とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

宗教ってのは弱い人がやる? 

2018-07-21 01:42:56 | 哲学・社会
男社会の立場から言う。

元々社会では、目に見えないルールで縛られているが、それが感覚的なもので共有されており、言語化されて理性的に理解するまでに至っていなかった。
なので、何かあるとすぐ、「精神力が弱い」だとか「根性が足りん」と言う精神論でごまかされていたように思う。

そのがんじがらめに絡まった鎖を丁寧にほどき、それを再整備して有効な知体系に組み替えて、よりよく理解することにより、この社会は上手く運用していくことができるのではないか? 
そんなことを思うのだが、具体的にどうだ、と言う好例が一つ見つかったのでこれを示していきたい。


「宗教ってのは弱い人がやる? 」

と言うことでこれを一つ一つ紐解いていきたい。
そもそも宗教と聞くと、「あ、ちょっとヤバい話だ」と誰しもが思うのだが、そう思ってしまうのはなぜなのだろうか? 

詰まるところ、人間の死生観を含めた習慣を体系化した教条は、その体系化が進むにつれ、一般的な感覚から乖離するからである。
歯に浮いた美辞麗句を言うだけならまだいいが、「人はこの時に死すべし」などと個人の人生や幸せの定義まで左右するようになってきては、そこから人が距離を置くのもうなずける。

そうした一般的な感覚のルールから逸脱した幸せの定義を定めて、信徒に求めるものと言うのは、一般的な社会上で幸せとは異なるとみなされ、本来であれば幸せのゴール地点は他人に定義され、用意されるべくものであるはずのないものに、そこに幸せを求めるというのは、自分で幸せを掴み取る力がないから、そんな人が頼りにするのが宗教、と言うことになると、「宗教は弱い人が行う」と言うことになる。

それでは、ここで言う「弱い」とは何が弱いのだろう? 
心だろうか? 忍耐力だろうか? 精神力だろうか? 決断力・判断力だろうか? 

本来であれば、自分自身のことは自分で決めるべきで、自分自身の人生は自分で生き抜くべきで、自分自身の人生の決定は自分自身で決定すべきである。
成人になるまでに、そうした精神的な鍛錬と言うのは身につけるべきものであるが、それが身につかなかった際に、用意した規律に身を寄せて、そこを基準に行動することが弱いと言われているのだと思われる。

ポーランドのドラマ・デカローグの第一話を見れば分かるが、人間と言うのは最終的に物理ではなく宗教を信じるようにできている。
よって弱った時にはおおいに宗教を信じて良いように思う。
ただ、それをして、金を稼いだり、弱みに付け込むようなことをしてはならない。

心の弱さとは決断力の脆弱性であり、判断の迷いが弱さにつながっている。
これも人間は逃れられることができない。
世界で一番判断力の強靭性を問われるのは軍人か、もしくは政治家であろうが、彼らの手帳や財布には、自らの決断を補強する、戒律や規律の一句が入っている。
人間は元々迷い、間違える動物なのだ。完全に強い人間や、何もなしに完全に決断を継続し続けられる人間はごくわずかだ。
多くの人間は迷い、間違え、そして失敗を乗り越える。そしてそのような人間で世界は運用されているのである。

その意味で、自分が倒れそうになった時には、宗教に頼っても良いのではないかと思う。
もちろん、その宗教に裏があってはならない。金や権力、あるいは個人の幸せの定義に踏み込んでくるのは議論以前の話である。

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