迎える御霊に祖母が加わったのが違った部分でしょうか。

13日の金曜日。15時ごろに姉と姪っ子と三人で、玄関の門の前にほうろくを置きおがらを焚きました。
その灯明を持って家に御霊を迎え入れるんです。
祖母とずいぶん前から祖母が来るのをゆっくり待っててくれた祖父を家に迎え入れ、ご先祖様も迎え入れ、先ずはお茶を一服。
姪っ子が入れてくれました。

去年までは、急須でお茶を注ぐのは危ないからと、冷めたお茶を引く係だったんですが。今年はお茶を入れる係になりました。1年ってやっぱり長いねぇ。
去年、姪っ子(祖母にとっては曾孫)がお飾りをいじっているのをベッドから見ていた祖母は、今年は小さな骨壷から覗いていたんでしょうかねぇ(笑)

14日。珍しく、予定の時間よりも早く来たお寺さんは、お葬式と重なってしまったからとチョー超特急のお経を上げて帰って行きました。仕方がないとはいえ、なんちゅー慌ただしい^^;

お飾りにオイラ手作りのお地蔵様をプラスさせていただき、お寺さんのチョー超特急のお経を聞いてもらってから、このお地蔵様を欲しいと言ってくれてる親戚に渡す。
祖母がいなくなったら、お仏壇に手を合わせることもなくなるだろうからと作ったモノです。
従弟と叔母と姉と母とオイラの分の5体です。

こんな感じでそれぞれの元へと行きました。

15日。地獄の釜が閉まる前に帰らなければいけません。
祖母たちの荷物を作って、近所のお寺に流しに行く。

入り鐘をいつも通り撞いてお盆の行事終了です。


おばあちゃん、次は一周忌で会いましょう☆



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明けました

2010-01-22 18:28:17 | 大切な人
昨年末には伯父、祖母と相次いで身内が亡くなりました。
そんな訳で、今年はお年始のご挨拶を控えておりましたワタクシであります。

先日、無事に祖母の満中陰を営み、忌明け致しましたのでご報告を。

こちらに足を運んで下さっている中で、直接お葉書を出せなかった方も沢山いらっしゃいますので、一応ご挨拶のハガキをアップ致しますね。

これからも皆様、よろしくお願いいたします。です。

噛みつかれました。

2009-12-11 16:34:26 | 大切な人
しんみり調子の文章が続いておりますが、ワタクシ至って元気でございます。
読んでご心配して下さった方、有難うございます。
泣き伏した生活は全くしておりません。
食欲もモリモリですから^^



さて、TOPにあげましたる靴。
数年ぶりになるのか、十数年ぶりになるのか、数十年ぶりになるのか・・・とにかく、祖母が元気で歩きまわっていた時の靴です。
踵も奇麗に打ってあるし、ちょうどサイズが合うならと、もらい受けた訳なのです。

最近、もっぱら運動靴しか履いていないオイラです。

この靴を履いて会社に行こうと十数歩歩いたら、既に痛くなってきた。
あらららら。
でも履き替えている時間はありません。
大学生のころには、おNEWの靴を下ろしたときにはこんなもんだったかもしれん。
根性だ。
と、そのまま出勤した訳ですよ。

したらば、しっかり踵を噛まれて、靴ずれが。。。

祖母の家で合したときは、てっきり合うと思ったんだけどなぁ・・・

右足がちょっと小さい気がする。
でも、踵を噛まれた以外は、とっても履き心地は良かった。
皮が固いだけかしらん?

