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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

読んでくださって、ありがとうございます。

2015-08-19 | 心理学と日々の想い



長崎で被爆されて、お連れ合いを亡くされ、ご自身が、愛児2人を残して世を去られるにあたり、反戦の思いをしたためられた、長崎医科大学医師・故・永井隆氏のご遺言をご紹介させていただいた、8年前の当ブログの記事が、今月、突然たくさんの方に読んでいただきまして、びっくりいたしております。

日ごろまったくなじみのない、ツイッターとか、フェイスブックのイイねやら、リンクご紹介とか、なぜだか唐突に広まりまして、とってもびっくりいたしております。

ツイート382件、フェイスブックのイイね、リンクが28000件のようです。

私は、十数年前に、この言葉を元沖縄県知事の大田昌秀氏の講演会のテープを起こすために、肉声で、仕事で伺いまして、十数年たつ今も、深く魂に、離れがたく焼き付いております。

そこで、今回、今まで書き溜めて埋もれていた、当記事に関係のある「ブログ内関連記事」を、リンク張りをしてご紹介しようかとも思ったのですが、やっぱり、違う。。

リンク張り、精一杯、2日はしたけれど、それ以上は、できない。。

それが、いいね!を信じられないほどたくさんくださった、見知らぬ方々への礼儀であろうと、思っている次第です。。

今後とも、時々ではあると思いますが、どうか、ご覧いただき、ご厚誼を賜りますよう、お願い申し上げます。。



ブログ内関連記事

「愛し子よ、愛で身を固めなさい・・長崎の被爆者・永井隆氏の遺言」

「野生の思考・社会・脱原発」カテゴリー全般
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老人ホームの母・・有りがたき日々

2015-07-16 | 心理学と日々の想い


今日は、忙しい一日だった。

なぜなら、介護保険の制度が変わったからだ。

母と伯母の、両方の老人ホームをかけずりまわる。

母は、おやつを食べるのに、悪戦苦闘していた。

なので、手伝ってあげていたら、早や4時になっていた。

それから居室にもどって、あれこれ話をしていたら、夕食の時間5時半になった。

母は、「行かない」と言ったのだけれど、「わたしもいっしょに行くから」というと、「いいわ」、と言った。

なので、夕食のお手伝いもした。


職員さんたちの八面六臂の大活躍も、しかと見た。

わたしは、こういう所が大好きだ。


夕食は6時からなのだけれど、皆さまが集まり始めるのが5時半ごろ。

寝ている方に声掛けして、食堂につれてくるのに、30分は短すぎるくらいだ。


           ・・・


ブログ内関連記事

「春分の夜の蝶」

「食べることが終わる時」

「むねが裂ける・・肉体はたましい」

「石牟礼道子の語り「名ごりの世」・・いとしく想いあう風景(1)」(3)まであり


「心理学と日々の想い」カテゴリー全般
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春の想い。。

2015-03-26 | 心理学と日々の想い


さよなら3月、また来て4月。。

子供を育てていると、3月はほんとうにさよならの時で、4月は新しい時のはじまりだ。

次の1年、どうなる、、わたしも思わず唇をかみしめる。。


このブログのタイトルの「始まりに向かって」は、わたしの「始まり」へのこだわりから名付けました。

なにかの始まりは、なにかの終わり。。

なにかの終わりは、なにかの始まり。。


「始まり」とは、始源とは、どこにあるのだろう?

そして、それはどこに向かっているのだろうか?
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サイトは消滅するのかな?、それとも、継続するのかな。。?

2015-02-26 | 心理学と日々の想い



毎年12月25日、クリスマスの日というと、一年のうちの特別な1日という思いが世に広まり、なんとなく楽しみな日ですが、今年の2月25日、すなわち今月の25日は、わたしにとりましては、前述のとおり、、あまり楽しみには思えない日です。

わたしの親くらいの年齢の人は、自分のお葬式に、「まんじゅう本」と称する、葬式まんじゅうの代わりに、(あるいはそれに添えて)在りし日に詠んで書き溜めた自分の短歌集などを、参列してくださった方々に配りたく思う方々がいらっしゃいました。

わたしの、このブログも、いわば「まんじゅう本」の類で、なにほどのこともないのですが、やはり「在りし日の歌」(中原中也)という感傷は、ぬぐいきれません。

新しいテーマを次々と書き継ぐ意欲は、いまのところまだありますので、お店がつぶれても、次のお店を出すだけだ!、、という気概はあるのですが、自分にとっての古い記憶の部分は記憶の間違いが生じるのがこわいので、保存したいものだと思っております。

この一文はブログ内の「日々の想い」というカテゴリーに書いておりますが、日々とは、決して日常的なものではなくて、幾重にも折り重なった、重層的な、ふしぎの物語であろうと思っております。

