公開から12年。
アマプラで400円で見た。
ここからは完全なる私個人の仮説的考察なので事実ではないことに注意頂きたい。
また何度も注意書きを書くことになるが、私は差別を助長したい訳ではない。
議論不要のこの足場を大前提として、それでは始める。
同作品を鑑賞した人は「んあ? だから何? 」と困惑したはずである。
一方において、一つの思考の補助線を引くと、あらゆることが色々とすっきりする。
1.説としての補助線
それは、オオカミと言う媒介が指し示すのが日本社会のマジョリティから外れた層、つまり、在日の外国人や、あるいは反社会勢力である、と言う暗喩であるという説である。
あるいは人に口外できぬ病気などであろう。
注意すべきは、私が言いたいのは外国人=反社ではない、と言うことである。
飽くまで個々の要素は独立した形で考えて欲しい。
オオカミとは、自己の出生に関わって一生取れないひた隠しにすべき属性の暗喩である、と。
2.選択
父はオオカミの系譜であり、そこから自然と子供は生まれた。
子供はそれぞれに自己のアイデンティティーに悩み、日本のマジョリティーに馴染んでいくか、そうではなく更なる奥に潜り込むかをそれぞれに選択した。
仮にそう考えると、子のとった選択によって、それぞれの子はそれぞれに自分の思う幸せを享受した。
アメは、「先生が死ぬと代わりを誰かがしなければならなくなる」と言って、自身をその役目に据えた。
ユキは、日本人のマジョリティーに同化することに成功していて、普通の社会生活を送れるような示唆をエンディングで与えられる。
それぞれがそれなりに普通の幸せを享受したと言うエンディングが視聴者に届けられる。
3.告白
ユキの「自分は実はこうなの」と言う告白は、自己のそうした取り拭い去れぬ属性の告白をし、それにそうたが「誰にも言ってない」と言うのも、これもまた腑に落ちる。
オオカミと言う「自己の出生に関わって一生取れないひた隠しにすべき属性」の告白はそのようなものだ。
4.対比関係の母親像
草平の母親の薄っぺらさと、はなの地味な重厚感について。
これは本筋とは関係ないが、草平が傷つけられたことによって、草平の母親が「家でもなんでも売って」と詰問するシーンがある。
一方において、物語終盤でそうたの母親が懐妊して、草平自身が手放すことにしたことについては、何がなんでもユキとアメを手放さず、家も補修に補修を重ねて積み上げていったハナとは対比関係にある。
「家でもなんでも売って」とか詰めてたあなたは嘘だったの? みたいな。
また、作中表現では、草平の母は装飾品がきらびやかなのに対し、ハナの方は完全に地味だ。
5.家屋事情について
多分あの家は冬めちゃくちゃ寒いで。
6.「オオカミ」であったことの小さい利益
ではオオカミには自然に融和し、人間社会と決別すべき存在であったのだろうか。
実は「オオカミ」がもたらした社会への小さい利益が描かれることがある。
それは畑の害獣による食害が無くなった描写で、明らかにユキとアメの存在によって畑がハナのところだけ食害に遭わなくなっていたと言うシーンで、それによって家庭と、周辺の社会に利益をもたらせた、と言うところがあった。
7.注意と腑に落ちないところ
私が上記の論に私自身が納得できていないところが、非マジョリティー=オオカミ、マジョリティー=人間として描かれるところであろう。いや非マジョリティー自身が稀にこうした表現を別の動物で使うこともあるが、本来はそれは非マジョリティー側が使える表現なのであって、マジョリティー側が使う表現ではない。
8.今回の作品はどうすべきであったのか
もっと分かりやすくすべきだった。
カタルシスのプロットがいくつかあるが、それに対する前段の前ふりを行っておくべき。
例)
・いつか子供も出自を明かさなければいけない時が・・・
→その時も今回みたいに上手く行くよ!
(十数年後)
→私オオカミなんだ
→知ってた。誰にも言ってない
・自然に帰るべきか今も悩んでる。でも今は・・・
→それはその時々の判断があるよ!
