いじめる生徒が増えている
(ひょう吉の疑問 )より
いじめられるのは1人、いじめるのは4~5人。
いじめられる側よりも、いじめる側の人間が多い。
他の多くの生徒は中立かというと、そんなことはない。
今のいじめはクラス全体が絡んでいたりする。
そうなると、いじめられるのは1人に対して、いじめる側の数は数十人となる。
誰がいじめたのか、加害者を特定するときも、
互いに『自分ではない』と責任を転嫁することが多い。
加害者の親と話しても『うちの子は何もしていないのに、
なぜうちの子が責められるのか』ということになる。
これ以上学校が責任を追及すると、人権問題になる。
『疑わしきは罰せず』、これが捜査の基本。
それなら『疑わしき』から『確たる証拠』を掴めば良いではないかという話しになる。
しかしこうなると、学校は警察になる。
しかし学校にはその法的権限もノウハウもない。
仮に学校が警察と同じような捜査をしたとしても、
今のように学校が社会の信用を失っている現状では、
そのことに対して誰もが疑いの念を持つ。
いじめ対策に関しては、誰もが総論賛成である。
しかし国民の多くは実は加害者側に立っている人が多い。
そのことに多くの親が気づいていない。
そしていざ自分が加害者側の立場で追求されると、
必ず『うちの子はそんなことはしていない』ということになる。
これ以上の責任追及を学校が行った場合、その法的根拠は何なのか、
学校は犯罪捜査の権限を与えられていない。
権限のないことを学校が行えば、そのこと自体が犯罪行為になる恐れがある。
冤罪が発生する恐れがある。
証拠徴収能力にも限界がある。
『加害者の人権』という法的壁がある。
学校がいじめをなくそうとしても、いじめがなくならなかったということは当然ある。
学校がいじめに荷担した場合を除いて、
いじめの当事者はいじめた側の子どもとその親権者の問題である。
それに付随して学校の管理責任が問われることになる。
学校はある一定ラインまでいじめ捜査を行うことができるが、
それには法的限界がある。
いじめは教育問題の範疇を超えて、犯罪形態の問題になっている。
教科指導と犯罪捜査、この二つは水と油の関係にある。
教科指導に能力を発揮する有能な教師が、犯罪捜査の点でも有能かというと、
両者を兼ね備えている教師はごくまれで例外的である。
しかし日本には犯罪捜査の能力によって採用されている機関がある。
それが警察である。
いじめは犯罪である。
いじめを甘く見ないほうがよい。
素人が解決できるほど単純ではない。
いじめは必ず、被害者と加害者双方の言い分を聞かねばならない。
そして必ずと言っていいほど両方の言い分は異なる。
その時点で犯罪捜査に切り替わるべきなのだ。
これは学校の対応の問題ではない。
学校の法的権限の問題である。
学校がこれ以上のことを行えば学校ではなくなる。
万引きをした生徒が悪い、そんな単純なことではない。
万引きをした生徒は万引きをさせられた可能性がある。
主犯格は別にいることが多い。
その主犯格の生徒は自分が万引きをした場合、
その取った物品を他の生徒に分け与えて、共犯に仕立てる。
一度そのグルー部に入ってそこから抜けようとすると、陰湿ないじめが待っている。
気に入らない生徒をみんなで無視するということもある。
そういうクラス内の合意、又は部活内の合意は、
携帯メールを使えば一瞬のうちになされる。
次の日に学校に来てみたらクラスの雰囲気や部活の雰囲気が
違っていたということがある。
それを仕掛けたのが誰なのかは分からない。
生徒の携帯を見れば良いではないか、そんな権限は学校にはない。
見れたとしてもメールは消されている。
スリッパを隠す、机に『死ね』と落書きをする、机と椅子を廊下に出す、
教科書やノートに落書きをする。
すべて誰の仕業なのかわからないという形でいじめは起こる。
見張れば良いではないか、と単純に言う人がいる。
人が見ているところでそんなことをする生徒がいるわけがない。
学校内、そして学校外のいじめは、警察でなければ捜査できない段階まで来ている。
文科省が『他人の気持ちになって行動しましょう』という従来の姿勢から、
『他人と違う自分が一番大切』という『個性重視』の教育に変化してから、
確実に『いじめ』は増えている。
この傾向は今後も続くだろう。
自分の子どもが実はいじめる側であることを知ったとき、多くの保護者は、
今回の大津市のいじめ問題に、警察が直接介入したことをどう受け止めるであろうか。
子どもの劣化は予想以上に進んでいる。
文科省が、『受験競争』『学力問題』『エリート教育』『個性尊重』
などにあぐらをかいている間に、
日本の子どもの人格形成がメチャクチャにされている。
今の子どもたちの人格形成は、多かれ少なかれ破壊されているということに
目を向けるべきだ。
彼らにとっては『おもしろいからいじめている』だけだ。
文科省のいうように『自分が一番大切』であれば、それも当然となる。
(ひょう吉の疑問 )より
