まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1662 万葉歌碑巡り・・・春日井市、東山公園編

2021-10-27 07:56:48 | 万葉
よろしくお願いします。























GWに走ってきた愛知の旅、本編は終わりましたが万葉歌碑巡りはまだ残っています、前回は一宮市にある万葉公園にある歌碑を巡ってこの旅の始まりとなりました、今回はその続きとなるわけですが・・・多分話がもたないんじゃないかなあ~。万葉歌碑巡りをお送りする時には各ゾーンで一つか二つは写真にある歌碑の歌を取り上げるのですが、今回はそれがなさそうな展開になりそうなんですよねえ~。走りの方は一宮市から岩倉市、小牧市と名古屋のベッドタウンを過ぎて春日井市へと入りました、春日井となると名古屋からちょっと遠いな~、と言うイメージがあったが、ここには万葉歌碑がたくさんあると言うことで巡りのプランに入れました。その目的地が落合公園から八田川へと続く遊歩道にある万葉の小道、そこには15基ほどの歌碑が道の両側にズラリと並んでいるが、万葉植物をテーマとした歌が取り上げられていて、特別この地に関する歌ってのはなかったんだよなあ~。歌碑を探し当てる楽しさは走っている時には感じることができるが、見つけてしまった後でその歌が当地に因んだものでないと分かると結構覚めてしまうもんなんですよね~、と言うことで一応写真は並べましたがこのゾーンでは歌を取り上げることはなく、次の目的地へ向かうこととしましょう。













国道19号線を結構長い距離を走って名古屋市へと入り、次の目的地は千種区にある東山公園、直線の道路の真正面に大きな森と観覧車が見え、近くへと差し掛かるとたくさんの車が駐車場へと向かって行く。とりあえず公園の入口へとたどり着いたが、公園に入るには入場料が必要、動物園と遊園地があり家族向けの公園のようでお一人様が歌碑を目当てに来るようなところではなさそう。とは言えせっかくここまで走って目的の歌碑を目の前にして、入場料を渋って引き返すのも情けない気がする。よし!行こう!こうなりゃ今日の残りの時間全部ここで費やすのもいいだろう、入場料を支払って公園へと入って行く・・・がこの公園はかなり広そう、目指す万葉歌碑は植物園にあるとのことだが、案内表示板を見るとその植物園に行くまでには結構距離がありそう、タワーを通り抜けて動物園を通り抜けて、池を通り抜けてなんやかんやと歩いて歩いて、やっとのことで植物園の入口へとたどり着いた。その場所にあるのは写真1枚目にある名古屋市東山植物園温室前館、なかなか洒落た建物と言う感じだが重要文化財とのこと、目指す万葉歌碑がある場所はここからまだ先へ行かなければならない・・・。












そんなわけでやっとたどり着いた万葉の散歩道、まあ最初から分かっていたことですがここにある歌碑も万葉植物に因んだものばかりで、ご当地に関するものは見当たらなかった。それでもここまで長い道のりを歩いてきたのだから、撮れるものは搾り取れるくらいに確保しておこう、その模様、風景については2番目、3番目のゾーン、それと先行公開しているフォトチャンネルでもお送りしています。そんなわけで今回も・・・と終るのもちょっと味気ないので、一つくらいは歌を取り上げておきましょう、3番目のゾーンの上から3枚目、4枚目にある歌碑↓↓↓

「あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ」(橘諸兄・巻20-4448)

作者は男性だが、官人の慶事の祝宴の席で女性の気持ちになって歌ったものと言うことです。「我が背子」とは自分の子のことではなく、慶事の主の官人を表していてその幸せを長く願っているという意味ですが、慶事に「偲ぶ」の文字を使うのはちょっとな~、と言う気もします、まあ昔はこの字も現代のように亡くなった人に対して使うと言うような固定観念はなかったのでしょう。さて、東山公園を後にして、この日は時間的にもう少し動けそうなので、残りの万葉歌碑も攻め落としに行くことにしました。その模様と翌日の巡りの記録については次回でのお送りとしておきましょう、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1635 万葉歌碑巡り・・・愛知の旅編(1)