この靴では遠出せずに、もう少し様子を見てみようと思います。

レモン哀歌

2009-12-10 09:48:58 | 大切な人
レモン哀歌/高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう



オイラは高村光太郎の『智恵子抄』が学生のころから好きなんです。
その中でも、レモン哀歌はとても好きで。
特に「かりりと噛んだ」から「トパアズいろの香気が立つ」につながるその瞬間が、得も言われぬ感じなのであります。
死にゆく智恵子の中に、何か確かなものを感じる気がしてたのです。

この詩の中の「あなたの咽喉に嵐はあるが」の嵐は、智恵子の中にある死を比喩しているとずっと思っていた。
でも、祖母の病室で気付いた。
本当に咽喉の奥に嵐があるのだと。
少しづつ機能が低下してゆく体の中を、ざっと嵐は吹き抜けるのだと思う。

祖母の甥っ子が、家に会いに来てくれたときに言っていた。
「生きてるのも大変やけど、あっちにわたるのンも、ごっつ力がいるねんで。ぐっと踏み出さな行かれへん。死ぬってごっつ大変な事やなぁ。」

あの嵐は、もしかすると一歩踏み出すための助走なのかもしれない。
生きている時の最期にして最大の大仕事は、死ぬ事なのかもしれないなぁ。

祖母にとっての「数滴の天のものなるレモンの汁」は、あったのだろうか。
あったのなら、なんだったのかなぁ・・・

祖母の事

2009-12-09 14:55:35 | 大切な人
11月の奈良巡礼は、祖母が少しでも安らかに逝けるようにと願った巡礼でした。

お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、関西での癌封じで有名なお寺のひとつが、大安寺さんでございます。


ほぼ4年前、家の中で着替え中に転んだ祖母。左足の大腿部と右肩を骨折致しました。
その後、何度も人工股関節の手術を受け(何度も転んだので、結局両足とも人工股関節になっちゃったんです^^;)ようやくここ1~2年で、家政婦さん(他人さん)のいる状態や週2回のデイサービスを受けるという生活サイクルになじんできた所。
家の中だけでしたが、手押し車に掴まって居間とベットとを一人で往復する事もできてました。

トコロが今年の11月に突然、足が立たなくなったと連絡が入り、そのまま入院となったのです。(二日ほど前まで、元気だったんですよ)
初めは骨折した部分に不具合が生じたのだと思った。
レントゲンを撮っても、股関節部分の骨が欠けたり(年とともに骨がもろくなるので、欠ける人も多いらしいです。)外れたりはないとの事。
痛みの原因は他にある。
そうして行きあたったのが、肺がんだった。
今までに何度か肺のレントゲンも撮っていたのだが、見つかることなくこの日になってしまったのです。
既に腰の骨にも転移をしており、この転移している場所が痛みの元だとの事。
年齢的にも、体力的にも、治療をすることは断念。
とにかく祖母の苦しみを取ることに専念することとなりました。

実際問題、肺がんは昨日今日の新しいものではなく、断言はできないが、ずいぶん前からあり、たまたま見つかることなく来てしまったモノだろうと主治医は判断されたらしい。
両切りのピースを何十年とのみ続けた祖母ですから、まぁ、やっぱりかぁ・・・的な気持ちもありました。(一日に2~3本しか吸わなかったんですけどね。)
むしろ癌の進行よりも、弱っている内臓の方が心配だと。
癌治療はしないものの、痛み止めを処方しなければなりません。その痛み止めの副作用などで、もともと機能が弱っていた腎臓がダメージを受けていたらしい。

痛みのコントロールが出来、症状が安定し、近所に見てもらえる町医者がいれば、家で看ても構わないと主治医はおっしゃいました。
自分の家が一番。お山の大将の祖母です。
病院嫌いの祖母を家でゆっくり看取る計画を立てておりました。
入院から1週間を過ぎ2週目の終わりごろ、ようやく痛みのコントロールが出来てきました。
腎機能の安定を待って、家に帰る・・・その矢先。

11月30日、容体が急変。
昼過ぎに父からメールで危篤の知らせが入る。
早退をし、急ぎ病院へ向かった。
既に瞳孔は開いて、目は動いても見えてる可能性は低いとのこと。ただし、耳は最後まで機能しているので、たくさん話しかけてあげてと看護師さんが言った。
私の声にも反応し、顔を向け、目もギョロっと向けてくれる。手だって、握り返してくれる。
祖母には子供が4人おり、一番末っ子の二男は東京で仕事をしている。頑張っても夜にしか来られない。
なので祖母が頑張りました。
末っ子の到着まで、意識を手放すことをしませんでした。
全員。全員が祖母の意識のあるうちに対面することが出来たのです。

