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櫻井よしこ氏「論戦2006」の話題から、 「自分史」と「モルディヴの話」へ・・,

2006-08-29 20:46:11 | Weblog
 懐かしい人物から突然の電話が入った。
(先週金曜日・・・)
 かつて(今も尚?)政治&選挙運動大好き人間!?飲食業界の大御所「MM氏」、ご本人直々の電話連絡である。我輩が日本にいるかどうか?いささか不安に思いながら電話したとの事。かれこれ5年近くお会いしていない。我輩、如何に郷里から遠のいた仕事を請け負い継続してきたか、あらためて痛感した。そして、MM氏の特技?得意技に入り、いつもの長電話。まずは互いの近況を問答する。
 「そろそろ自分史を書かなくてはいけない。人生を書きとめておかねばなりません。等と、もうかれこれ3年前になりますかな、家内のほうから言い始め、自分史を書くソフトを買ってきて、書け書けといってうるさい。しかしいざ書こうと思うと、書けないものですなあ~」
(自分史を書くソフトが在ると聞いて驚いた。団塊の世代が卒業する世の中、流行であるか?巷には「自分史」を書く「俄か文士」が満ち溢れるのであろうか?)

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そこですかさず我輩曰く、
「いや、実は私も、自分史は書かないけれども小説を書いている・・・」
(若きモノカキは、すでに巷に溢れ本屋には名も知らぬ若き作家の「有名賞受賞作品」は、先を競って平積みみされているからたまらない・・・)
「ムム、さすがですな・・・ それで、小説はすでに完成しましたか?是非読んでみたい。さっそく貴殿の本ならば喜んで数冊買いますぞ!」
「いや、あのう~、それがまだ執筆中でして・・・」
「そう、ならば是非、執筆完成していただきたい。応援しますぞ!」
「・・・?!」(嬉しながら無言で陳謝)
「待ちます、待ちますよ~・・・」
俄かにMM氏の電話の口調に活気溢れてお見えになる・・・
「いや、あらためて自分の創作能力の欠如に気付きつつ、苦戦苦闘しながら今尚執筆過程にあります。ブログという得体の知れないシロモノに翻弄されつつ、今現在、ブログに嵌ってしまって小説執筆どころではありません・・・」
等と言い訳しつつ、
自分史作文ソフトがあるとは驚いた。それだけ「自分史を書く」のは流行っているのであろう。MM氏の会話の流れからは、何だか我輩に自分史作成を手伝ってほしいと仰らんばかりの「MM流、名(たぶん、「迷」が正解)台詞」が続く。しかし、電話から聞こえてくる会話の勢いは往時の頃より若干衰えて居られる様に聞こえてくる。
 よくお聞きすれば、
電話のご本人MM氏曰く、
「私のよく知っている病院に、数日前に入院したばかりである・・・」
との事!
 私のよく知っている病院(医院)、しかもかかり付け?といえば、さほど多くはなく、僅か?、駅ビルの中のT眼科あるいは中区のMO整形外科しかない。でもって、MO整形外科に入院されているとおっしゃる。まだ十分お若いのに(若干66歳)、肩から首が動かなくなってしまい、街中を歩くこと儘ならず、歩けば足元はふらつき足腰定まらず。と、おっしゃる。自分自身の診察のスケジュールに合わせ、翌々日さっそくお見舞いに行った。
 なんと、3階にある院長室の隣の個室に鎮座!
まるでVIPルームである。目上の人大先輩といえども旧知の間柄。懐かしくも、ご挨拶はそこそこに、さっそく本論(自分史作成の云々)に入る。お手元には数十種の自分史関連メモや(2回にわたる)勲章授与関連並びに組合関係記念誌資料など、持参されているから驚いた。
 そんな時、事務長MY女史が入ってこられる。
「なぜ?MM氏の入院をご存知か?なぜ今、病室に、いらっしゃるの?」
普通でも大きい目を更に大きく開かれ、完全に驚かれた様子、、、。
しかし、とっさに我輩とMM氏の「長きに亘る交友」ある事察知され、今度はMY女史が我々の会話の中に参加された。
MY女史曰く、
「診察のないときにお会いするのもよいですねえ・・」
かくしてお会いするはずのない場所にて、お会いしてもおかしくない女性(既に若くはないけれど、紛れもなく美人でいらっしゃる)にまみえ、華のある?会話は賑やかになり、お二人をお相手しなければならぬ我輩は、俄かに忙しくなった。入院中の大先輩M氏中心の会話になるべきところ、なぜか我輩のブログ記事の話になった。MY女史は我輩がブログを始める前から、M整形外科院長の代理にて、メール交信をさせていただいている旧知の仲。(残念ながら個人的交友関係は未だにない・・・)
「あの、ですねえ~」
「はい、なんでしょうか?」
「エセ男爵ブログ記事を読んで影響されました・・・」
「・・・?」
「あの~、私も買ってしまいました。桜井よしこさんの本を・・・」
「読みましたよ。あァ!ここに持ってきますから、MMさんもよかったら読んでみてください・・・」
この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006

