F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

読書記録026「蚊遣り火-橋廻り同心・平七郎控07(藤原緋沙子)

2011年05月08日 09時41分15秒 | 読書記録

1話「蚊遣り火」

「遣る」という言葉には「そこへ行かせる」のほか、「殺す」、「逃がす」という意味があります。蚊遣り火とは、スギなどの葉を燃やし、蚊を追い払うことで殺虫能力は無いので、蚊を逃がすという意味なのでしょう。

市町村合併まで、F老人の別宅は因島市に属していました。因島は除虫菊の産地として有名でした。特に大正時代から昭和にかけ、初夏、島を真っ白に包んでいたそうです。除虫菊が日本に入ってきたのは明治18年のことで江戸時代にはありませんでした。殺虫剤「キンチョール」を作っている会社の正式名称は「大日本除虫菊株式会社」です。戦後、殺虫有効成分が合成されるようになり、除虫菊栽培は廃れました。今は観光用に少し栽培されています。これから月末にかけて花の最盛期だそうですので、写真を撮りに行きたいと思います。

親方の娘と無理やり別れさせられた指物師、兵七郎の同僚秀太の幼馴染の清吉は親方の元を飛び出し博打のはまった後、親切な隠居に化けた盗賊の頭に金をもらった。元の親方と蚊遣り火を焚くのが好きな娘は病身と出戻りとなって清吉に詫びながら暮らしていた。秀太が扮した証人を殺すよう盗賊の頭に命ぜられた清吉は、その後で自分も殺されることを知らず、実行に移そうとする。すんでのところで助けられた清吉に、兵七郎は、「娘が蚊遣り火を焚いていたのは、お前との思い出をかみ締めていたんじゃないか」と話す。清吉は転がるように松幡橋を渡って娘の下に急ぐ。

舞台は八丁堀の南端辺り、現在は首都高速となっている楓川に掛かっていた松幡橋を西に進むと有楽町駅と東京駅の中間、東京フォーラムと東京ビルの間ぐらいに出ます。

楓川の埋め立てが終わったのは昭和40年だそうですが、注意してみれば川だったころの石垣が今もあるそうです。中央区図書館HPの地域資料の中から、昭和初期の楓川と松幡橋の写真を見ることができます。楓川の幅の広さに驚かせられます。

2話「秋茜」

出世のための賄賂を稼ぐため、自分の屋敷に賭場を開いている悪徳火盗改めを懲らしめる話とふしだらな母親と子供、父親代わりの元母親の客の絆を取り戻す話があざなえられた物語。最後に、赤とんぼが前後左右にもつれるように飛ぶように、3人の親子が去っていく。

3人が最初に出合うきっかけとなったのはま小名木川が大川から分岐してすぐのところにある万年橋。橋の南側で女郎となっている母親は、子供にその橋を決して渡るのではないといい、子供は橋の上で母親の帰りを待っていた。

以前、地下鉄の森下駅から、深川神明宮、芭蕉記念館、大川沿いの遊歩道、芭蕉稲荷の前を通って万年橋を渡り、深川江戸資料館を見て、清澄白河駅まで歩いたことがありました。時代小説に出てくるいくつかのスポットが集中的にあるエリアでありますが、コンクリートで固められた川、町工場など風情があるとは言えない景色でした。その中で、昭和5年に作られたトラス橋、万年橋はいい雰囲気を醸し出していました。

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第3話「ちろろ鳴く」

信州の山奥の貧しい村から出てきたおふさは薬種問屋の女中になり、役者買いに走る問屋の妻に使用人扱いされる夫に同情し、妾となる。その妻の折檻をおそれ、おふさのところに来ていた5歳の女児が死体で発見される。同じ村から出ていた男は盗賊となり、仲間と薬種問屋に押し入ろうとするが捕縛される。女児は妻に捨てられた役者が復讐のために殺したことが明らかになる。おふさは一緒になろうという石工を振り切り、江戸で翻弄された気持ちを癒すように信州へ帰る。ちろろ、こおろぎの鳴く村へ。

自分のせいで女児が死んだのではないかと思っていたおふさは、水死したこの供養のため比丘尼橋の袂に建てられたお地蔵さんに手を合わせていた。

比丘尼橋は外濠から分かれた京橋川の最初の橋で、現在の有楽町駅の東南、首都高西銀座入り口付近にありました。昭和になって、城辺橋と改名され、交差点の名前になっています。有名な歌川広重が幕末安政の大地震の直後に復興を祈念して書いたといわれる名所江戸百景という118枚の浮世絵の中に比丘尼橋が描かれています。このシリーズはゴッホなどに影響を与えたことでも有名です。

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山くじらはいのししなどの獣肉、○やきはさつまいも、天秤棒を担いでいるのは蕎麦屋と思っていたらおでん屋だそうです。雪の中ではおでん屋の方が説得力があります。

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