まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1149 万葉歌碑巡り・京都府山城編

2019-06-17 11:06:15 | 万葉
おはようございます。













この春から万葉歌碑巡りを始めたわけですが、GWは主に近場で奈良県内、京都、滋賀辺りを走りました。今回お送りするのは京都編、奈良と共に歴史のある所なのでたくさんの歌碑があるのだろうな~と思って調べてみると、その数は思いのほか少ない、万葉集と平安京は時代が違うのであまり所縁がないと言ったところでしょうか。京都を巡ったのは天皇賞の日、平成最後のGIが京都競馬場と言うことで見に行くことにしようと考えていたのですが、その走りの味付けが万葉歌碑巡りとなってしまいました。競馬場入りは午後からにして午前は歌碑巡り、幸い京都の歌碑は山城地区に多くあったので、行きがけにはちょうどいいルート選びができました、と言うことで巡って行ってみることとしましょう。

まずは写真1枚目~4枚目までが木津川市の山城郷土資料館にあるもの、場所は木津川市の中心部から離れた木津川沿いの山に差し掛かる所、国道163号線から資料館の入口までは急な上り坂でその上り切った先の駐車場の端に並んでいました。

「狛山に 鳴くほととぎす 泉川 渡りを遠み ここに通はず」(田辺福麻呂・巻6-1058)
「娘子らが 続麻懸くといふ 鹿背の山 時しゆければ 都となりぬ」(田辺福麻呂・巻6-1056)

「狛山」「泉川」「鹿背の山」と言う言葉がこの地に所縁があり、更に最後の写真にある歌碑には「棚倉」と、この歌碑が立つ場所の最寄りの地名が歌詞にある。万葉集は全国各地のたくさんの人々、それこそ身分の高い低い関係なくいろいろな人々のいろいろな思いが歌となって綴られたものなので、その場所にちなんだ歌があり、それが形として歌碑に残されている。京都は平安の地だから万葉集とは所縁はないだろうとは言っても、歌碑に彫られた歌詞にはその時代の人々の馳せた思いを垣間見ることができます、さあ、先へと進んで行ってみましょう。





















JR玉水駅付近では山城古道を外れた集落の入り組んだ所に1つ、駅の東側の高台に1つ、結構見つけるのに苦労したが万葉歌碑を2つ巡る、その両方がこの地に所縁のある奈良時代の公卿橘諸兄氏のもの、高台にある歌碑があった場所は井堤寺跡と言うことで、元は井手寺、円提寺とも呼ばれていた橘氏の氏寺だと言うことらしい。その後は山城古道を北へと走り城陽市の中心部へ、JR城陽駅前の踏切を渡って駅の東側へと入り線路沿いを北へと進んで行くと久世神社の入口付近に歌碑が立っている。

「山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ 秋は散りけり」(柿本人麻呂・巻9-1707)

城陽市の中心部に当たる場所だが駅の東側は新興住宅地となっていて坂道が多い、この神社の側にも住宅地へと向かう急坂がああり、それが歌に歌われている鷺坂に当たる。「山背」とあるのは「yamashiro」=山の後ろ、この山と言うのは平城京から見たならやまに当たり、その後ろにある国と言うことで山背と記したのが後に「山城」となったとか、しかもその改称が行われたのが平安京遷都、桓武天皇の時と言うから、平城の時代に対する反骨みたいなものがあったのだろう。その鷺坂を先へと進んだ住宅地のど真ん中に正道官衙遺跡があり公園になっている、その公園を巻くように通っている道には万葉時代の植物をテーマに詠んだ万葉歌碑がズラリと並んでいる、全部で30基近く、ここに全部貼り付けるのは骨が折れるのでここはフォトチャンネルにてご勘弁と言うことで↓↓↓

正道官衙遺跡公園









上の5枚は天皇賞の人は別の日に走った時に撮ったもの、それぞれの歌には宇治、宇治川、山科などその地の地名が歌われています。宇治と言うと平安時代の華やかさが漂っていた場所のイメージがあるが、ここは古くから琵琶湖と海を結ぶ水運の重要な中継地だっただけに、奈良に都があった時代から栄えていたと考えられる。平城京の時代からはなかなかうかがうことができない京都の姿だが、いずれはここに政府の中心を置こうと布石が敷かれていたのだろう、まあそのおかげで京は長らく栄えることになり奈良は廃れていってしまうわけですが。万葉の頃に伝えられた歌は万葉集に組み込まれ現代に残って、新しい時代の参考にされることになる、自分(一人称)は万葉集についてはほとんど何もわかりませんが、これも勉強です、歌碑巡りはまだまだ続けて行こうと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち