とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

昔なつかしのDJKooさんについて

2023-09-25 06:16:58 | 雑感
いつの頃か、私はリアルタイムで見ていた訳ではないが、大沢樹生さんが司会をやっていたDANCE DANCE DANCEと言うテレビ番組の録画を見ていた。

ここに最最初期のDJKooさんがゲストパフォーマーで出ていたのである。

で、肩掛けのキーボードを弾いて、4人組で、「サイバーパンクシステム」とか歌ってたんですよね。
SAMさんが「初めて会った時は暴走族みたいな髪型をしてたんですよ」と言うのもこの辺。
多分アフロヘアーを上にかためてたんですが、あれがポルナレフみたいな高さの髪型になってた。

それが今やシルコットのCMに出るとは誰もが思わなんだと言う。

あと率直な感想ですが、DJKooさんは当時に比べて太った、と言うのが久々に見た第一印象(年齢的にしゃーなし)。



・なんでDJKooさんは久々に見ても一発で分かるんですかね。
・あと「っぽんぽーん」のところが歌いだしの先頭が休符つきだというのも妙なこだわりを感じる。
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映像作品批評系ユーチューバーの・・・

2023-09-25 05:46:50 | 雑感
あまり深く突っ込んではいけない感じで、私も書くのをはばかられることをひしひしと感じているが、しかしこれをアウトプットしておかないと私の頭がパンクしてしまうので、誰にも読まれないことを祈りつつ(と言うかインターネットの片隅の片隅の片隅の片隅なのでほぼそうだろう)、ここに小さく書き留めておくことにする。





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自分はいいが、他人はダメだという非人格者ウォーレン・バフェット

2023-09-25 01:01:22 | 雑感
我々は報道で見る限りにおいて「なんか気のいいおじいちゃん」としてしか分からないウォーレン・バフェットであるが、その内実は自分はいいが、他人はダメだという非人格者である。

まず自分がものごとに便乗する割には、便乗されることを忌避する。
また、自分が値切るのはいいが、相手から値切られるのには激怒するというわがままぶりだ。

スノーボール 改訂新版(上) ウォーレン・バフェット伝 アリスシュローダー P353

 仕事にあたって重宝したのは、『ムーディーズ・マニュアル』の工業版、銀行・金融版、公共事業版だった。ムーディーズやスタンダード&プアーズに直接出向くことも多かった。「ああいうところに顔を出すのは私くらいのものだった。顧客かどうかということさえきかれなかった。私はいつも四〇年分ないし五〇年分のファイルを見せてもらった。コピー機を置いていなかったから、その場で、いろいろな数字を手早く書き写した。書庫に入って自分で選ぶことはできなくて、見たいものを持ってきてもらわなければならなかった。だから、いちいち、ジャージー・モーゲージとか、バンカーズ・コマーシャルとかの社名を告げた。だれひとり閲覧要請などしたことのない会社ばかりだよ。それらを持ってきてもらっては、座ってメモをとった。証券取引委員会(SEC)の書類を見たいと思うときがよくあって、そういうときはSECまで行った。そうしなければ手にはいらないものだったからね。会社が近くにあるときは、まず例外なく経営陣に会いにいった。前もってアポイントメントをとったりはしなかった。それでも、たいがい通してもらえた」
 お気に入りの情報源のひとつは《ピンクシート》だった。ピンク色の紙に印刷されている週報で、証券取引所で取引されない小さな会社の株に関する情報が得られる。もうひとつは、『ナショナル・クォーテーション』という本で、これは半年に一回だけ発行され、《ピンクシート》にも載っていない小企業の株を記載していた。どれほど小さな会社も、どれほど見つけにくい詳細情報も、逃さなかった。「私はたくさんの会社を隅々まで調べては、一万ドルないし一万五〇〇〇ドル投じてもいいようなとんでもなく割安な会社を、ひとつかふたつ見つけた」
 ウォーレンは自慢しなかった。むしろ、グレアムやプリツカーといった有用な情報源からアイデアを拝借できることを光栄に思っていた。自分は便乗しているだけだといい、アイデアがすばらしかろうが平凡であろうが気にしなかった。あるとき、グレアムに導かれるままに、ユニオン市街電車という会社に行き当たった(註13)。マサチューセッツ州ニューベッドフォードにあるトロリーバス会社で、純資産に比して株価は格安だった。会社について調べ、経営陣と直接会って(註14)、ウォーレンはこの株だけで、ほんの数週間でおよそ二万ドル儲けた。
 バフェットの家系では、ひとつのアイデアで二万ドルを儲けた人間は、それまでひとりもいなかった。一九五五年当時、それは、平均的な年収の数倍に相当する金額だった。数週間の仕事で所持金を二倍以上にするというのは、瞠目すべきことだった。しかし、ウォーレンにとってもっと重要なのは、それを大きなリスクを負わずにやり遂げたことだった。


