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中世より、途絶える事無く「巡礼者」達に希望の光を与え続けて来た『シャルトル大聖堂』【日曜フォトの旅】

2012年04月09日 08時55分10秒 | Weblog

中世より、途絶える事無く「巡礼者」達に希望の光を与え続けて来た『シャルトル大聖堂』【日曜フォトの旅】

(晴れのち曇り、時々パリ)より

世が乱れに乱れる程、人々は「魂の救済」を求める。

物質的に希望が持てない以上、魂だけでも救われたい。。。


百年戦争と、ペストの大流行に晒された中世ヨーロッパにおいて、人々は「巡礼」に魂の救済を賭けた。


     
     シャルトルの『ノートル・ダム大聖堂』



ある特定の宗教の信者達が、その宗教の「聖地」を訪れて、宗教経の忠誠心の証とする行為を、巡礼と呼ぶ。

『イスラム教』と『ヒンドゥー教』とは、21世紀の今日でも巡礼は「欠かせない行為」として、盛んである。

日本でも、「お遍路さん」と呼ばれる巡礼者達が、『弘法大師』の足跡を辿って札所巡りをする事は、今でも行われている。

菅直人の様な、醜いパフォーマンスは問題外であるにしても…。



キリスト教徒にとって、最も巡礼に行きたかった所は、勿論パレスティナであった。

マリアが「神の子」を宿した土地。
イエスが誕生した土地。
イエスが、苦しみ、悩んで、、厳しい所行の末「悟り」を開いた土地。
その教えを、皆に伝え始めた土地。

そのイエスが処刑された土地。
イエスが復活した土地。
マリアが葬られた土地。

パレスティナの中心都市は「エルサレム」。

しかし。

その後興ったイスラムの土地になってしまった。

異民族の支配する、異教徒の土地などに、行き様が無い。


しからば、イエスが最後に残った11人の弟子の一人に「教団を築き、教会を建てよ」と後を託した、『ペテロ』の葬られし「ローマ」に。

しかし、イタリア人以外がローマに行く為には、「アルプス」を越え無ければならない。

2000メートルの峠は、越えられない。

(そこを越えんとして遭難する巡礼者達の救済制度を造り上げたのが、聖ベルナールである)


それでは。

アルプスを越えずに行ける所は。


イエスの12人の弟子の一人「ヤコブ」の遺体が流れ着き、葬られた北西スペイン。

「聖ヤコブの葬られし荒地」即ち『サン・チャゴ・デ・コンポステーラ』なら。

アルプスより低い「ピレネー」ならば、必死で越えて行けるのでは無かろうか。


という訳で、13世紀位になると全欧から「サンチャゴ詣で」が隆盛を極めた。


「聖ヤコブの祝日」7月末。

その日に、サンチャゴに到着していられる様に逆算して、全欧からフランスの5カ所の町に集結し、ピレネー目指して歩いた。

途中の様々な「修道院」や「教会」に立ち寄って、そこが持つ「聖遺物」におまいりしながら、5本のルートが4本に、それが3本にと集まり、最後に2カ所の峠でピレネーを越え、北スペインに入った。

ピレネーに近いそのルート上には、多くの古寺名刹があり、スペイン側も含めて全体で<世界遺産>に登録されて居る。


パリに集結した巡礼者達は、南を目指し2泊目でシャルトルに着いた。

パリの南西部には、首都圏を出る頃から宏大な穀倉地帯が広がる。

『ボース平野』という。

間道を歩き、目の届く限り続く限りの「黄金色」の麦の穂並みの前方に、カテドラルの尖塔が見え始め、やがて麦畑の先に「巨大な大聖堂」が姿を表す。


     
     シャルトル大聖堂「ノートル・ダム・ド・シャルトル」の後陣


こんな感じで見えて来た訳だ。

何しろ、何処の町でもその町で一番大きな建物は教会である。

遠くからでも、先ず教会が見え始める。



ここシャルトルは、『マリア伝説』が二つある。


その内の一つ。

この地は、10世紀頃から当時の教会堂の「地下祭室」に祀られたマリアを詣でる巡礼者達が訪れ、千年代には当時のロマネスク様式としてはかなりの大規模な「カテドラル」が建っていた。