二男の到着後、暫くしてからギョロギョロっと動かしていた目を閉じ、少し荒い息だがゆっくりと休み始めました。

子供のいる姉と、仕事をほっぽり出してきた従弟がいったん家に帰った。
沢山いても仕方ないからと、病室には、長女長男二女そして孫の私が付き添った。
交代しながら、体を休めつつ祖母の傍らに着いている。
夜じゅう、祖母の荒い息を聞きながら過ごした。
かなり安定しており、このまま持ち直すんじゃないかとさえ思えた。

朝になり、8時前に主治医が様子を見に来て下さった。
祖母の鼓動を聞いて、ちょっとびっくりしていた。
「力強い音ですね。心臓がお強いから頑張っています」と。
腎臓が少しでも機能して、尿の排泄があれば希望もあったのだけど・・・

肺にできた癌で気道が圧迫されている為、呼吸が笛のようにヒュ~ヒュ~と鳴る。
従弟も姉も早々に病院に着、祖母の浮腫んだ手や足をさすった。
昨日、握り返してくれていた手は既に力がなかったけれど、温かかった。
左足はすっかり冷たくなってしまっていたけれど、摩ると少し温かくなった。

夜寝ている時より穏やかな寝息。

二男は仕事がどうしても外せない立場でもあったので、「心残りはない。ちゃんと別れは出来た。仕事が終われば、とんぼ返りで戻る。」と帰って行った。

このまま穏やかな眠りが続くかも・・・と思っていたのだけれど。
心電図がピーピーと鳴りだした。
心拍数や呼吸数が危険値である事を知らせる。

母や叔母が「母は延命を望んでいないと思うので、点滴やチューブは外せないか?」と看護師に聞いた。
看護師さんは、「これは延命の為の点滴やチューブではありません。酸素や点滴をすることで痛みや苦しみを和らげているんです。ご家族様には辛い姿かもしれませんが、患者さんは頑張っています。取ったからと言ってほとんど変わらないと思いますよ。」
そうかもしれない。
見ている事が辛いことと、本人が辛い事は一緒じゃない。
野生の動物が、死ぬその瞬間まで生き続けるように、理性を越えた場所に居る祖母は、この時頑張っていたのかもしれない。

みんなが「もう頑張ることないで」「おじいちゃん(50年前に亡くなってます)の所でゆっくりし」と声を掛けると、天邪鬼な性格の為か、また少し安定する。
こんな時までも頑固な祖母に、みんな笑った。
何度かこれを繰り返し、痛み止めの薬を張り替えてもらった後、すぅっと息を吸った。

すぐに主治医と看護師さんが病室に来た。

すぅっと吸い込んだその息が吐かれる事はなかった。

ダメだと言われてから丸1日以上頑張った、天邪鬼な祖母。
お顔を抱きしめると温かかった。

癌と告知はされたけれど、長患いをしなかったからか、とてもつやつやな奇麗な顔だった。
むしろ、2日間付き添っていた私たちの方がエライ形相だったと思う。

家が好きで好きでたまらなかった祖母。
自分で死期をコントロールしたんじゃないかと思う。
3日は友引だったので、お葬式は4日と決まった。
一日でも長く「家に居たかってん」と、べっと舌を出してほくそ笑んでる祖母が見える。
直接の原因は、腎機能障害からくる肺炎(肺に水がたまって起る)だったけれど、私はこれが祖母の天寿だったのだと思う。

母のキョウダイの中には、家に連れて帰らなくても・・・という人もいたけれど、そこは母が頑張り通した。
派手好きで、人に振舞うのが大好きで、見栄っ張りで、家で大将だった祖母だから、と。