2021-09-08 11:06:27 | 万葉
よろしくお願いします。





愛知の旅本編は残すところあと1回だけとなってしまいましたが、この時の走りの目的のひとつが万葉歌碑巡り、今回はその歌碑巡りの模様をお送りしていこうと思います。多分3回に渡ってのお伝えとなりますが、まずはこの度の一番最初に立ち寄った一宮市にあった歌碑を巡って行くこととしましょう。

















名鉄尾西線が通るすぐそばにある萬葉公園、その一角にある住吉神社内にあるのが写真2枚目、3枚目↓↓↓

「春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に」(作者不詳・巻10ー1874)

その後萬葉公園へと入り園内をぐるりと回って大きな歌碑をいくつか見つけました↓↓↓

「我が衣 摺れるにはあらず 高松の 野辺行きしかば 萩の摺れるぞ」(作者不詳・巻10-2101)

「雁が音を 聞きつるなへに 高松の 野の上の草ぞ 色づきにける」(作者不詳・巻10-2191)

3つの歌に共通するのが「高松」と言う文字、次のゾーンで並べた写真の歌碑があるのがここからすぐの所にある一宮市萩原町高松にある萬葉公園高松分園なので、ここにある歌もご当地にちなんでのものだろうと思ったのだが、歌の解説を見るとどうもそうではないらしい。とある解説のページをみると3つの歌にある高松は奈良にある高円山のことだと訳されている、ただ2番目の歌にある「萩」は萩原町につながっている感もある、どうもモヤモヤが解決しまいままに次のゾーン、問題の高松分園へと行ってみることとしましょう。















「淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ」(柿本人麻呂・巻3-226)

「ことさらに 衣は摺らじ をみなへし 佐紀野の萩に にほひて居らむ」(作者不詳・巻10-2107)

公園の入口に写真3枚目~6枚目にあるように小さな歌碑が立っている、上の歌はその中の2つで、残りの2つも1番目のゾーンにある歌が記されているのですが、1番目の歌の「淡海」は琵琶湖のこと、2番目の「佐紀野」は奈良の佐紀に通じる感じで、どうもこれもご当地には関係ない歌が並べられているだけという感じ。実はこの公園の開園に関しては『高松論争』と言うのがあり↓↓↓

【昭和三十年、詩人の佐藤一秀は、「高松」を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である、とし、万葉公園設立を要望した。しかし、万葉学者から、「六首のうちの二首(二二三三、二三一九歌)は、当地と歌との結びつきは薄い」との指摘があり、いわゆる「高松論争」が繰り広げられた。】

と言うことです。6つのうちの2つが下に挙げた歌↓↓↓

「夕されば 衣手寒し 高松の 山の木ごとに 雪ぞ降りたる」(作者不詳・巻10ー2319)

「高松の この嶺も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ」(作者不詳・巻10-2233)

下の歌が記された歌碑は高松公民館の前にあるとのことでその場所に行ってみたのですが、その場所が写真下4枚にある風景、何か丘の上にお地蔵さまや石碑が無造作に突き刺さっていて、何とも不気味な場所でした。で、目指す歌碑は・・・見つけられなかったんだよなあ~、で後で知ったのですが、公民館改装の際に歌碑は高松分園に移設されたとのこと、そんなの知らなかったからスルーしてしまった。しかしこの2つが当地にちなんだ歌でないとすると、1番目のゾーンに挙げた3つの歌は奈良に関するものではないと言うことになる、となると今まで頼りにしていた解説のページの信憑性も薄れてしまうことになるのだが・・・、まあこれまで通り、薄く軽くで進めていくこととしましょう。
2つの公園では上記の他にもいろいろな歌碑を巡りました、歌碑と言っても看板みたいなものですが・・・、その模様はフォトチャンネルでのお送りとしておきましょう↓↓↓

万葉歌碑・愛知県一宮市













今回最後にお送りするのが一宮の中心部を通り過ぎた所にある浅野公園、公園の由縁については愛知の旅本編でお伝えしております。曇天の下でつつじが映える公園、しかし感染症禍の影響で人の出はまばらと言った感じ、まあその分落ち着いて園内を巡ることはできたわけですが。さて、お目当ての歌碑はと言うと写真2枚目~4枚目、公園の入口前ですぐに見つかりました。

「天地の 神も助けよ 草枕 旅行く君が 家にいたるまで」(作者不詳・巻4-549)

