Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

イザ、行かん! 第55回『光陽展』・広島展へ・・

2007-05-30 23:55:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:光陽展広島展の招待券・・



 エセ男爵ブログの重鎮! 悠々さん(『絵入り随筆 エッセイつぶやき』)から、 先の5月連休入り早々? Eメールご案内により、



 何と、、、








 >「今年、光陽展で「古卿賞(フルギミ)」を戴きました」・・・


 との「ご連絡」を頂いたのは、

                   5月連休前のこと!

 
加えて、

 >「光陽会には20回展の時に会員になっていますから、今年が55回展なので、25年にして初めて賞を戴けたと言うことです。私が何かで賞を貰うなんて事は希有のことです。宝くじに当たるより確率は低いかも知れませんね・・」



「ムム! 流石(ryu-seki=X, but sasuga=O)なり!!!!!」



 「でかした!悠々兄!・・・・・・・・・・・・」


   「おめでとうございます・・・」



 そして出張帰りの昨夜、添付画像の通り複数の「招待状」をお贈り頂いた次第であります、、、。


 我輩、光栄にて、大感激です、、、。


 ならば必ずや、今年は2度! 一度目は同嗜好の複数友人を伴い、二度目は自分ひとりにて・・・

 展覧会場には2回! 落ち着いて、2回ともそれぞれ違った角度、視点観点論点を、それぞれ異なる切り口にてじっくりと拝見いたしたく、今から心ときめく次第であります。


 尚、関連記事は舎弟ブログ「Cafe&Magazine旅遊亭」にて掲載中! 

     是非是非、

  いまだ方針儘ならず試行錯誤中のブログに飛んで行って、ひやかしながら見てやってくださいまし・・・ 


 <・続く・・
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PS:知る人ぞ知る、おなじみの記事「第54回光陽展・感想録」その他、関連記事URL、下記掲載してきます。

A)ブログ「エセ男爵酔狂記 Part-II」絵画鑑賞超怒素人蘊蓄録

B)昨年の悠悠さんの出展作品:作品名「奥入瀬の激流」

 

Mr. Dandy, N : (5/4) 特別アンコール編 「ヌヌ!侍日本+騎士道の心であるか?!」

2007-05-27 15:25:20 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>:前回関連記事(Mr.N = Mr. Dandy)に続く、元学友N君のジープ車内装飾を拝見する。


 解った!

 元学友にして、今は共にNPOを立ち上げる有志『N君』のダンディズムたる所以?! 先回記事にておおよそ98%あたりまで理解できたけれど、これで残り2%の確信なるもの、なんだか解った・・・

 ご承知、数あるサンバイザー装飾品のほとんど全部は「日・米・英」の広範囲にわたる陸海空軍に関連するもの。 おおよそエセ男爵ブログの読者諸兄姉に於かれましては、N君にして戦闘精神旺盛なる人物にしてイザという時は身を挺して家族親族隣人はじめ日本国民を守り抜くという精神の持ち主、且つ(当然ながら)右肩上り的思考を嗜好する『元気的シニア』であるをご納得頂けるかと確信する。

 加えて、どうやら彼は、我輩の想定していた江戸末期すなわち幕末期に於ける「国粋主義者」的武士道精神とは一味も二味も違っている。 

 「・・・?!」

 「マリリンモンローのブロマイドを如何に理解するか?」

 によって、彼のダンディズム定義は大きく変わってくる。   

 さて、個々(マリリンモンローのコピー写真)のワッペンを如何に理解するか!ここ、論戦を巻き起こす重要なポイントにて、思案のしどころである。

 かれこれ1ヶ月考えたのち、我輩は我輩なりの結論に達した。

 想えば、日本的武士道精神には、山之内一豊の妻しかり彼の前田利家公の妻おまつさんにしてしかり、「内助の功」的な歴史事実あれど、所謂武士道精神に直結する「女性賛美的精神」は決して武士道精神の必須事項ではない。

 ならば翻って、欧羅巴中世の騎士道精神を紐解いてみようか?

