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イロコイ族の先祖がいかにしてベーリング海峡を渡ったか、という問題は、アメリカ大陸と人類という壮大なテーマであり、北米と南米の人々のつながりということも大きなテーマであると思います。
したがって、この話はまだ続くのですが、インカ帝国展の余波がわたしの中で発酵しているので、別のテーマに移ります。
この春見に行った「インカ帝国展」では、アンデス地方の本物のミイラ五体が展示されていました。
その姿を見てから、ミイラのことがずっと頭から離れません。
以前図書館で、内藤正敏氏の「日本のミイラ信仰」という本を発見して以来、何度か繰り返し読みました。
延滞して通知が来たり、返して別の図書館でまた借りたり、何度読んだか分からないくらいです。
何度も読んだのは、難解だからなのと、書いてあることの意味がよくわからなかったからです。
私はいろいろなミイラに興味をもっておりますが、自分で自分をミイラにする=自分がミイラになる心意気をもっている日本のミイラほど立派なものは世界にも少ないと思うので、この本を読むと、その尊敬するミイラさんたちに会えて、ただただ嬉しい気持ちでいっぱいになります。
内藤正敏氏の著述はこのような感じで進められます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
世界各地の人工ミイラと「即身仏」は、技術的にも思想的にも著しい違いがある。
「即身仏」は医学的にはミイラであっても、単なるミイラではない。
世界でも特異な「即身仏」というミイラ信仰について考えるために、歴史の闇の奥へ奥へと分け入っていくことにしよう。
(引用ここまで)
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しかし、書いてあることが何度読んでも理解できないので、繰り返し読むことになりました。
即身仏とは?
非常に複雑なようです。
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(引用ここから)
湯殿山即身仏
江戸時代、出羽の湯殿山で集中的に生まれた「即身仏」と呼ばれるミイラは、世界の人工ミイラのように死後の遺体に大がかりな科学的、物理的な処理を施してミイラ化したものではない。
「木喰行」といって、木の実くらいしか口にしないという徹底した食事制限によって生前から肉体の脂肪分を落とし、生きているうちに修行によってミイラになりやすくした、と言い伝えられている。
木喰行は穀物を断つ修行で、「穀断ち」といい、中国道教の神仙修行にも用いられた。
しかし中国の神仙修行の場合は神仙薬を飲むためのものだったが、湯殿山などでは木喰行そのものが宗教的な修行として重視された。
穀断ちには五穀断ちと十穀断ちがある。
五穀は米、麦、大豆、小豆、胡麻。
これに蕎麦、稗、あわ、唐もろこし 栗を加えて十穀とするとも言われるが、この穀物の種類は一定していない。
木喰行を続けると体中の力が抜け、鉄龍海上人の晩年は風呂に入るとき、どうしても身体が浮かんだようになり、近所の子供たちが押さえつけて入れたものだという。
いわば木喰行はゆるやかな餓死行為であり、断食よりはるかに期間が長いだけに、その苦しみも比較にならないものだった。
(引用ここまで)
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出羽三山については、以前ヤタガラスをめぐって、当ブログで考察をしたことがあります。
「東北のヤタガラス」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/s/%BD%D0%B1%A9%BB%B0%BB%B3
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歴史
出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。
崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。
そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。
月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。
出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。
古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。
江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。
すなわち、羽黒山出羽神社は、伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。
羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が残され、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。
月山神社は、本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。
湯殿山神社は本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。
東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。
出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。
出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。
それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は女人禁制であった。
別当寺は、女人参詣所という役割もあった。
なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。
出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、出羽三山の参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。
庄内藩は大網に「大網御番所」を置いて、これを管理した。同じく、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」が置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。
志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。
明治の神仏分離で神社となった。
1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。
その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。
旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。
戦後、神社本庁の別表神社となった。
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