私は私自身の人生と性格を後悔している。
だが後悔してもどうにもならないだろう。もう一回同じ人生を歩んだとしても同じ失敗をするだろうし、何より私自身の性質と習性が変えられないからだ。
コミュニケーションも上手くできないし、気の利いたこともいえない。機転も利かないし、相手の気持ちも類推できない。
ないないづくしの私はきっと社会不適合者なのだろう。
アリストテレスは言う。人間は社会的動物なのだと。つまり個体間の協調が上手くいくのが人間としての持ち味であり、それが出来ぬ者は、能力が欠損した落伍者であり、低能力者である。そうなのだろうか? それでは私のような遺伝子が生き残ってきた意味は何なのだろうか?
人に迷惑をかけるだけにしか思えない自分の性質と習性は、人間社会にとって不要なものなんじゃないだろうか。気をつければそうしたことは防ぐことはできる。皆、家庭によってはそうした教育などをするのだろうか?
正直で嘘をつかず、謙虚になって、迷惑をかけたらきちんと謝る。こうした基本的なことは皆どこで教わったのだろう。いや、私自身に学習能力が無かったと言うべきだろうか。今更ではあるが、私自身には何も無いということを私自身が確認した。
そうした上で、今まで様々な場面で一緒にやってきた仲間の人たちは、私にとって私がその集団に属するには過ぎた人たちだった。人間が出来、優秀で機転が利いて頭もいい。悪いところが見当たらない。何よりも性格がいい、この一点だけで良い集団であると言うに値する。その中にあって私という存在は異分子であったに違いない。私は私の存在性をなるべく抑えるべきだった。だが、私の放埓放縦は至る所に迷惑をかけたに違いない。ジョブズや渡邉美樹氏など目ではない。迷惑をかけてしまった人たちに大変申し訳なく思う。
良い方向に考えるならば、今の私がそれに気づいて、なるべく悪い点を出さないようにするようにしていることか。ともあれ私は然るべきむくいは受けている。
思えば私はジレンマに悩んでいる。飲み会での「うぇーい」というような軽いノリにはついていけないのにも関わらず、そうした集会を羨んで妬んでいる。あまつさえは自分でやっている。本当はやりたくはないがノリがいい場面を無理やり出しているのだ。これが私のストレスとなっている。
なぜ皆、社会構造の根幹原理について考えないのだろう。
だが後悔してもどうにもならないだろう。もう一回同じ人生を歩んだとしても同じ失敗をするだろうし、何より私自身の性質と習性が変えられないからだ。
コミュニケーションも上手くできないし、気の利いたこともいえない。機転も利かないし、相手の気持ちも類推できない。
ないないづくしの私はきっと社会不適合者なのだろう。
アリストテレスは言う。人間は社会的動物なのだと。つまり個体間の協調が上手くいくのが人間としての持ち味であり、それが出来ぬ者は、能力が欠損した落伍者であり、低能力者である。そうなのだろうか? それでは私のような遺伝子が生き残ってきた意味は何なのだろうか?
人に迷惑をかけるだけにしか思えない自分の性質と習性は、人間社会にとって不要なものなんじゃないだろうか。気をつければそうしたことは防ぐことはできる。皆、家庭によってはそうした教育などをするのだろうか?
正直で嘘をつかず、謙虚になって、迷惑をかけたらきちんと謝る。こうした基本的なことは皆どこで教わったのだろう。いや、私自身に学習能力が無かったと言うべきだろうか。今更ではあるが、私自身には何も無いということを私自身が確認した。
そうした上で、今まで様々な場面で一緒にやってきた仲間の人たちは、私にとって私がその集団に属するには過ぎた人たちだった。人間が出来、優秀で機転が利いて頭もいい。悪いところが見当たらない。何よりも性格がいい、この一点だけで良い集団であると言うに値する。その中にあって私という存在は異分子であったに違いない。私は私の存在性をなるべく抑えるべきだった。だが、私の放埓放縦は至る所に迷惑をかけたに違いない。ジョブズや渡邉美樹氏など目ではない。迷惑をかけてしまった人たちに大変申し訳なく思う。
良い方向に考えるならば、今の私がそれに気づいて、なるべく悪い点を出さないようにするようにしていることか。ともあれ私は然るべきむくいは受けている。
思えば私はジレンマに悩んでいる。飲み会での「うぇーい」というような軽いノリにはついていけないのにも関わらず、そうした集会を羨んで妬んでいる。あまつさえは自分でやっている。本当はやりたくはないがノリがいい場面を無理やり出しているのだ。これが私のストレスとなっている。
なぜ皆、社会構造の根幹原理について考えないのだろう。