 騎士道精神に必ずや付属するものは、美しき貴婦人賛美の精神なるもの存在し、以って騎士道の必須事項として現代にも西側白人社会のジェントルマン連中に受け継がれているものである。
 
 どうやらN君は、若き頃から今も尚、女性を大切に扱う精神を培い蓄積し現在に至った人物なること、これ、N君の外見風貌から推察するは不可能である。 加えて言動にても、決して下種風美女賛美的発言を表さない「彼自身の精神性」について、我輩は勝手に想像しつつも、結論に達するまでには至っていなかった。

 しかし、わずか2週間前、当該関連記事を垣間見たN君本人からEメール舞い込む。 内容を吟味すれば、期せずして「予期せぬ一言」書かれているではないか。 内容とは、彼自身の「女性論」なのであった、、、。

 我輩、2度拝読した。 以って、行間に漂う意味深長なる「彼自身の感性」を読み解いた・・・

 マリリンモンローといえば、一時代の一世を風靡した「洋の東西を問わず」の世界的セックスシンボルなる古き昔の良き時代のハリウッド女優なのである。 古くは第二次世界大戦に於いて、米陸海空軍の召集兵達は挙って「マリリンモンロー」のブロマイドを携帯したと聞き及ぶ。 要は、単純なセックスシンボルだから、戦場に於ける若き兵隊さんたちの「無知蒙昧なる脳裡」に夜な夜な描き出でる夢想の性処理対称の、兵士各々勝手に描く脳裡内夢世界に蠢く「空想的従軍慰安婦的存在」だったに違いない。
 彼(N君)曰く、マリリンモンローは、そんじょそこらの不潔な女性とは大いに異なり、(彼にとっては)
 (『白痴的なモンロー』;この形容詞は、我輩勝手につけて挿入句とする!)続いてN君の名文句・・
 「モンローは美しい。永遠の理想の美女!である。時代の変遷と共に、一旦決めたこの結論を今更勝手に変える訳にはいかない!」
 と、豪語するから、これを拝聴した我輩は、どさくさ紛れにN君的理論に納得した。

 言動に出して女性賛美するは、これ、ヨーロッパ的騎士道精神の現われなり!

 もって、N君をして「ダンディー研究」の対象としフィールドワーク開始し、本日を持って確たる研究結果の成果を発表する。

 かくして、結論は?!

 N君は、
 天上天下唯我独尊風にして自覚症状無き「ダンディー人類」であり、今尚自分自身のダンディズム加減を研磨練磨して止まない優良確定なる「一見・不良シニアの鏡」である! と(誰がなんと云おうと異論的ご意見は一切聴く耳持たず)、結論付けたい・・・


 <・完・・>


* 前回関連機記事は、こちらから入れます!
 
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 <添付資料>:我輩の唯一鑑賞済み!「マリリンモンロー出演映画」をご紹介したい・・・

帰らざる河

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ある晴れた週末の午前、ブダペスト「ドナウ川東岸」を散策する・・

2007-05-22 16:45:20 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<添付画像>
撮影場所:ブダペスト市内にて、ドナウ河東岸。日曜蚤の市にて・・・
撮影年月:1998年5月
撮影機材:Minolta/alfa7700i / lenz:minoltaZOOM 35mm~105mm


 先回投稿記事の為に古い画像を探していたら、芸術写真とはほど遠い「ドナウ河東沿岸日曜蚤の市」の一こま、見つかったので掲載したくなった。

 ナヌ?
 こうして視れば、オカマッぽい「ハンガリー人おにいちゃん」が写っているぞ!? 邪魔立てするな! 我輩は目の前の「蚤の市」屋台の撮影に挑んだのであるからして、これも重大な失敗写真! 非芸術的作品であるか。

 なあ~に、本日も頭は空っぽにて、何らさしたる「エセ男爵的・意図」はありません。

 あるのは只一つ、『懐古』!あるのみ・・・

 あの頃のブダペストの日々を回想しているだけのことですよ、、、。

 しかし、あまり度を越して寝惚けすぎてもいけないので、せめて「ハンガリー政府観光局」(こちらから入れます)位には、せっかくお越し頂いた読者諸兄姉をご案内したい。

 加えて、毎度の常套手段と化した「ウイキペディア百科事典」より、ブダペストの歴史的経緯など切り抜き、以下、貼付けしておきたい。


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『ブダペスト』:: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ブダペスト(Budapest)は、ハンガリーの首都で、産業、商業、交通におけるハンガリー第一の中心都市。ハンガリー語の発音に基づき「ブダペシュト」とも表記される。

人口は、1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。ドナウ川の両岸に広がった都市で、右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。両岸の地区を結ぶ代表的な橋がセーチェニ鎖橋である。北緯47度29分57秒、東経19度2分38秒。