今日もわたしにとっては、あれこれと忙しい一日でしたが、それとはべつの時間がたしかに流れていた、と思われてなりませんでした。















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サイト移転かも、、のお知らせ

2015-02-20 | 心理学と日々の想い


いつも、お読みいただき、ありがとうございます。

じつは先月お財布を落としまして、中にあったキャッシュカードの紛失手続きをいたしました。

すっかり忘れていたのですが、こちらの無料ブログの有料追加サービス「Gooアドバンス」という月額290円のお支払いも、そのカードで決済しておりました。

先日、その先月分のカード決済が成立しなかったという旨のメールが届きました。

カード番号の変更手続きがうまくいかない場合、私のGooアドレスが削除され、ブログも削除される、と書いてありました。

期日は2月25日ということで、ぼんやりしていた私は、おそらく2度目の通告らしく、猶予時間が短く、慌てております。

もしも、25日までに290円の支払いが成立せず、ブログが削除された場合には、同じ題名で、同じ趣旨で、同じGooブログとして、ゼロから立ち上げますので、その節は、また読みにいらしていただきたく、お願い申し上げます。


タイトルは同じ「始まりに向かって」にするつもりです。

700件近い記事が泡と消えることを思うと、無念の極みですが。。

ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。
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ブログを始めて6年3か月・・これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

2015-01-05 | 心理学と日々の想い





6年前の10月1日に開始して以来、今日まで、読みに来てくださる皆様のお力を励みに、6年3か月、ブログを継続することができましたことを、お礼申し上げます。

昨秋の10月頃は、用事が重なり、ブログが書けなくて、6周年のご挨拶ができず、心残りでした。

そこで本日、年頭のご挨拶と共に、遅ればせながら、6周年のご挨拶を申し上げたいと思います。





子どもが生まれると、よその方に「今、何才ですか?」と聞かれると、即座に「5か月です」とか、「あと3日で4才です」などと答えることができました。

今も、私の心のカレンダーの中には、子ども達の年齢が刻みこまれていて、子ども達なしの人生はありえません。

しかし、私の心の中には、もう一つの求心力がありまして、それは、ここに縷々と書き連ねているような、人類と宗教というテーマです。

糸を吐き出し続けるクモのように、果てしなく、このテーマを追いかけてゆきたい、というのが、私の望みです。




当ブログは、北米インディアン・ホピ族の研究の部分に、最も力を注いでおります。

それは、私の思想形成が、私の思春期にカウンターカルチャーとして紹介されていた北米インディアンのムーブメントと連動しているからです。

しかしながら、宗教史や比較宗教学といった視点を鑑みますと、インディアンの宗教と他の宗教を相対的に見ることは、とても大切なことだと、私は考えております。

そのために、タイトルからはみ出さんばかりの、盛りだくさんなテーマを詰め込んだブログとなっています。


最近、昔の記事を読み返すと、今よりも、自分の言葉をたくさん使っていたことに気付きました。

近頃は、自分の言葉が少なくなっていたと、反省しています。

これからはもう少し、以前のように、どのように思って、その記事を書いているのかについての、自分の気持ちや考えを表現するようにしたいと、改めて思っています。


このブログは、内容が多岐にわたるために、いろいろなご関心から、いろいろなご理由で、読んでくださっているのではないかと思っております。


たくさんのご訪問に、心から、感謝申し上げます。

ありがとうございます。

それぞれのテーマが、できるかぎり中身の濃い、調べ甲斐のあるものになりますよう、精進する所存でございます。


また、個人的には、各テーマがいかにばらばらに見えようとも、全体として、有機的につながりあっているように仕上げたいと願っております。

たとえば「蛇」という語も、当ブログの重要テーマですが、その他いろいろな言葉で、多角的に、人類史の核心に食い込んでいけるようなブログになれば、、と思っております。

大言壮語をもちまして、新年の、ブログ6周年のご挨拶とさせていただきます(笑)

どうぞ、引き続き、お読みいただけますよう、お願い申し上げます。

     
                年頭に 感謝をこめて veera拝


  
 写真(上)は、「エジプトの死者とその魂(バー)」の図・「古代エジプト展」カタログより
 写真(下)は、「ホピの予言」・「やさしいかくめい」(1978年プラサード編集室)より







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死なれる側にも教養がいる・・嵐山光三郎氏

2014-11-01 | 心理学と日々の想い



ひき続き、嵐山光三郎氏の「死ぬための教養」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


全体としては何十冊という本が紹介されているのですが、次には、作家の江國滋さんの闘病記の紹介をご紹介します。

書名は「おい癌め 酌み交わさうぜ 秋の酒(江國滋闘病日記)」といいます。

          
           *****

          (引用ここから)

1997年8月10日、敬愛する作家江國滋さんが癌でなくなりました。62才でした。


「おい癌め・・」の第一章は、

「残寒や この俺が この俺が癌」

という句で始まります。

そして、7月25日「死が勝つか 時間が勝つか 夜の秋」

7月26日「いや美味き 採尿コップの 氷かな」

7月27日「死に尊厳なぞと いふものなし 残暑」

そして8月8日の午後2時、江口さんは辞世の句を書きつけます。

「敗北宣言  おい癌め 酌み交わそうぜ 秋の酒」

あたかも死にゆく実況中継のように自分を客観的に見つめる静かな目があるのです。

           ・・・

       (引用ここまで)


