とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

仏教的観点から考えるフランケンシュタインの怪物

2023-04-23 08:07:46 | 雑感
このお話の終盤の用語として「魔改造」と言うものが出てくるが、先にこれを説明しておきたい。
もともとおもちゃ界隈(フィギュアやガレージキット)での言葉らしく、それを元ある造形から異様な方向に(主に女性フィギュアの胸を性的志向によって露出させる)改造するという意味で使用されていたようだ。
それが段々と転じて行き、これは純粋な工業技術面での話になった(NHK番組『魔改造の夜』では、日常用の家電品や犬の玩具といった製品を改造し、スペックを極端にあげてしまうこと、と定義された)。
とにかく元あるところから異質かつ高度な改造を施して、その技術に周囲をあっと言わせるも、出来上がった成果が異様なので皆が感想たる感想を言えぬままに観衆と聴衆の口をあんぐりさせたままにリアクションを出さぬまでに何かを完成させる、と言うのが魔改造の定義である、と言える。これは日本のお家芸だろう。

本題である。



フランケンシュタインの怪物は、詩を愛で、誰かの役に立ちたいと思い、村人を助け、人以上の渾身をしようとした。
一方において、自身をなぜ怪物として産んだのかと、自身の創造者である学生(もしくは博士)を恨み、復讐をしようとし、かつ、その異様な容姿から人から危害を加えられるようになった。

自身に内発する愛情とは裏腹に、自身を産んだ人間への恨みと周囲との軋轢、その渾然一体とした、ままならぬ怪物の人生はなぜこうも彼に過酷な運命を与えたのか。

キリスト教的観点においては、神様が地上に生命を送り出す時には、「お前はこういう姿形と能力で生まれなさい」と様々な特性を与えられて生み出される、と考える。
猫の模様が一つ一つ異なるのも、いるかの背びれが一つ一つ異なるのも、人間の指紋や性格が一つ一つ異なるのもこのためと言う考えである。

一方、仏教的観点においては、「因縁果(いんねんが)」を基調とした考えで全てを語る。
因縁果とは、ものごとは全て3つの要素から成る、と言う考えだ。
一つは原因の「因」。一つは御縁があったなどで言われる「縁」。最後の一つは結果の「果」である。

例えば、大根の種を植えて大根を収穫したいと思ったとする。
この種が人参であれば当然大根が育たない。結果出てくるのは人参である。
なので、ものごとの最初の根幹は、原因の「因」である要素が必要になる。

次いで、この種が育つには、畳に種を撒いても育たない。畑に撒いて育つ。
原因がそれなりに育つには、それを育てる周囲の環境が必要ということである。
人が人として育ったり、あるいはそれによって影響され、その人の行動につながっていく。
こうした人との出会いや、その起因となった人の周辺環境、社会環境が「御縁」の「縁」となる。

この大根の種(因)が畑(縁)にまかれて、大根(果)が収穫できる。
ものごとは全てこれで説明できる、とするのが「因縁果」である。

良いことも悪いことも皆、こうした構造でできている。

では、我々は、金持ちの人のところに赤ちゃんとして生まれることもあれば、貧乏人のところに赤ちゃんとして生まれることもある。これはどうしたことだろう? と言う時に、仏教が説明するには、これも因縁果が関与するという。

つまり、仏教の教え的には、生まれ変わりと言うものを肯定していて、自分が生まれる前には前世があり、自分が死んだ後には来世がある、という考えだ。
これもまた因縁果を使って考えると、前世の自分の行いがあるので、今の自分として生まれたのだ、と言うことを説く。
(この前世と現世、そして来世の3つの世が順繰りに影響していく様をして、仏教の中では「三世(さんぜ)を貫く」と言う)

私は基本的に、因縁果の考えには納得している。
例えばどこそこのテストに受かりたいと思い、勉強する(因)。
が、良い教師や良いテキストに巡り合わないとその努力も報われない。逆にそれを探り当てれば、良い方向に向かう(縁)。
テストの結果が出る(果)。
と言う具合だ。全ては因縁果だ。

しかし、この三世を貫くと言う考え方には納得や同調ができない。

もし生命の生まれ変わりがなされているというのであれば、地球の古代史における生命が全くいなかった全球凍結時代、生命史における7度の大絶滅が説明できない。
生命の意識は前に死んだ何かの生まれ変わりであるというからには、先行してその代替物がなければいけないが、生命が全くいなかった時代の前はどう説明するのだろう。