「歴史」

1975のブダペスト地図記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。ドナウ川の対岸にあたる現在のペシュト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていた。

900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がやって来てパンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国を形成した。ハンガリー王国における重要都市となったペシュトは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入による破壊からすぐに復旧されたが、1361年にハンガリーの首都となったのは1247年以来王宮所在地であったブダであった。

16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服すると、首都の座を失ったブダペストの発展は一時停滞した。ペシュトはモハーチの戦いによってハンガリー王国がほぼ壊滅した1526年にオスマン帝国によって侵略された。1541年にはブダが占領され、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となった。一方のペシュト地区はこの時期ほとんど見捨てられていた。1526年以降、名目だけにはなっていたが、オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねていた。ハプスブルク家は1686年に王国領を奪回した。

1723年、王国の行政組織が置かれたペシュトは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになった。ブダとオーブダの合計より多かったペシュト地区の人口は、この世紀の間に20倍の600,000人に増え、ブダとオーブダの5倍になった。

3つの地区を単一の行政に統合する試みは、1849年のハンガリー革命政府によって最初に一時的に行われたが、これを鎮圧したハプスブルク帝国によって撤回され、1867年のアウスグライヒによって成立したオーストリア・ハンガリー帝国下でオーストリアから自治を獲得したハンガリー王国政府によって最終的に実現された。合併して成立したブダペスト市の総人口は、1840年から1900年に7倍となる73万人に増加した。

20世紀の人口の増加は、主に郊外で起きた。工業化による都市の発展により、ウーイペシュト(Újpest, 新ペシュト)は、1890年から1910年の間に人口が2倍以上になり、キシュペシュトは、1900年から1920年の間に5倍以上になった。第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は首都にも一時的な打撃を与えたが、オーストリアとの分離により主権国家となったハンガリーの首都になった。1930年までには、都市の人口が100万を超え、さらに郊外には40万人が住んでいた。

第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストで3番目に多いユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡した。それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復しなかった。共産主義政権(1947年 - 1989年)によって、1960年代から実用的な目的のためにいくらか都市が拡張された。1980年代からは、ハンガリー全体と同様に、移住による人口増加と人口の自然減少の釣り合いが取れている状況である。(ブダペスト『ウイキペディア百科事典』より引用=続きはこちらから入れます・・)

 <引用・終り・・>



法要を終え・・

2007-05-19 22:45:10 | つれずれ紀行
<添付画像>:長編小説『(仮称)エセ男爵・東欧酔狂記』をイメージして・・
撮影場所:在りし日のハンガリー。 ドナウ河岸からブダの丘「ハンガリー王宮」を望む・・
撮影年度:1996年早春、ハンガリー長期滞在中のこと・・


本日、午前11時よりオヤジの「三回忌」法要・・・

 お世話になった(今も尚、お世話になっている)親族叔父叔母にお集まり頂き、ことなく法要を終えました。 法要の後、お寺のお座敷をお借りし、ささやかなお弁当を頂き、散会したのは午後1時を過ぎていた。

 今日は「久しぶりの昼酒」入ったから、帰宅してドッと疲れ出て昼寝開始・・・! ルーティーンから外れた行動をとると、なんだか5倍疲れる。

 まして、ご高齢の叔父叔母に対し慣れぬ謙譲尊敬敬語等々駆使しつつ粗相為ってはならじ!等と、平素使わぬ気遣いをしたものですから疲労困憊?

 さて、あれから丸5年、、、

 本気で、ライフワークに取り組みたい、、、。

               創作に邁進したい、、、。

 もたついていた「執筆」に、心機一転して取り組みたい。

 今年の9月末までに、、、、。さぁ~て、 不肖エセ男爵、我が命と引き換えに、我が寿命を削っても、書き切ってみるか、、、。

 そんな気分の、今日今夜なのです・・・



Mr. Dandy N (4/4) 納得度98%!・・・

2007-05-16 15:45:15 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>:学友N君のジープ運転席上部・・


 ますます恐れ入った・・・

 先の記事で申上げたとおり、外観はいたってシンプルなれど、コンソールパネル上部すなわち運転席周辺はまことに賑やかであるぞ!

 陸海空軍関連各種張物に加え、西部劇モドキの「星型シェリフバッジ」も、燻し銀的きらめきを発しているではないか?