同前 P391

 一九五七年、ウィーゼンバーガーはデービスに、マネーマネジャーとしてバフェットの名前を出した。「私自身、彼を雇おうとしたのだが、彼はパートナーシップを結成したところだったから雇えなかった」と、ウィーゼンバーガーは説明した(註30)。そして、デービスにバフェットへの出資を検討するよう熱心に勧めた。
 デービスの電話からまもなく、ウォーレンは、ある日曜の午後にデービス夫妻と会う予定を組んだ。「私はデービス家に行き、居間に腰かけて、一時間ほどしゃべった。〝私はこのように資金を運用し、このような取り決めをしています〟という話をした。あのとき私は二六歳だったと思うが、二〇歳くらいにしか見えなかった」じっさいのところ、エディー・デービスによると、ウォーレンは一八歳に見えた。「襟はボタンを留めてないし、上着はぶかぶか。えらく早口でしゃべっていた」とデービスは語っている。当時、ウォーレンはオマハのどこへ行くにも、みすぼらしいセーター──おそらく慈善団体に寄付されたものに違いないとある人物はいっている──に、古いズボン、磨り減った靴という格好をしていた。「年に似合わず子供っぽくふるまっていた」とバフェットはふりかえる。「私が話すことは、本来もっと若いものが話すようなことばかりだった」というより、ペンシルベニア大学時代に手で太鼓を叩く真似をしながら〈マイ・マミー〉を歌っていた少年の部分が、かなりそのまま残っていた。「あのころは、たくさんのことを大目に見てもらわなければならなかったよ」
 しかし、ウォーレンは、デービス夫妻に売り込みにいったのではない。基本原則を説明しにいった。ウォーレンは資金に関して絶対的な支配権を有していたいと考え、資金がどのように投資されたかをパートナーに教えるつもりはなかった。そこが異論を招きそうな点だった。が、ベン・グレアムのように他人に便乗されるという不利益を受け入れるのは、ウォーレンの主義ではなかった。出資者は、運用成績のおおまかな年次報告を受け取り、一二月三一日に限って金を投じたり引き出したりすることができる。それ以外の三六四日間は、お金はパートナーシップにしまい込まれる。


同前P462

バフェットは自身の理念を説明する際、「人に便乗するべし」といった(註23)。しかし、友人が自分に便乗するのは気に入らず、便乗されると倫理に反する行為と見なした。だから、友情をはぐくもうとしているマンガーが隠し立てせず自分の取引について話した──ブリティッシュ・コロンビア電力の投資にはバフェットも誘った──のに対し、バフェットは、パートナーといっしょに計画に取り組んでいるときは別として、つねに取引の内容を自分ひとりの胸に納めておいた。


註23

23 エド・アンダーソン談.この言葉は,バフェットの友人のあいだではよく使われていた.1963年1月18日のパートナーへの手紙でも,バフェットは「便乗すること」に言及している.


