Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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第67回『光陽展』広島準本展 ・・・観に行きます!

2019-05-07 09:44:31 | 怒素人的美術蘊蓄録

 今年もひそかに、
首を長くして待っていた、赤と黒のツートンカラーのハガキが届きました。 

 そう、
それは恒例となりました初夏の催し物。 毎年案内下さっている『初夏の楽しみ』が届いたのです。

 今年も、
ありがとうございます。

 たぶん、いや、間違いなく、
初日(5月14日の遅い午前中に参上致したく、時間調整します。
                     
  (トーマス青木)
  
 ~~~~~~~~~~~~~~~

催し物: 第67回『光陽展』広島準本展 絵画・染色 http://koyokai.jp/67/67gaiyo.html
会 期: 2019年5月14日(火)~5月19日(日)
会 場: 広島県立美術館 地下県民ギャラリー
  (広島県広島市中区上幟町2-22 Tel(082)221-6246 

第61回光陽展広島展(其の1)

2013-06-02 07:00:09 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>広島県立美術館ロビーにて
(撮影月日)平成25年5月29日
(撮影場所)広島市中区・広島県立美術館
(撮影機材)FUJI X20
(撮影者) トーマス青木


 新緑萌え薫る頃、梅雨入り寸前の5月29日のこと、広島県立美術館に出向きました。

 はい、今年もK女流画家さまからご招待状を頂き、はれて第61回光陽展広島展を鑑賞しました。

 いつもながら、初めて出くわす作品を鑑賞する前は胸が高鳴りときめきます。 そして、いつも御出展される画家さまの作品は、展示会場に入るやいなや遠目からでも直ぐにわかる。 それほどに慣れ親しんだ光陽展の鑑賞は、今年をもって(たぶん)6年目になるか、もともとBlog友の悠々さんからご紹介を頂き、初めて赴いたのは2006年の初夏でした。

 ありがたい。

 嬉しい。

 こうして今年もまた広島展にお伺いでき、且つこの度は染色部門出展のTS女史にもおめもじ叶い、真に光栄の至りであります。 おかげさまで少しは体調良く、少々元気を出して、今年は10作品程度の美術談義を投稿したいと張り切っています。

 かくして本日は前座、よって添付画像は広島県立美術館1Fロビーから眺めた隣の敷地『縮景園』を眺めた画像をご紹介します。県立美術館を訪れる度、何度も何度も写真撮影しておこうと思いながら至らず仕舞い。こうしてシャッターを切った結果、なるほど。 美術館の大ガラスの繋ぎ目が功を奏し、みごとに、縮景園の樹木が一服の屏風絵の如くに表現されたから面白い。 ……満足です。

もうひとつの作品;光陽展広島展

2012-07-31 10:50:14 | 怒素人的美術蘊蓄録

 吾輩の大好きな絵画。 かの、北川作品です。

 すぐわかります。が今年は少し雰囲気が違っていました。

 こんなに暗くて静かな色調をもって描かれた作品は(この5~6年間、私の知る限り)、過去に例をみません。

 同じ作家の異なる作品を一定期間中に継続して鑑賞できるのは、毎年こうしてご案内状を下さる光陽会メンバー(悠々さん・木村さん)のおかげです。 とっても贅沢なことだとおもっています。

 たいへんありがとうございます……



 ps: 投稿予定日時(2012-07-11 09:51:15)は、7月上旬だったのです。とっくに過ぎていますけれども、遅ればせながら掲載します。お許しください……


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[第60回記念 光陽展広島展覧会](光陽会HPはこちらから入れます

作品紹介メモ:
 No. 36
 資 格: (会員) 
 題 名: 『レクイエム』
 作者氏名: 北川悦子 (東京)

第60回記念光陽展広島展観賞雑感 (2) ;『失われた明日へ』

2012-06-05 11:11:50 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>光陽展広島展『失われた明日へ』
(撮影年月)平成24年5月31日
(撮影場所)広島県立美術館
(撮影機材)iPhone付設カメラ


 そよ風薫り緑さわやかな五月末金曜日の朝、光陽展広島展の会場は広島県立美術館に赴く。受付を済ませるやいなや他の作品には目もくれず、一目散に向かったのは『作品・失われた明日へ』の展示ルームでした。

 一番奥の部屋に向かって左手壁のほぼ中央に掲げられた作品の真ん前に、美術館によく見受けられる鑑賞者休憩のための椅子が数脚あり、その一脚に腰かけ陣取って鑑賞開始。さらにさらに、休憩用椅子の直角前方約7~8メーターの位置にKJさん『損保ジャパン美術財団賞受賞作品』が掲げてあり、落ち着いて観賞するには絶好の場所だった。

 2007年頃より鑑賞し続けているKJさん作品には個性あり、その個性は青い。
透き通るような、あるいは強力な光線はたまた閃光のように白く輝く青を基調とする心象絵画のもつ独特な個性があるのだ。
今年度作品は、今迄の作品よりも一層深みのある青になっている。過去のどの作品にもまして、威圧を感じる。恐いほどに重厚さが増している。鑑賞者に対して畏怖を発しつつ、作品は実際の画面よりも一層大きく拡がりを感じさせる。作品の世界は三次元から四次元へ、空間と時間が拡がっていく。

 作品『失われた明日へ』に出会った数分後の鑑賞者は、作品の表現する「重い青の世界」から人間の生涯を思い浮かべていた。その生涯とは「現代の人間のもの」と言うよりも、もっと原始的な時代の、サルでなくヒトとして、生き物のなかの一種類としての『人間の生き様』がみえていた。作者の「生死観のようなもの」が、ひしひしと感じとれてきた、、、。
 作品の題名は『失われた明日へ』……
 失われているのであろう明日?
 そして明日のその先の明日は、どうなのか?
 その明日から先は、広大で崇高な、まことに広々とした明るい将来や未来があることを、作品から覗える。作品の真正面約10メーターの位置にある休憩椅子に腰かけて鑑賞すること20分、作品題目の意味するところが少しずつ、わかりかけてきた。
作品の意図するものは何か。それは題名に表わされた『失われた明日へ』の、「その先にある未来」の遠望を試みておられる。
当面、今日を歩んで行き、避けることのできない明日への道程がある。明日からまた明後日への一歩、さらに一歩、前へ進む。進むべき「おおよその道筋」はほぼ分かっているけれど、道筋の傍らには不可解な物質や現象が瓦礫のごとく散乱し、ボンヤリとして明確でない。そんな「不明確な明日」を乗り越え、渡り切る。ただ一筋の道を辿って、『明日の先の未来』まで、歩み続けることを、この作品は示唆しているか。
 そう、明日の先の未来に横たわるものを、作者は見通され、作品を介して表現されているか。
現在から明日(失われた明日)へ向かって進むその先に、近未来があり、それから本格的な未来と将来が見えてくる。将来のその先にも、何かがある。どうやらそれは永遠のもの、そんな何かがみえる。
 もう少し詳しく、絵の中身を見ていきたい。

 まず初めに、
 作品の下部に、現在から明日にかけてあらわされているのであろう風景が読み取れる。その風景の下部から左上部に向けて一本の線あり。
 道に見える。
 その道は、時計回りに作品画面の左上を登る。想像するに円弧を描きながら作品画面の中央あたりへ向かって遠くへ進む。坂道を上がっていくのか。

 第二は、
 しばらく進んで明日をやり過ごすと、あまりにも不明確な行程の道として絵の中の道はよりおぼろげに描かれ、いよいよ明日の先の未来に入っていくのかどうか視界から消え、その先が定かでない。

 第三に、
 画面のほぼ上下中部に、二種類の異なる近未来が見える。その一つは右手画面にある。目を凝らせば、都会に乱立する超高層ビルの廃墟がみえる。廃墟と化して久しい大都会全体が遠く鳥瞰図として遠望できる。もう一つは、すなわち二つ目の近未来は中央左手に描かれていて、深遠で潔く且つ美しい広い海原が広がっている。灰色を基調として、雑然と殺風景で無機質な大都会の廃墟と対比的に描かれているのは、ネイビーブルーを基調とした大洋の海である。かくして失われた明日の先の近未来に二通りの異なる未来があり、すなわち一方の右手に絶望的で無機質な未来に相対し、左側には、大自然の息吹豊かな大海原を望める。

 第四として、
 明日を経過して未来に向かっているはずの道は、右手の大都会風な廃墟と左手に広がっている大海原の間に挟まれつつ、その進んでいる道は次第に見えなくなってしまう。

 第五は、
