家人が植えた安納芋は順調に育っているようです。「小さい時、芋をよく食べさせられた」と言っていましたが甘い安納芋の天ぷらは別物のようです。
江戸時代、8代将軍徳川吉宗のころ、西日本は悪天候と害虫の大発生で飢饉に襲われました。瀬戸内海一帯は特にひどかったようです。約280年前のことで「享保の飢饉」と呼ばれています。井戸平左衛門は能吏で石見銀山を管理する大森代官となり、また、幕府直轄地であった笠岡の代官も兼ねました。そして、飢饉に際して領民たちを早急に救うため、幕府の許可を待たず年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを断行しました。また、薩摩の僧からサツマイモー甘藷が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入しました。この功績により、平左衛門は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられて今日まで顕彰されるに至っています。飢饉の翌年、享保18年(1733年)5月26日に備中笠岡の陣屋で死去しますが、その死因は、救荒対策の激務から過労により病死したとする説と、救荒対策のために幕府の許可を待たず独断で年貢米の放出などを断行したことに対する責任から切腹したとする説の二つがあります。立派な墓所が笠岡市の威徳寺にあります。
大三島出身の僧で下見(あさみ)吉十郎は、幼くしてなくなった我が子の霊を弔うため巡礼に出ますが、薩摩から甘藷の種芋を持ち帰りました。甘藷の栽培は大三島から近隣の島々に広まりました。平地が少なく、農業用水の確保もむつかしいため米作が困難な島では麦が主食だったようですが甘藷により食糧事情が好転し、飢えに苦しむことが少なくなったと伝えられているそうです。
家人があまり食べたくないと言っていた芋には深い歴史があったようです。笠岡には井戸公園と顕彰碑があり、大森には神社もあります。
大三島の大通寺にある下見吉十郎の墓は「芋地蔵」として祀られています。また、近隣、22の寺院などに芋地蔵などがあるそうです。
洲江、正善寺には山門の脇に井戸平左衛門の供養碑があります。側面には下見吉十郎と夫人の戒名が彫られています。
自らを犠牲にしても民を助ける、井戸平左衛門の為政者としての判断力に尊敬します。また、下見吉十郎のもたらしたさつまいも-甘藷が生口島でとても大切で人々の命をつないだことが察せられます。
今年も美味しく芋がいただけるように草取りと水撒きに努めます。
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