同前P495

 バフェットは偵察に人を送り、議決権株式の多くを所有している少数株主を探させた。コーウィンは、バークシャーの取締役会にくわわれるだけの株式を押さえた。ところが、まわりの人間たちも気づきはじめた。バフェットのコロンビア大学時代からの旧友であるジャック・アリグザンダーは、クラスメートのバディ・フォックスと投資パートナーシップを結成していた。「ある日、ウォーレンがバークシャー・ハザウェイという会社の株を買っていることを知った。それで、私たちも買いはじめた」とアリグザンダーは語っている。ふたりはコネティカット州のオフィスからニューヨークへ行ったときに、おなじ株を買っていることをバフェットに話した。「ウォーレンはひどくうろたえて、〝いいか、きみらはぼくに便乗している。それはいけない。手を引け〟といった」
 フォックスとアリグザンダーは面くらった。なにがいけないというのか。バフェットは、自分は支配権を握ろうとしているのだとふたりを納得させた。しかし、支配権が絡んだ状況であろうと、グレアム門下生のあいだでは便乗は人気のある遊びのひとつだった。公正な行為と考えられていた。結局、バフェットは彼らの株を取りあげた形になった。きみらよりぼくのほうがずっと必要としているのだと、バフェットはいった。ふたりは株をそのときの市場価格で売ることに同意した。バフェットにとって重大事であるのが明白だったからだ。バフェットはバークシャー・ハザウェイに説明しがたい愛着のようなものを抱いているように見えた。「私たちにとっては、そんなに大事なものではなかったしね。ウォーレンにとっては明らかにとても大事なものだった」とアリグザンダーはいう。


同前P499

 スージーがこれからもアーミンの毛皮ジャケットを着られるようにするには、ただバークシャーの株を便乗から守るだけではだめで、バークシャーを経営して利益があがる方法を見つけなければならない。