祖母は自分の家に帰って来、ゆっくり別れを告げた後、自分の家から旅立った。


お通夜の日に来てくれた子坊んちゃん(立派なお坊様だけど、小さいころから知っているので、祖母はいつも「こぼんちゃん」と呼んでいた)がお勤めの後に、「おばちゃんは耳が遠いから、大きな声で聞こえるようにお経をあげたで」と泣きながら祖母と対面してくれた。
お葬式の日には、大おっさん(和尚さんがなまってるのか、祖母はそう呼んでいた)が二男さん(通夜は長男さん)を連れてお勤めして下さった。
七日、七日の法要にも、お経上げさせてもらいますとおっしゃって下さった。有難いことです。

手前味噌でございますが、祖母の最期は、本当に良かったと思います。
自分もいつか両親を見送る日が来ます。(予定は未定?いやいや、親より先に死なないって孝行しか残されてないし^^;)
その時には、祖母との別れを見本にしたいな。。。と思います。



私自身の家は浄土真宗ですが、私個人はいろんな神仏を信じております。これって決めてません。神様仏様大好きな人ですから^^
私が読んで、そうだなぁと感銘した、とあるお坊様の言葉を紹介致します。
以下、転用。
「浄土真宗では、線香は立てずに、横に寝かせて点けます。  
この線香ってものは、不思議なもので置いたとき、下が、空気を通すものや、燃えるものじゃないとすぐ消えてしまうんです。
たとえば、灰皿の上に、直に、線香をおいても消えてしまいます。
要するに、下に“灰”がないと、消えてしまうんです。
今までに燃え尽きた線香たちの“灰”がないと点かない。
線香は自分の体を燃やしながら、周りに、芳しい香りを出し続ける。
自分が燃え尽きても、芳香だけは、残して行く。
その芳香は、いずれ薄れてしまうけど、灰だけは、次の線香が良い香りを出すために活かされつづける。
人の命ってのを考えたとき・・
ご先祖たちは、それぞれ、いろんな人への影響を出し続けて、一生を過ごし
多分、自分の子供や孫の世代まで影響を与え、自分の3世代・4世代あとになったら流石にその影響を、直には与えないかもしれないけれど
ちゃんと、後々後々の人間が同じように芳香を出して生きていけるように、活きているんだろう。
ご先祖様~
おいらは、ご先祖さまの“お蔭”で一応、燃えてはいますよ。
良い香りでてますかねぇ?
なるべく良い香りがええなぁ~」



お坊様のお話は、「おかげさま」のお話です。
人は一人では生きていないという事です。何かの、誰かの「おかげ」がないと、生は成り立たないのです。
私もおばあちゃんの灰の上で、少しでも芳しくありたいと思うのであります。(ばーちゃん家は浄土宗なので、お線香は寝かさず立ててたんですけど、ね^^・笑)

たっちゃんと小さいお母さん

2005-11-28 06:44:00 | 大切な人
ずっと、書こうかどうしようか悩み続けている事。
自分の中にしまい込んでおきたい、という気持ちと、みんなにも知ってもらいたい、と言う気持ちとない交ぜである。
今現在も、公にしようかどうしようか悩んでいる。

「人が存在する」という、あまりにもあやふやな現実を。
「人が存在していた」という、あまりにも不確かな現実を。
書きとめておきたいと思って書いている。


出会いは9年前に遡る。私が「小さいお母さん」になった一瞬のお話。


私には四半世紀共にいる友がいる。
仲良しとかそう言った事を卓越した、無条件に信頼している家族的存在。
彼女の結婚にも立ち会い、いろいろな節目をお互い見て来たと思う。

そして、こども。
おめでたがわかった時、嬉しくてバラの花束を送った。
少しづつ大きくなるお腹を見ながら、楽しみに「小さなお母さん」になる日を待つ。

「この子が産まれて来たら、いっぺんにお母さんが2人になるねん。1人は私、本物のお母さん。で、もう1人はひーちゃん。ひーちゃんは小さいお母さんやで。なってくれるやろ?」
おばさんでもなく、お姉さんでもなく、「お母さん」の称号を彼女は私に与えてくれたのだ。