九州に赴任していた役人が奈良の都に帰る時に、その時の仲間が無事の帰還を祈るために詠んだ歌だということです。長い旅路です、往時は今みたいに新幹線や飛行機などもちろんないから、旅の無事を祈りたくなるのもごく当たり前のものでしょう。何気ない気遣いがうかがえる歌でした・・・なのですが、そんな歌がなぜここに歌碑として立っているのかは謎やな~、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち




No.1572 万葉歌碑巡り・・・香川県坂出市編

2021-05-24 09:33:33 | 万葉
今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。



















昨年の末に香川を走った時は雨に風に雪にと苦難何でもありの旅となりました。朝方降っていた雨が岡山に着いた時には止んでいて、青い空が見えていた時は勝利宣言を掲げて四国入りや~!!と思っていたのですが、そう甘くはなかったですね。弱い雨と強烈な風に苦しみながら番の州の工業地域の中を進んで瀬戸大橋記念公園へとやって来ました、その公園から更に先へと進んで行った所にあるのが東山魁夷せとうち美術館、建物の横の道の両側には万葉歌碑がズラリと並んでいました。そのほとんどが写真にあるように看板にはっきりとした文字で書かれたものだが、ひとつだけ石の碑に文字が刻まれたものがありました↓↓↓

「香久山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古へも 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」
(中大兄皇子・巻1-13)

この歌については前にも取り上げたことがありました、大和三山を三角関係のように例えています。なるほど、畝傍山を女性に例えているんだ、ってことは天香久山と耳成山が男ってこと、でも三山の中では畝傍山が一番背ぇ高なんですよね、2つの山は大きな女性を妻にしたかったんでしょうか・・・。
























美術館から更に奥へと進んで行くと沙弥島、ここは元は離れ島だっただったのを本土とくっつけたようになっている所。島に入ると急な坂を越えて瀬戸大橋が見える公園へ、そこで相棒君を止めて遊歩道を進んで行くと波打ちギリギリの所に万葉歌碑がズラリと並ぶ所へとたどり着く。人の姿は全くなく、波は風に煽られて遊歩道を乗り越えるくらいの勢い、遠くに見える瀬戸大橋も強い風に揺らされているかのよう。グレーの雲の下に並ぶ歌碑はまるで墓標のようで、風と波音だけの場所は不気味な雰囲気を漂わせている、その中にあるのが大きな石碑に刻まれた万葉歌碑↓↓↓

「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか・・・」(柿本人麻呂・巻2-220)

この歌には更にこのように歌が続く↓↓↓

「ここだ貴き 天地 日月とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥(ふ)す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは」

歌の最初の部分はこの地の美しさを讃えているが、途中からはこの場所に行き倒れた旅人の姿を見つけて、そのことを憐れんで詠んだものだと言うことです。後でこの歌の意味を知った時に、まさかその旅人に自分(一人称)がなってしまっていたのかも・・・と変なことを考えてしまったが、昔は旅もそれだけ命がけだったということでしょう。そして歌碑にはこの長い歌の後に反歌が2首、続けて刻まれている↓↓↓

「妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや」(柿本人麻呂・巻2-221)

「沖つ波 来寄する荒磯を 敷栲の 枕とまきて 寝せる君かも」(柿本人麻呂・巻2-222)

「うはぎ」とは嫁菜のことで、これと言われたら、ああ、それのこと、って言うくらいに道端に何気なく咲いている花のこと。上の歌では死んでいた旅人のために摘んであげようにも、もう時期は遅すぎた様子が詠まれています。今となっては、どうもこの場所に漂う暗い雰囲気はこの歌が醸し出していたものだったのか・・・などと思ってしまうが、それは真冬のこんな状況の時に行ったからでしょう。まるで墓標のように・・・と例えてしまいましたが、ここにずらりと並ぶ歌碑については例の如くフォトチャンネルでのお送りとしておきましょう↓↓↓

万葉歌碑・・・坂出市








「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの・・・」(軍王・巻1-5)

今回の最後に紹介するのは坂出市の中心部からはかなり離れた所にある塩釜神社に立つ歌碑、舒明天皇が讃岐の国に行幸した時に付き添った軍王が歌ったもので、この歌も点々のあとに長く続いています。旅になると地元に残してきた人のことを思うのは常なのでしょう、夜になって眠る時になるとどうしてもその人のことを思い出してしまう、この時代の人たちは歌にその寂しさ表してきたのでしょう。まあ自分(一人称)には残している人も寂しく思う人もいませんからね、この先ものらりくらりと旅を続けていくこととしましょう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。・・・・・・・・・・・・まちみち


