天声人語に垣間見る知米家と知日派の風景・・・(永田町異聞)より
なぜ、日本のマスメディアが米国追随の論調を展開するのか、その謎を1月22日の朝日新聞「天声人語」で垣間見たような気がした。
まずはこの書き出しを読んでほしい。
知米家で知られる先輩記者の松山幸雄さんが、かつて米国の大学で学生らに話をした。
日本の「企業ぐるみ選挙」の説明をすると、「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」と質問され、恥ずかしい思いをしたそうだ。
▼その松山さんが、「米国の知日派の会合で『小沢一郎氏の力の源は何か』と聞かれるのが一番困る」と言っていた。
米国の大学で学生の質問にたじろぎ、小沢一郎氏に関する米知日派の問いに困惑する。
そんな親米ジャーナリスト像をこの記事は浮かび上がらせる。
しかも、質問の内容はさほど難しいものではない。
まず学生の質問。
企業ぐるみの選挙について、学生が「政治学というより文化人類学の領域ではないのか」としたり顔に問う。
「いい質問だ。ところで君の名は?」とでも言えばいい。
そして、筆者ならこう答える。
「政治学も文化人類学も枝分かれしているが、根っこは同じ社会科学だ。そうだろ?」
恥ずかしい思いの原因が、学問的分類の問題ではなく、企業ぐるみ選挙を生んだ日本の社会風土にあるのだとしたら、こう続ける。
「やれ政治学者、文化人類学者だと同じ社会科学が専門的に分化して学界を形成し、相互のコミュニケーションがなくなるように、日本ではあらゆる組織がタコツボ化して、仲間共同体に閉じこもる傾向が強いんだよ。
ウチの人間は組織まるがかえで面倒みるというわけさ。
そういう意味では、マイク、君の言うように、政治学の範疇ではとらえきれない世界だね」
次に、知日派の質問。
「小沢一郎氏の力の源泉は何か」である。
天声人語氏は松山氏を代弁して、答えに窮する理由を次のように書く。
思想的な牽引(けんいん)力があるわけではない。
演説は下手。
時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話――。
それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい。
▼たしかに、納得させる答えは難しそうだ。
筆者なら米国の知日派にこう答える。
「小沢氏の力の源泉は、日常の尊さを若い議員たちに教えているところにあります。
これは、ご承知のZen(禅)に通じるものだと思います。
たとえば、理屈をこねずにやるべきことをやる。
歩きまわって、声を張り上げ、人の手を握る。
毎日毎日、その『行』を繰り返すことにより、人間としての血肉がつくられていくことを体得すれば、人としても政治家としても一人前になる。
エリート意識の強い受験秀才ほど、必要なことです」
これに納得してくれるかどうかは、相手のZenへの理解度にかかっている。
多くの日本人ジャーナリストのように小沢流を選挙至上主義と矮小化するか、自分への執着心を解き放ち、外に目を向けるための「行」であると解釈するかによって、小沢思想への評価は天地の差がある。
ところで、文芸春秋2月号に、米知日派の代表格といえる、リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ両氏へのインタビュー記事が掲載されている。
このなかで、アーミテージ氏は小沢一郎氏についてこう語っている。
「小沢氏に関しては90年代前半、まだ自民党に所属していた頃に二国間よりも国連による活動に執心していたことをよく覚えています。
当時は小沢氏を『反米』とは思いませんでした。
まあ、今は恐らく、『反米』と思わざるをえませんがね。
なんらかの理由もあって、考えが固くなってきたのかもしれません。
彼は言うならば、ペテン師ですね」
小沢氏を「反米」ととらえているところが、ある意味で興味深い。
この理解不足がどこから来たのかという意味においてである。
その種明かしをしてくれるのが、きょう取り上げた天声人語である、と筆者は思う。
知米家とされる日本人と、知日派とされる米国人の会合のなかで、米国からの情報を飯のタネとする日本人知米家が、米国側に迎合して機嫌をとるという風景がこの一文からわれわれの脳裏に広がってくる。
これでは、日米間の誤解が増幅して、外交はすれ違い、停滞するはずである。