いじめられるのは1人、いじめるのは4~5人。
いじめられる側よりも、いじめる側の人間が多い。
他の多くの生徒は中立かというと、そんなことはない。
今のいじめはクラス全体が絡んでいたりする。
そうなると、いじめられるのは1人に対して、いじめる側の数は数十人となる。
誰がいじめたのか、加害者を特定するときも、
互いに『自分ではない』と責任を転嫁することが多い。
加害者の親と話しても『うちの子は何もしていないのに、
なぜうちの子が責められるのか』ということになる。
これ以上学校が責任を追及すると、人権問題になる。
『疑わしきは罰せず』、これが捜査の基本。
それなら『疑わしき』から『確たる証拠』を掴めば良いではないかという話しになる。
しかしこうなると、学校は警察になる。
しかし学校にはその法的権限もノウハウもない。
仮に学校が警察と同じような捜査をしたとしても、
今のように学校が社会の信用を失っている現状では、
そのことに対して誰もが疑いの念を持つ。
いじめ対策に関しては、誰もが総論賛成である。
しかし国民の多くは実は加害者側に立っている人が多い。
そのことに多くの親が気づいていない。
そしていざ自分が加害者側の立場で追求されると、
必ず『うちの子はそんなことはしていない』ということになる。
これ以上の責任追及を学校が行った場合、その法的根拠は何なのか、
学校は犯罪捜査の権限を与えられていない。
権限のないことを学校が行えば、そのこと自体が犯罪行為になる恐れがある。
冤罪が発生する恐れがある。
証拠徴収能力にも限界がある。
『加害者の人権』という法的壁がある。
学校がいじめをなくそうとしても、いじめがなくならなかったということは当然ある。
学校がいじめに荷担した場合を除いて、
いじめの当事者はいじめた側の子どもとその親権者の問題である。
それに付随して学校の管理責任が問われることになる。
学校はある一定ラインまでいじめ捜査を行うことができるが、
それには法的限界がある。
いじめは教育問題の範疇を超えて、犯罪形態の問題になっている。
教科指導と犯罪捜査、この二つは水と油の関係にある。
教科指導に能力を発揮する有能な教師が、犯罪捜査の点でも有能かというと、
両者を兼ね備えている教師はごくまれで例外的である。
しかし日本には犯罪捜査の能力によって採用されている機関がある。
それが警察である。
いじめは犯罪である。
いじめを甘く見ないほうがよい。
素人が解決できるほど単純ではない。
いじめは必ず、被害者と加害者双方の言い分を聞かねばならない。
そして必ずと言っていいほど両方の言い分は異なる。
その時点で犯罪捜査に切り替わるべきなのだ。
これは学校の対応の問題ではない。
学校の法的権限の問題である。
学校がこれ以上のことを行えば学校ではなくなる。
万引きをした生徒が悪い、そんな単純なことではない。
万引きをした生徒は万引きをさせられた可能性がある。
主犯格は別にいることが多い。
その主犯格の生徒は自分が万引きをした場合、
その取った物品を他の生徒に分け与えて、共犯に仕立てる。
一度そのグルー部に入ってそこから抜けようとすると、陰湿ないじめが待っている。
気に入らない生徒をみんなで無視するということもある。
そういうクラス内の合意、又は部活内の合意は、
携帯メールを使えば一瞬のうちになされる。
次の日に学校に来てみたらクラスの雰囲気や部活の雰囲気が
違っていたということがある。
それを仕掛けたのが誰なのかは分からない。
生徒の携帯を見れば良いではないか、そんな権限は学校にはない。
見れたとしてもメールは消されている。
スリッパを隠す、机に『死ね』と落書きをする、机と椅子を廊下に出す、
教科書やノートに落書きをする。
すべて誰の仕業なのかわからないという形でいじめは起こる。
見張れば良いではないか、と単純に言う人がいる。
人が見ているところでそんなことをする生徒がいるわけがない。
学校内、そして学校外のいじめは、警察でなければ捜査できない段階まで来ている。
文科省が『他人の気持ちになって行動しましょう』という従来の姿勢から、
『他人と違う自分が一番大切』という『個性重視』の教育に変化してから、
確実に『いじめ』は増えている。
この傾向は今後も続くだろう。
自分の子どもが実はいじめる側であることを知ったとき、多くの保護者は、
今回の大津市のいじめ問題に、警察が直接介入したことをどう受け止めるであろうか。
子どもの劣化は予想以上に進んでいる。
文科省が、『受験競争』『学力問題』『エリート教育』『個性尊重』
などにあぐらをかいている間に、
日本の子どもの人格形成がメチャクチャにされている。
今の子どもたちの人格形成は、多かれ少なかれ破壊されているということに
目を向けるべきだ。
彼らにとっては『おもしろいからいじめている』だけだ。
文科省のいうように『自分が一番大切』であれば、それも当然となる。
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