異なる種類の二つの未来に存在する大海原と大都会の廃墟のその先には、山も平野もない小さな島でもない、とてつもなく標高の高い『台形』がみえてくる。鑑賞者の眼に飛び込んできた台地は、直感的に『氷の無い南極大陸』に想えた。遠近法を用いて描かれているのが、ようやく解る。この台地は、今いる所から遠い場所の大陸であり、想像してみてその広大さが推し量れる。南極大陸だ。否、「南極大陸並みの、人の住める前代未開の大陸なのだ」と想像したい。
 その大陸の更にその先の、背後の上空から、強力な光線が差し込んでいる。黄昏時の夕焼けではなく朝日か。強く澄んだ光線を背景にシルエットとして描かれた巨大大陸。その一端の台地は、近未来の先の将来の位置にそそり立つ。

 一呼吸して、
 心象表現的に作者の到達したい物理的場所乃至精神的境地を表現すれば、作品の部位の『この界隈』をして、作者の『真骨頂』か。

 もう、第六番目か、
 おや?実は最初から気になって仕方のないこの絵の中で一番異質なもの、触れなければならない大切なものを忘れて書き進めていたものあり、それはキャンバス中央の上部に描かれた球体のこと。この作品の、象徴か。

 象徴として描かれた「モノ」即ち「球体」は、宇宙に存在するものを意味するのか。膨大な空間と途方もない未来時間に拡がる空間に存在する『ひとつの星』を描いておられるのか。それはしかし、光線を放っていないから太陽ではない。球体の色彩表現は黄土色でもなく赤茶けていないから月や火星ではない。
ボンヤリしているけれども青と緑、わずかに灰色且つ白色で描かれ、球体の色彩から空気と水を感じるから、これは『地球』なのだ!否、宇宙に存在する地球と同じ生物の育つ環境を有する星を描かれているか。

 かくして、
 来世への想いを、いかなる既知の宗教的表現の寸借無しに、あくまでも作者ご自身の人生哲学として会得されているものにて、すでに未来をはるかに超えた死後世界のその入り口まで見通されている。
 明日を失ってしまったヒト(人類と言ったほうがよいか)の生涯、それぞれの人生の、行き着く先は、今から如何なってしまうのか。未来には、何が起きるのであろうか。

 とほうもなく重厚にて憂鬱な絵画だ。
 いつもの色調よりも、さらに深みの加わったブルートーン(Blue Tone)を基調とし、各種青色乱舞するさまは、鑑賞者の心を乱すことないけれども決して高揚させることはなく、観れば観るほどに神経消耗し、心身ともに疲労する。すなわち長時間の鑑賞には不向きな作品である。
 それでも、また観てみたい。
 なぜなら、とほうもなく美しき未来と遠大な希望を創造させる「ちから」のある作品だからです。


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[第60回記念 光陽展広島展覧会](光陽会HPはこちらから入れます

作品紹介メモ:
 No. 37
 資 格: (会員) 
 題 名: 『失われた明日へ』
 作者氏名: 木村順子 (広島)
 受賞名: 損保ジャパン美術財団賞受賞作品

第60回記念光陽展広島展観賞雑感 (1) ;『失われた明日へ』

2012-06-04 15:38:54 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>光陽展広島展『失われた明日へ』
(撮影年月)平成24年5月31日
(撮影場所)広島県立美術館
(撮影機材)iPhone付設カメラ


 県立美術館に行ってきました。

 悠々さんからKJさんをご紹介頂いたのは、すでに5年前になりますか。

 ご紹介頂く以前から『気になって仕方ない作品』を描かれていたKJさん。

 な、なんと! 今年度は損保ジャパン美術財団賞を受賞されたとのこと。

 実物を見に行ってまいりました。


作品紹介メモ:
 No. 37
 資 格: (会員) 
 題 名: 『失われた明日へ』
 作者氏名: 木村順子 (広島)
 受賞名: 損保ジャパン美術財団賞受賞作品


 「……?」

 「はい、本日、鑑賞感想文投稿を予定していました……」

 ちょいと体調不良にて明朝まで時間下さい。
 殴り書きですが、感想文は出来上がっています。もう一度読み返し少し校正したいのです。
 明朝、完成予定です。

光陽展広島展に赴く

2012-06-03 12:23:36 | 怒素人的美術蘊蓄録

 広島県立美術館に赴いたのは5月31日金曜日の午前中でした。

 行きましたよ!
