始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

スサノオは渡来人だったのか?・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)

2012-01-07 | 日本の不思議(古代)


梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。

以前にも考察したスサノオと朝鮮半島の関係が再び問題になります。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


         (引用ここから)



「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。

おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。


その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。

クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。


八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。

鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。


このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。


出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。

つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。

そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。


このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。


オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。


オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。

これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。

しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。

こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。


このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。


そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。


島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。


やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。


スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。


わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。


          (引用ここまで)
 

            *****


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。


            *****


          (引用ここから)


神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。

神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。

神産巣日神はスクナビコナ神に対して「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」と言う。


日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。

オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。


         (引用ここまで)


           *****


しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。


          *****

 
         (引用ここから)


奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。

不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。


         (引用ここまで)


         *****


wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出
ない。


wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。


                ・・・


追記(2015・03・07)

コメント欄にご投稿いただいた方のご指摘により、下記の一文を追記させていただきます。

                 ~~~

上記にご紹介した梅原氏の文章には、〝スサノオがやってきた場所″の推定として、数多くの表記が混在しています。

新羅
韓の国
韓国
朝鮮
新羅の国
朝鮮の国
海の彼方

これらは、国家としてではなく、〝当時朝鮮半島に存在していた文化″という意味合いで使われているものと思われます。

                 ~~~


関連記事

「ブログ内検索」で

スサノオ   11件
出雲     12件
朝鮮     15件
新羅      8件
ソシモリ    2件
渡来民     2件
古事記    13件
日本書紀   15件
ヒスイ     3件
三輪山     3件
日本海    10件
オオモノヌシ  1件

などあります。(重複しています)


コメント (15)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 梅原猛の「古代出雲王朝の謎... | トップ | 出雲の国譲りと、たたり・・... »
最新の画像もっと見る

15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
韓国? (ものいい)
2015-03-05 17:26:08
「韓国から来た」と書くのは誤解を招きます。現代では韓国は大韓民国のことですので。それにその当時は韓国人というアイデンティティは無かったはずですし。
渡来した当時の国名が明らかでは無いのなら「朝鮮半島から来た」と記すべきかと思います
たとえ梅原がそう記していたとしても原文ママで注釈すべきです
返信する
ご指摘ありがとうございました。 (veera)
2015-03-07 07:30:25
ものいい様

コメント、どうもありがとうございます。

ご指摘のとおりだと思います。

読み返してみましたが、梅原氏の原文では、スサノオがやってきた場所として、一続きの文章の中に、数多くの表記が混在していますね。

新羅
韓の国
韓国
朝鮮
新羅の国
朝鮮の国
海の向こう
海の彼方

わたくしは、ご指摘の「韓国」を、自分では「からくに」と読んでいました。

国家としての大韓民国ではなく、「から」という音がぴったりするように思ったのです。

しかし梅原氏は同時に「朝鮮」や「朝鮮の国」とも書いておられますので、やはり混乱しているという印象は受けますね。

記事にも、「多くの名称が使われていますが、すべて〝朝鮮半島から来た″という意味合いで使われているものと思われます」と追加文を入れようと思います。

ご指摘ありがとうございました。
返信する
歴史のタブー (名無し)
2016-08-15 13:32:25
日韓の史料を見れば新羅は日本人による王朝であることが判ります。

「新撰姓氏録」によると神武天皇の兄である稲氷命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
「三国史記」によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は日本人(倭人)
「三国遺事」によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
「古事記」「日本書紀」によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
「三国史記」によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は日本人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたりという見方がある)
「三国史記」によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(朴氏昔氏瓠公も全て日本人なので金氏も…)
返信する
コメントをどうもありがとうございました (veera)
2016-10-22 03:48:35
名無し 様

コメントをどうもありがとうございました。

お返事が大変遅くなり、申しわけございません。

貴重な記述をありがとうございます。

たいへん興味深く拝見しています。

このブログでも、朝鮮半島の文化と古代日本の文化の関係については、たくさん考察しているつもりですが、調べれば調べるほど、両者の関わりは深く、切っても切れない関係であるように思っております。

ご指摘のように、古代日韓関係の謎を解くことは、大変重要なことだと思い、今後も勉強してゆきたいと思っております。

コメントくださいました同書の他の紹介記事のタイトルとリンクを記しておきます。

「梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(1)・・アマテラスとスサノオという光と影」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106

「出雲の国譲りと、たたり・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7

「×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258

「アマテラスはどんな女神だったのだろう?・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(6)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/d5efd727653d4bbf8cbeede747c224b2