 ムム! 左端には何と、19世紀の大英帝国植民地政策華やかりし頃の「英国陸軍兵士」のブラスティック製貼り絵あり。 前時代的英国陸軍軍服を身に纏い、銃剣付き旧式ライフルを携えているではないか! 勇ましい・・・

 これまた! 決して見落とせない、見過ごせない、、、。

 「・・・」(暫し、沈黙、各種ワッペンものを視る・・・)

 N君の鮮やかなハンドル捌きは4駆ホンモノジープをスルスルと駆動前進させる。

 さすがに、この手の車を扱いなれている。

 しかし、よく揺れる・・・

   我輩、脳震盪を起こしそうだ、、、。

     しかし、このクッション悪き乗り物を駆って、(たぶん)冬は隙間風だらけにて寒く、夏はメチャ暑いはず。

 N君曰く、
 「走っている時ゃ、問題ない、、、。 炎天下の中、停まったら熱いよ」

 そう、春先や秋口は快適走行可能であろう。かくして夏場も、幌を外して走るのであるか。 元々オープンカーにて、外して走るは基本にてダンディーか。 粋!且つ、イナセな、「幌無し走行」も良かろう。

 「夏場の街中を走って信号に引っかかったら停車しなけりゃならんよ。 停車すれば、周囲猛暑にて、運転席はメチャ熱い!」

 (そりゃ、そうだ・・・)

 「その時こそ、平気の平左にて平常心を装い、ゴーストップで停車している左右の車に乗っている人間から見られても恥ずかしくない態度を保つ。 我慢辛抱にて猛暑に耐えつつも、その実停車している間に素手になった左手にウチワを持ち、猛烈にウチワを操作し周囲の車から気付かれぬよう下からウチワの風を送り込まねばやってられない。 手元はかなり忙しいけれど、そこが『男の粋』さ加減というものよ・・・」

 「・・・?」

           (な、なるほど!)

 N君のそんなセリフを聞いている我輩、滑稽すぎて思わず笑い噴出しそうになるけれど、しかし、なんだか納得する、、、。


 あれこれ飾り物をみていると、

 何故か我輩、エルビスプレスリーの「GIブルース」を、ジープ走行中の揺れとディーゼルエンジンの振動に合わせて口ずさみ、調子よくなり始めている、、、。

G.I.ブルース

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 しかししかし、シェリフバッジを眺めれば、


真昼の決闘

ビデオメーカー

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 かのハリウッド名画「真昼の決闘」のシェリフ役を演じたアングロサクソン系?男前、且つ、これまた永遠の二枚目「ゲーリークーパー先生」の面持ちや立ち居振る舞いに加え、サウンドトラック版BGMハイヌーンの音楽が脳裡に浮かび流れてくるのであった、、、。

 「・・・?」

 「そうです! 現在の納得度数98%にて、残り2%は次回記事のお楽しみ! しばし、お待ち下さい・・・」



 <・あと一回、続く・・>
   
          (5月27日投稿済み、こちらから入れます・・)


 シリーズ記事、前回掲載分はこちらから入れます・・・



Mr. Dandy, "N". (3/4) 「やはり!彼の本性、現るか・・」

2007-05-14 12:05:15 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像-1>:コンソールパネル上、サンバイザーを視る・・


 いよいよ、車は宇品港から我家に向け、走り始める・・・

 今まで凝視していた「コンソールパネル」から、ふと頭上のサンバイザーあたりを見上げる。

 「・・・!」

 なんと、ご覧のとおりである。

 N君本人曰く、
 「外観は普通に、至極穏やかに何も飾り立てる必要はない。しかし、一旦車内に入り、運転席に座るやいなや『自分ひとりの世界』になるのだ。自分の世界は自分の世界に浸透したい。ならば、こういうスティッカーを選び貼り付けただけの事よ・・・」
 と、来た・・・
 
 なるほど、まずは中央に「日章旗」、はためいているではないか! そして、その右隣には「星条旗」等も鎮座しているからして面白く、N君の想いはめくるめく此処のサンバイザー内に表現してあるか、、、。

 「・・・?」

 「なにをおっしゃる読者諸兄姉よ! こちらクッション悪き助手席に乗っていれば、日章旗固定されていても我輩の身体は揺れ捲(ま)くっているから『はためいている状況』と同じことよ!」

 ま、いずれにしても我輩の友人N君の本質は見えたり。 以って、(予想通り?の)「硬派」なり!

