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「原発後の世界」「脱原発の世界」はどのようにしたら構築できるのだろう?と考えようと思うと、やはり透徹した眼力のあるレヴィ・ストロースを読んでみたくなりました。続きです。
「レヴィ・ストロースとの対話」という1970年に日本語版がでた、古い本です。
「冷たい社会」と「熱い社会」という概念を用いて、現代社会についてのインタヴューに答えています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
近代社会が「熱い社会」であるとすると、よく言う、「持続可能な社会」は、その「熱が高温にならない社会」であろうと思いますが、レヴィ・ストロースは「持続可能な社会は実現する」と安易には発言しない立場を取っています。
そう考えられる論拠がはっきりないからでしょう。
個人的には、引用文の中の、以下の部分が要になると思っています。
これはインタビュー番組で、彼が民族学者として、普段なら自分が属する社会について提言するような言葉は使わないのですが、四苦八苦して答えているのが、面白いところです。
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未来の正しい社会と、民族学者の研究する社会の間には、一つの差異、ほとんど対立と言えるくらいの差異が存在しつづけるでしょう。
それらの社会は、いずれも「歴史的ゼロ度」にきわめて近い温度で活動するでしょう。
しかし、一方は社会の平面において、他方は文化の平面においてそうなのです。
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(引用ここから)
レヴィ・ストロース たとえば社会的あつれき、政治闘争など、すべての未開社会がたぶん私たちが考える以上に意識的で組織的なやり方で避けている混乱を、私たちは生み出しているのです。
そこで、文明の大きな問題は格差を保つということでした。
植民地主義とか、帝国主義政策とかがそれですが、それはとりもなおさず、社会そのものの内部において、または被征服民の社会において、たえず支配層と被支配層との間の格差を実現しようとすることなのです。
しかしこの格差は、不動性に向かおうとする蒸気機関の場合と同じく、常に一時的なものです。
というのは、冷たいエネルギー源は熱くなるし、熱いエネルギー源は温度が低くなるというわけですから。
差別をつくる隔差は、したがって、平らにならされる傾向にあり、その都度新しい差別をつくる隔差をつくる必要があります。
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レヴィ・ストロース われわれの社会については、進歩と最大の社会正義の実現は、社会のエントロピーを文化に移すことにあるはずだ、と考えることができましょう。
私はサン・シモンにならって、「現代の問題は「人間支配」から「事物の統治」へ移行することにある」と繰り返しているにすぎません。
「人間支配」とは、(近代)社会であり、増大するエントロピーです。
事物の統治とは“文化”であり、つねにより豊かで複雑な“秩序”の創造です。
とは言え、未来の正しい社会と、民族学者の研究する社会の間には、一つの差異、ほとんど対立と言えるくらいの差異が存在しつづけるでしょう。
それらの社会は、いずれも「歴史的ゼロ度」にきわめて近い温度で活動するでしょう。
しかし、一方は社会の平面において、他方は文化の平面においてそうなのです。
これこそ私たちが、産業的文明は人間性を失わせるものだ、と言う時、あいまいに表現あるいは認識しているところの事実なのです。
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レヴィ・ストロース 未開社会では、住民の全員が、われわれの社会の場合よりはるかに充実した全面的なやり方で、集団の文化に参与していることはたしかです。
未開社会と呼ばれる社会の生活の中では、大掛かりな宗教儀礼とか、祝祭、舞踏などの形で、文化への集団参加が行われ、しかもそれが生活の中で相当重要な位置を占めています。
生産に充てられる活動と同じくらい、時にはそれ以上に重大なくらいです。
ところで賢者、祭司、司式者は、集団全体のものである一つの生活様式、一つの行動の型、宇宙を理解する一つの仕方の、化身であり範例であるのです。
他の場合、たとえばアフリカ人社会や他の牧畜民型の社会における鍛冶師のカーストを考えると、鍛冶師は動物や植物とはかかわりなしに、大地の中の鉱物とそして火と関わりをもっています。
彼らは集団の秩序とは別の秩序からもたらされる知識と技術の所有者です。
その結果、人々は彼らに、同時に尊敬と恐怖、讃嘆と敵意とがもたらした特別の地位をあてがうのですが、その立場はちょうど我々の現代社会の中のある専門家のおかれる立場と類似している、またはその傾向にあるように見えます。
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レヴィ・ストロース いや、すこぶるあいまいな感情を抱いているのでしょう。
最近アメリカで男女の青年に対して行われた「科学者」について青年たちが抱いているイメージをはっきりさせようという目的のアンケートがありました。
むろん現代では科学者といえば、原子物理学者です。
ところでそのイメージと、それに対応する態度とは、一種の恐怖と嫌悪とを、ほとんど神秘的、宗教的な讃嘆に結び付けたようなっものなのです。
ここにはわれわれの観察した未開社会の人々の鍛冶師階級に対する態度と大変近い態度が認められます。
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レヴィ・ストロース その通りです。
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レヴィ・ストロース たしかに意味が無いのです。
それらの社会はいずれもその本質的目的、その究極的目標は、その存在の中に、祖先が創設したものをそのまま、しかも祖先がそのようにしたというだけの理由で、執拗に継続することにある、と考えています。
「祖先がそうした」、という以外の裏づけは要らないのです。
私たちがある情報を提供してくれる未開人に、ある習慣ないし制度の理由を尋ねる時、「わしらはいつもこのやり方でやってきた」、これが例外なしに必ず聞かされる答えなのです。
その習俗は、“それが存在する”という以外にそれを裏付ける理由が無いのです。
その合法性は、その“持続”に依存しているのです。
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レヴィ・ストロース そう。 しかしそれは我々の社会がポテンシャルの差異の上に、内的格差の上に、機能を保っているからです。
(引用ここまで・つづく)
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「持続可能な社会」を求めるならば、わたしたちは“近代社会”を捨てて、“未開社会”と私たちが呼ぶところの社会システムを、意識的に構築することが有効なのだと思います。
それは未開社会と同じことをすることではなく、未開社会のもつ「良き本性」を指標にする社会であることでしょう。
それは「文化の上で歴史的ゼロ度を示す」文明であることでしょう。
エコとネイティブは、雑貨屋さんでも同じような雰囲気ですが、それがどのようにしたら、いわゆる“少数派”や、センスのいいおしゃれや、文化の飾り、あるいはエキセントリックな体制批判でなくなる時が来るのかを考えるべき時が来ている、のだと思います。
しかしそれは、かつて幾度と無く繰り返し試みられてきた挑戦でもあり、ひとつも新しいことではないことも確かです。
はてしない“ボタンの掛け違い”は、まさに文明の温度を上げる作用そのものかもしれません。
「解き放つこと、旅すること、眺めること、、」と言ったのは、レヴィ・ストロースでした。
この文明から解き放たれることが必要なのだと思います。
写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」(「ホピ・神との契約」より転載)
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