         *****


「後書き」は、次のように締めくくられていました。


         *****


       (引用ここから)


父の死が数日後に迫ったとき、父は「おまえはいやな野郎だ」と私をののしり、病院の看護婦に向かって「この息子は大バカモノですよ」と憎まれ口をきいた。

母に対しては、もっとふてくされて、一切言うことを聞こうとしなかった。

いつもの父はおだやかな性格で、そうことを言う人ではなかったのでびっくりした。

こういった悪たれ口は、死にゆく者のいらだちを親しい肉親に言ってまぎらわす、父の最後の甘えのようにも感じられた。

母は黙って対応していたが、私を呼び寄せて、「遺族が悲しまないように、わざと嫌われる言い方をするのです。いい人で死んでしまうとみんな悲しむから、憎まれっ子になろうとしているのよ」と説明してくれた。

母は、別の人でもそういう経験をしたという。

それに父の性分をよく知っている母だから言えることで、これは「死なれる側の教養」である。


その母も87才となった。

父が呆けて母の言うことを聞かなくなった時、私は父をどうにか寝かしつける毎日で、母と共に大変な日々であった。

父が死んだあとの葬儀や法要、あるいはその他諸々に関して、私は全力をもって母を補佐したつもりであったが、ささいなところで言い合いとなり、「老人の気持ちなど、あなたにわかるはずはないわよ」と泣かれた。

そう言われる私も61才になり、自分のために「死ぬための教養」を身に着けようと準備を始めた。

「死ぬための教養」は百人いれば百通りが必要であって、それは各自一人一人が身に着けていくしかない。

幸い、先人たちには、死についての深い考察をなした人がいて、そういった識者の本を吟味熟読し、自分なりに納得するしかないのだ。

天才も学者も凡人もスポーツ選手も、みんな死んでいく。

長い闘病生活の果てに死ぬ人も多く、今の時代に求められるのは、自分が死んでいく覚悟と認識である。

来世など、あるはずがない。

いかなる高僧や哲学者でも、自分の死を受け入れるのには力がいる。

いかにして、ゆうゆうと死んでいくことができるか?

自己を救済しうるのは、使い古した神様や仏様ではなく、自分自身の教養のみである。

祖母は99才のときに「今まで好きなことをしてきたから、この世に未練はないが、死んだことはないから、死ぬとはどういうことなんだろうねえ?」と言いながら、死んでいった。

死への考察は、人間の最高の興味の対象であろう。


       (引用ここまで)

           *****

この本を通して、著者はなんとかして、軽妙洒脱に、しかも真理にのっとって、死んでゆく方法を模索していました。

しかし、どのような高名な作家、文人でも、自身の最期をみつめる心は、大変に苦しんでいることを指摘しています。

ご紹介したのは、その中で最も「軽妙洒脱」を実現できたと、著者が評価している作品です。

誰もが、明日死に際に至る可能性があるのですから、この教養は、とても大切なものだと思いました。

家庭の中で老人がいつのまにか寝込みがちになり、そしてやがて亡くなっていくのを家族親族で見守っていたのは、つい数十年前のことでしたのに、今ではとても遠いことのように思えます。


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嵐山光三郎氏「死ぬための教養」・・ゆうゆうと死ぬために。。

2014-10-29 | 心理学と日々の想い


死について考えていたら、こんな本をみつけました。

嵐山光三郎著「死ぬための教養」。

面白くて、一気に読んでしまいました。

エリザベス・キューブラー・ロスも読んでみましたが、こちらの方をご紹介します。

タレントとしても知られている作家である嵐山氏が、ご自身の半生を振り返りつつ、読み集めた「死とは?」という問いに関する何十冊もの本を紹介しています。

その中の何冊かを、氏の言葉を交えて、ご紹介したいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)

「前書き」より

宗教を信じて死ぬことができる人は、それは信じる力を持った人です。

死後の世界を信じることができる人は、精神力が強く、パワーがある。

しかし、無常を説いた吉田兼好ですら、本心から来世を信じていたわけではなく、「信じよう」と努力していただけなのです。

宗教に帰依していない人は、自己の死をどう受け入れていけばいいのでしょうか?


生理学的に考察すると、人は死ぬとき、最後の最後に自分の死を受け入れることへの抵抗を試みようとします。

それは痛みによる苦しみとは別に、「死を受け入れる」決意の葛藤と言っていいでしょう。


自分の死を納得するためには、一定の「教養」が必要となります。

一定の「教養」とは、「死の意味」を知る作業に他なりません。

いかに悟っていても、己の終焉を納得するのは難しい。

いざとなったら、「死に対する教養」のみが、自己の死を受け入れる処方箋となるのです。


「自己の死」を受け入れる力は、宗教ではなく「教養」であります。

死の意味を知るために人間は生きている、と言ってもいいのです。

不治の病を宣告された人は、最後の力をふりしぼって「闘病記」を書きます。

しかしそれはそれまでの人生の言い訳になりがちで、純粋なる死の意味とはいささか違ってきます。

「死ぬための教養」は、精神が健康状態であるときに、虚無におちいることなく、冷静かつ科学的に書かれたものである必要があるのです。

まさか死なないだろうと考えている時にこそ、「死ぬための教養」を身に着ける必要があるのです」。


              (引用ここまで)