 たぶん3年ぶり? 久しぶりに『光陽展広島展』(第60回記念光陽展)の出展作品を鑑賞しました。

 いいいい、良い美術作品を鑑賞するのはいいものです。そのあと、いささか疲れますが、、、。

 なかでも今年の損保ジャパン美術財団賞受賞作品『木村順子氏作・失われた明日へ』を中心に観賞。

 凛としてブルートーン冴えわたる木村氏の作品は、それなりの理由あって、毎回作品とも吾輩の大好きな作風なのですが、今年は恐ろしく重く深い色調に圧倒され、とことん感激し、ほとほと疲れました。

 尚、只今感想文作成中。 90%完成しています。 一両日中に投稿予定。

 いやはや、数年前は、普通なら作品を思い浮かべて感想を殴り書きして、否、キーボードに打ち込む。打ち込み終わったら直ちにブログ記事同行していたのです。が今はそれが出来なくなった。合わせて、今回の木村順子氏作品は面白すぎて、書きたいことたくさんあり、たくさん書きすぎたから今それを整理している真っ最中です。

 明日午前中には投稿可能です。

 エセ男爵ブログを明日も是非、見に来てください。

 

柿の色彩;「ミリキタニの猫」より(3回連載ーその1 )

2011-12-13 17:35:45 | 怒素人的美術蘊蓄録

 柿の赤が「こんな色」になるとは!?!

 今年は柿の豊作とのことにて、あちこちから柿を頂き続けて早くも一ケ月経過。かくしてビタミン補給を意識しつつ朝な夕な思いつくままに柿を食し続け、すでに60~90個程度の甘い柿を食した。
 なんだか今年は柿が豊作らしいけれど、「吾輩にして、この世に生を受けてのち初めての出来事に違いない……」

 ……思い出す。
 子供の頃、親から何度も言われていた。「ミカンは大丈夫だけれど、柿は体を冷やすからけっして食べ過ぎてはいけない……」と、、、。
 ガキの頃と比較すればするほどに、今年のようにたくさんの柿を食した経験は、未だかつて、無い。
 「思うがままに存分に、もう十二分に食べた、食べ飽きた。今年はこれで柿は終わりか?……」と思っていたら一昨日、またまた30個ばかり頂いてきた。
 「長らく木の枝にぶら下がったままの実であるから少し傷んでいる。見てくれは良くないがよく熟れているから美味しいよ……」
 今尚元気な親戚の叔父貴の庭にある柿木に生ったもの。遠慮なく頂いて帰り、飽きもずに再度食す。

 そうです。
 これはめちゃ甘くて、この秋になって頂いた数十個の柿の中でも、この柿はひときわ美味であるぞ。
 あらためて熟した柿の実が『このような赤色』になるとは思いもしなかった。というより柿色独特な赤味を、日本の秋を彩る柿色独特の美しさに気付いたのは、この年齢になってから初めてか。 何度も申し上げていると思うが、若かりし頃の吾輩は仕事柄、敢えて季節感をかき消した生活をしていたし、いわんや郷里の四季折々の観賞や感傷に浸っている感性など皆無であった。 ようやくこの5~6年、ようやく日本の四季の美しさに関心を持ち始めている。

 さて、この柿の赤!