No.1555 万葉歌碑巡り・・・和歌山紀ノ川編

2021-04-23 11:09:37 | 万葉
よろしくお願いします。
















今回は万葉歌碑巡り、正月3日に和歌山へ走った時に巡った歌碑についてお送りしていこうと思います。まずは県境を越えて和歌山県に入ってすぐの所にある写真3枚目~6枚目にある万葉歌碑、この辺りについては前に橋本市まで走った時の巡りで来ているのですが、その時に国道24号線の向かいにある歌碑に気を取られたために確保し損ねた歌碑でした↓↓↓

「あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね」(作者不詳・巻9-1680)

その場所から坂を下って道を左に折れた先にあるのがJR隅田駅、その駅前にあるのが下にある歌碑↓↓↓

「真土山 夕越え行きて 廬前の 角太川原に ひとりかも寝む」(弁基・巻3-298)

どちらの歌にも出てくる真土山、これについては前回の巡りの記録の時にも取り上げています。山と言うよりも奈良と和歌山の境界線にある峠のこと、その山を越すと紀伊の国に入ると言うことで、旅人も思いも新たになることなのでしょう、雨も宿も旅には考えどころとなるテーマ、昔も今もその辺りは変わらないことでしょう。













国道24号線にある道の駅紀ノ川万葉の里へとやって来ました。万葉の里と言うだけあってこの辺りには歌碑は多そうなのですが、資料を調べるとその場所が山の上とか紀ノ川の中州とかで、短い時間の中ではいけない所ばかり、結局そこで見つけることができたのは下に挙げた4つの歌だけでした↓↓↓

「紀伊の国の 浜に寄るといふ 鰒玉 拾はむと言ひて 妹の山・・・」(作者不詳・巻13-3318)

「妹に恋ひ 我が越え行けば 背の山の 妹に恋ひずて あるが羨しさ」(作者不詳・巻7-1208)

「背の山に 直に向へる 妹の山 言許やも 打橋渡す」(作者不詳・巻7-1193)

「人ならば 母が愛子ぞ あさもよし 紀の川の辺の 妹と背の山」(作者不詳・巻7-1209)

どの歌にもあるのが背と妹の文字、それぞれが背の山と妹の山を表しているようです。背ノ山はこの近くの交差点名にもあるのですが、国道24号線の北側にある山のこと、一方の妹の山は紀ノ川を挟んだ対岸にある山のこと。二つの山は男性と女性に例えられて、この地を舞台とした物語として歌に詠まれたのでしょう。一番下にある歌碑は国道24号線の歩道の分かりにくい所にあって、あわや見逃してしまいそうになった、ここでの取れ高が結構ガックリしたものだっただけに、この歌碑を見つけることができたのは嬉しかった。でも巡り切れなかった歌碑については、今度はもっと時間をかけて来なければならないところ、またまた宿題として残ってしまうこととなりました。

















万葉歌碑・・・紀伊風土記の丘


万葉歌碑巡り最後の目的地、紀伊風土記の丘へとたどり着きました。もう夕方も近くなって時間もあまりないところ、しかし園内には古民家や古墳など見所も多く、駆け足で巡るにはあまりにももったいない。そんな中を案内板を頼りに万葉植物園へとたどり着く、小高い丘にはその植物に関する歌碑が立っていて、その模様についてはフォトチャンネルにてのお送りとしています。大きな歌碑の中には柿本人麻呂の歌が掲げられた歌碑もありました↓↓↓

「いにしへの 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし」(柿本人麻呂・巻10-1814)

「春は来ぬらし」とは春がやって来たらしい、との意味ですが、走ったのは正月3日だったので春はまだまだと言った頃でした。まあ時期的は春はやって来ましたが状況はまだまだ厳しそうです、感染者数も奈良県ではついに100人を超えてしまい連日の過去最多を更新、悪魔の足音は確実に近づいてきている感じです。GWはどうなってしまうんだろう、またまた暗黒の時を過ごさなければならないのかな・・・、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち


No.1519 滋賀の旅2020年秋(5)・・・万葉歌碑巡り

2021-03-01 08:44:22 | 万葉
















さてさて、滋賀の旅秋編は前回、琵琶湖大橋を渡って守山市へと入りました、行程の方は残りもう1回で終わりとなる予定なのですが、今回はこの旅の目的でもあった万葉歌碑巡りをお送りしていこうと思います。
まずはズ~ンと時間を戻して高島市へ、ここはどこや~と言いたくなるような写真1枚目~4枚目にある歌碑から↓↓↓

「旅ならば 夜中をさして 照る月の 高島山に 隠らく惜しも」(作者不詳・巻9-1691)

旅人が高島山に月が隠れるのが惜しいと思う気持ちを詠んだ歌、まあそのままと言った感じですね。高島山ってどの山?となるが志賀山系のこの辺りの山を総じてこう呼んでいたのでしょう、夜中を指しての月とは多分満月のことかな、となるとこの旅人は結構夜更かししてらっしゃるようです。

「いづくにか 我が宿りせむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば」(高市連黒人・巻3-275)

先の歌碑のある場所から南へ行った所、前以ての予習では変電所の近くにあるとのことで、その鉄塔が集まっている場所を探していると見つけることができたのが写真6枚目~8枚目にある歌碑。作者はこの地で泊まる場所が見つけられない不安を歌っているとのこと、多分お粗末な仮宿で泊まることになったと思われるが、そうなると上にある歌のように月が隠れて暗くなると不安になる気持ちもわかる気がしてきます。















町の中心部には万葉歌碑の案内板があって、この辺りは歌碑の場所も分かりやすい。標識に従ってJR近江高島駅の裏手の山へと続く小石がゴロゴロ転がった道を上って行くとあるのが↓↓↓

「いづくにか 舟乗りしけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎ出来る舟」(作者不詳・巻7-1172)

最初のゾーンにあった歌もそうだったが、この歌も旅人が旅の途中で歌ったものだと言うこと。この地は琵琶湖の港があったとのことで船に関する歌も多い、船便がこの地を旅する人たちの主要な交通の便となってたのでしょう。その琵琶湖の方を振り向くとJR湖西線の向こうに見えるのが乙女が池、標識に沿って進んで行くと池の畔の公園にあるのがこの歌碑↓↓↓

「大船の 香取の海に いかり下ろし いかなる人か 物思はずあらむ」(作者不詳・巻11-2436)

ここでも「香取」と言う地名らしき文字が出てくるが、高島の香取と言うのがどの場所化ははっきりとは分からない、船が泊められる大きな港であったことは確かなことでしょう。とあるページでこの歌の意味を調べると、その港に碇を下ろして泊まっている船には「いかなる人が恋に悩まないというのだろう」とあるが、突然船に恋を織り込んでくる辺りは、自分(一人称)にはちょっと意味不明に感じました。



















写真5枚目、6枚目にある歌碑と7枚目~9枚目にある歌碑には同じ歌↓↓↓

「楽浪の 比良山風の 海吹かば 釣りする海人の 袖返るみゆ」(槐本・巻9-1715)

「楽浪」とはささなみと言うことで琵琶湖の穏やかな様子を表しているかのよう、そんな穏やかな波も真後ろにある山から吹いてくる風には揺らされるのでしょう、その様子を釣りをする人の袖が翻ると歌っています。確かに比良山系は琵琶湖からさほど離れていなく、高い山が迫るかのようにそびえているのでそこから吹く風はきついものだと感じます。

「藤波の 影なす海の 底清み 沈く石をも 玉とぞ我が見る」(大伴家持・巻19-4199)

最期のお送りするのは本文ではまだたどり着いてない場所、草津市内のとある神社にある由緒の記された碑にある歌です。「波打つ藤が湖底にくっきり写っている。それほど湖底が透明で清らかなので、沈んでいる石まで真珠に見える。」との訳があるのですが、なるほど、その藤のつながりでこの神社にこの歌が記されているわけか。今回は巡った歌碑の数が多く、紹介もやや中途半端になってしまいましたが、琵琶湖の周りにはまだまだたくさんの歌碑があり、旅人や思い人、いろいろな人の思いをその歌からうかがい知ることができます。巡りはまだまだ途中なので今年のうちに残りも行っておきたいところです、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち