ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

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孝允と松

2009-07-23 15:52:06 | 呟き
とりあえず、自分の為の覚書です。
ちゃんとまとめたわけじゃないので、興味のある方のみ読み流してくださいませ。


えー。先ずは小五の名前の遍歴ね。

和田小五郎 小五郎とは五男という意味ではなく、和田家の由緒ある祖先の名前で長男である。(和田家は毛利元就の七男の血を引いているらしい)
桂小五郎 7歳で桂家の養子となる。桂を名乗るのは元服後の15歳から。
小五郎以外に、貫治、準一郎の通称名も。
幕末には新堀松輔広戸孝助など10種類以上の変名を使用。
木戸孝允 木戸性は第二次長幕戦争前に藩主毛利敬親から賜る。以降木戸性を名乗る。木戸貫治・木戸準一郎を経て孝允を名乗る。孝允は桂家当主の名前。諱(いみな)をかねた当主名であり、戊辰戦争終結後、東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に奔走し、近代国家建設のために命を落とした同士たちを追悼・顕彰して以降、孝允を公的な名前として使用する。
死後は、松菊木戸孝允 木戸松菊 松菊木戸公等と呼ばれている。

身長は龍馬と同じ6尺。めっちゃ高くね?
今でいうと174くらいだってよ。(マンマだと6尺は182くらいになるが、マンマでは計算しないらしい・・・)
オイラ小さい人だと勝手に思ってました^^;

剣術は長州で新陰流に入門後、剣術修行として江戸に留学。
斎藤弥九郎道場にて神道無念流を学び、一年後、免許皆伝となり塾頭となる。
一説に千葉道場の龍馬や桃井道場の武市と試合をしたとされているが、試合のあった時期には両名とも土佐に帰藩している。

有名な池田屋事変は、早く池田屋に着いた小五郎が一旦本拠地に戻った時に起こったとされているが、留守居役の乃美織江の手記によると「池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由・・」となっているらしい。
現場にいたのかもしれないね。

幾松とは、文久元年~2年の間に出会ったと思われる。

明治元年ごろから婚姻の方法について友達と相談をしていたことが、木戸文書に残っているらしい。
明治三年木戸が参議になってから正式に婚姻したという説が有力。
幾松は岡部富太郎の養女となり、木戸と結婚。正式に木戸松子と名乗る。
身分差を越えた初めての正式な結婚であったとされているらしい。

新政府になってからも世の中は安定しておらず、木戸の心労が耐えず、健康を害するほどであった。
岩倉使節団の全権副使として欧米を視察後は、開明急進派を改め漸新派となり、憲法の制定、二院制会議の設置、国民の育成、天皇育成に力を注いだ。
西郷が主張する征韓論や、大隈たちが推し進めようとする台湾出兵には一貫して反対。
台湾出兵が決定された1874年には参議を辞職している。
明治10年に西南戦争勃発。明治天皇とともに京都へ行くが、持病が悪化。明治天皇の見舞いを受けるも、快方に向かわず。朦朧状態の中、大久保の手を握り「西郷もいいかげんにせんか」と明治政府と西郷軍とを案じた言葉を残し、原因不明の脳病の発作及び胃病の為死去。明治10年5月26日 享年45歳。
西郷隆盛、大久保利通らと並ぶ「維新の三傑」の一人であった。
木戸の危篤の連絡を受けた松子は、6日に東京を立ち、馬車を乗り継ぎ10日に京都に到着。日夜熱心な看病をした。
木戸の死後、薙髪し翠香院と号し京都木屋町に転居。
明治19年4月10日、胃病の為病死。享年44歳。
現在は霊山の木戸の墓の北隣に眠る。


参考:wikipedia 木戸孝允、木戸松子


今回調べてみて、木戸ってすごい人だなぁとつくづく感心致しました。
特に維新後の活躍は、すごい先見の目があって、とても柔軟な人だったんだと思う。
で・も。
やっぱりね、好きにはね、なれないのね。
ごめんね^^;
でも一度、霊山に行ってみようと思う。(いや、すんごい昔には行ってるんだよ。霊山)