11世後半、時の大司教『フュベール神父』が建立したその大聖堂は1世紀も経たずに、1194年に消失する。


その焼け跡を整理していたら、天井のアーチの石が崩れ落ちていた下敷きになって、「マリア」を表したステンドグラスが、全く無傷で出て来たのだ。

1000度にも達する火災の炎にも溶けず、崩れお落ちた石に割れもせず。

「これは奇跡だ!」

「一刻も早く大聖堂を再建して、この奇跡のステンドグラスを奉祀しなければならない!」


     
     奇跡のマリアのステンドグラス


中央の、ブルーがやや薄い三枚である。


この明るいブルーを「シャルトル・ブルー」と呼ぶ様になった。

余裕の有る物は資金を、余裕の無い物は労力を、総ての町人が挙って力を合わせて、僅か25年で完成させてしまう。

技術革新をもたらした、パリのノートル・ダムを着工して30年後。

新技術「ゴシック」を用いて、パリが完成するよりうんと早く。

従って、パリ周辺で誕生する「ゴシック建築」の技術的完成期の前に出来上がってしまう為、まだ繊細さ等に欠ける面が有るが、逆にゴシックの垂直生を確立したり、天井の負荷を受けて外部で吸収する「飛び梁」の技術的SHんぽなど、大きな貢献をしている。



     
     西側正面ファサード


正面の横幅に比べて、三カ所のポルタイユ(入り口)が中央部に固まっているのは、消失した前のカテドラルの正面の壁面だけ焼け残って、それを利用したからである。


     
     小円柱の装飾も、ロマネスク的幾何学模様が使われている


     
     日時計を持つ天使



大聖堂の中は、「色と光」の交響曲である。

ステンドグラスは、色ガラスの破片を繋いで、絵柄を表す。

文字の読まなかった大衆に、当時の知識を総てを包含し、この世の成り立ちから世界のあらゆる法則を教える、目的を持つ。

<赤>は金。
<青>はコバルトの酸化物「コバルト紫金石」

ゴシックの教会建築の変化の、派生領域として生まれるステンドグラスは、13世紀前半が、最盛期で、その時のものが最も美しい。

原料のコバルトの純度の変化。
原料の金を使えなくなる経済環境の変化。
ガラスの作り方の進歩。
社会の構造の変化。

それらが、構造的に13世紀半ばに一度に集中し、比較の上で美しさを失わせて行った。

その、最盛期のステンドグラスが、全壁面を飾っている。



      


      


      


      



ステンドグラスを制作する事は、非常に特殊な技術が必要で、大変に高価な物であった。

従って、シャルトルの町の経済を仕切っていた、経済的に恵まれた職業の「ギルド」が、一面ずつ奉納した。

そこで、「提供元」が分る様に、隅にその職業を表す絵柄が付け加えられたりしたらしい。


     
     蹄鉄職人の仕事ぶりを表した絵柄


右下では、鉄を鍛えている職人の仕事の風景。

その左、画面中央は白馬に「蹄鉄」を打ち付けている、職人の光景が描き出されている。


ところで「ステンドグラス」と言えば、やはり『薔薇窓』でろう。

お花の如くに丸くて、薔薇の大輪の様に艶やかである所から、丸い大きなステンドグラスの窓を、俗に「バラ窓」と呼ぶ様になった。



     
     南のバラ窓


     
     北のバラ窓


それぞれ直径が13メートル程も有る。

ちなみに、西側中央の入り口の上の薔薇窓は、その下の三列の縦長の窓と対を為してひと際素晴らしい。


     
     西正面のバラ窓


700年上の誇りと汚れで真っ黒であったこれらのステンドグラスは、ここ20年程かけて、順番に現れて、色と輝きを取り戻した。

しかし、汚れによる保護膜が無くなった事で、今日の大気汚染と酸性雨とで、逆に痛み始めていて、保存方法は無い。

この正面の縦の三面は、表面をごく薄いプラスティックでコーティングして、空気との接触を断った。

しかし逆に、光が透過する際に入射と出射の際の微妙な屈折を起こし、それが微弱ながら熱を発生させるため、この方法も諦められている。



中央祭壇と、聖書の書架は以外とモダンなデザインの物が使われている。


     
     中央祭壇


     
     聖書用の書架



この、シャルトルの大聖堂の身廊部の床に、『迷路』文様が残っている。


     
     床の「迷路」


これは、巡礼者達が「イエスの苦しみ」を追体験するため、膝で歩いた迷路で、直径15メートルくらいな物であるが、全長200メートルもの距離を、膝でにじり歩く事となる。

