とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

経済 不完全性の否定と更なる不完全性の導入

2023-09-24 05:02:50 | 哲学・社会
現代における経済社会において、人は自己責任論を高いレベルで要求される。
今回の話は、それが人口比からなる社会全体の経済動態の総論として誤りではないか、と言う話である。

人は自己責任論を高いレベルで要求されるということは、その人間が成功しないことはその人間の努力不足であり、かつ過失である、と言う意味になる。
これは社長になれるかどうか、起業して成功したかどうかにおいては正解だと私個人は考えるが、一方において、それの適用範囲が拡大され、「個人で家が買えるかどうか」「個人で車が持てるかどうか」「個人で電気・電話・水道・ガス・ネットのインフラ環境の料金が支払えるかどうか」「結婚ができるかどうか」「家族ができるかどうか」「子供を学校に行かせられるかどうか」も個人の努力によって完全になされるべきという風潮が罷り通るようになってきた。

確かにそれらは個人の労働賃金によって支払われるべきだが、一方、それらができない人間は徐々に切り捨ての対象となる。
例えば日本の学力偏差値の50以下の人間はその対象に徐々に入っていくことになり、この層での人口再生産ができなくなっていく。

するとどうなるか。日本の人口は徐々に目減りしていく。
となった時に、今の経済界が行おうとしているのは移民の導入である。

ここには問題点がいくつかある。
まず一つ目は、本来であれば日本人の人口の再生産が、日本に住む日本人における長期的社会の継続的構築・運営をすべきであり、その権利があったが、それを失わせしむる、それを消極的にも(ある意味積極的にも)是認しうる思想があるということである。言わば一人の人間が生きるために腎臓の片方を売って、カロリーのある食べ物を仕入れているようなもので、その社会全体の長期的運営には寄与しない。
2つ目は、社会維持のための移民導入は経済を活性化するものの、文化間の違いによって社会運営上の衝突を生み、警察官の動員が激しくなり、更なる税金が投入され、それが限界に達すると治安維持を放棄せざるを得なくなるという選択肢が取られることだ(スウェーデン、イギリス、アメリカ。ブラジルは移民ではなく本国民自身の治安の元々の悪さと税金の警察への分配と運用が上手く行っていないので治安が崩壊している)。この場合、地域住民の社会的不安の増大は元より、その治安が保たれていたが故のそれをベースとした経済活動をも停止させる(自動販売機の設置がなくなるなど)。
3つ目は、移民導入派はそもそも国全体のGDPの押し上げと、それに伴う国家経済規模の拡大、そして税収の拡大を企図しており、それは元にいる国民の労働者の収入アップ(一人当たりGDPの上昇)を企図していないと言うことである。
4つ目は、移民による低賃金による労働者の導入をしても、移民自身は低賃金なので幸せにはならないということである。

仮に、日本において偏差値50以下の人間が徐々に目減りするとしよう。
その目減りした代わりに移民を導入したとしよう。

基本はその短期の数字上における運営は上手く行くとみなされるかもしれない。
しかし長期的には治安と言う名のインフラの破壊、それをベースとしている経済の減衰、社会保障費の増大が控えている。

そこに来るのは、スウェーデンのno-go zoneであり、カリフォルニアの万引き不逮捕であり、フィラデルフィアのゾンビ地域ではないだろうか。

本来日本にあるべきは、治安維持を人口比的に担い、そして社会を滞りなく上手く運用して回していく、偏差値50以下の人間の再生産であり、それの人口増大を担うべきなのではないだろうか。
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この世界の異常性 資本の支配と社会的サディズム

2023-09-24 01:59:13 | 雑感
巷には日本は素晴らしい、日本は優れていると言う番組や動画が溢れている。
しかしそれは本当にそうか? 
不当なブラック労働、度々報道されるいじめ問題、自殺、成長鈍化、治安悪化・・・

それらは世界から見れば些末な問題なのかも知れない。
だが一方においてそれらは問題と認識される以上、解決されるべき課題であるのではないか。
問題の解決を諦めることこそ人類社会においては忌避されるものとして扱ってきただろう。
立ち向かうことこそ、称賛されてきたことだろう。
しかしそれが解決されないのはなぜか? 
そう、我々がそれを問題として認識していないからだ。これを書き出していく。

1.資本の支配

 本来は、その生産物を生み出した労働側が偉いはずで、それらを差配するのは労働側の役目のはずだが、現在は資本側が全てをさらっていく。
 労働側に支払われるのは、労働者が短期的に(日常の生活を送れる程度に)維持できるだけの、かつ、長期的に(労働者自身が自分自身の子を為して労働層の形成が時代のスパンの観点で維持できる程度に)維持できるだけの給料であり、必要最低限の経費である。

 言わばこの資本主義社会は、長期的に見れば何かを生産し続ける犬ぞりである。犬ぞりの犬は必要最低限のエサしか与えられず、その稼働の担い手となるが、犬ぞりに乗っている人間は生産した何がしかの利益を、エサの割り振りと維持コストの支払いをした後は総取りをしていくシステムである。

 本来、なにがしかを生産する犬ぞりは、その稼働の担い手たる犬に然るべき報酬を与えるべきではないか? それが犬は犬たる所以にて、それを理解しない。これは人間社会でも同様である。

2.社会的サディズム

 この社会では、誰かが誰かをいじめることが肯定されている。
 本来、先天的に他人に加害行為をする対象の人間は、精神疾患としてそれなりの病院に言って投薬と主治医の診断による治療行為を受けるべきだが、彼らは社会の差配層に存在しているため、自らの行為を否定するような行動は起こさない。
 言わば彼らは精神疾患なのだ。それが改善すべき問題として存在するのに改善されていない。

私個人の体験と意見になるが、思えば、私の幼少期の周囲の人間の9割方は、こうした社会的なサディズムの肯定と黙認、あるいはその課題を認識しても目をそらし続けてきたサディストであった。今でもそうであろう。
あるいは上記のような形で挙げる精神疾患を患っていた。これは日本全国どこでもそうだろう。9割程度は「誰かが誰かを虐げても良い」と思っている精神疾患なのである。
(なのでこうした文章を書いてもまあまあに無力である)。

そうした異常な社会がここにあるのだ、と言うことをまず認識せねばならない。
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