現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

古田足日「「ふしぎの国」に旗はひるがえるか」児童文学の旗所収

2021-07-01 15:52:44 | 参考文献

 1970年に出版された著者の第三評論集の序章で、この文章自体は1964年に書かれています(評論集自体は、1960年代に書かれた著者の論文をまとめたものです)。
 ここでいう「ふしぎの国」は1964年当時の日本の状況であり(文中にルイス・キャロル「ふしぎの国のアリス」が出てくるので、この言葉を選んだものと思われます)、「この日本の現在は非常識きわまりない世界である」という著者の認識を反映しています。
 そして、「旗」は弔旗のことで、「敗北の日本をいたむ弔旗」(戦争に負けた日に弔旗がかかげられなかったことを指します)、「三池、鶴見の死をいたむ弔旗」(三井三池炭鉱と国鉄鶴見線の事故で多数の死者が出ても、大企業の原理が優先されたことを指します)、「つらなる工場にひるがえる弔旗」(「大企業の原理」に対して、働く者たちの「人間の原理」が勝利することを意味します)の三本です。
 このタイトルでも明確なように、この児童文学評論は、著者の政治的な立場を明確にしたうえで展開されています。
 他の記事でも書きましたが、「現代児童文学」は、過去の児童文学の価値観を明確に否定する文学運動としてスタートしました。
 そして、そのうちのひとつである「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派(早大童話会(宣言の直後に早大少年文学会に改名)のメンバーが中心)にとっては、文学運動であると同時に政治運動でもありました。
 そのため、この文章もまた、文学評論であるとともに政治評論でもあります。
 60年安保闘争の革新側の敗北による挫折感や、高度成長時代の社会の様々なひずみなどが、著者の評論の背景にあります。
 この文章の中で、著者は「子ども」をほとんど「あるべき未来を享受すべき者」と等価に使っています。
 どうしたら、「「子ども」たちに「ふしぎでない」未来を手渡せるか、そのために児童文学者ができることは何か」という問いかけが、その根底にはあります。
 それは、ナチス弾圧下のエーリヒ・ケストナーが、児童文学や子どもたちに抱いていた思いに重なるものがあります。
 著者の思想の是非は別として、こうした確固たる理念を持って児童文学に取り組んでいる人間は、残念ながら現在では見当たりません。
 児童文学研究者の宮川健郎は、「現代児童文学」は「戦争」を描くために散文性が必要だったと述べていますが、他の記事にも書きましたが、「現代児童文学」が「戦争」を描くのはあくまでも手段の一つ(ここで言えば三本の弔旗のうちの一本)にすぎず、彼らが本当に描きたかったのは階級闘争とその勝利だったのです。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
クリエーター情報なし
理論社

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