死について考えていたら、こんな本をみつけました。
嵐山光三郎著「死ぬための教養」。
面白くて、一気に読んでしまいました。
エリザベス・キューブラー・ロスも読んでみましたが、こちらの方をご紹介します。
タレントとしても知られている作家である嵐山氏が、ご自身の半生を振り返りつつ、読み集めた「死とは?」という問いに関する何十冊もの本を紹介しています。
その中の何冊かを、氏の言葉を交えて、ご紹介したいと思います。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「前書き」より
宗教を信じて死ぬことができる人は、それは信じる力を持った人です。
死後の世界を信じることができる人は、精神力が強く、パワーがある。
しかし、無常を説いた吉田兼好ですら、本心から来世を信じていたわけではなく、「信じよう」と努力していただけなのです。
宗教に帰依していない人は、自己の死をどう受け入れていけばいいのでしょうか?
生理学的に考察すると、人は死ぬとき、最後の最後に自分の死を受け入れることへの抵抗を試みようとします。
それは痛みによる苦しみとは別に、「死を受け入れる」決意の葛藤と言っていいでしょう。
自分の死を納得するためには、一定の「教養」が必要となります。
一定の「教養」とは、「死の意味」を知る作業に他なりません。
いかに悟っていても、己の終焉を納得するのは難しい。
いざとなったら、「死に対する教養」のみが、自己の死を受け入れる処方箋となるのです。
「自己の死」を受け入れる力は、宗教ではなく「教養」であります。
死の意味を知るために人間は生きている、と言ってもいいのです。
不治の病を宣告された人は、最後の力をふりしぼって「闘病記」を書きます。
しかしそれはそれまでの人生の言い訳になりがちで、純粋なる死の意味とはいささか違ってきます。
「死ぬための教養」は、精神が健康状態であるときに、虚無におちいることなく、冷静かつ科学的に書かれたものである必要があるのです。
まさか死なないだろうと考えている時にこそ、「死ぬための教養」を身に着ける必要があるのです」。
(引用ここまで)
*****
氏が50歳の時に読んだ本の中の一冊は、根岸卓郎氏の「宇宙の意思」でした。
*****
(引用ここから)
本のカバーには「人はいずこより来たりて、いずこへ去るか?」とサブタイトルがつけられていました。
「かつて、死が直接に具体的な事実として日常生活に居座っていた時代には、人生についてのあらゆる想念は「死とは何か?」に集約せざるを得なかった。
しかるに合理主義に基礎を置く現代西洋科学文明は、人間を直接「死の現象」から遠ざけるようになり、生を通じて死を考えたりするようなことは少なくなった。
現代西洋科学文明がようやく終焉を迎え、新たに東洋精神文明の台頭による「東西文明の交代」の兆しが見えてきた。
現代西洋科学は、科学的因果律に呪縛され「宇宙こそは生命体である」との物心一元論の立場を放棄してきた。
われわれは自然の持つ奥深い本質「宇宙の意思」を知れば知るほど、われわれは現代科学を超えて 「生命の不思議」それゆえ「生死の不思議」を思い知らされる」。
・・・
「生死の宇宙法則・生死のプログラム」と言う項には、こうあります。
・・・
「「人間」は「再生」しつつ生きている」、ということである。
つまり
「「細胞」は死ぬことによって「個」としては生きている」、ということである。
すなわち
「「細胞の死」によって、「個体の生存」が保たれている」、ということである。
同様の見地から、
「「人間」という「種」もまた、「再生」しつつ生きている」。
すなわち、
「「個人が死ぬこと」によって、「種」としては生きている」。
つまり
「「部分の死」が「全体」を保存する」というわけです。」
・・・
とあります。
「死ぬための教養」とは、なんといっても宗教であります。
しかし宗教は教養と言うより、信仰であります。
教養はしばしば信仰の邪魔になります。
世界で起こっている戦争や爆破テロ事件に対して、宗教は人々を救済しえたでしょうか?
今ほど、宗教の無力を思い知らされた時代は無いのです。
イスラエルとパレスチナの戦いにいたっては、宗教が原因です。
宗教は人類を救済するどころか、逆に破滅を導いているのです。
(引用ここまで)
*****
嵐山氏は、人が死ぬのは、人類が存続するためである、という考えを肯定しているわけです。
そのような納得の仕方が、氏の言う「死ぬための教養」ということだと思います。
同じく50代に読んだ本として、親交のあったビートたけし氏の本を紹介しています。
*****
(引用ここから)
敬愛畏怖するタレントにビートたけしという人がおります。
たけしはガールフレンドのところにバイクで行って大事故にあったのですが、事故から8か月後、たけしはその時の顛末を「たけしの死ぬための生き方」に書いております。
・・・
「原チャリにまたがった。。
そんなような気がするんだけど、その前後の記憶はまったく無いんだよ。
事故のことも、救急車に乗ったことも、病院に入ったことも。
気がついたら、おいらがぬいぐるみを持って佇んでいるんだ。
そう、背中にジッパーのついている全身タイプのやつ。
ジッパーはだらしなく下がったまんまで、いつでもぞぼっとはけるようになっている。
それが傷だらけでボロボロになったおいら自身のぬいぐるみなんだよ。
要するに、肉体と精神が分裂して、肉体っていうのは精神が借りてる着物だ、っていうことがバーンと見えちゃったんだ。
一般病棟に移った時には、もう事故は事故として確認できたから、考えたことはこの後どうしよう、だよね。
どうやって退院して、どうやってリハビリしてやっていくんだろう、と。
それで当初は、脳ばっか、気にしていた。
何をするにしても、頭がいかれてたら終わりだからね。
頭は正常に動いているか?・・それを自分で試してみる。
ベッドの脇に立っている人が誰かも、ちゃんと分かってきた。
ただ、片っ方の目が外に飛んじゃっているから、焦点がボケて2人分になるんだけどね」。
・・・
そしてこう述懐しています。
・・・
「同時に、今までどうしてこんな生き方したんだろうって反省が猛烈におそってきた。
こりゃ駄目だったとか、無茶だったとか、過去の自分に対する自己嫌悪。
やってきたことというか、自分がどういうふうに生活して、どんなことをしてきたかっていうのが思い出されて、ほんとにバカだったなって。
果たして今までの芸能界の仕事は何だったんだろうか?
何一つ満足してなかったあな、と。
人は不慮の事故や急病などによって、病院に入って、自分が死ぬかどうかというぎりぎりのところに身を置かないと、生と死ということについて、なかなか考える時間がない。
死ぬってことは人間みんなの目的であるっていうか、終着点であることには間違いない。
死というのは突然来る暴力なんだね。
その暴力にいかに準備しているか?
それが必要だってことは薄々は分かるんだけれど、あまりにも儚いっていうか、むなしい努力のような気がして。
死はすべての終わり。
それに対して、なんで準備しなきゃいけないのか?
対応しようがしまいが、死ぬことは死ぬことで仕方が無い。
そう考えりゃ準備なんかしなくたっていいじゃないかという奴もいる。
だけど、準備なんかしなくていいと言ってても、結局死というものには、むりやり対応させられるわけだよ。
あまりにも一方的に、向こうが勝手に来るわけだから。
それに、準備してる奴としない奴と、死ぬことは結果的には同じだけれども、そのショックというのは半端じゃないんだよ。
死を考える、死ぬための心の準備をするというのは、生きているということに対する反対の意義なんだけども、異常に重いテーマなんだ。
下手すると、これが哲学の究極の目的なんじゃないかって思うね。
頭のいいのから馬鹿から、金持ちから貧乏人から、人間全部に対しての問題なんだ。
そうすると、バカでもなんでも対応せざるを得ない。
そうした時、それの能力とか財産にも関わらず、人間は対応する努力をしていかなきゃならないと思ったんだ」。
・・・
わたしも「ああ、俺も全く同じだ、同じだ」とうなづきました。
(引用ここまで)
*****
私もそろそろ、友人の訃報をきく頃になってまいりました。
とても他人事ではありません。

ブログ内関連記事
「脳と墓(1)・・妄想とはなにか?
「装飾古墳・多彩な絵柄に想像膨らむ・・広がる黄泉の世界」
「舟と棺」
「十万億度からの旅、伊勢のかんこ踊り2・・お盆・施餓鬼・七夕(5)
「口開けの儀式を受けて、復活のしたくをする・・エジプトのミイラ(4)

「心理学と日々の想い」カテゴリー全般
「ブログ内検索」で
墓 15件
棺 15件
葬儀 15件
自殺 10件
死刑 8件
などあります。(重複しています)