 極めて柿的に赤く、且つ熟した柿独特の風味を愛でつつ食しながら、「さて、どこかで見た記憶のある赤色ではないか」と感じる。
 そう、(遅ればせながら)この秋のBSテレビの何れかの局で放映且つ録画した『ミリキタニの猫』で、かのミリキタニ画伯がニューヨークの某公園傍の路上で熱心に描いておられたパステル絵画の中に『ふるさとの柿』あり、その柿の色とほぼ同種類のものであると判った。
 そう、……2か月前を思い出す。
 暑くなったり涼しくなったり、いやいや未だかなり暑かった初秋10月上旬のこと、短編ドキュメント映画『ミリキタニの猫』を録画する。観る毎に新しい発見のあるこのドキュメンタリー映画は、2ヶ月の間にすでに5度観賞した。幾度か録画を消そうかと思ったけれども、この映画はしばらく残しておこうと思い、且つ何度か映画鑑賞感想文を書こうと思った。が書けなかった。短編で単純なストーリーなのであるが、いざ何かを書こうと思うとドッコイ、それが何も書けない。書こうとすれば書けなくなり、何も書けずに2ヶ月半も経過する。はや、師走になってしまった。
 柿を見て、柿の色を観て、思い出した。
 そうだ!この柿の色とミリキタニ画伯のパステルの色合いが同じだということを思い出した。
 このドキュメント映画の最初にシーンは2001年晩秋。如何にも底冷えしそうな、湿気の高いベタ雪の降る、ニューヨークのダウンタウンだった。確か、ソーホー地区の歩道上に段ボールを廻らし寒さ除けのビニールシート(透明)で覆い、画伯は自らのアトリエ空間を確保し、真夜中まで絵を描く。
 「ほとんど眠らずに翌朝を迎えるホームレスの老人(ミリキタニ画伯)をインタビューするシーンからだった……」と思い浮かべつつ、更に翌年の秋口に描かれる画伯の絵画は柿の実を配列した色彩豊かな静物画のシーンを思い出した。個性豊かで色彩豊富なミリキタニ氏の絵画から、第二の強力な印象『巨匠の郷里の柿の実の赤色の印象』を回想した。
 かくして、手元の柿の実が見事にミリキタニ的赤色に発色している様子を見届け、ついに『ミリキタニの猫』の鑑賞感想文を書いてみる決心した次第であります。<…続く……>

第58回光陽展(広島展)鑑賞雑感;K画伯作品によせて、、、

2010-06-06 18:45:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
 本日、第58回記念光陽展『広島展』を鑑賞しました。
 
 悠々さん、光陽展広島展会場へ、遅くなりましたけれども本日、行ってきました。 招待券お贈り下さり、たいへんありがとうございました……

  今年はぎりぎり本日(6月6日)広島展の千秋楽に間に合った。 ちなみに昨年は「かの宮島」で地獄の6月を過ごしていた結果、光陽展の鑑賞ができなかった。
 会場の広島県立美術館に辿り着いたのは午前11時前か?  下手な筆ペンを使い躊躇しながら受付記名を終り、展覧会場に入るや否や斜め後ろから(予定外にも)「女性の御声」が聞こえてきた。 振り向けば、御声の主は、「かの、K女流画伯」ではありませんか。 一昨年?否、悠々さんからご紹介頂いたのは3年前? K画伯が私を覚えていて下さり、会場に入ると同時に呼び止めて下さったこと、たいへん光栄の至りであります。 お忙しいにもかかわらず、御声をおかけ下さり、本年度の傾向その他ご案内下さいましたこと、たいへんありがとうございました。

 既に何度も鑑賞している自分の好きな光陽会所属画家の作品は、数年経過し作品は違っていてもすぐ解りました。 新しく創作された作品といえども、それぞれの作風とテーマは整然と同一方向を向かっているのでありまして、今年の作品を拝見すれば懐かしく、お名前はすぐに我が脳裏に浮かんでくる! 久しぶりに各画家の各作品に出合え、これで一安心です。 只、残念だったのは、悠々さん作品が広島へ巡回されていなかったこと。 なんだか今年は東京メイン会場の都合により、作品の大きさと点数に制限があったとのこと、致し方ありません。
 K画伯の作品は、今年もまた「群青乱舞(吾輩の勝手な表現にてお許し下さい)」微細な白と微細な各種青色を組み合わせ表現された「心象絵画」なのでありまして、一年間をあけて鑑賞しても、やはりK画伯のアイデンティティーは変化なし。 したがって微細に、昨年一昨年作品から表現変化する「今年の作品」も、展覧会場で出会った瞬間に直ぐにK画伯作品であること判明するのであります。

 K画伯の絵画作品から、感じるもの、漂って来るものは、
まず、
 クールを通り越して「冷血」。
 冷血だから無機物なのであり、
 無機物は無機質によって構成され、だから、タンパク質はなし。
 タンパク質が無ければ、腐敗はなく、
 腐敗がないから、腐臭は一切なし。
 絵画から発せられる「匂い」?「臭い」? 悪臭がないのだ。
 悪臭がないから、即座には感情が揺るがない。
 感情がゆれ動かなければ、精神は安定するか?