膝は血まみれで、その苦しみを、自らが架けられる十字架を背負って「ゴルゴダの丘」を登らされたイエスの苦しみの、僅かな追体験となった。

昔は各地の大聖堂に有ったらしいが、現存するのは、ここだけとなっている。


更に特筆すべき事は、この大聖堂に有る、特別な宝物である。

それは、何を隠そう『聖母マリアのヴェール』と信じられている布である。


ルイ9世が、第七回十字軍を挙行し、イスラムに滅ぼされかかっていた『ビザンチン帝国』を救った。

その感謝のしるしとして、時のビザンチン皇帝が、ルイ9世に『イバラの冠』を贈った。

それを奉納するため、ルイ9世が時の王城の中庭に建てた礼拝堂が、今日ステンドグラスが「世界で一番美しい」と言われる『サント・シャペル』である。

なお、この『荊の冠』は、パリのノートル・ダム大聖堂が保管している。


     
     イエスが被せられた『荊の冠』の巡幸


今日は、実は復活祭であった。

その前の金曜日、イエスが処刑された日に、パリのノートル・ダムで「荊の冠」の一般公開が行われた。


それと時を同じくして、ビザンチン皇后が、ルイ9世の妃にプレゼントされた物が、『マリアのヴェール』である。


     
     『聖母マリアがかぶったと言われて来たヴェール』


信じるも信じないも「イワシの頭」であるが。

このヴェールを包んで来た「ビザンチン皇后の布」も保存してあって、そちらはぼろぼろになっている。

マリアのヴェールは、やや黄ばんでいる物の、まっさらの木綿地に見える。


今なお、ここは巡礼者達が訪れる。

10世紀以来の、巡礼が典礼を行った「地下祭室」である『ノートル・ダム・スー・テール(地下の聖母礼拝堂)』も、今日も訪れる事が出来る。


     
     『ノートル・ダム・スー・テール』への階段と扉。



このシャルトルの町は、ユール川という川が蛇行し、馬蹄形になって囲む内側に出来ている。

旧市街の川岸は、かって「なめし革職人」達のアトリエが並んで居た。

剥がしたばかりの生皮を洗う為に、川岸に工房を建てたのだ。


今では、普通の民家になっているが、直接船がつけられる様になっている。



     
     ユール川沿いの家並


     
     自家用船



町の市場は、日曜の朝は活気がある。



     
     昔からの公設市場


今の市場の建物は、19世紀末、エッフェル塔以来「鉄」が建造物の材料になって来た頃の典型的な構造である。


     
     牡蠣を売る店


旧市街は、木の柱と梁の15世紀ないし17世紀の民家も残っていて、とても美しい。

とある通りで、面白い物を見つけた。

路上に置いた手押し車の様な物に、野菜が大盛りに飾ってある。


     
     野菜大盛りの手押し車


八百屋の看板であった。


     
     八百屋さんと看板の手押し車


このシャルトルで、アンリ4世が戴冠式を挙げた。

宗教戦争の終盤、新教徒のリーダーであった、フランス王家の筆頭親族「ナヴァーラ王国」(スペイン国境ピレネー)のアンリは、フランスを継ぐ事になり、反対勢力を排除しながらパリを目指した。

あと100キロで、前進不可能となった。

フランス王として戴冠するには、シャンパーニュの首都「ランス」のカテドラルで行う事がしきたりであったが、彼はランスまで行くには多くの時間と犠牲とを払う事になると感じ、ここシャルトルでカトリックに改宗して戴冠式を挙行した。

それ以上の内戦での国力の疲弊を避けるる為に。

歴代国王に中で、ランスで戴冠しなかった王は二人だけ。

その内の一人は、赤児の内に死んでしまった。


実際「統治」した国王で、唯一ランスで戴冠しなかったアンリ4世が起こした野が『ブルボン王朝』である。

彼が、ルイ14世の祖父である。



世の有様乱れに乱れ、人心は荒廃し、徳も礼節もかなぐり捨てた、見苦しき悪鬼の如き者達が跋扈する、現在の我が日本こそ、民衆を導く「光明」が求められて居るのでは無かろうか。



シャルトルは、パリから車で1時間。

是非、一度は訪れて欲しい町である。

大聖堂が「世界遺産」である事は、言うまでもない。

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