幼少期の育成環境はどのようなものが適正だろうか?
けなしたりするのは最悪の分類であるといい。
それはそれとして、では褒めることについてはどうか?
これもいくつか種類があると思うのだが、悪い「褒め方」もある。
それは赤ちゃんをあやすように、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」とちょっとややオペラ調を含めて褒めることである。
いやこれは褒めることには変わらないのだから、何かこちらが倦厭感を抱いたとしてもそれを指摘することもできずにやきもきし、こちらがちょっと嫌な気分になって終わる。
仮にこれを指摘した場合どうなるか?
そう「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまたオペラ調にこちらを非難してくるので本当に手に負えない。
けものフレンズのサーバルちゃんのように淡白寄りにあっさり言っていて純粋に褒めているならば全然いい。褒めの主体が褒められた当人にあるからだ。
だが、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」と褒める時には、褒めた当人は褒めた当人がちょっといいことをしたという主人公感を出していて、相手を褒めたいからそうしているのではなく、相手を褒めた自分が主人公として存在するからあなたのことはちょっとどうでもいいのよ感があって本当に嫌なのだ。
人は自然な表現がある。
びっくりした時には「わっ」だとか「うぉっ」だとか言う。
面白い時には素直に笑うだろう。
悲しい時には泣くだろう。
で、ワンテンポおいて理性を取り戻した時に「驚いた」だとか「面白かった」「悲しかった」と言うようなことを言うだろう。
熊が出た時に「こんな熊が出るだなんて驚き〜」とか言うか? 言わない。
芸人が漫才やっている時に本当に面白ければ、ギャグやってるタイミングで「面白い〜」とか言うか? 言わない。
人が死んだ瞬間に「悲しいですね」とか言うか? 言わない。
それらは心の奥底でそう思っている自分から離れて、ある程度客観視できるような冷静さを持つことや、時間的な経過、あるいは距離的な離脱が起きてからそう考えるのであって、それは本当の自分ではないし、本当の自分の意見ではない可能性、つまり意図的についた嘘である可能性もある。
そうした時、「〇〇って凄いね〜」にどれだけの本当が含まれているのか。
それは本当に凄いと、本当の意味で褒めているのではなく、客観的視座を保った冷静である自分が嘘も含めてある程度の相手を動かす企図をも持ってそう言っている可能性が高い。
本来はそうした裏のある言葉と言うのは正面から受け止めずに受け流したりするのが正しい。そうでないとこちらも精神的に健全な生活などは送れない。
しかし、上述の例は違う。
本来の「褒め」と上述の「裏のある褒め」をあえてまぜこぜにして、嘘を塗り固めて社会的な是認される美徳に仕立て上げた上でこちらに正面から受け止めたと言うその反応を強制してくる。
これが本当に面倒くさいのだし、煩わしいし、忌避感も感じるし、人間の社会生活営為として健全ではないと思うのだがいかがだろうか。
(ちなみに当人へここまで書いたことを言うのを予想すると、「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまた面倒な反応をするだろうと。)
けなしたりするのは最悪の分類であるといい。
それはそれとして、では褒めることについてはどうか?
これもいくつか種類があると思うのだが、悪い「褒め方」もある。
それは赤ちゃんをあやすように、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」とちょっとややオペラ調を含めて褒めることである。
いやこれは褒めることには変わらないのだから、何かこちらが倦厭感を抱いたとしてもそれを指摘することもできずにやきもきし、こちらがちょっと嫌な気分になって終わる。
仮にこれを指摘した場合どうなるか?
そう「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまたオペラ調にこちらを非難してくるので本当に手に負えない。
けものフレンズのサーバルちゃんのように淡白寄りにあっさり言っていて純粋に褒めているならば全然いい。褒めの主体が褒められた当人にあるからだ。
だが、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」と褒める時には、褒めた当人は褒めた当人がちょっといいことをしたという主人公感を出していて、相手を褒めたいからそうしているのではなく、相手を褒めた自分が主人公として存在するからあなたのことはちょっとどうでもいいのよ感があって本当に嫌なのだ。
人は自然な表現がある。
びっくりした時には「わっ」だとか「うぉっ」だとか言う。
面白い時には素直に笑うだろう。
悲しい時には泣くだろう。
で、ワンテンポおいて理性を取り戻した時に「驚いた」だとか「面白かった」「悲しかった」と言うようなことを言うだろう。
熊が出た時に「こんな熊が出るだなんて驚き〜」とか言うか? 言わない。
芸人が漫才やっている時に本当に面白ければ、ギャグやってるタイミングで「面白い〜」とか言うか? 言わない。
人が死んだ瞬間に「悲しいですね」とか言うか? 言わない。
それらは心の奥底でそう思っている自分から離れて、ある程度客観視できるような冷静さを持つことや、時間的な経過、あるいは距離的な離脱が起きてからそう考えるのであって、それは本当の自分ではないし、本当の自分の意見ではない可能性、つまり意図的についた嘘である可能性もある。
そうした時、「〇〇って凄いね〜」にどれだけの本当が含まれているのか。
それは本当に凄いと、本当の意味で褒めているのではなく、客観的視座を保った冷静である自分が嘘も含めてある程度の相手を動かす企図をも持ってそう言っている可能性が高い。
本来はそうした裏のある言葉と言うのは正面から受け止めずに受け流したりするのが正しい。そうでないとこちらも精神的に健全な生活などは送れない。
しかし、上述の例は違う。
本来の「褒め」と上述の「裏のある褒め」をあえてまぜこぜにして、嘘を塗り固めて社会的な是認される美徳に仕立て上げた上でこちらに正面から受け止めたと言うその反応を強制してくる。
これが本当に面倒くさいのだし、煩わしいし、忌避感も感じるし、人間の社会生活営為として健全ではないと思うのだがいかがだろうか。
(ちなみに当人へここまで書いたことを言うのを予想すると、「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまた面倒な反応をするだろうと。)