 (K画伯作品を観賞していて)
 精神が安定するとは言わないまでも、なんだか催眠術にかかってしまいそうだ。
 催眠術にかかり、そのついでに、なんだか心が吸い込まれそうだ。
 心が吸い込まれていくと、身体までも「絵画の中」に吸い込まれていくのではないか?
と、勘違いしてしまいそうだ。

 ブルー系の配色は、美しい。 端正だ。 けれども、冷たい。

 結論として、この心象絵画でもって「K画伯の心の中身」まで想像できる!と言ったら嘘になる。 K画伯の精神構造の一部分が「この作品に表現されている」として100%読み取れるはずはない。
 読み取れないにしても、作品を鑑賞することによって鑑賞者である自分自身が如何様に考えようと、其々鑑賞者の勝手であるか。 ならば吾輩も、K画伯作品を観賞しながら作品の中に入り込み、催眠状態に入り、心地よく「我が精神構造」を勝手に自由に玩んでみたい。


 ps: 第58回光陽展・K画伯作品(出品No.67)題目『眠れぬ街』 
  * 昨年作品は「広島アート」にて公開されていますので、こちらをお開き

第56回光陽展広島展鑑賞雑感(11);「湖畔の少年」・・

2008-11-05 10:45:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:湖畔の少年(作・光本桂二)


 梅雨開けて、真夏を迎える湖畔、そこに立つ少年、、、。

 湖畔の空気と水面は、夏の太陽に暖められて、いやがうえにも湿度は頂点に達するであろうけれど、晴れているゆえに気温が高いゆえに、高い湿度の不快感は全くなく、湖畔に立つ少年はいよいよ始まる(であろう)夏休み期間中の計画を立てているのか? 「物思いに沈んでいる?」という後ろ向きな思考ではなく、遠く将来を見通しているのか、少年哲学者風な面持ちだから清々しく、傍から見ていて気分は良い。

 この絵画の時代背景は、凡そ作者ご自身の若き頃の思い出から抽出されているに違いない。 なぜならば、まずこの少年の服装は今的ではなく、昭和30年代の子供の井出達とみる、、、。(いや、違っているか?当時ならば子供のツッカケはなく、下駄の筈だ・・)

 鑑賞者エセ男爵めにして凡そ半年前(平成20年6月を指す)この作品を一目見た瞬間、少年の立つ『この湖畔の風景』とほぼ同じ風景が我脳裏をよぎったのである。

 それは、鳥取県の羽合温泉なのだ。

 今から約20年前、たった一度だけ、この温泉郷に長逗留(といっても忙しくしていた現役時代の当時、わずか4泊にもかかわらず長逗留?)した記憶が蘇ってきた。 実際に滞在した当時、それは真夏、確かお盆前のこと、ため池のごとき「この湖畔」から、むせ返るような水蒸気立ち昇ってきて、湿度は限りなく100%に近く、万事暑すぎて何もする気がしない無気力な精神状態だった当事を思い出す。 〆て、風景は格別に美しくもなく、ため池の如くよどんだ湖畔の水から発せられる水蒸気には何やら臭気漂う如く不衛生に感じ、山陰地方独特の晴天少なき真夏の気候は総じて不快感一杯の思い出なのだ。
 かくして、あらためて作者の出身地を照合すれば鳥取県の画家であるからして、間違いなく『この湖畔』は羽合温泉の『それ』のはず! 