なぜ、日本のマスメディアが米国追随の論調を展開するのか、その謎を1月22日の朝日新聞「天声人語」で垣間見たような気がした。
まずはこの書き出しを読んでほしい。
知米家で知られる先輩記者の松山幸雄さんが、かつて米国の大学で学生らに話をした。
日本の「企業ぐるみ選挙」の説明をすると、「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」と質問され、恥ずかしい思いをしたそうだ。
▼その松山さんが、「米国の知日派の会合で『小沢一郎氏の力の源は何か』と聞かれるのが一番困る」と言っていた。
米国の大学で学生の質問にたじろぎ、小沢一郎氏に関する米知日派の問いに困惑する。
そんな親米ジャーナリスト像をこの記事は浮かび上がらせる。
しかも、質問の内容はさほど難しいものではない。
まず学生の質問。
企業ぐるみの選挙について、学生が「政治学というより文化人類学の領域ではないのか」としたり顔に問う。
「いい質問だ。ところで君の名は?」とでも言えばいい。
そして、筆者ならこう答える。
「政治学も文化人類学も枝分かれしているが、根っこは同じ社会科学だ。そうだろ?」
恥ずかしい思いの原因が、学問的分類の問題ではなく、企業ぐるみ選挙を生んだ日本の社会風土にあるのだとしたら、こう続ける。
「やれ政治学者、文化人類学者だと同じ社会科学が専門的に分化して学界を形成し、相互のコミュニケーションがなくなるように、日本ではあらゆる組織がタコツボ化して、仲間共同体に閉じこもる傾向が強いんだよ。
ウチの人間は組織まるがかえで面倒みるというわけさ。
そういう意味では、マイク、君の言うように、政治学の範疇ではとらえきれない世界だね」
次に、知日派の質問。
「小沢一郎氏の力の源泉は何か」である。
天声人語氏は松山氏を代弁して、答えに窮する理由を次のように書く。
思想的な牽引(けんいん)力があるわけではない。
演説は下手。
時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話――。
それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい。
▼たしかに、納得させる答えは難しそうだ。
筆者なら米国の知日派にこう答える。
「小沢氏の力の源泉は、日常の尊さを若い議員たちに教えているところにあります。
これは、ご承知のZen(禅)に通じるものだと思います。
たとえば、理屈をこねずにやるべきことをやる。
歩きまわって、声を張り上げ、人の手を握る。
毎日毎日、その『行』を繰り返すことにより、人間としての血肉がつくられていくことを体得すれば、人としても政治家としても一人前になる。
エリート意識の強い受験秀才ほど、必要なことです」
これに納得してくれるかどうかは、相手のZenへの理解度にかかっている。
多くの日本人ジャーナリストのように小沢流を選挙至上主義と矮小化するか、自分への執着心を解き放ち、外に目を向けるための「行」であると解釈するかによって、小沢思想への評価は天地の差がある。
ところで、文芸春秋2月号に、米知日派の代表格といえる、リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ両氏へのインタビュー記事が掲載されている。
このなかで、アーミテージ氏は小沢一郎氏についてこう語っている。
「小沢氏に関しては90年代前半、まだ自民党に所属していた頃に二国間よりも国連による活動に執心していたことをよく覚えています。
当時は小沢氏を『反米』とは思いませんでした。
まあ、今は恐らく、『反米』と思わざるをえませんがね。
なんらかの理由もあって、考えが固くなってきたのかもしれません。
彼は言うならば、ペテン師ですね」
小沢氏を「反米」ととらえているところが、ある意味で興味深い。
この理解不足がどこから来たのかという意味においてである。
その種明かしをしてくれるのが、きょう取り上げた天声人語である、と筆者は思う。
知米家とされる日本人と、知日派とされる米国人の会合のなかで、米国からの情報を飯のタネとする日本人知米家が、米国側に迎合して機嫌をとるという風景がこの一文からわれわれの脳裏に広がってくる。
これでは、日米間の誤解が増幅して、外交はすれ違い、停滞するはずである。
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