さてそんなこんなでフランケンシュタインの怪物にもこの範囲で、かつ別方向で考えてみる。
仏教的視点は、フランケンシュタインの怪物の「前世」が、何かそれに起因するものだったからフランケンシュタインの怪物として生まれたのだ、と言う説明になる。
そんなバカな話があるだろうか。私はこれを否定する。

キリスト教的観点においては、神様が「お前はフランケンシュタインの怪物として生まれなさい」と言って地上に遣わしたことになる。これもまたありえない。

私がここで思うのは、現実的な問題として、人間はまず生まれる場所を選べない。
日本企業内部での配属ガチャと同様に、自身で自身の運命の起点をコントロール、あるいはセレクトできないのだ。
(尚、現在大富豪であるアメリカの投資家ウォーレン・バフェットは、自身の誕生のことを「子宮の宝くじに大当たりしたんだ」と表現した)。

では日本と言う国に生まれた場合、なぜ皆それなりに幸せで、なぜ皆それなりに不幸なのか。
それは生まれた後の幸不幸のランダム配置の後に、持てる富の再配分と、富の増強、あるいは教育と社会構築・運用と言う「運命の配置のその後の」運動を真摯にしたからだ、と私は考える。

仏教的観点で言えば、自身の努力は「因」によって決定されるが、これはコントロールできないので、その後の周辺社会状況である「縁」をものすごく強化した結果だ、と言うことになる。

元々日本に巻かれた種と言うのは貧弱であったかもしれないが、その後の畑をものすごく改良したので、それなりにおいしい作物が育った、と言うことになる。

中国の言葉に「一視同仁」と言うものがある。
金持ちも貧乏人も、偉い人もそうでない人も、皆同じ人なんですよ、と言うことだ。
これはキリスト教社会にも通じ、ホームレスの支援などの思想はここに現れる。
(だが、一方において、アメリカのホームレス社会が増大している現在の様相は、その博愛が社会的に情勢されていないことの証であるとも取れる)。
最大たる反例は皮肉にも中国であり、共産党の腐敗と収賄、それに対する人民の反抗はこれを実現せしめていない。

また、同じく中国から「日月私照無し」と言うのもある。
太陽と月の光とは、誰のためだけに照らすと言うことはなく、誰しもに皆平等にその光を照らすというものだ。

フランケンシュタインの怪物もまた、我々と同じく悩み、苦しみ、笑い、感動し、人の役に立ちたいと思いながらも、一方において迫害を受け、怒りの行動によって更に人の怒りを買い、人生の幕を寂しいままに閉じていく。

これは、キリスト教・仏教ともに、「それは運命だから仕方ない」だとか「個人がその苦難を乗り越え、社会課題を解決すべき」だという考えで決着する。

だが、私が思うのはそうではなく、フランケンシュタインの怪物がきちんと育つ畑を、日本と言う社会が魔改造して、それに適合させていく。
そうした社会を構築すべきではないかと私個人は思うのだ。
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2 コメント

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Unknown (tokinosekimori-kitaiwahara)
2023-04-28 21:44:01
仏教的観点、キリスト教的観点という言葉が、でてきました。
たしかに、そんな見方があるのは知っています。
ただ、それは知識としての仏教であり、キリスト教であると思います。
どういうことかといいますと、
知識として、仏教はこうだとか、キリスト教がこうだとはいえますが、言葉の正確な裏付けがないと思います。
簡単にいいますと、言葉に体験という裏付けがないのです。
宗教の言葉には体験による裏付けがあります。
それと、例えば、心という言葉一つとっても、一般にはかなり、あいまいだと思います。
科学者は脳という物質が生み出す派生物とかんがえるかもしれませんし、宗教家であれば、発想がまったく逆になります。
元となる世界観が逆なのです。
つまり、一つの言葉とっても、バックボーンが違えば、言葉の意味にかなりの違いがうまれます。
そのあたりが、失礼ですが混沌とされている気がします。
他意はありませんので、あしからず。
失礼をお許しください。
返信する
Unknown (booter)
2023-04-30 02:18:15
コメントありがとうございました。

ご指摘の通りです。
本来宗教的価値観とは、その日々送る生活営為を土台にした方からの理解を記述すべきですが、私にはそれがありません。
むしろ、私は仏教、キリスト教などの宗教から距離を置いています。
どちらかというと無宗教に近いです。もう少し言えば信仰心が欠けている。
何となく、宗教と言うものが最終的には騒乱や戦争などの火種に関わるためで、私のような人間は現在の日本での多数派であると、私個人は勝手に考えています。