 あれやこれや、その思い出を脳裏から払拭し、翻ってこの作品に視線を投じれば、羽合温泉郷のプライオリティーのみ抽出されているから流石である。

 真夏の河畔の心地よい湿度感覚を、鮮やかにして落ち着いた色彩で表現されているから堪らなく美しい、、、。

 感想を締めくくれば、この作品こそ、朝から鑑賞しても精神的に差し支えのない健康的な絵画であるか。

 それは比較対象あってのこと。

 比較対象とは、前回紹介山本泰子氏作品『ひとつの顔』のような心象絵画と比較対象して言える事なり。

 風景画の中に人物を描く志向を嗜好しないし、元々子供嫌いな我輩であるけれども、この作品は別格であって、来年度も亦、光本桂二画伯作品に出会いたいのであります、、、。

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作品紹介メモ:
 No. 65
 資 格: (会員)
 作者氏名: 光本桂二 (鳥取)
 題 名: 『湖畔の少年』
 受賞名: 会員秀作賞

第56回光陽展広島展鑑賞雑感(10);「ひとつの顔」・・

2008-10-30 10:45:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:「ひとつの顔」(作・山本泰子)


 Q-1: この作品に描かれている『顔』は、男性だろうか女性だろうか?

 Q-2: 果たして、年齢は幾つだろう?

 Q-3: 眠っているのか、死んでいるのか? 死んでいるなら、死後どのくらい時間経過したのか?


 此の絵画の鑑賞をするたびに上述の疑問に出くわしてしまう。

 その答えは!

 A-1: 未だ低学年!児童?男の子の顔に見えたりするが、どうやら(我輩の感覚では)女性である。 いや、やはり男の子だ・・・ 解らなくなる、、、。

 A-2: 決して高齢者の顔ではなく、むしろ10代後半ティーンネイジャーのものだ。 もっと若いか? 解らなくなる、、、。

 A-3: そして、眠っているのか死んでいるのか? 今朝は、眠っているように思える。 全く解らない、、、。

 昨夜開いたときは、死後間もない「死人の顔」、すなわちデスマスクに想えた、、、。 しかし、なぜか長らく病に臥せって衰弱しきって逝った病人か?否!美しすぎる此の顔は、たとえ病死であっても長期闘病結果の病死には見えない。 ヌヌ?奇想天外にも他殺であるか!?! それとも、悠久の時を経て発掘された美少女のミイラだろうか? まさか、マーブルアート?大理石を切り刻み丹念に磨きをかけて製作した彫刻作品か? 否、それはない、それはない、、、。


 山本泰子氏作品を鑑賞するたび、誰に相談することもなく自分だけの脳裏で、上述の問答を繰り返す。 あれこれ考えているうちに堪らなく怖ろしくなって此の画像から目を背けたくなり、記事が書けなくなる。

 そして、この作品のために、

  この作品の存在がゆえに、

   我輩は第56回光陽展の鑑賞雑感を書き進めることができなかったのではないだろうか。

 昨年度に続き、山本泰子氏作品は、重い。(昨年度作品はこちらから、、)

 昨年初夏には約2ヶ月間悩み考えた末、結果として昨年作品を『強烈な性描写そのもの』として捕らえ、タンゴのリズムのもと、汗と油ほとばしらせ、猥らな呻き声と喚き声すら聞こえてきそうな男女の性行為そのものだった。

 そして一変! 今年の作品からは音や音声は、一切無い。 怖ろしいくらいに音曲騒音は皆無。 有機質の腐臭すら皆無にて、清涼にも無機質にて静寂に包まれている。 漂うものは? 埃も塵も無く、ひょっとすると空気すら存在しないのか。

 結果、絵画から発せられるものは、

 時に、静寂にして安穏か、、、。

 時に、歴史のかなたに繋がる一大ロマンスか、、、。

 時に、臨終を迎えた愛する人の「顔の記録」か・・・

   ・・ったく、人間のもつ動物的発情をみごとに描ききった昨年作品から一転し、今年の山本泰子作品は、重く、深く、人間の裏面から発せられる秘められた「温情と怨念」を発せられるか。

       なんとも、難しい、、、。


             <・・続く・・

        (前回投稿関連記事は、こちらから戻れます・・)

   -------------------------------------------

作品紹介メモ:
 No. 73
 資 格: (会員) 
 題 名: 『ひとつの顔』
 作者氏名: 山本泰子 (広島)