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僅か1分少々にて「論戦2006」を小脇に抱え、部屋に戻ってこられ、我輩経由にてM氏に手渡される。M氏は、表紙となっている桜井女史の和服姿に目をとられ櫻井女史的論戦の内容には、あまり興味をしめされようとしない。
さらにMY女史は、
「あのですねえ~、注文があります。私はほぼ同じような考え方なので、問題はありません。でも、政治記事よりももっともっと海外のことを書いてほしいのです。せっかく海外生活経験の豊富な人だから、海外生活の話題を交えて、今の日本を見る。今の我国の理不尽さを遠巻きに指摘するような(婉曲的且つ包括的な)内容のブログ記事にしていただいたほうがステキですし、もっともらしく、且つ、OOさんらしい・・・」
「・・・!」
「そうです。私はず~と以前からOOさん(注:OO=不肖我輩の事)を知っていますから、何だか政治記事を書かれると、現実の印象から外れてしまい、たいへん驚くのです・・・」
「・・・?」
「書いておられる記事、何しろ熱いのです。「訴え方」が、熱い。書いてらっしゃる口調が、熱すぎる!ご本人を知っている。だから驚くのです。でも、今は書いてください。OOさんのことだから、納得するまで徹底してやってしまわなければ気のすまない人でしょうから、書くだけ書いてください。そして、一段落したら優雅で楽しい記事を書いてください・・・」
と来た、、、。
我輩は、そんなにおとなしいか?
そんなに紳士然としているか?
我輩をして国を愛する心を持ち合わせていないように、ご覧になるか?
世の中の些事に左右されない高潔高貴な生活をしているとでもお思いか?
そうかも知れない・・・
確かに4~5年前の我輩は、あまり政治や思想の問題を問題にしなかった。
問題にしなかっただけで、気には留めていた。もっと若い頃の記憶を辿れば、企業に所属していた頃に一度も組合活動に参加しなかった。順送りで回ってくる大企業の御用組合の世話役などバカバカしく、時間の浪費だと思っていた。学生時代を振り返れば、幸いにも一度も「マルクス経済学者」に接したことなく、ケインズ経済学一筋で学生時代をすごせたこと、これまた時間の浪費をしなくて済んだ。
かくして半世紀に及ぶ戦後の歴史を振り返れば、いかにも胡散臭い俗称?進歩的知識人やマスコミの発する理屈や報道は、我国将来への飛躍の甚大なる妨げになっていること、明白なり。
そして今、若者と一緒になって日本の将来を考えなくてはならないのは、我々シニアの義務であろう。
そう、
決して逃げて通らないが、深入りはしない・・・ 
そんなスタンスで、政治の動向を見つめたい。
日本の歴史を正しく認識し、若者と一緒になって日本の伝統と文化を育み伝承していかねばならぬ。
さりとて我輩、世の中の茶飯事に捉われては居らず、政治屋やジャーナリストの仲間入りをする気分は毛頭ない。
しかし、
捻じ曲がった我国の国家歴史観は、一刻も早くこれを是正し、日本国民全員に「正しい国の歴史」を知らしめねばならない。我輩自身、今こそしっかりと学習し研究しなくてはならない。
 上述の想い、MY女史にはよく理解していただいていると思う。また、MY女史から我ブログ記事の「在るべき姿」に注文を付けて下さったこと、言い換えれば、興味をもって我ブログを見てくださっているとこ、まことに光栄の至りなのである。