 エセ男爵的ダンディズムなる諸条件を鑑みるに、まずは、一見軟派のようで実はモロ硬派であるべし。・・・なのだ! この飾り付けをして「硬派を否定する所以」は、何処にも見当たらない!  

 なんたるちあ!?

 そもそも何を、曰く?況んや?

 かれこれ10分も「かの種の車」に乗っていればアルコール入らなくても「車酔い」状態に近い気分に陥ってしまう・・・


 <・続く・・


 PS:前回掲載関連記事は、こちらから入れます・・・


Dandyish! Mr. N (2/4)

2007-05-10 17:45:50 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>:前回記事に続く「旧友N君」のジープ、コンソールパネルを視る、、


 このジープの車齢は、何と、20年である。と、云うから驚いた!

 もともとジープという「名詞」を聞いたのは終戦後(1945年以降)、かのアメリカ進駐軍の将校やMPどもの乗り回していたもの! かくして我輩幼少の折り、米軍将兵達の乗り回していた姿を実際に見た記憶あり。 当時、我国の貨物運搬用車輌といえば、馬車馬に荷車を引かせ物資を輸送していた面影も、遠き歴史の一ページに刻み込まれている。 その後「マツダの三輪トラック」なるもの主流となり、これまた街中を走っていた情景も走馬灯のように脳裡から瞼の裏側に蘇るから、幼き頃の記憶とは、いと面白い、、、。

 N君とこのジープの出会い、その経緯、助手席に乗せて貰って出発進行して以降、我家に辿り着くまでの約40数分間に亘り、その経緯をくまなく拝聴する。

1)某銀行員時代、四国松山に単身赴任中に購入した。

2)元のオーナーは、車のタイヤ販売店オーナとの事。当時、このジープのみならず別に5~6台、アメ車欧羅巴車国産車問わず珍しいスーポーツカーを蒐集していた特殊人物。

3)当時のN君は、珍しいスポーツカーを購入したいと想っていた。 目的は、すなわち家族サービス無用の週末の暇つぶしに、珍品名車を駆って四国一周を志す。

4)上述の如く、単身赴任にかこつけて、
「週末は、四国山脈の原野河川に入り込み、思いっきり山野を駆け巡ろうか・・」
等と、未舗装道路ドライヴ専科を考慮した結果、このジープに標的を定めた。

5)三国志もどき「三顧の礼」を上回ること5回に亘りオーナーに合いN君流儀にて口説き、断られても断られても怯むことなく「五顧の礼」をもってようやく、元オーナーはN君に対し「然るべき査定金額」にてこのジープを譲ることになったのは、かれこれ10年も前になるか。

6)それから数年後、郷里に赴任帰参叶うも、このジープ所有の事、奥方にバレてしまい、「家族にとっては何ら貢献しない無用の乗り物である」との認識から、奥方のお叱りを受ける。
 (男らしさとダンディズムを旨とするN君も、奥方にはそうとう弱いと観る・・・)

7)その後N君は定年を迎え、今尚「このジープ」を手放さず大切に管理メンテは怠らず、現役時代に叶わなかった「行動:四国一周周遊」を、3年前に果たしたとの事。昨年は、九州を一周したという。


 あらためて、計器類を観る。

 なかなかのものである。

 いかにも、頑丈且つ無骨である。

 なるほど、もともと軍用車である。

 助手席に同乗させてもらった感想として、一にも二にも、決して乗り心地良くない。 こんな車で四国一周九州半周?など、とんでもない。 宇品港から我家に送り届けて頂くだけでも「疲れ」果て? そろそろ腐熟しかけた我が脳味噌は、クッション悪きイタバネの反動にてかき混ぜられ、むしろ逆作用にて頭脳明快になったやも知れぬけれど、ここは判断基準なる物差しの持ち替え以外、何物も判明しないであろうぞ、、、。
  
 今、想うに、

 「これだけ揺られる方が、乗り物らしくてよいではないか!・・・」

 自衛隊の将兵、このような無骨な乗り物で、日々、時々再々、兵隊さん的団体移動をなさっとられるのだ。 我輩、同じ体験をする。

 陸上自衛官の皆様、ご苦労さんです。

 そんなこんな、このジープとは?!
 おおよそ、陸上自衛隊用に生産されたものか? 訳の解らぬ想像妄想を燻らしても埒はあかない。 これ以上の御託はうっちゃって於いて、そろそろ我輩愛読する「ウイキペディア百科事典」を開いて見た方がよさそうだ・・・


