
クリスマスといえば、クリスチャンではない私たちにとっても、年の終わりの楽しみであり、ちょっとしたイベントであり、いつもと違う何かであると同時に、ひと時の安らぎを感じさせてくれるものだったりします。
この安らぎはどこから来るのかと考えると、それはイエスの誕生日だからと、みんなにもお祝いのことばとプレゼントとごちそうが与えられる日であるという気持ちが感じられるからでしょう。
東方の三人の博士たちも、お祝いのことばとプレゼントを持って、イエスのもとに訪れたのでした。
「マタイによる福音書」に書かれている「東方の三博士」とは誰だったのか、について調べています。
引き続きエイドリアン・ギルバート著「マギ・星の証言」から、抜粋して引用します。
*****
(引用ここから)
わたしはミトラ教が初期キリスト教の発展に大きな影響を及ぼしたと考えるようになっていた。
キリスト教の司教冠のことを“ミトラ”というのも、ミトラ教に由来しているのではないか、と言っても驚くにはあたらないであろう。
新興宗教であるキリスト教がミトラ教から引き継いだものは司祭冠だけ
ではないからだ。
キリスト教徒にとっては居心地の悪い気がするが、ミトラとローマ・カトリック教との間には多くの類似が見られる。
たとえば、12月25日はミトラ生誕の日である。
また、ローマのバチカン市の地下墓所にはミトラに捧げられた祭壇が隠されている。
このミトラの祭壇で、正確にどのような儀式が行われていたかは分かっていないが、ミトラ教が、後にライバルとなったキリスト教と共通する多くの要素をもっていたことは十分うかがえる。
神話学者キャンベルは、「神の仮面」で述べている。
・・・・・
ペルシアの救世主ミトラの中では、二人のアダム「原初の人間アダムとキリスト」が結びつけられている。
この世のかりそめにすぎない人生において、かれは罪からも、堕落からも自由であった。
神の子ミトラはナイフで木の実をとり、その葉で着物を作った。
かれはアダムと同じことをしたが、罪に問われることはなかった。
「神の仮面」より
・・・・・
またミトラは雄牛を生け捕りにして、肩に背負って洞窟まで運ばなくてはならないとされる。
ミトラはここで雄牛を犠牲に捧げるのだ。(これはキリストの受難の姿を思いださせる)
エジプト、特にアレクサンドリアは、古くからキリスト教共同体の本拠であった。
当時、アレクサンドリアには、多くのギリシャ人、ユダヤ人、そのほかの移民が住んでいたし、東部地中海諸国との間で人々は自由に行き来していた。
この国際的な都市にあって、初期キリスト教徒は地盤を固めるために、自分たちと古代の神秘主義教団との教義の類似を利用して、信者を獲得しようとした。
こうしたこころみによって、エジプトには折衷的なグノーシス派キリスト教の伝統が発展した。
ちょうどゴルゴダの丘でイエスが処刑されたことから多くの教義が引き出されたように、メンフィスの秘儀をキリスト教と結びつけたのである。
だが2世紀になると、保守化した教会はこうした寛容な対応を問題視するようになった。
グノーシス派は迫害され、西暦390年にはエジプトの異教信仰を禁止する法王の勅令が出された。
その前年にはセラピス神殿は接収され、教会に改造されていた。
マタイによる福音書に出てくるマギを導いた星が超新星だとは、われわれ二人とも信じていなかった。
むしろ、この星は全天で一番明るい星であるシリウスだったのではないか。
シリウスは近東全土で崇拝されていた星であり、エジプト人はこれを「王の誕生」と密接に結びつけていた。
マタイが福音書を記したのは、星の出現から30年ほどたってからのことだった。
マタイが想定していた読者は、おそらくユダヤ人ではなく異教徒だった。
マタイとしては、エジプト人やギリシア人やシリア人やその他の民族に、自分たちの救世主=福音書のイエスは単なるユダヤの預言者ではなく、普遍的な救世主であることを証明する必要があった。
そこで、イエスという人物が救世主であることを保証するための一つの方法が、イエスを「王の星」として神聖視されていたシリウスと結びつけることだったのではないだろうか。
古代エジプトでは、母なるイシスは人気のある図像であった。
神の子ホルスを産んだ未亡人の母イシスというシンボルが、聖母子像という形でキリスト教に受け継がれたことはよく知られている。
初期教会の時代、キリスト教の冬の祭りは公現祭・エピファニーであり、1月6日に祝われていた。
この祭りはイエスの誕生日とは関係なく、むしろヨハネによる洗礼を祝う日だった。
なぜなら、イエスは自分の使命を実行するに先立って、洗礼を受けて秘儀に参入する必要があったからであろう。
その後、融通のきかなくなった教会の教義では、「イエスは神の子であり、父と子と精霊という三位一体の2番目であり、全知全能である」とされた。
そしてイエスが“洗礼といった一連の通過儀礼を経て能力を得た”、という見方は聖職者にとって好ましくなかったために、忘れ去られてしまった。
イエスの洗礼の日付を異教徒の祭日に置いたことは、異教徒たちのキリスト教への改宗を促した。
アレクサンドリアの異教徒たちは、処女神コレーからアイオーンが誕生したこと(=この場合は新年を迎えること)を1月6日に祝っていたが、
彼らは彼らの最も重要な祝祭の日付を変えることなく、イエスをアイオーンと、マリアをコレーと同一視することを受け入れた。