本来的な宗教の役割としては、死生観とそれに伴う魂の救済(死の恐怖や生の苦しみに対する「こう信ずればよくなる」)と言うものですが、それが知識修得による客観的理解があるのか、もしくは自らの人生においての世界観を宗教を信ずることによって自己と世界を一致させるかの問題においては、私は前者、特に宗教的信仰を積極的に排除した知識の理解のみをしているのですね。
そうした時、私は「信仰を伴わない人間であるのに、宗教を語るな」と言う批判を受けるのは尤もであるという立場です。

しかし、宗教の中の理解の中では主流派ではないからこそ、私個人はそれで良いと思っています。
本来の宗教は「こういう困難があるのにどうも心の整理がつかない、どう考えれば良いか」と言うようなことに対して、「こういう風に考えればいいよ」と言う提示を行っているものです。
それを理解を超えたところで、イスラム教のスンニ派がシーア派を指して、「本来メッカに向かっての礼拝を5回しなければいけないところをシーア派は3回で済ませてて気に食わない。本来神への信仰があるならば5回すべきだ」などというのは、理解ではなく信仰によって立つところの意見ですが、そこから戦争などが始まってしまうようにも思えるのです。
元々神があって宗教があるのは、我々人間がより良い生活ができるようにそうあったべきものではなかったのでしょうか。
なので、宗教を信ずる、と言うことは確かに重要なことであり、かつ神聖な行いでは有りますが、これは最終的な危険を孕む、諸刃の剣でもあるというのが私の認識です。

むしろ、キリスト教神学での神学者は本当に心の底からキリスト教を信じており、死後の復活と「なぜ神の救済の時期はまだ来ないのか」と言う終末遅延論を宗教的観点からの理論において真面目に議論していますし、初期仏教におけるブッダの教えは、「不思議な力など何もない、全てには原因がある」と、むしろ信仰そのものを排除しようとしています。
こうした各宗教者は、「こういう考えだからこういう風に解釈できるのだ」と論ずる面で、私のような形で様々に議論していますね。例えば、宗教色の全く無い純文学などをテーマにして、「なぜ主人公はこの点で救われなかったのか」と言うのを論ずるなどです(例:狭き門より入れ、と言う認識を与えるために、主人公に苦難と乗り越えるべき課題を与えた、など)。

あるいはロシア語通訳での米原万里さんは「仏教での葬式が自分の唯物論(無神論)の信念とぶつからないか」という相談をキリスト教神学者に相談したようです。
米原さんは無神論者の立場でありますから、墓も葬式もない、と言うのが当然の環境であったようなのですが、ガンでお亡くなりになる前には、お墓と葬式をすべきだという考えに至ったようです。
結果、米原さんは仏式で葬式をあげ、そして墓が建てられたようです。
宗教の信者も、無宗教の人も、一定の形で宗教理論での理解や解釈を気にするのですね。

おそらくこうした議論を真正面からやっている人にとっては、今回の記事については「まあ、なるほどね」と仰って頂けるものだと私は勝手に考えており、かつ、その議論を真正面からやっている人から見れば、私などの知識は全然不足しているので、「こういうご意見ですが、それは宗派によって異なりますよ」と言う私の粗雑さをむしろ指摘されてしまうでしょう。
ただ、そうした稚拙さはあっても、おそらく宗教理論として出発したこの記事の方向性は間違ってはいないとも、これもまた勝手に思っています。

ただ、改めて書きますが、「知識だけによって信仰もなしに宗教を語るのはどうか」と言うのはご最もなご意見であり、この記事にはそうした補足が必要でした。
これは川辺に生えている一本の葦のようなもので、高さも積み上げられないようなものでしたが、そこに補強する建材を立てて頂いたことで、多方向からの重層的理解を構築でき、この記事の厚みを増すことができたと思います。この面でこのご指摘は良い積み上げをなすことができたかと思います。
ありがとうございました。

尚余談ですが、私はそうしたことばかりを心配しているので、墓の管理をどうするかという相談をお寺の住職の方と相談する時に、仏教上の理論は大丈夫かとかを聞きたいのですが、「拝みこんでいれば大丈夫です! 」と言うすごいシンプルな回答にとまどったりしますね。信仰と言うのはこういうのでいいとは思いますが、何かもやもやが解決しない感じではあります。
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