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大戦前の静けさの中で・・・[ポスト震災を生き抜く]

2012年01月01日 23時26分11秒 | Weblog
大戦前の静けさの中で・・・[ポスト震災を生き抜く]
(日刊ゲンダイ)より

五木寛之

昨年(2011年)、若く美しいブータン国王と王妃の来日が大話題になった。

熱狂的な追っかけファンもいたらしい。

一時はマスコミが集中豪雨的な報道をして、テレビにも連日その映像があふれた。

そのブームは、私たち日本人がいかに幸福感に飢えているかを如実に反映している。

いいかえれば、自分たちはいま幸せではない、と国民が感じているのだ。

国民総幸福度などという古風な言葉が再登場してくるのも、そのせいだろう。

いまこの国は崖っぷちに立たされている、と識者は口をそろえていう。

たしかにその通りかもしれない。

財政の現実を見ても、政治の混乱を見ても、出るのはため息ばかりだ。

東日本をおそった未曽有の大災害は、原発事故とともに、この国全体に深刻なダメージをあたえた。

その後遺症は、今後何世紀にもおよぶにちがいない。

しかし、それでいながら、いま私たちの周囲に漂っている奇妙な脱力感はなんだろう。

そこには絶体絶命の危機から、必死で逃げだそうとする切迫感がまるでないのである。

無力感というか、あきらめというか、そんな投げやりな気配が沼のように広がっているのだ。

年金をカットするといわれれば、仕方がないと思う。

税金を上げるといわれれば、肩をすくめてそれにしたがう。

いま、この国は台風の眼のような無風状態の中にあるのではないか。

問題は山積しながら、ただちに転覆する実感はない。

先進諸国は、いま世界恐慌の不安におびえつつ、サーカスの綱渡りをつづけている。

戦争という禁じ手は、そうそうは使えない。

ホット・ウォーからコールド・ウォーへ、そして残るはソフト・ウォーのみだ。

その見えない戦争の火元は、貧困でもなければ石油紛争でもない。

人びとの間に泥沼のように広がる不幸(ふしあわ)せ感である。

格差を感じる。不幸感、孤独感をおぼえる。

日常的に醗酵するメタンガスのような幻滅感、失望感、差別感が発火点となるだろう。

私たちはいま、大戦前夜に生きている。

その嵐の前の静けさの中で、進みゆく事態に気づかないふりを続けているだけだ。

しかし、いつまでも気づかないふりをしているわけにはいかない。

せめて、その時がきたときに、あわてふためくことのないよう覚悟をきめておく必要があるのではないだろうか。

これが杞憂であれば幸(さいわ)いだ。

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