 <第一回記事は、こちらから入れます)



<以下、添付資料>
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《三菱・ジープ》
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(こちらから入れます)

三菱ジープは、中日本重工業・東洋工機が生産、中日本重工業・新三菱重工業・三菱重工業・三菱自動車工業が販売していた自動車である。

目次
1 概要
2 歴史
3 生産拠点
4 外部リンク


概要
第二次世界大戦終了後、旧警察予備隊は四輪駆動車を必要しており、1953年ウイリス社との提携によりジープ(CJ3A)のノックダウン生産が始まった。初期モデルにはスリーダイヤが無かった。主な顧客は防衛庁で大きな変更も無く1998年まで製造されていた。


歴史
1953年:製造開始。当初は左ハンドルだったが、のちに通商産業省の指導で右ハンドル化される。
1973年:防衛庁の指示でジープをベースにした73式小型トラック登場。
1982年:パジェロ登場に伴い、グレードを大幅に整理。
1996年:防衛庁が長らくジープを採用していたが排ガス規制に適合させるためのエンジンが搭載できないためパジェロベースの新型73式小型トラックが登場する。
1998年:製造中止。

生産拠点
中日本重工業(分割された三菱重工の一つ、再合併して三菱重工業となった1967年まで)
東洋工機(現パジェロ製造、1967年から一貫生産)


 (以上、ウイキペディア百科事典からの引用・終・・・)


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<注-1>:お勧め「三国志」は、、

まずは正調、吉川作品

三国志〈3〉

講談社

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さらに、
これが面白い、、、

正史 三国志 全8巻セット

筑摩書房

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<注-2>:三顧の礼のこと

* [goo辞書より]
さんこ 1 【三顧】
〔諸葛亮「前出師表」より。蜀(しよく)の劉備(りゆうび)が諸葛亮を軍師に迎えようとして、その庵(いおり)を三度訪れた故事による〕人に仕事を頼むのに、何度も訪問して礼を尽くすこと。
「―を尽くす」


「三顧の礼」
(ウイキペディア、「諸葛孔明」開設より抜粋・・)

曹操は200年に袁紹を打ち破って華北の覇権を手中にしており、後の諸葛亮の主君・劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼り、荊州の北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。有志の間では、北の曹操の強大化に伴い、これまで平和であった荊州も危険になるのではないかと話し合われていたが、頭領の劉表は高齢から病気がちになり、その後継も長男・劉と次男の劉との間で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。

その中で諸葛亮は相変らずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており諸葛亮の事を劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言い、劉備は3度諸葛亮の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。なお裴松之注に引く『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は臥龍と鳳雛と、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話を載せる。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話を載せている。ただしその後に裴松之自身の案語として「『出師表』には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、しかる後天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識にほれ込み、ついに諸葛亮は劉備に仕えた。


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『諸葛亮』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸葛亮(しょかつ りょう、ピンイン:Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。

伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。また『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称している。(・続く・・・

Mr. Dandy:我が敬愛する旧友 N 君のこと (1/4)

2007-05-06 15:15:25 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>「我が旧友・N君の愛車」
撮影場所:広島市宇品港駐車場にて、
撮影日時:平成19年3月下旬 午後4時前
天 候: 春は名のみの肌寒き「晴天」・・



 この車の運転席にてサングラスをかけ、黒手袋を履き、某米軍基地のCapを冠り、「イザ発進!」と構えてワッパーを握っている人物こそ「旧友N君」なり、、。

 (ちなみにN君の右隣に座し、「挙手の礼」をとっている人物こそ我輩なり。 この車の撮影に挑んだ旧親友のyy君に対し、敬意を表するの態度なり・・・)

 これ、先の記事にて紹介した「江田島周遊・Pin-point作戦」決行の日、N君の好意により我輩の自宅まで送って貰った。 その時「宇品港出発時点」のワン・ショットである。


