「21世紀に、はたして児童文学が生き残るであろうあろうか?」という刺激的なテーマの論文です。
「「児童文学」は、「子ども」の消滅と連動するか、否か。あるいは、「児童文学」と「子ども」との不可分に見える関係は、今後とも維持され得るのか、否か。」と、本田は問いかけます。
「子どもの発見」と「近代文学の誕生」により成立した「児童文学が、こうして、「子ども」と「文学」の申し子であってみれば、現在の児童文学の衰退現象は、子どもの消滅と連動し、同時に、文学の衰弱と結び付く。」と指摘しています。
「児童文学」は、文学が「モノ化」され、ひいては「商品化」される動きに連動する」ことにより、かつて「語り手」と「聞き手」が一体化していた「物語の世界」を、「本」という媒体による「作者」と「読者」という間接的な関係にしました。
さらに、「過剰なまでに教育的であったこの世紀は、子ども読者と本の間に、「良書推薦人」とでもいうべき善意の大人たちを介在させている。彼らの大方は、本好きの、あるいは、子どもに本を読ませることを重要と考える親や教師なのだが、結果として、そうした人々の選択眼を経、彼らの基準に適った物語群だけが子どもの世界に送り込まれることになった。」と、「子ども」と「本」との間の媒介者の存在に言及し、「子ども」と「物語」の間をさらに隔てていることを指摘しています。
以下に「子ども」の変貌とそれに伴う「児童文学」の運命についての本田の考察が述べられていますが、グーグルも、フェイスブックも、ツイッターも、ラインもなく、スマホどころか携帯電話すらそれほど子どもたちには普及していなかった時代に書かれたことを考えると、驚くほど予見性に富んでいますので、長いけれども全文引用します。
「20世紀も幕を降ろそうとするいま、変貌著しい子どもの姿が、連日話題を呼んで大人世代を脅かし続ける。彼らは、言葉や文字による大人世代とのコミュニケーションを無視してパソコン画面と向き合い、画面の彼方の没肉体的存在との間に親密なコミュニケーションを展開してネット共同体を形成してしまう。振り返る視界に、私たちが継承してきた従来の文化を受け継ぐ者の姿はない。子どもたちは、私たちを無造作にまたぎ越えて、まだ見ぬ世界に歩み去って行くかのようだ。
科学技術進展の速度が、個人の世代での適応や学習能力を越えて進むとき、人は、技術の進歩についていくことが困難になるとされる。現代は、まさにそうした時代ではないか。技術進歩の速度が、世代交替の速度を上回り始めているのだから。とりわけ、メディアにかかわるそれは、私どもの予測だもしなかった速さで進展.展開し続け、しかも、私たちの暮らしを否応無しにその変化の中に巻き込んでいきつつある。メディア変化の波をまともにかぶって、それと伴走しつつ成長していく子どもたちと、私どもの間には、正直なところ、かなり越え難い溝が横たわっているのではないか。
かつては、メディア世界の王座にあった活字文化が、その地位を電子メディアに譲ろうとしている。活字ならぬディスプレー上の文字は、どこかにいる送信者によって打ち出されるキーに従って、画面に立ち現れて何事かを伝え、つかの間に姿を消して、その痕跡を止めない。活字メディアの継時性・定着性に対する電子メディアの瞬時性・非固定性……。こうした方向へと脱皮転換を続けるメディア社会の子どもたちが、かつての活字文化時代の子どもたちと同種であり得ようはずもなく、子どもー大人関係もまた同質ではあり得ない。
子どもたちが生を受けたとき、彼らの前に出現した世界は、既にして先行する世代の成長した世界とは異質であった。電話やパソコンによるコミュニケーションや、テレビやインターネットによる情報収集を常態とする彼らにとって、時間は継時的に流れることを止め、点から点へと飛躍し逆行する。さながらとびとびに点滅するネオンのよう……。また、彼らの生きる空間は、地図に描かれた距離とは無縁に、近いところと遠いところが入り交じり反転し合って、従来的な意味での遠近感覚や距離感覚はすべて無意味と化している。」
ここにおいて、本田は冒頭の問いかけに立ち返り、「児童文学」の悲観的な将来像を描いています。
「「子ども」が、実態として、従来のままではあり得ないとすれば、そして、そのことを捉えて「子どもの消滅」と呼ぶとするなら、「児童文学」も消滅の運命を免れ得ない筈である。近代型の「子ども」とその運命を共有し、彼らとおおよそ100年の歴史を伴走した近代型「児童文学」は、そして、子どもとそれらとの関係は、このあたりで終わりの時を迎えねばならないだろうから。」
この予測は、従来型の「現代児童文学」に当てはめるならば、ほぼ当たっているでしょう。
「読書」に「子ども」が求めるものは大きく変質していて、従来の「児童文学」ではそれにこたえられなくなっています。
その一方で、本田は別の可能性にも言及しています。
「ただし、変貌著しい子どもたちのなかにも、かつての「子ども性」とは質を異にはするが、大人世代と隔てるある種の異質性が見いだされるとすれば、その異質性をキー・コンセブトとしつつ、新しい「児童文学」が誕生する可能性までも否定するつもりはない。それに、誕生した新しい文学、たとえばインターネット上に表現される電子文学との間に、子どもたちが、改めて直接的な関係を回復させる可能性を、期待することが出来るかも知れないのである。」
つまり電子書籍とその新しい流通形態により、かつてのように「作者」と「読者」の間を、出版社、取次ぎ、書店、媒介者(親や教師)などを介さずに、直接結び付ける可能性に言及しています。
これらの関係は、すでにアメリカなどの英語圏ではかなり実現しています。
日本では、出版社などの抵抗勢力により普及が遅れて(特に児童書は)いますが、電子化の時代の流れには逆らえないので、やがてはスマホあるいはその進化形のツールで読書をするのが、子どもたちの間でも一般的になる時代が来るでしょう。
その時には、従来の媒介者抜きで、読者の子どもたちは、自由に電子書籍あるいはそれに代わる媒体上のコンテンツを手にするでしょう。
しかし、一方で、今のように日本の児童文学界が電子化の波を拒み続けると、そこだけ将来の児童文化から抜け落ち、すでに電子化が著しいコミックスやアニメやゲームだけが子どもたちの手元に残るかもしれません。
以上の予測は2015年前後にしたのですが、そのうちの「児童文学」にとっては悲観的な方向に世の中は進んでいるようです。
ここまでの約100年間に先人たちが蓄積してきた優れた「児童文学」のコンテンツの電子化は、目先の売れ行きだけに汲々としている出版社や児童文学者(児童読み物作家?)たちの利益のために遅々として進まず、その一方でコミックスの方は過去の優れた財産も含めて電子化が進み、すでにスマホやタブレットで読むスタイルは定着しています。
文字情報というスマホなどの小型の電子機器で読むのに有利な媒体なのにも関わらず、「児童文学」は子どもの日常生活(学校や学童保育や図書館などの特殊な場所は除いて)から姿を消し、子どもたちの「物語消費」はもっぱら「携帯ゲーム」、読み放題サービスによる「コミックス」、配信サービスによるアニメや映画によってなされつつあります。
日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌] | |
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