「古事記は勤務評定?・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(7)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/4d6af2917e0f605175818cc4a1a8bb0e

「禊払いと権力・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(8)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/e0746f74256c9406411c1b8958c26308
返信する
Unknown (Unknown)
2017-07-12 01:53:01
朝鮮半島と切っても切れない関係ってなんですかね?
気持悪すぎて吐きそうです
返信する
暑中御見舞申し上げます (つわぶき)
2017-07-14 13:32:04
   
 veeraさん、こんにちは。
        ご無沙汰しております。
        自分で決めた課題に手をつけられず
        (諸事情がありまして。)
        日本の古代史も知りたいと思って
        おりましたので、落ち着いたら
        ご紹介の書籍を読みたいと思います。

ということと、よろしければ
「石渡信一郎」さんの書籍を探して、目を通してみていただきたいな、と思います。

諸説ありなかなか纏めるという、結論を急がずもveeraさんの腑に落ちる所を探されて記事を更新していかれる。そんな記事を読ませていただけたらと思います。
返信はいつものことですが、心配いりませんので、
また秋頃に少しは実のある書き込みができるように暮らしたいと思います。

では、おからだをご自愛され無理なさらず、夏を過ごされますように・・

      
   
返信する
コメントありがとうございます。 (veera)
2017-08-16 07:30:44
Unknown様

コメントどうもありがとうございます。
朝鮮がお嫌いなんですか?
でも、焼肉とかキムチとかナムルとか美味しいし、けっこう日本文化の中に浸透しているのではないかと思います。
好みは、個人の自由ですから、なんとも申し上げることはないのですが。。
返信する
コメント、どうもありがとうございます。 (veera)
2017-08-30 20:44:23
つわぶき 様

ご無沙汰いたしました。
研究書のご紹介、どうもありがとうございました。
石渡信一郎氏のご著書は、前に読んだような記憶があります。
大まかに言って、いわゆる、日本の土台は朝鮮半島からきている、という説のように記憶しています。

ほんとうに、たいへん古い時代のことで、当時は、日本にも朝鮮半島にも、今から見て国家とよべるほどのものは、たいして無かった、のではないか、とも思います。

わたしがこのテーマを長々調べて、どうしても言いたいこと、というのは、この近辺の地域は、みんな古くからつながっているにちがいない、ということです。

同じテーマの勉強も、まだしているのですが、他のテーマも目白押しにあるので、今はまた全然別のテーマに話が変わっておりますが、日韓問題というより、古代東洋史といえるくらい、視点を広くして、また続きも書ければ、、と思っております。

これからも、読んでいただければ幸いです。

少し涼しさが感じられるようになってきました。
どうぞお元気でお過ごしくださいませ。




返信する
古代史は石渡信一郎から始まる (むらかみからむ)
2017-11-05 00:11:46
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。

簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

で、用明も蘇我馬子も聖徳太子も たった一人の実在人物 
アメノタリシヒコを 分けて書いているのですよ。
返信する
とり急ぎ... (つわぶき)
2017-11-11 13:40:00
veeraさん、こんにちは。

ご紹介したいブログに出会いましたので、

ブログ名 great spirits

https://greatspirits.jindo.com/

こちらのホームの最後のことば
・・・・・・この自覚は、我々を真の故郷へと導く。
そして その地とは、他ならぬ 「自分自身」 である。

現代社会に違和感を感じておりましたわたしが何か手ごたえを感じ始めております。

veeraさんのぶろぐに出逢えて一年が過ぎようとする今、偶然にも石渡信一郎さんの思いを語ってくださる方が現れてくださいました。

わたしの目指している思いは「真実」が今の世から遠ざけられている気がしていたので、探したい。

great spiritsさんのブログに
「古代文明」 「ネイティブアメリカン」のカテゴリーがございます。ぜひ、お目を通してみてください。
(プロフィールもぜひ、)

天皇家へ言及した言葉がございます。
他の民族の魂は信じられるのですが、天皇の歴史には疑問を感じております。
残念ながら、わが国は教育や歴史など、いま一度問い直した方が良いのではなかろうか?

そうして、veeraさんの十年のぶろぐの資料からも見えてくる 「真実」。 もっと世の人々に知っていただいたら・・・。 石渡信一郎さんが真実を求められた思いと同じなのではないでしょうか。


最後に 突然に申し訳ございませんのお詫びを書かせていただきます。
スミマセン.....とり急ぎ、今のわたしの思いを置かせていただきますので、よろしくお願いいたします。

いつもありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

日本の不思議(古代)」カテゴリの最新記事