「原発後の世界」、「脱原発の世界」はどのようにしたら構築しうるだろうか、と思って、「レヴィ・ストロースとの対話」を読んでみました。
日本語訳が1970年に出ている、古い本です。
文化人類学者であるレヴィ・ストロースは、“未開社会”とよばれる世界を研究対象としましたが、そこに存在するのは、“未開な”社会ではなく、わたしたちの属する近代社会とは“異なった”形態の社会であると考えるべきだ、ということを見出した人だといえると思います。
“未開社会”は、便利さや迅速さを求めて、社会を変革しようという気持ちをもたない社会であり、その意味では「冷たい社会」であると言える、と彼は言います。
一方便利さや快適さを求めて変革し続ける衝動をもつ、わたしたちの属する社会を「熱い社会」と名づけています。
若い頃、はじめて読んだ時には最初、ジャングルや砂漠のイメージから、“未開社会”の方を熱い社会かと思ってしまい、エアコンの効いた涼しい“近代社会”は冷たい社会かと思ったものですが、
筆者が言おうとしていることは全然そういうことではなく、“われわれの近代社会”は実に、他に類を見ない程、混乱し、迷動し、浮沈の激しい、非常に特殊に“熱い”社会である、ということだったのでした。
そのように、自分たちの属する社会を相対的に見る視点を知った時の驚きは、大変大きなインパクトをもっていました。
以下、すこし抜粋して引用します。
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(引用ここから)
問 「未開社会」と「近代社会」との決定的な差異は何でしょうか?
レヴィ・ストロース 社会は少しばかり機械に似ていて、それに二つの大きな型があることが分かります。
「工学的機械」と「熱力学的機械」とです。
「工学的機械」は、最初に与えられたエネルギーを用いて、もし摩擦や加熱が全然なければ、出発点に与えられた最初のエネルギーでもって論理的には際限なしに作動することができると考え
られる「機械」です。
一方、蒸気機関のような「熱力学的機械」は、その諸部分、つまりボイラーとコンデンサーとの温度の差によって作動します。
これは「時計」のような「工学的機械」よりもずっと大きな働きをしますが、しかしそのエネルギーを費いながら、次第にエネルギーを消尽してしまうのです。
民族学者の研究する諸「未開社会」は、われわれの大きな「近代社会」と比べると、 「蒸気機関」に対して「時計」がそうであるように、「熱い社会」に比して少し「冷たい社会」であると言えましょう。
それは物理学者がエントロピーと呼ぶところのあの混乱を、ごくわずかしか生じない社会であって、どこまでも始めの状態の中に自分を保とうとする傾向をもっています。
だから私たちは、そうした社会が歴史も進歩も無いように見えるわけです。
一方、「われわれの社会」はその社会構造という観点からして、「蒸気機関」に似ています。
つまり作動するためにポテンシャルエネルギーの差を利用するわけで、その差は社会階級のさまざまな形態によって実現されているのです。
このような社会はその内部に不均衡を作り出すに至ったのですが、その不均衡を利用してさらにずっと多くの秩序と同時に、さらにずっと多くの混乱を、ずっと多くのエントロピーを、人々の間の関係という平面の上に生み出しているのです。
問 「未開社会」、また、「現代社会」の内部における「不平等」という語の価値はどのようなものですか?
レヴィ・ストロース 「未開社会」はその一つ一つが、「近代社会」と異なっているのと同じくらい、互いに異なっています。
このことはいくら繰り返し述べても十分でないほどです。
とはいうものの、全体としての大きな違いは何かと言えば、意識的または無意識的な仕方で、「未開社会」は、西洋文明の飛躍を可能ならしめ、あるいは有利にしたところの、あの“構成人員の間の格差を生み出すこと”を避けようと努める、ということです。
その最も有力な証拠の一つは、「未開社会」の政治組織の中に見出されるようです。
そうした社会では人々は討議し、投票します。
しかし満場一致でなくては決して採決されません。
オセアニアの人々の例でいうと、重要な決定がなされる場合はまず前夜か前々夜に、一種の儀礼的闘争がおこなわれ、その中ですべての古い争いは、多少とも模擬的な闘争によって、水に流されるのです。
その争いでは、危険を避けるように努力していても時として負傷者の出る場合もあります。
こんなふうに、社会は不和の動機をことごとく浄化することから取り掛かるわけです。
その後で始めて、不一致の種を除いて、清新の気を吹き込まれ若返った集団が、満場一致となるであろう決定をなす、、かくして“共通の善”を表明する立場に立つのです。
問 決定に依存しない満場一致の状態があるのですね?