のちに同様な理由で、イエスの誕生日であるクリスマスはミトラ教の主神の誕生日12月25日に移動され、その代わりに1月6日がマギの礼拝を記念する日になった。
キリスト教の起源をめぐる研究は非常に広範で、多くの問題をはらんでいる。
325年、異端と正統をめぐる問題を解決するため、二ケーア公会議が開かれた。
この公会議によって、キリスト教とかかわる秘教的知識、とくに古い星の宗教とのかかわりをめぐる知識の多くは失われた。
グノーシスの立場からすれば、教会の見方はひどく浅はかであるとされる。
教会は、キリスト教の寓意や神話の奥にひそむ叡智に気付かないばかりか、キリスト教のうまれる何千年も前の人々が知っていた、地理的、天文学的、人類学的な事実にもあまりにも無知だと言うのである。
だが、教会信条の立案者たちにとっては、こうしたグノーシスの知識は異端とされるのだった。
(引用ここまで)
*****
ミトラ教についての記述が少ないので、ミトラとグノーシスが混ざってしまいましたが、
“クリスマスの日にキリストの生誕を祝いに東方の三博士がやってくる”という、聖書の有名な一場面は、当時広く流布していたミトラ教の影響のもとに創作されたのである、と言われています。
イエスが生まれた日は分かっておらず、12月25日という日は、当時一大勢力を誇っていたミトラ教の主神の誕生日であると言われます。
“東方の三博士”なる人々は、イエスの誕生を祝いに来たと同時に、イエスの聖性を保証する“権威”でもあったと考えられます。
もう少し続きます。。
wikipedia「ミトラ教」より
ミトラ教またはミトラス教(Mithraism)は、インド・イランの古代よりの神話に共通する、太陽神ミトラ(ミスラ)を主神とする宗教である。
ヘレニズムの文化交流を通じて、地中海世界に入り、主にローマ帝国治下で、紀元前1世紀より5世紀にかけて大きな勢力を持つ宗教となったが、実体については不明な部分が多い。
クリスマスとミトラ教
12月25日はイエス・キリストの誕生日としてキリスト教の祭日となっている。
しかし実際にはイエス・キリストがいつ生まれたかは定かではなく、12月25日をクリスマスとして祝うのは後世に後付けされた習慣である。
聖書にもイエス・キリストが生まれた日付は記述されていない。
前述のローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣があった。
これは、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰による(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる。
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この安らぎはどこから来るのかと考えると、それはイエスの誕生日だからと、みんなにもお祝いのことばとプレゼントとごちそうが与えられる日であるという気持ちが感じられるからでしょう。
東方の三人の博士たちも、お祝いのことばとプレゼントを持って、イエスのもとに訪れたのでした。
「マタイによる福音書」に書かれている「東方の三博士」とは誰だったのか、について調べています。
引き続きエイドリアン・ギルバート著「マギ・星の証言」から、抜粋して引用します。
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(引用ここから)
わたしはミトラ教が初期キリスト教の発展に大きな影響を及ぼしたと考えるようになっていた。
キリスト教の司教冠のことを“ミトラ”というのも、ミトラ教に由来しているのではないか、と言っても驚くにはあたらないであろう。
新興宗教であるキリスト教がミトラ教から引き継いだものは司祭冠だけ
ではないからだ。
キリスト教徒にとっては居心地の悪い気がするが、ミトラとローマ・カトリック教との間には多くの類似が見られる。
たとえば、12月25日はミトラ生誕の日である。
また、ローマのバチカン市の地下墓所にはミトラに捧げられた祭壇が隠されている。
このミトラの祭壇で、正確にどのような儀式が行われていたかは分かっていないが、ミトラ教が、後にライバルとなったキリスト教と共通する多くの要素をもっていたことは十分うかがえる。
神話学者キャンベルは、「神の仮面」で述べている。
・・・・・
ペルシアの救世主ミトラの中では、二人のアダム「原初の人間アダムとキリスト」が結びつけられている。
この世のかりそめにすぎない人生において、かれは罪からも、堕落からも自由であった。
神の子ミトラはナイフで木の実をとり、その葉で着物を作った。
かれはアダムと同じことをしたが、罪に問われることはなかった。
「神の仮面」より
・・・・・
またミトラは雄牛を生け捕りにして、肩に背負って洞窟まで運ばなくてはならないとされる。
ミトラはここで雄牛を犠牲に捧げるのだ。(これはキリストの受難の姿を思いださせる)
エジプト、特にアレクサンドリアは、古くからキリスト教共同体の本拠であった。
当時、アレクサンドリアには、多くのギリシャ人、ユダヤ人、そのほかの移民が住んでいたし、東部地中海諸国との間で人々は自由に行き来していた。
この国際的な都市にあって、初期キリスト教徒は地盤を固めるために、自分たちと古代の神秘主義教団との教義の類似を利用して、信者を獲得しようとした。
こうしたこころみによって、エジプトには折衷的なグノーシス派キリスト教の伝統が発展した。