同前P490

 ニューヨーク証券取引所に上場されていない《ピンクシート》銘柄の価格は、印刷された時点ではもう古い情報だった。バフェットにとって《ピンクシート》は、取引成立までブローカーとの頻繁な電話のやりとりを必要とする値引き交渉の糸口にすぎなかった。ブローカーを通してうまく事を運ぶことにかけては、バフェットは達人だった。最新の株価がわかりにくいおかげで、競争相手はすくなかった。マーケット・メーカーにつぎつぎと電話をかけて容赦なく絞りあげられるものが、意欲の劣るものや弱気なものに勝つことができるのだ。
 たとえば、ブラウンがバフェットに電話をかけ、某社の株が一株当たり五ドルの売り指値で出ていることを知らせる。「ふうん。買い指値は四ドル七五セントだ」バフェットは躊躇せずに答える。〝釣糸の投げ入れ〟というこの作戦で、売り手の空腹の度合いを探るのだ。
 ブラウンは、電話で相手が値下げに応じるかどうかを確かめてからバフェットに電話して、「残念だが、五ドルより下にはならない」と伝える。「論外だな」とバフェットは答える。
 数日後、ブラウンがまたバフェットに電話をかけてくる。「あの株が四ドル七五セントになった。四ドル七五セントの買い指値を出すぞ」
 すると今度は、「悪いが、四ドル五〇セントだ」と、バフェットは間髪をいれずに答える。
 ブラウンがふたたび売り手に電話をすると、相手はこういう。「なんだって。四ドル七五セントはどうなったんだ」「いったとおりだ。買い指値は四ドル五〇セントだ」
 さらに何度か電話でのやりとりがつづき、ようやく一週間後、ブラウンがバフェットにまた電話をかけてきて、「オーケー、四ドル五〇セントでいこう」という。「悪いが、四ドル三七・五セントだ」と、バフェットは値段をさらに一二・五セント下げる。
 こうして、〝押しの一手〟で攻めてどこまでも値切った。買い指値を上げてまで株をほしがることは、めったに──ほとんどといっていいくらい──なかった(註26)。
 一九六二年一二月一二日、バフェットはトゥイーディー・ブラウンを通じてバークシャー・ハザウェイの買い注文をはじめて出し、一株七ドル五〇セントで二〇〇〇株を買い、二〇ドルの仲介手数料を払った(註27)。トゥイーディー・ブラウンには買いつづけるよう指示した。
 コーウィンは、バークシャーのトップセールスマンで取締役でもあるスタンリー・ルービンに、バークシャーに関する聞き込みをした。ルービンは好都合なことに、取締役のオーティス・スタントンの友人でもあった。オーティスは、兄のシーベリー・スタントンが現状を把握していないと感じていた。〝象牙の塔〟で秘書たちに匿われているシーベリーは、自分の崇高な理想と現実の食い違いが大きくなるにつれ、ますます酒におぼれるようになっていた(註28)。そのころには兄弟の不和は決定的になっていた(註29)。オーティスは、シーベリーが賃上げ要求に折れるのではなくストライキを受けて立つべきだったと思っていた(註30)。また、シーベリーが後継者として息子のジャックを選んだことも不満に思っていた。オーティスは、後継者には製造担当副社長のケン・チェースがふさわしいと考えていた。
 シーベリー・スタントンは、バフェットの買い攻勢を受けて、買収の脅威が迫っているとばかりに、数回、自社株公開買い付けを行なった。それこそ、まさにバフェットの思う壺の展開だった。バフェットは、いずれスタントンがこちらの保有株を買い取ろうとするだろうとの読みで、買い増していた。バフェットがバークシャーの株をほしがったのは、保有するためではなく売るためだった。とはいえ、取引にはかならず買い手と売り手がいる。シーベリー・スタントンは、安い海外の繊維製品やハリケーン・キャロルという外敵に持ちこたえてきたような人物だった。シーベリーがバフェットに値切られるのではなく、バフェットがシーベリーに値切られる可能性もあった。
 ほどなくバフェットは、自分の目で現地を見るために車でニューベッドフォードへ行った。そのときばかりは、ふらりと立ち寄るというわけにはいかなかった。シーベリーに厳として忠実な秘書のミス・テイバーが、来訪者に対し、ガラスの扉の向こうの狭い階段を上がってスタントンのペントハウスの事務室にはいっていいかどうかを決定する権利を握っていた。
 ふたりは、隅にあったガラスの会議用テーブルを挟んで座った。バフェットはスタントンに、つぎの株式公開買い付けについての考えをきいた。スタントンは、鼻の先に乗せた金属縁の眼鏡ごしに見つめ返した。そのときのことを、バフェットはこう語っている。「向こうはまあまあ友好的だったんだが、そのとき、〝おそらく近いうちに株式公開買い付けをすると思うが、バフェットさん、いくらなら売ってくれるか〟とかそういう意味のことをいった。そのころ、同社の株は九ドルか一〇ドルで売られていた。
 私は、そちらが株式公開買い付けをするなら、一一ドル五〇セントで売りますといった。すると彼は、〝では、公開買い付けをしたら、引き渡すと約束してくれるか〟といった。
 私は、〝そうですね、そう遠くない将来であれば。二〇年後となると約束できませんが〟といった。でも、〝いいですよ〟と同意したんだ。
 その時点で、私の行動は停止した。スタントンの出方がはっきりしたわけだから、これ以上株を買い集めるべきではないと考えた。そして、家に帰っていくらもたたないうちに、ファースト・ナショナル・オブ・ボストンの一部門であるオールド・コロニー・トラスト・カンパニーから、バークシャーの持ち株を一株当たり一一ドル三七・五セントで買うという株式公開買い付けの案内状が届いた」合意した値段より一二・五セント低い数字だった。
 バフェットは憤激した。「ほんとうに激怒したよ。スタントンは取引成立だといって握手をしたも同然の値段から、一二・五セント削りとろうとしたんだ」
 バフェットは〝押しの一手〟で攻めて値切ることに慣れている。そのバフェットからスタントンはくすねようとした。バフェットはダン・コーウィンをニューベッドフォードに派遣し、スタントンに約束に違反しないよう説得させた。議論の末、スタントンはバフェットと口頭で取引を行なったことを否定し、自分の会社なのだから好きなようにやらせてもらうとコーウィンに告げた。とんでもない間違いだった。ウォーレン・バフェットから騙しとろうとしたことを、シーベリー・スタントンは心から後悔するはめになる。バフェットは、売るのではなく、買うことを決意した。

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