(十数年後)
→子供の一人は人間社会を、もう一人は自然を選んだ。
9.外国のオオカミと会話できなかった件
外国のおじいさんオオカミと会話できなかったという件について「あれなんだったんだ? 」と思う人も多くいたと思う。
恐らくは言語がそもそも違うので会話ができない。
そしてアドバイスしてやれることもない(目線が動いたのでちょっとは気になる)と言うのが現実である、と。
余談だが、ネットを検索すると私と同じことを思った人間もいるらしい。
安心したが、この論はマジョリティーではないらしい。
あるいはちょっと尖りすぎていてパブリックな論調にできないと言う問題を孕むためか。
ただ、鑑賞者における「? 」がある場合、そして腹落ちさせたい場合は、上述の論はいかがでしょうか、と言う提案でした。
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アマプラで400円で見た。
ここからは完全なる私個人の仮説的考察なので事実ではないことに注意頂きたい。
また何度も注意書きを書くことになるが、私は差別を助長したい訳ではない。
議論不要のこの足場を大前提として、それでは始める。
同作品を鑑賞した人は「んあ? だから何? 」と困惑したはずである。
一方において、一つの思考の補助線を引くと、あらゆることが色々とすっきりする。
1.説としての補助線
それは、オオカミと言う媒介が指し示すのが日本社会のマジョリティから外れた層、つまり、在日の外国人や、あるいは反社会勢力である、と言う暗喩であるという説である。
あるいは人に口外できぬ病気などであろう。
注意すべきは、私が言いたいのは外国人=反社ではない、と言うことである。
飽くまで個々の要素は独立した形で考えて欲しい。
オオカミとは、自己の出生に関わって一生取れないひた隠しにすべき属性の暗喩である、と。
2.選択
父はオオカミの系譜であり、そこから自然と子供は生まれた。
子供はそれぞれに自己のアイデンティティーに悩み、日本のマジョリティーに馴染んでいくか、そうではなく更なる奥に潜り込むかをそれぞれに選択した。
仮にそう考えると、子のとった選択によって、それぞれの子はそれぞれに自分の思う幸せを享受した。
アメは、「先生が死ぬと代わりを誰かがしなければならなくなる」と言って、自身をその役目に据えた。
ユキは、日本人のマジョリティーに同化することに成功していて、普通の社会生活を送れるような示唆をエンディングで与えられる。
それぞれがそれなりに普通の幸せを享受したと言うエンディングが視聴者に届けられる。
3.告白
ユキの「自分は実はこうなの」と言う告白は、自己のそうした取り拭い去れぬ属性の告白をし、それにそうたが「誰にも言ってない」と言うのも、これもまた腑に落ちる。
オオカミと言う「自己の出生に関わって一生取れないひた隠しにすべき属性」の告白はそのようなものだ。
4.対比関係の母親像
草平の母親の薄っぺらさと、はなの地味な重厚感について。
これは本筋とは関係ないが、草平が傷つけられたことによって、草平の母親が「家でもなんでも売って」と詰問するシーンがある。
一方において、物語終盤でそうたの母親が懐妊して、草平自身が手放すことにしたことについては、何がなんでもユキとアメを手放さず、家も補修に補修を重ねて積み上げていったハナとは対比関係にある。
「家でもなんでも売って」とか詰めてたあなたは嘘だったの? みたいな。
また、作中表現では、草平の母は装飾品がきらびやかなのに対し、ハナの方は完全に地味だ。
5.家屋事情について
多分あの家は冬めちゃくちゃ寒いで。
6.「オオカミ」であったことの小さい利益
ではオオカミには自然に融和し、人間社会と決別すべき存在であったのだろうか。
実は「オオカミ」がもたらした社会への小さい利益が描かれることがある。
それは畑の害獣による食害が無くなった描写で、明らかにユキとアメの存在によって畑がハナのところだけ食害に遭わなくなっていたと言うシーンで、それによって家庭と、周辺の社会に利益をもたらせた、と言うところがあった。
7.注意と腑に落ちないところ
私が上記の論に私自身が納得できていないところが、非マジョリティー=オオカミ、マジョリティー=人間として描かれるところであろう。いや非マジョリティー自身が稀にこうした表現を別の動物で使うこともあるが、本来はそれは非マジョリティー側が使える表現なのであって、マジョリティー側が使う表現ではない。
8.今回の作品はどうすべきであったのか
もっと分かりやすくすべきだった。
カタルシスのプロットがいくつかあるが、それに対する前段の前ふりを行っておくべき。
例)
・いつか子供も出自を明かさなければいけない時が・・・
→その時も今回みたいに上手く行くよ!
(十数年後)
→私オオカミなんだ
→知ってた。誰にも言ってない
・自然に帰るべきか今も悩んでる。でも今は・・・
→それはその時々の判断があるよ!
(十数年後)
→子供の一人は人間社会を、もう一人は自然を選んだ。
9.外国のオオカミと会話できなかった件
外国のおじいさんオオカミと会話できなかったという件について「あれなんだったんだ? 」と思う人も多くいたと思う。
恐らくは言語がそもそも違うので会話ができない。
そしてアドバイスしてやれることもない(目線が動いたのでちょっとは気になる)と言うのが現実である、と。
余談だが、ネットを検索すると私と同じことを思った人間もいるらしい。
安心したが、この論はマジョリティーではないらしい。
あるいはちょっと尖りすぎていてパブリックな論調にできないと言う問題を孕むためか。
ただ、鑑賞者における「? 」がある場合、そして腹落ちさせたい場合は、上述の論はいかがでしょうか、と言う提案でした。
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