ちょうどゴルゴダの丘でイエスが処刑されたことから多くの教義が引き出されたように、メンフィスの秘儀をキリスト教と結びつけたのである。
だが2世紀になると、保守化した教会はこうした寛容な対応を問題視するようになった。
グノーシス派は迫害され、西暦390年にはエジプトの異教信仰を禁止する法王の勅令が出された。
その前年にはセラピス神殿は接収され、教会に改造されていた。
マタイによる福音書に出てくるマギを導いた星が超新星だとは、われわれ二人とも信じていなかった。
むしろ、この星は全天で一番明るい星であるシリウスだったのではないか。
シリウスは近東全土で崇拝されていた星であり、エジプト人はこれを「王の誕生」と密接に結びつけていた。
マタイが福音書を記したのは、星の出現から30年ほどたってからのことだった。
マタイが想定していた読者は、おそらくユダヤ人ではなく異教徒だった。
マタイとしては、エジプト人やギリシア人やシリア人やその他の民族に、自分たちの救世主=福音書のイエスは単なるユダヤの預言者ではなく、普遍的な救世主であることを証明する必要があった。
そこで、イエスという人物が救世主であることを保証するための一つの方法が、イエスを「王の星」として神聖視されていたシリウスと結びつけることだったのではないだろうか。
古代エジプトでは、母なるイシスは人気のある図像であった。
神の子ホルスを産んだ未亡人の母イシスというシンボルが、聖母子像という形でキリスト教に受け継がれたことはよく知られている。
初期教会の時代、キリスト教の冬の祭りは公現祭・エピファニーであり、1月6日に祝われていた。
この祭りはイエスの誕生日とは関係なく、むしろヨハネによる洗礼を祝う日だった。
なぜなら、イエスは自分の使命を実行するに先立って、洗礼を受けて秘儀に参入する必要があったからであろう。
その後、融通のきかなくなった教会の教義では、「イエスは神の子であり、父と子と精霊という三位一体の2番目であり、全知全能である」とされた。
そしてイエスが“洗礼といった一連の通過儀礼を経て能力を得た”、という見方は聖職者にとって好ましくなかったために、忘れ去られてしまった。
イエスの洗礼の日付を異教徒の祭日に置いたことは、異教徒たちのキリスト教への改宗を促した。
アレクサンドリアの異教徒たちは、処女神コレーからアイオーンが誕生したこと(=この場合は新年を迎えること)を1月6日に祝っていたが、
彼らは彼らの最も重要な祝祭の日付を変えることなく、イエスをアイオーンと、マリアをコレーと同一視することを受け入れた。
のちに同様な理由で、イエスの誕生日であるクリスマスはミトラ教の主神の誕生日12月25日に移動され、その代わりに1月6日がマギの礼拝を記念する日になった。
キリスト教の起源をめぐる研究は非常に広範で、多くの問題をはらんでいる。
325年、異端と正統をめぐる問題を解決するため、二ケーア公会議が開かれた。
この公会議によって、キリスト教とかかわる秘教的知識、とくに古い星の宗教とのかかわりをめぐる知識の多くは失われた。
グノーシスの立場からすれば、教会の見方はひどく浅はかであるとされる。
教会は、キリスト教の寓意や神話の奥にひそむ叡智に気付かないばかりか、キリスト教のうまれる何千年も前の人々が知っていた、地理的、天文学的、人類学的な事実にもあまりにも無知だと言うのである。
だが、教会信条の立案者たちにとっては、こうしたグノーシスの知識は異端とされるのだった。
(引用ここまで)
*****
ミトラ教についての記述が少ないので、ミトラとグノーシスが混ざってしまいましたが、
“クリスマスの日にキリストの生誕を祝いに東方の三博士がやってくる”という、聖書の有名な一場面は、当時広く流布していたミトラ教の影響のもとに創作されたのである、と言われています。
イエスが生まれた日は分かっておらず、12月25日という日は、当時一大勢力を誇っていたミトラ教の主神の誕生日であると言われます。
“東方の三博士”なる人々は、イエスの誕生を祝いに来たと同時に、イエスの聖性を保証する“権威”でもあったと考えられます。
もう少し続きます。。

ミトラ教またはミトラス教(Mithraism)は、インド・イランの古代よりの神話に共通する、太陽神ミトラ(ミスラ)を主神とする宗教である。
ヘレニズムの文化交流を通じて、地中海世界に入り、主にローマ帝国治下で、紀元前1世紀より5世紀にかけて大きな勢力を持つ宗教となったが、実体については不明な部分が多い。
クリスマスとミトラ教
12月25日はイエス・キリストの誕生日としてキリスト教の祭日となっている。
しかし実際にはイエス・キリストがいつ生まれたかは定かではなく、12月25日をクリスマスとして祝うのは後世に後付けされた習慣である。
聖書にもイエス・キリストが生まれた日付は記述されていない。
前述のローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣があった。
これは、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰による(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる。


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