                *****


氏が50歳の時に読んだ本の中の一冊は、根岸卓郎氏の「宇宙の意思」でした。

                *****

            
              (引用ここから)


本のカバーには「人はいずこより来たりて、いずこへ去るか?」とサブタイトルがつけられていました。

「かつて、死が直接に具体的な事実として日常生活に居座っていた時代には、人生についてのあらゆる想念は「死とは何か?」に集約せざるを得なかった。

しかるに合理主義に基礎を置く現代西洋科学文明は、人間を直接「死の現象」から遠ざけるようになり、生を通じて死を考えたりするようなことは少なくなった。

現代西洋科学文明がようやく終焉を迎え、新たに東洋精神文明の台頭による「東西文明の交代」の兆しが見えてきた。

現代西洋科学は、科学的因果律に呪縛され「宇宙こそは生命体である」との物心一元論の立場を放棄してきた。

われわれは自然の持つ奥深い本質「宇宙の意思」を知れば知るほど、われわれは現代科学を超えて 「生命の不思議」それゆえ「生死の不思議」を思い知らされる」。

                 ・・・

「生死の宇宙法則・生死のプログラム」と言う項には、こうあります。

                 ・・・

「「人間」は「再生」しつつ生きている」、ということである。

つまり

「「細胞」は死ぬことによって「個」としては生きている」、ということである。

すなわち

「「細胞の死」によって、「個体の生存」が保たれている」、ということである。


同様の見地から、

「「人間」という「種」もまた、「再生」しつつ生きている」。

すなわち、

「「個人が死ぬこと」によって、「種」としては生きている」。

つまり

「「部分の死」が「全体」を保存する」というわけです。」


                  ・・・

とあります。


「死ぬための教養」とは、なんといっても宗教であります。

しかし宗教は教養と言うより、信仰であります。

教養はしばしば信仰の邪魔になります。

世界で起こっている戦争や爆破テロ事件に対して、宗教は人々を救済しえたでしょうか?

今ほど、宗教の無力を思い知らされた時代は無いのです。

イスラエルとパレスチナの戦いにいたっては、宗教が原因です。

宗教は人類を救済するどころか、逆に破滅を導いているのです。


               (引用ここまで)


                  *****


嵐山氏は、人が死ぬのは、人類が存続するためである、という考えを肯定しているわけです。

そのような納得の仕方が、氏の言う「死ぬための教養」ということだと思います。

同じく50代に読んだ本として、親交のあったビートたけし氏の本を紹介しています。

 
                  *****


               (引用ここから)


敬愛畏怖するタレントにビートたけしという人がおります。

たけしはガールフレンドのところにバイクで行って大事故にあったのですが、事故から8か月後、たけしはその時の顛末を「たけしの死ぬための生き方」に書いております。

   
                 ・・・

「原チャリにまたがった。。

そんなような気がするんだけど、その前後の記憶はまったく無いんだよ。

事故のことも、救急車に乗ったことも、病院に入ったことも。

気がついたら、おいらがぬいぐるみを持って佇んでいるんだ。

そう、背中にジッパーのついている全身タイプのやつ。

ジッパーはだらしなく下がったまんまで、いつでもぞぼっとはけるようになっている。

それが傷だらけでボロボロになったおいら自身のぬいぐるみなんだよ。

要するに、肉体と精神が分裂して、肉体っていうのは精神が借りてる着物だ、っていうことがバーンと見えちゃったんだ。


一般病棟に移った時には、もう事故は事故として確認できたから、考えたことはこの後どうしよう、だよね。

どうやって退院して、どうやってリハビリしてやっていくんだろう、と。

それで当初は、脳ばっか、気にしていた。

何をするにしても、頭がいかれてたら終わりだからね。

頭は正常に動いているか?・・それを自分で試してみる。

ベッドの脇に立っている人が誰かも、ちゃんと分かってきた。

ただ、片っ方の目が外に飛んじゃっているから、焦点がボケて2人分になるんだけどね」。

              ・・・


         そしてこう述懐しています。


              ・・・


「同時に、今までどうしてこんな生き方したんだろうって反省が猛烈におそってきた。

こりゃ駄目だったとか、無茶だったとか、過去の自分に対する自己嫌悪。

やってきたことというか、自分がどういうふうに生活して、どんなことをしてきたかっていうのが思い出されて、ほんとにバカだったなって。

果たして今までの芸能界の仕事は何だったんだろうか?

何一つ満足してなかったあな、と。


人は不慮の事故や急病などによって、病院に入って、自分が死ぬかどうかというぎりぎりのところに身を置かないと、生と死ということについて、なかなか考える時間がない。

死ぬってことは人間みんなの目的であるっていうか、終着点であることには間違いない。

死というのは突然来る暴力なんだね。

その暴力にいかに準備しているか?

それが必要だってことは薄々は分かるんだけれど、あまりにも儚いっていうか、むなしい努力のような気がして。

死はすべての終わり。

それに対して、なんで準備しなきゃいけないのか?

対応しようがしまいが、死ぬことは死ぬことで仕方が無い。

そう考えりゃ準備なんかしなくたっていいじゃないかという奴もいる。

だけど、準備なんかしなくていいと言ってても、結局死というものには、むりやり対応させられるわけだよ。

あまりにも一方的に、向こうが勝手に来るわけだから。

それに、準備してる奴としない奴と、死ぬことは結果的には同じだけれども、そのショックというのは半端じゃないんだよ。

死を考える、死ぬための心の準備をするというのは、生きているということに対する反対の意義なんだけども、異常に重いテーマなんだ。

下手すると、これが哲学の究極の目的なんじゃないかって思うね。

頭のいいのから馬鹿から、金持ちから貧乏人から、人間全部に対しての問題なんだ。

そうすると、バカでもなんでも対応せざるを得ない。

そうした時、それの能力とか財産にも関わらず、人間は対応する努力をしていかなきゃならないと思ったんだ」。

                ・・・

わたしも「ああ、俺も全く同じだ、同じだ」とうなづきました。

   
          (引用ここまで)


               *****


私もそろそろ、友人の訃報をきく頃になってまいりました。

とても他人事ではありません。


ブログ内関連記事


「脳と墓(1)・・妄想とはなにか?

「装飾古墳・多彩な絵柄に想像膨らむ・・広がる黄泉の世界」

「舟と棺」

「十万億度からの旅、伊勢のかんこ踊り2・・お盆・施餓鬼・七夕(5)

「口開けの儀式を受けて、復活のしたくをする・・エジプトのミイラ(4)

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わたしはむやみに傷つけられなくてもよい・・なぜ人を殺してはいけないのか?(2)

2014-10-25 | 心理学と日々の想い



前の記事の続きです。

同じく、佐世保の少女の事件について語ったもので、「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」というテーマで語られています。

           ・・・・・

○本法務教官 魚住絹代氏

その問いを真正面から発した子がいた。

少年院で出会った15才の少女で、傷害事件を起こし、「年少(少年院)上等!」とタンカを切って入って来た。

親から虐待を受け続けて育ち、暴力団に関わった。

あらゆる人間に憎悪をたぎらせていた。

殴り殴られるの日々で右手は完全につぶれ、「血が見たい」「残虐なことがしたい」と繰り返した。


彼女に「あなた自身と同じように、どの人も大事だから、殺してはいけない」などと説得しても通じない。

子どもは、言葉ではなく体験から学ぶ。

人を傷つけてもいい、と言う子は、例外なく傷つけられてきた子だから、かけがえの無い存在として扱われて初めて、他者の痛みに配慮できるようになる。

坂道を転げ落ちてくる子は、その前にあえぎながら坂を上る段階があり、途中で必ず何度もサインを出している。

今回の事件でもそうだと思うが、気付かれずに上がって行くと、何かの拍子に一気に転落する。


ころげ落ちる時の言葉は皆同じだ。

「もうどうなってもいい」。

自暴自棄で負った傷をどう癒すかが、私たちの課題だった。

多感な時期の彼らが暮らす少年院では、人間関係を巡って日々トラブルが起きる。

和たち達は、いけないことだと叱りつつも、一つ一つ丁寧にその行為にいたった思いを引き出すよう努める。

自分の感情を見つめ、受け止められる体験を重ねる中で、相手のことを思いやる受け皿が子どもの心の中に出来てくる。

繰り返しの中で、ある瞬間、、例えば農作業で汗が落ちた時に、子どもは理解する。

「私はなんということをしたのだろう?」と。

自分が傷つけられた過去を客観的に見つめ、そこから脱却する。

「わたしはむやみに傷つけられなくてもいいし、人も傷つけてはいけない」、と納得する。


少年院に来た15才の少女もそうだった。

「なぜ殺してはいけないの?」の問いを子どもが発してきたら、好機だ。

その子は必ず自分の疑問に困惑している。

重要なサインなのだ。

正解を教えなくてはと大人は身構えるが、子供は言葉ではなく、自分に向き合おうとしているかどうか、評価しようとしているのか、建前で済ませようとしているのか、五感をとぎすませて見分けている。

自分も他人もかけがえの無い存在だと気づいてもらうためには、一緒に考え、向き合うことだと思う。


           ・・・・・

まぁ、一般的な意見だと言えば、そうなのですが、心に残る記事でした。

先月は、この記事の中でいう山折哲雄氏のおっしゃる「絶対的な存在による、殺すなかれの声」についての記事がありました。


           ・・・・・


「しつけ「異界」の力で・・地獄絵本・鬼が叱るアプリ人気」
                 2014・09・18読売新聞


子どものしつけに役立つとして、「地獄絵」を描いた絵本が注目されている。

30年以上前に出版されたものだが、「子育て」がテーマの漫画で採りあげられ、評判になった。

鬼がスマートフォンで子どもを叱るアプリも人気。

妖怪のアニメが話題となる中、「異界」の力を子育てに活用する親が増えているようだ。


「うそをついた人が行くところです」。

東京都中野区の認定こども園「やよいこども園」年長組の園児約30人を前に、保育士さんが、釜に入れられた人々の絵を示していた。

手にした絵本は、1980年出版の「地獄」風濤社)。

千葉県の寺が所蔵する江戸時代の「地獄絵」に、文章をつけている。

細密に描かれた鬼の絵を前に、目をつぶる園児も。



「皆は良い子だから行くことはありません」と久川さんが強調した。

同園で「地獄」の読み聞かせを始めたのは昨年度。

当時、虫を殺す園児が複数いたことから、「命は大切だと伝えたいと思っていたところ、ネットで「地獄絵本」の評判を知った、と久川さん。

子どもの話を聞き、家でも読み聞かせを始めた保護者もいるという。


注目されたきっかけは、漫画家東村アキコさんが自身の子育てを描いたシリーズ「ママはテンパリスト」(集英社)。

2012年発刊の巻で、「地獄絵本」を読み聞かせすると、子どもが言うことを聞いたエピソードを紹介した。

約30年間で11万部発刊された絵本は、2012~2013年だけで26万部が売れた。

「怖い地獄の世界が、若い世代や子どもには新鮮だったのでは?」と風濤社。


スマートフォンのアプリ「鬼から電話」も人気だ。

12月9日に公開され、ダウンロードは670万件に上るという。

電話の応答ボタンを押すと画面に鬼の顔が現れ、「赤鬼です。まだ言うことを聞かないんですか?」、「仲間をいっぱい連れて行くからな」と迫る。

同社には「子どもが言うことをきいて助かった」、「しつけに効果抜群」といった声が寄せられている。


開発したウェブ制作会社の社長は、秋田市出身。

「なまはげが来るぞ」と叱られた経験から発想した。

「親が叱り続けてストレスをためずに、子どもの気持ちを切り替える道具として使ってほしい」と話す。


スマートフォンのアプリでは、妖怪が「お片付けしなさい」と叱る「しつけ妖怪」も利用者が多い。


ただ、子育てに詳しい大日向雅美・恵泉女学園大教授は、「子供は今も昔も聞き分けのない存在。

昔は親がいらいらしながらもそれに付き合い、してはいけないことを教えてきたが、今やゆとりが無くなり、しつけに即効性を求めるようになっている。

使いたくなる場面もあるだろうが、子どもにとって地獄や鬼は本当に怖い存在。

頼り過ぎないようにしたい」と指摘する。


                     ・・・・・


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なぜ人を殺してはいけないのか?(1)・・殺すなかれ、の声を聴く

2014-10-23 | 心理学と日々の想い


この夏おきた痛ましい女子高生の殺人事件をめぐる新聞記事がありました。
以下に引用します。

・・・・・


「なぜ人を殺してはいけないのか?・・佐世保事件を受けて」  
                      2014年8月7日 読売新聞

長崎県佐世保市で、高校一年の女子生徒が同級生を殺害した容疑で逮捕された。

同市では10年前にも小学生による殺人事件が起き、市や県を挙げた「命の教育」が行われてきたが、届かなかった。

少年による凶悪事件は、私達大人が、子ども達のある重要な問いに正面から答えていないという疑念を抱かせる。

なぜ人を殺してはいけないのか?

3人の識者に考えを聞いた。



○宗教学者 山折哲雄氏


人を殺すことは、人間の存在を根本からおびやかす行為で、当然に許されない。

だが、人を殺し得る人間がいくらそう説いても、説得力はない。

だから人類は、神や仏など宗教的な存在への信仰をうしろだてにして主張してきた。

殺すなかれ、と。

今や我々日本人は、その後ろ盾を失った。

原因として大きいのは、戦後の教育改革で、政教分離の名の下に日本人独自の宗教心を視野の外に置いたことだ。

教育基本法に「宗教教育」の項がかろうじて残されており、社会科の教科書にイエスや仏陀の名前は出てくるものの、その教えの内容や、何千年も生き残ってきたことの意味は教えられない。

「人を殺すな」という代わりに「命を大切にしよう」とは誰でも言える。

実際、日本の教育現場ではこの言葉が頻繁に使われる。

だが、「してはならない」という、禁止を強制する言葉は使われない。

それは人を超える絶対的な存在から発せられて、はじめて意味を持ち、秩序を維持する要となってきた。


時代の流れのなかで、人知を超える存在が失われた結果、我々は人間を理解したと錯覚した。

何等かの分析的思考によって、必ず人間を理解する答えが求められると誤って思うようになった。

今回のような事件が起きるたびに、報道や研究の世界で使われる手法が、その象徴だ。

まず社会的背景を分析し、次に容疑者の心理的動機の解明に進む。捜査は取り調べの過程で、常軌を逸した、理解できない
ことが現れると、精神病理的な面から原因の追究がはじまる。

この3つの手法で異常行動の意味が説かれるというのだが、根底には、人間は社会的に、科学的に理解できるものだという傲慢さが透けて見える。


しかし、人間はそんな薄っぺらな存在ではない。

胸に手をあててみれば、「人間、この未知なるもの」という声が聞こえてくるはずだ。

我々は、〝内なる闇″を抱えた存在なのだ。

人は、放置すると野獣化する。

人類はそれをくいとめる様々な文化装置を作りだしてきた。

宗教しかり、その意味を教える学校しかりだ。

ところが日本の教育は、タブーや禁ずる言葉ぬきに、ばくぜんと「生きる力」などと生を賛美する。

日本の教育には、取り上げるべき「死」が組み込まれていない。

「死とは何か?」を教えない既成の教育ほど、弱いものはない。

この根本的な問題をないがしろにしたまま、今道徳を教科化しても、効果は無いと思う。

宗教と聞くと、戦前の「国家神道」を思い出して距離を置く人も多い。

だが平均的な日本人は先祖やお地蔵さんに手を合わせ、食事前に「いただきます」と唱えるような信仰心、人を超える存在への畏敬の念を持って生活してきた。

そこに立ち戻り、大人、中でも教師と、教師を養成する大学が宗教アレルギーから自由になって教育を見直す。

そのとき初めてこの問いに説得力を持って応えられるのではないか?



○元高校教師・横浜の「夜回り先生」 水谷修氏


あえていえば、この問自体が成り立つのだろうか?

日本には死刑制度があり、重罪を犯した人は法で裁かれ、死を強いられることもある。

今この瞬間も世界各地でおきている戦争や紛争で、多くの人が命を奪われている。

それなのにただ 「人を殺してはいけない」と言えるのか?


死刑制度は、国のルールの一つだ。

社会には一定のルールが必要で、ルールが決まっている以上、背くならば出ていかなくてはならない。

ルールによって社会秩序が守られている事実も、忘れてはならない。

戦地で兵士は、殺さなければ殺される。

戦争での殺人を基本的に罪に問えないのはそのためだろう。

こうした現実を踏まえて、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに答えるのなら、抽象的な〝人″ではなく、人格を持ち名前があり、家庭をもつ特定の誰かを殺そうとすることはなぜ悪なのか?を前提にすべきだ。

それならば答えやすい。

被害者の夢や未来をつぶしてしてしまう、誰にも許されない行為だ、と言うことが出来るからだ。


本当は、私はいかなる場合でも、人を殺すこと自体が悪だと考えている。

人は誰かを幸せにするために生きている。

悲しませるためではない。

すべての人がそのことを知っている。

今回の事件の加害者もそうだと、確信している。


そう教えてくれたのが、「夜回り」で出会う子たちだった。

35歳から23年間、夜回りをしているが、一度も注意をして、殴られたり喧嘩を売られたりしたことがない。

夜の繁華街にいる子たちは例外なく、いてはいけない時間にいることを知っている。

だからこちらの言葉が伝わると、きちんと受け止めて「ごめんね。もうやらないよ」と聞き入れてくれる。


人間には本来、良心が根付いているのだ。

子どもの心の善、良心を引き出すためには、こちらもぶれずに善であることをてらいなく示すことだ。


人を殺すことは悪だと認識しているからこそ、人類は生き残ってきたと私は考える。

その根源的なものを信じて、善なるものを呼び覚ましたい。

まず大人から、絶えずその原点に立ち返り、今は潜んでいるかもしれない良心の声に耳を傾けたい。

「なぜいけないのか?」と頭で考えるのではなく、いけないことだと「腑に落ちる」ことが一番いい。



                    ・・・・・

>しかし、人間はそんな薄っぺらな存在ではない。

>胸に手をあててみれば、「人間、この未知なるもの」という声が聞こえてくるはずだ。

>我々は、〝内なる闇″を抱えた存在なのだ。

>人は、放置すると野獣化する。

>人類はそれをくいとめる様々な文化装置を作りだしてきた。

>宗教しかり、その意味を教える学校しかりだ。

>ところが日本の教育は、タブーや禁ずる言葉ぬきに、ばくぜんと「生きる力」などと生を賛美する。

>日本の教育には、取り上げるべき「死」が組み込まれていない。

>「死とは何か?」を教えない既成の教育ほど、弱いものはない。



一般論とも言えるかもしれませんが、力強い言葉だと思いました。

「殺すなかれ」の言葉がわたしの心に埋め込まれたのはいつだっただろうか?と思い返しました。

わたしは自分が仏教系の幼稚園に通っていたことを思い出します。

園歌が♪「のの様(観音様)は いつでもどこでも 知っている あなたのしたこと 知っている 知っている」♪というのでした。

みんなが集まる広い部屋の一角に、その「のの様(観音様)」をまつる一角があって、毎朝お当番の子供達が、お坊さんの園長先生の後について、お花やお水をお供えしてから、一日がはじまるのでした。

