Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
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日曜テレビ朝日の番組に、櫻井よしこ女史をお見受けするものの・・

2006-07-10 04:58:15 | 趣味の話&本と雑学メモ
 昨日日曜日の午前中、久しぶりに「テレビ朝日」の政治評論番組に櫻井先生がご出演された。田原総一郎という賞味期限のとっくに過ぎた過剰過信「ナルシスト政治評論家」の司会なる自己満足情緒丸出し売国奴的輩殻は、ずっと以前から悪臭漂い、いかにも悪人風嘘つき発言の典型なる醜面は可能な限り視たくなく、神経に障る濁声も聞きたくない人物の一人。そんな彼をして、超左寄り我田引水的司会振りを忌み嫌う我輩。本来なら端っから無視し、曲げても観たくないテレビ番組を久しぶりに観た。なぜなら、櫻井女史のお姿が垣間見えたからである。
 テーマは、この度の「北朝鮮ミサイル発射騒ぎ」から派生する、今後我国のとるべき外交の在り方?、我国のとるべき外交姿勢と戦略について。であったと勝手に記憶をさかのぼり解釈する。

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《その-1》

 この事態に挑み、一貫して櫻井女史の述べられた論旨は、
*この度の「北朝鮮ミサイル発射」は、我国の外交にとって、きわめて有効なる外交カードにできる可能性大である。北朝鮮によるミサイル発射、大変よい機会を得たのであるから、この茶番劇をまず叱責すると共に「中華人民共和国」と「北朝鮮」に、五里霧中にて左翼化傾向甚だしき「韓国」も含め、さらには「ロシア」に対し、国際的政治の舞台にて「日本外交の手腕」を発揮する最大のチャンスが到来したと考えるべきである。
*以って、毅然として、国連決議云々はもとより、諸外国に対し直接的な働き賭けを早急且つ強力に精力的に行動し、世界の世論を日本にひきつけ、このよき機会に三莫迦隣国の愚考と愚行を糾弾し、
*大きく日本の国際的立場のより優位なる確立に繋がるべく、マスコミは世論を動かし、且つ日本政府は断固揺るぎなき施策をとるべし・・・
などと、述べられていた。
しかし、上述の理路整然とした櫻井女史の発言は、発言時間の割り当て?が、あまりにも限られ短くセッティングされすぎているではないか。これまた情け無きかな、他の2名の出演者の発言内容は枝葉末端支離滅裂にて、櫻井発言のレベルとは格差があり過ぎ、いわんや櫻井発言の論旨に同調すべきであろうべき自民党衆議院議員(東京都選出の骸骨眼鏡オジサン)は、櫻井発言の後、櫻井理論の補足はおろか同じ内容を戯作(ゲサク)に引き降ろす役柄を、無意識にも頑張り通しているから滑稽を通り越し、すでにお話にならない。無論、司会者の田原は、櫻井女史ご発言の途中に何度も何度も女史の発言を遮ぎろうとするが、それにひるまず櫻井女史は最小必要な限りの発言と論立てを、最後まで継続されたから流石である。

かくして平和ボケ極左翼的テレビ朝日・賞味期限経過的「邪analist」≒田原総一郎の締め括りは、近頃訪中した報告と称し、これまた賞味期限の過ぎ去ったシナ大陸に於ける活動報道「田原の訪中・売国奴的活動」の宣伝取材報道に終わった。訪中報道を後半にもって来るは、番組最初に放映された北朝鮮問題への対応政策論議なるもの、せっかくの櫻井女史発言も「帳消し」となったか・・・
今はしかし、田原総一郎による媚中宣伝報道を以ってしても、すでに一般日本人視聴者の心眼を欺けるほどには至らないと願いたい。強いて言及すれば、田原の訪中報道は「北朝鮮ミサイル茶番劇」の愚かさを凌駕するほどに、バカバカしい小児性痴呆症的左巻きゼンマイ仕掛けによる「誇大妄想シナ共産国家礼賛主義者」の演ずる時代錯誤も甚だしく、且つ老醜漂う三流役者に看えてくる・・・

かくして、
桜井女史の「北朝鮮ミサイル騒ぎ」に対する我国の執るべき対応策は一貫しており、すべからく「日本優位に立つべき外交カード」として有効活用に徹底すべし。との、ご意見であった。櫻井女史ご自身の論旨を包括すれば、すなわち「我国の執るべき戦略」は、かの『論戦2006』論文に於いて、書き下ろされた「櫻井的正論」に基盤する事、テレビ討論中、櫻井発言の端々に於いて再確認できた。

櫻井よしこ著作「この国を、なぜ、愛せないのか」の締め括りを付けたい。
よって、一昨日(7月9日日曜日深夜)投稿、長過ぎる!記事の後半を分け、少々訂正し且つ僅かに加筆ののち、本日あらためて投稿する。

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《そのー2》

 さて、
 エセ男爵ブログとは、洒落た芸術漫遊の旅を志し「小説&エッセイ且つ芸術論評」を試みたく開設したもの。

 にもかかわらず、政治評論もどき記事の投稿をするは、いかにも無粋である事、百も承知している。しかしながら、文学芸術家の歴史過去を振り返ると、文筆家はもとより音楽家画家など様々なジャンルの芸術家によって「イデオロギー」や「思想」を盛り込んだ作品は多々あり、その数ははかり知れず、、、。さりとて、我が志向する芸術論議及び作品の範疇には、直接的な思想イデオロギーの類いに翻弄されたくない。表現したき思想や哲学は尚更の事、モノカキ屋を志すジャンルの末端に位置しようとする限り、あくまでも文章作品の行間隙間に於いて、可能な限り論理整然と志すところの意思は盛り込みたく、且つ思想的には片寄りたくないけれども、それは成熟した高度の文化を基盤に持つ民主主義自由主義の環境に於いて、初めて実現可能なる事柄であろう。文化と芸術の素養を深める鍛錬修行に励みつつ、以って、より高い教養を志すものにとって、重要且つ適切なる環境に位置すること、必要にして不可欠なり。
 若し、文化生活可能な活動環境が大きく変わり、文化的芸術的活動を自由闊達にできなくなるような「国の存亡行方」を左右するが如き「国家の難事」に出くわした場合、これらの難局難題を無視し逃避するは、我が精神構造からして不可能である。即ち、正面から反駁阻止したく、決して逃げない!
 社会的に責任ある知識人の片割れとして国家の難局から逃避するは、いかにも卑怯なり。と、心得る。
 現実逃避は卑劣且つ卑怯にて「我が最大の恥」と考える。
 以って正面から世の動きの理不尽さを叱責叱咤激励の為の放言は憚らず、且つ入念に論じなければならないと考える。さかのぼること60数年前、我国歴史に於ける国家運営の大失態(太平洋戦争敗北)に到る過程の中、あまた多くの我国知識人たちは、国家的試行錯誤且つ暴走に対し、いかに我が命をかけて国家救済の方法を論じ尽くすことなく避けて通ったか!かの時代に於ける我国知識人の無力無能さと現実無視且つ逃避は、国家存亡に関わる大失態に加担したに等しい。と、断言する。結果は無残であり、その後、戦勝国により与えられた「仮の昭和憲法」を今尚、我国をして独立国家のものと勘違いしているから滑稽すぎる。
 時代は21世紀。
 今の知識人の責任とは、国家国民の総意を動かす原動力となり、「新憲法制定」を是とする方向に導く事か。これ、最大の責務である。と考えるが、如何? 
 我国独自の自主憲法を持たない日本国民は、いかにも哀れである。自主憲法無き「その地域」に住まう日本人の国は、独立国家と称するに値せず。独立国家でないから、近隣暴力団的国家からは四六時中、恫喝を受けても致しかたない。
 我輩、少なくとも国家存亡の危機と難事から、逃げ惑いたくなく、外敵からの恫喝且つ危害に直面する場合、正面から受けて立ちたい、戦いたい!
 芸術を、こよなく志向且つ嗜好しつつ思考する酔狂気分の「不肖エセ男爵」に於いて、政治思想国際問題に大きく深入りするは、不本意なり。時代の動き世界の動きを資料として集約し、社会科学的に分析し、自身の論旨論評を纏め論文作成思考のプロセスはそうとうなる思考能力を必要とし、且つ肉体精神を消耗する。ひるがえって、小説作品なるものを創作するも、上述の社会科学分野に属する論文作成と同じプロセスにて組み立てられるものの、大きな違がある。小説創作には「別の次元の想像力」を注入しなければならず、これは社会科学論文作成との比較に於いて、大きく異なる所以である。
 我が人生の残された時間、限られた時間、可能な限り創造世界に没頭し、その分野で社会に貢献したい。

 ここで少し話の矛先を転じ、まとめてみたい。
 たとえ話の引用の対象が大きすぎるが、かの「小説の神様」と称された天才小説家・志賀直哉先生に於かれても、時に「政治思想の世界」に触れられたイキサツ、在り。志賀小説は、絶品秀作である。が、論評には傑出すべきもの見当たらず、評論文は多くを残されていない。そんな背景においてしても、すばらしき論評が今の世に残っている。「志賀直哉著・リズム」を転載引用し、この度の「空騒ぎ」の何某かを、あわせて考えてみたい。
 この文章、いかにも歯切れよく当時のプロレタリア小説嫌悪なる志賀直哉師の意向を、十二分に表現されている。プロレタリア文学集団を非難中傷且つ激評したものと論されている。問題論争も多々あったと、当時の文壇論評には種々記されている。
しかし、この論文『リズム』。いかにも、我輩の大好きな文章である。

 巷に転がるモノカキに於いてして、日本国を愛する日本人の一員として、時に、「政治社会問題」に傾倒没頭、且つ激怒、憤懣やるかたなき時もあり!
と、ご容赦いただきたい。

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《そのー3》

 このくだり、
 本日のもっとも重要な付録にて、「本日の本論」である!何度もお読みになっておられる方も是非あらためてお読みいただきたく、お忙しい方は二度に分けていただき、是非にも読破頂きたい!》

志賀直哉全集 (第1巻)

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志賀直哉作品より(昭和6年1月 読売新聞)、論文『リズム』
(全文引用・・)
 偉(すぐ)れた人間の仕事 ― すること、いうこと、書くこと、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものがどこかにある、それを目覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
藝術上で内容とか形式とかいうことがよく論ぜられるが、その響いてくるものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという連想でいうわけではないがリズムだと思う。
このリズムが弱いものはいくら「うまく」出来ていても、いくら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下(くだ)らない。小説など読後の感じではっきり分かる。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱 ― 問題はそれだけだ。
マンネリズムがなぜ悪いか。本来ならば何度も同じことを繰り返していればだんだん「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのはいっぽう「うまく」なると同時にリズムが弱くなるからだ。精神のリズムがなくなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」という藝術品は皆それである。いくら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
中央公論社正月号の文芸時評で広津君が、「今さら諸君の芸術が、功利主義と結婚することは考えられない。それよりも、うまい文学を書く以外に、文学に何の意味があろうという気持ちで進んでくれる方が、諸君の道であるとともに、また我々も望むところである」と書いている。そして諸君の主な一人に自分を入れているが、他の諸君は他人故自分は知らないが、自分は「うまい文学」という意味が一寸気にかかるので、仮りに過去の仕事がその範囲を出ず、これからもある期間は、それを出られないとしても、少なくとも「うまい文学」以上に目標を置いて努力精進しなければ仕方がないと思っていることを明らかにしたい。怠けてばかりいる自分に広津君がそういうのは無理はない。しかし自分の事となればそう思っておさまってはいられない。広津君の言うように自分が「うまい」小説家かどうか分からないが、所謂(いわゆる)「うまい」ということは小説家の目標にはならない。うまくなればいくらでもうまい小説が書けるだろう。いくらでも書ければ作者自身にとって「うまい」ということは何の魅力もない。自身に魅力のない仕事を続けるという事、すなわち行きづまりだ。既成作家が行きづまったという中にはうまくなり過ぎ、しかもリズムが衰えて来たという意味があるだろう。
「今さら諸君の芸術が、功利主義と結婚することは考えられない」これも自分はそう考えない。もし「諸君」の作品が芸術主義であっても読む者をして仕事に対する意志を感じさせるくらい、立派なものになった場合、それが功利主義と結婚しないとはいえないと思うからだ。ラジュムの発見者がラジュムの用途までいちいち意識しなかっただろう程度に功利主義との結婚を作者がいちいち意識しないとしても、功利主義、いいかえれば自分の作品の普遍性というものを全然否定しては仕事は出来ないと思う。自分は知らない、しかしどこかでよき実を結ぶ、この約束を信じないいかなる芸術家もないと自分は考えるのだ。
ここにプロレタリア運動に熱心な、小説のよくわかる男があるとする。この男はおそらく日本のプロレタリア作品を読むより西鶴を読んだ方が何百倍も仕事に対する意志を強く感ずるかもしれないという説はどうだろう。レーニン(のことは何も知らない)が生きていて日本語が読めたらそういうかも知れぬ。自分がレーニンだったら、はっきりそう言ってやる。
最近感心したものについて少し書く。
西鶴 ― 大下馬(おおげば)、織留(おりどめ)、落ちつきはらっている。しかもリズム強く、何でもない浮世の些事を書いて、読む者の精神をひきしめてくれる。
フィリップの「野鴨雑記」リズム強く、捨身なところ大いによし。熱情的な点もいいが、少し熱情過ぎて不安心なところあり。この点西鶴のつっぱなした書き方、効果強し。西鶴でもフィリップでも、話、いきなり塀を飛越し、向こう岸へ行って、また続けるような「うまい」ところあり。これを技巧と考えるのは浅い。彼らのリズムがそれをさせるのだ。本人からいえばこれは意識的でもなく、無意識的でもない。
フィリップは四五年前金子洋文に紹介された。このことをこの間来たあるプロレタリア作家に話し、もう一つ、「ゴー・ストップ」というものを津田青楓にすすめられて読んだことを話したら、その後万朝報に洋文が「ゴー・ストップ」を勧めたようにその人が書いて洋文を攻撃していたそうだ。これはその人の誤りだ。
この間大阪の友達の家で小さいコロー作の風景画(硲氏蔵)を見た。油画のことで感銘書きにくいが、非常に感服した。近年見た絵の稀なる収穫だった。こういうものになると東洋画も西洋画もない感じだ。感服するのに油画として、などいう意識はまるで起らなかった。いいものというものはいいものだと感じた。
武者の「二宮尊徳」も大変面白かった。自分の祖父が今市時代の尊徳の弟子だった関係で、尊徳の名は子供から親しんでいたが、まとまって知ったのは今度が初めてだ。尊徳の捨身なリズムの強い生活には非常にいい刺激を受けた。尊徳の時代といえば政治思想の今より動揺激しい時らしいが、その渦に少しも巻込まれた形跡のないのは不思議なくらいだ。傍目も振らず自分の目標へ一本槍で進んでいる。
勝海舟の「氷川清話」では、尊徳は一本気の土百姓として簡単に扱われているが、政治以外頭にない海舟としてはもっともなところもあるが、今日(こんにち)になってみれば一家を再興し、一ヶ村、三ヶ村を興すために十年もかかって捨身で働いていた尊徳が、当時、時代の一方を一人で背負っていた観のある海舟よりも、はるかに根本的な生命ある仕事をしていたと思うと面白いことだ。尊徳を南州や海舟の上に置き、世界に誇っていい偉人だという武者の説には大賛成だ。
時代の流れに乗って仕事をする奴はその時、時代の流れがなければ何もしなかったかも知らぬ弱みがある。尊徳は時代の流れには没交渉な奴だった。むしろ時代の流れは尊徳に合わなかった。それでも尊徳は我流の一本槍で、維れ(これ)日も足らず、捨身に進んでいかなる時代にも普遍である教えを身をもって残していった。実に強い。武者の「二宮尊徳」は平易に書いた面白い本としてお勧めする。
 
<本文・完>

(上記、「志賀直哉著・リズム」の全文模写転載にて、著作権違反に相当するか?エセ男爵にして文学者志賀直哉先生をして永遠の師と想い憧れ拙ブログへの転載作業を成す。以って、善意あれこそ毛頭悪意無き所業なり。と、自負するものなり。が、しかし万一、関係者各位より抗議あらば、即刻関係者には「ふしてお詫び」し、且つ、処罰処分を受けること、逃げ隠れせず座してお待ち申し上げるものです・・・)

志賀直哉〈下〉

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志賀直哉〈上〉

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 *上記、「あまぞんどっとこむ」引用の「志賀直哉」論評、我が尊敬する作家のお一人・阿川弘之先生の著作なる大論文である。先ごろ、(3カ月がかりで)ようやく読破した。改めて読書感想文なるものを書いてみたい。が、その前にもう一度、志賀直哉全集を読みたくなった。(志賀作品を読み直さねば、論評は書き切れないであろう。と、あらためて思う・・)
国を思うて何が悪い―一自由主義者の憤慨録

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阿川先生も(お怒りになり、お叱りを受けるかもしれないけれど)、小説家というよりも、論評家乃至歴史的偉人(例えば旧日本帝国海軍歴史の著など)伝記作家としての作品には、戦争礼賛等変な片寄無く冷静沈着に歴史の流れを書き記された作品に光り輝くもの、多い。しかし、珍しくも阿川先生にして、上記「日本を愛する放言の書」あり。いささか時代を経たものの、現在の日本の有り体に照らし合わせると尚一層理解を深めること可能となるか。そして、今の時代に通じるもあり・・・
(もう一度読み直したい、阿川先生流儀『社会風刺なる放言』のちりばめられた「一冊」である)

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