まず一致の状態を作り出し、それから決定のため意見を問うのですね?
レヴィ・ストロース その通りです。
集団が集団として永続するためには、全員の意見一致が必要不可欠なものと考えられているのです。
すなわち、今しがた言ったことをよく考慮に入れていただけるのなら、これは分裂の危険に対する防衛と言えましょう。
社会集団の中に、善人かもしれぬ側と悪人かもしれぬ側との間に、暗々裏に位階制度が形成される危険に対する防衛であるわけです。
言い換えれば、少数派というものが無いのです。
社会はそこでは、すべての歯車が同じ活動に調和的に参与している時計のように存続しようとするのであって、自分の内部に潜在的な敵対関係、つまり(近代社会の動力源であるところの)“熱源と冷却装置”のような敵対関係を隠匿しているように見えるあの蒸気機関(近代社会)のように動くのではありません。
いわゆる「未開社会」は、ある点までエントロピーの無いシステム、あるいはきわめてエントロピーの弱いシステムで、一種の「絶対零度」・・物理学上の温度でなく、「歴史的温度の絶対零度」で作動する、と考えることができます。
我々の社会のような歴史的社会はもっと高い温度をもつと言えましょう。
もっと厳密に言えば、それはそのシステムの内部の温度差、社会的差別に由来するところの大きな温度差によって存在しているとでも申せましょうか。
「歴史なき」社会と「歴史的 」社会とを区別してはなりますまい。
実際にはあらゆる人間社会は歴史を持ち、その歴史はそれぞれの種の起源にまでさかのぼるのですから、同じだけ長いわけです。
しかしいわゆる「未開社会」が、歴史の液体に浸っていて、その水を自分の中に浸透させないようにしているのに反し、我々の社会は、歴史を自分の発展の原動力とするために、いわば歴史を内部に取り込んでいるのです。
未開人は彼らの文化によってほんの少しの秩序しか作り出しません。
彼らはその社会のなかでほんのわずかのエントロピーしか生み出しません。
これらの社会は平等主義的で、「機械的な型」に属し、意見一致の原則によって律せられています。
それと反対に、文明人はその機構や文明の大事業が示しているように、その文化の中で多くの秩序を作り出していますが、社会の中では多量のエントロピーをもまた、作り出しているのです。
(引用ここまで・つづく)
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上の写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」です。(「ホピ・神との契約」より転載)
文明社会と自分たちの社会との対比を岩に記した「ホピ族」に関する研究が、当ブログの主テーマであるとすると、この話はホピ族の世界観に似ていると言うこともできると思います。
ホピ族は白人社会に激しく抵抗し、自分たちのアイデンティティを白人との対比の上に置きました。
その説明的図である岩絵が、「ロードプラン」と呼ばれる上の写真の絵で、そこに描かれている二本の線を、われわれの「熱い社会」の線と、彼らの「冷たい社会」の線であると言ってもよいと思います。
ホピ族によれば、白人の世界に未来は無く、ホピ族の伝統的な生き方に従う者には長い生命が与えられる、ということです。
そうであるとすると、わたしたちはレヴィ・ストロースの言う「熱い社会」の方が「冷たい社会」より偉いわけでも強いわけでもない、という考え方を、もう一度確認するべきなのだと思います。
原発というやっかいな「かまど」の火を、いったいどうしたらいいのか?
本当に「かまど」の火を消すことはできるのか?
燃えているものは、何なのか?
「熱い社会」の熱を冷却するための知恵があるはずだと思えます。
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