「のの様」は、優しく、頼もしく、そして怖い存在でした。

わたしの心に深く深く埋め込まれた「のの様」を、今もはっきりと感じます。



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いずれのおん時にか・・

2014-10-08 | 心理学と日々の想い



「源氏物語」の書き出しにある「いずれのおん時にか・・」と言いたくなるくらい、更新したのが、はるか昔に思えます。

わたくし、元気なんですが、することが多すぎて、更新ができなくて、失礼もうしあげております。

せっかく図書館で借りた「ゾロアスター教」の貸出し日数期限も、あとわずか。。

読んでいない新聞も、半月以上。。

早大の小保方さんの研究論文の審査は、もう一年猶予されるそうですが、わたくしのブログも、なんとか、見捨てられずにいていただけたら、、と思うばかりです。







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かならず更新は続けますので、どうぞよろしくお願いいたします。。

2014-09-20 | 心理学と日々の想い


ブログを読みにきてくださる皆様、ごぶさたいたしております。

カレンダーを見て、なんと2週間も更新していなかったことに気付き、あらためて、申し訳ないきもちで一杯です。

また、コメントもお二人の方にお寄せいただいておりますのに、お返事申し上げられず、大変失礼いたしております。


ここのところ、どうしても優先しなければならない用事が立て込んでおり、この、浮世離れしたブログについては、自分の中で、封印をしておりました。

来月、10月1日は、当ブログの6周年にあたります。

書きたいことはたくさんあるのですが、手がおいつかず、残念に思っております。

気持を調整して、かならず、更新は続けます。

また、もちろん、いただいたコメントには必ずお返事申し上げますので、どうぞ今後とも、よろしくお願い申し上げます。

veera 拝

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帰省することになり。。

2014-08-14 | 心理学と日々の想い



当ブログをいつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。

今、前に一端中断した、ゾロアスター教について書いていた記事を再読して、投稿しようと考えております。

しかしながら、今週は帰省をやむなくされ、細かい作業ができませんので、あえて投稿しないことにいたしました。

申し訳ございません。

皆さまも、どうぞよい夏休みをお過ごしくださいませ。^^
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元気の素を、ありがとうございます。^^

2014-06-21 | 心理学と日々の想い



ブログを読みに来てくださる皆様へ

最近私事で忙しく、ここ半年ほど一日おきに朝に更新できていたものが、更新に少々手間取るようになってしまい、悲しく思っております。

私といたしましては、ブログを見てくださる方がいらっしゃることに、ほんとうに驚き、また、毎日の喜びの種でございます。

いつも、心から感謝申し上げております。
ありがとうございます。


最近は、一つの記事ごとに、「ブログ内関連記事」として関連記事にリンクを張って、過去の記事をご紹介するようにしていますので、私的にはひと手間多くかけることになりました。

しかし、これは意味のあることであろうと思っておりまして、また、おかげさまで、記事は600件近くになっており、私独自の関連付けでブログ内にリンクを張れるようになれ、とても嬉しく思っております。

遅々たる歩みではございますが、これからも、お手すきの折に読みにいらしていただけるブログを継続できますよう、努力する所存でございます。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

veera 拝





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女の肩と背中には。。

2014-05-14 | 心理学と日々の想い
無料体験、第二弾です。

先日、エステの無料体験チラシを見つけて、行ってみた時のことです。

フェイスと全身、どっちにしますか?と聞かれて、フェイスを選びました。
積年のしみ、しわは、もう鏡を見るのもいやになるくらいに限界に達していたからです。


フェイスが終わったあとに、肩担当という別の人がやってきて、肩をちょっとやってくれました。
オイルマッサージです。

これがよかったです。

もうフェイスのことは、すっかり忘れてしまいました。
肩から背中の奥まで、たくさんの悲しみが、ささやかなよろこびが、流れました。

背中にあいている大きな穴を感じました。


学生時代に聞いた、当時流行っていた歌謡曲の、増位山の「男の背中」という歌のフレーズが心によみがえりました。

この曲、、昔、学生時代、暇な飲み屋にバイトしていたわたしは、仕事の合間に有線で何回もリクエストしたのを憶えています。

背中の穴は、当時からあいていたのです。

ささやかな悲しみやよろこびを からだの中にいつもいつも発生させては、それをからだという入れ物にいれて持ち運び、

時にそれらを吐き出しては亡き者とし、、わたしという物体は、感情とともに何十年も生きながらえているんだと、あらためて感じたひとときでした。





「男の背中」  歌・増位山太志郎  作詞・作曲 中山大三郎

男の肩と 背中には
昔の影が ゆれている
恋も 涙も 悲しみも
だれにも言えない傷あとも
ゆらゆらゆら 止まり木ゆれて
グラスの底に 明日をみる
おまえは そんな男の姿
気付かないけど

男の胸の 奥の奥
その時々の 夢がある
過去も 未来も ぼんやりと
忘れてしまうときがある
ゆらゆらゆら たばこのけむり
見つめて 愛にゆれながら
おまえの あまいかおりのなかに
やすむ日もある

ゆらゆらゆら 止まり木ゆれて
グラスの底に 明日をみる
おまえは そんな男の姿
気付かないけど
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