 とにかく、yy君は勿論のこと、我輩も、この「ホンモノ的ジープ」には舌を巻いた、、、。

 さて、N君のこと、、、
 互いに中学高校大学と、全部同じ学び舎に通った旧知の仲間の定義付けには一切の間違いはない。 なれど、これといって友人らしき付き合いは皆無にて、互いに会話も取り交わした記憶もなし、、、。 ひと歳とっての同窓会開催とは、いかに有難くうれしいものか! 最近になってヒシヒシと感じる。 
 
 元来の「体育系」人物・・・

 酔っ払ってもいないのに、四六時中「大演説」をぶちかます、、
大演説を聞いている我輩は、何故かN君談義の切り回しや調子と内容に、得体の知れぬ面白みを感じて仕方なく、約3分間隔にて「おおわらい」を誘発されるから不思議である。

 今もって若き頃の「体形」さほど変わらず、容姿面持ちは若造りにて、還暦を迎えた年齢とは思えなく、絵に描いたような「悪ガキ的童顔」にて些か不良っぽく、まぁ~ 何と申しましょうか、特に夜の街ですれ違った場合には「避けて通りたくなるような輩」、、

 にもかかわらず、さすが、定年(56歳)まで勤め上げた元銀行マン。 公私混同しない金銭感覚は抜群にて、かの「楽農大学」の事務局長兼経理部長、、

 しかし、この車を見た途端、今までに想像していた人物像が見えてきた、、、。

 この車の外装には、一枚のスティカーも貼り付けていなく、きらびやかな飾りつけもカラーペイントも、一切無い!

 いかにもシンプルである。

 そして、

 この車を選ぶにあたり、まずはターゲットを絞り、一本筋の通った元所有者からダイレクト購入した後、まめに維持管理し、今日を迎える「N君の姿勢」は彼の人生そのものか。 諸々N君の「生き方、生き様」を想像するブロセスに於いて、そこはかとないダンディズムを感じ始めた・・・

 さっそく「N君のジープ」を研究対象として、しばし、飛ばし飛ばしのシリーズ投稿にて「ダンディズム」を語ってみたい、、、。

 これで、また、宿題が増えた・・・


 <・続く・・>

 

'07 的?「すずらん観察録」(3/3)

2007-05-03 12:50:55 | つれずれ紀行
<添付画像>:我家の鈴蘭生育記録
撮影日時:平成19年5月3日・午前10時50分頃
天候:さつきばれ・・


 今年もこれで3回目!?


 性懲りもなく、「我家の庭のすずらん」を御見せする・・・

(「いや、こういう記事で構わんよ! これで宜しい!」 と、おっしゃって下さる読者諸兄姉に於かれましては、是非とも4月29日投稿記事の『半端な咲きっぷり』と、本日の『満開ぶり』を見比べていただきたい・・・)


 なぜか鈴蘭という植物は、その土地その場所の「季節感」を習得しインプットしているから不思議である。

 ともあれ、我家の庭に於いてして、昨年と同じ時期すなわち5月の連休時期に満開となる。

 「・・・XX」

 まま、そうおっしゃらずに、、、。

 長年ブログやっていますと、時々再々「中だるみ」も出てきまして、昨年4月同様? なぜか今年も4月中旬から「本業」多忙となり、ありがたいと思えばそうだしありがた迷惑だと感ずれば不謹慎であるし、そんなこんなで5月連休は自宅に閉じ篭り切り、、、。 でも何とか、この週末迄には一段落しそうです。 間に合いそうです。

 原稿完成! つまり脱稿して(一日だけ?)一休みしたら、また書きかけ記事の連載を再開致したく、当面は「やまとミュージアム初見学報告」しなくては、、、。 ダンディズムリーズも放り投げてるし、読書感想も書きたいし、、、。


 これにて今年の鈴蘭観察報告、終わり・・・

<・完・・・>


PS: 都合上、舎弟の「執事トーマス君」運営のブログ「Cafe&Magazine旅遊亭」は、なんだかかんだと頑張っていまして、正解遺産!否、世界遺産宮島の探訪記、更新中です。 なんだか、「・・・ました、、」and/or「・・です」調にて、エセ男爵流儀と違って書き慣れていない丁寧言葉調子? まぁ、いわば、遅々として文章作成悪筆に加えて洗顔歯磨き朝食作法から始まる幼稚且つ馬鹿げた日記風か、、。そよがず凪がれず滞りつつ流暢でなく、苦戦苦闘試行錯誤中ですなぁ~・・・
 是非是非、みてやって下さいまし、、、。