ある日、夢を見た。
「産まれた~♪男の子やねん」と報告する友達と、暗い病院で会っている夢。
夢を見た日の翌日の明け方、家の電話が鳴った。
「ひーちゃん、昨日産まれてん。男の子!私がすぐに動かれへんかったから連絡遅くなってごめん。でも、コレは私の口から報告したかったから!」
夢に見たのと同じ男の子。私知ってたよ、産まれたの。そんな予感がしてたんよ。
「名前は産まれる前から決めててん。翼と書いてたすくと読むの。たっちゃんやで。よろしくな、小さいお母さん」
そうかそうか。たっちゃんか。うんうん。
「面会時間は午後7時までやねん。ひーちゃんは忙しいから無理せんでも週末に来てくれたらええよ」
うんうん、わかった。たっちゃんによろしくね。

この一報のあった日、私は仕事が手に付かなかった。
ずっとたっちゃんの事を考えていた。
仕事があるけどどうしよう・・・今日行くとしたら、早退しな間に合わへん。

もんもんと考えて出した結果が、「週末まで待てない!早退して会いに行く!!」であった。

ギリギリまで仕事をし、急いで病院に駆けつけた。
病院に行く途中の道で、旦那さんと会った。
おめでとうを言い、興奮気味の私と少し話した。
「そやな、行ってあげて。たぶん彼女も喜ぶと思うから」
そう言われ、私は小走りで病院へ向ったのだ。

病室にいたのは、友達と友達のおばちゃんと、ちいさなちいさなたっちゃん。
友達はマリア様みたいに奇麗だった。
でも、その目は真っ赤だった。

たっちゃんは産まれた翌日、そう、友達が私に連絡をしてくれていた時のすぐ後に息を引き取ったのだ。
乳幼児突然死症候群
これがたっちゃんを襲った原因なのだと。

「抱いたげてくれる?」
そう言って、ちいさなちいさなたっちゃんを私の腕に預けてくれた。

たっちゃんは、髪もくろぐろとたくさんあり、眉もしっかりした男前だった。
そっと目を閉じて眠っているたっちゃんは、とてもちいさくて軽かった。
その軽さが、ずっしりと重かった。

「この子はな、産まれた時からたっちゃんやねん。ちゃーんと名前あるねん。名無しのまま逝ったんとちゃうんよ。おっぱいも少しだけ飲んでん。」
マリア様のような友達は少しだけ笑った。


病室で何を話したかあまり覚えてない。
どうやって帰ったのかも思い出せない。
ただ、ただ、たっちゃんを思って泣いていた気がする。

数日後、たっちゃんは小さなお骨になった。
私はその葬儀には参列していない。
本当の家族だけの、小さな小さなお葬式だったから。

それでも時は普通に過ぎていく。
どんな境遇の人にも等しく。

友達の傷は癒える事はない。
疼きと共に一生過ごすのだろう。
でも、その疼きこそがたっちゃんの証。

翌年から、私は柏餅を作るようになった。
初めて作った柏餅はすぐにかたくなって、食べ辛い代物だったけど。
何度か作るウチに、少しはマシなものが作れるようになったと思う。

数年後、友達に新たな命が芽生えた。
そして、かわいらしい女の子が産まれた。

私はもう、柏餅を作ってはいない。
でも、たっちゃんを忘れる事は、ない。

普通に「そこにいる」と言う事は、本当は素晴らしい奇蹟なのだと。
たっちゃんは私に教えてくれた。
怠りがちな感謝を、たっちゃんを思う時に思い出すのである。

たっちゃんの生前の写真は2枚ある。
その内の1枚は、会社の机の上に置いてある。










 -お断り-
  この記事へのコメントは受け付けておりません。
  ただ、たっちゃんという男の子が1日だけだけど、
  この世の存在したことを読んでくれた人全ての胸に留めておいてくれれば。
  トップの写真は、本物のおかあさんの、たっちゃんへの覚え書き。思いを綴ったものです。