いやそらね、最終的に商売でやっていて金を稼がなければならんもんだから、ビジネスは考えなければいけないですよ。
でもちょっと違うものを感じるんだよ。
日本の制作陣は確かに金は最終目標であるものの、どこかに「人に面白いと言わせたい」と言う作品を作るための欲求が存在していて、それを我々は感じることができる(現在のディズニーは全く感じないが、過去の手書き時代のディズニーは本当にそういう「人に面白いと言わせたい」と言う欲求が脂ぎっていて、逆に見ていて疲れるくらいである)。
が、どうにも現在のディズニーは「とにかく金儲けが最終目的」と言うのが見えていて、本当に切なくなる。
アニメと言うのものは本当にそれでいいの? と。
世界歴代興行収入上位の映画一覧と言うものがWikipediaに掲載されていて、映画興行収入だったらベン・ハーが一番かなとか思っていたのがかなりびっくりしたことに映画界の端っこの役目であったはずのアニメがかなりの数で食い込んでいる。
と言うところから見ると、やっぱり「面白い作品を作りたいからアニメを作る」と言うのではなく、「金になるからそれなりのものをそれなりの品質でそれなりの満足度でビジネス的に作る」と言う方式になっているんじゃないのか。
だから哲学がない。だから思想がない。だから人生に与える感銘がない。
いや、人と言うものは娯楽産業は元からそういうものであったのだからこの姿勢は正しいのかもしれない。
でもアニメ作品を作る姿勢は本当にそれでいいのか? 私は疑問だ。
確かに、私は遠い過去に、ここのブログで、「完璧でなくとも良いから8割程度の観客を満足させる適度な娯楽を数字から作るべし」と書いたと思う。つまり映像産業の完全なるビジネスを目指せと言うことを書いたのだった。
だが、一方において、映像作品の究極の役目とはその正反対で、真実を伝え、人を感銘させ、人の人生を変えさせて、少なくとも一週間程度はそれ以外の何者も考えさせられることがないようなショックを与えるべき、そのような役割と使命が映像のレゾンデートルであり、アイデンティティなのである。
これはゲーテがファウストの冒頭で描いた時点からの旧来からの問題であった。
即ち娯楽とは、人に感銘と感動と行動と思想と哲学を与える「作品」たるべきなのか、あるいは単に眼の前の客を満足させるだけのビジネスの消化に伴って生産される排泄物である「消耗品」であるべきなのか。
完全にどちらかに寄れば、それは破綻を意味する。よって我々はその中間のどこかに軸足を据えなければならない(尚、ゲーテがファウストの作中で出した結論は、「その両方をやれ」と言うことであったと私は解釈している)。