 そんな時(先週末)東京の先輩から電話が入り、これまた俄かにモルディヴの話が出た。
「ところでサァ~、あらためてMoldivesをリサーチしないか?」
「エェ~・・・ 一体、何のことですか?」
「・・・!」
「伏してご勘弁を! 今の私には、モルディヴに長期滞在なんて、できっこありません・・・」
「・・・!?!」(かくして興味深々なる話題に突入。我輩、モルディヴに長期滞在も良かれ!?などと考えを変更しつつ・・・)
この秋、何だか、自分史作成のお手伝いと、モルディブ観光協会の話で忙しくなりそうだ。
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<モルディヴ紹介関連史料>

MACUNUDU Island of Maldives(きれいなモルディヴの写真史料をご覧になれます)
(モルディヴ政府観光局史料)

<以下、外務省モルディヴ情報基礎資料>
外務省関連史料「モルディヴ」はこちらから

「国 名: モルディブ共和国」(Republic of Maldives) 2006年7月現在
一般事情
1.面積 298km2(佐渡島の約0.35倍)
2.人口 29.9万人(2006年)
3.首都 マレ(マレ島人口:10.4万人)(2006年4月)
4.民族 モルディブ人
5.言語 ディベヒ語
6.宗教 イスラム教
7.国祭日 7月26日(独立記念日)
8.略史 1887年 英国保護国となる
1965年7月 英国保護国から独立、
同年9月国連加盟
1968年11月 共和制に移行
1985年7月 英連邦に正式加盟

政治体制・内政
1.政体 共和制
2.元首 マウムーン・アブドゥル・ガユーム(M. A. Gayoom)大統領
3.議会 一院制(議席50: 大統領任命議員8、首都マレ及び全国20環礁区(アト-ル)より夫々2名) 2004年7月、憲法改正のための特別国民議会(選出された50名、常設議会50名、非議員の閣僚から成る)が開会。
政党:モルディブ民主党、モルディブ人民党、モルディブ正義党(登録3政党)
4.政府 (1)首相名 なし
(2)外相名 アフメッド・シャヒード
5.内政 (1)78年11月に就任したガユーム大統領は、03年10月に実施された大統領選挙では有力な対抗馬が存在せず、国民投票では90.28%の票を獲得して再選された(現在6期目(任期5年))。大統領選挙に続く内閣改造では、計画・国家開発大臣にガユーム大統領の弟のハミード氏が就任するなど全24閣僚ポストのうち7つがガユーム大統領の親族で占められた。
(2)他方、大統領選挙直前の03年9月19日に、マーフシ刑務所(首都マレから南に25キロに位置する刑務所島)で受刑者が死亡する事件が発生したのをきっかけに、20日首都マレで政府関連施設への投石や警察車両への放火といった騒擾が発生。警察は沈静化のため催涙弾を使用するとともに、20日夜には外出禁止令を発出した。
(3)2004年6月、憲法改正に関する演説の中でガユーム大統領は、複数政党制導入に言及した。同年8月12日、ガユーム大統領主導の民主化政策に疑問を抱くモルディブ民主党等が主催した集会を政府が抑えようとして衝突が起こり、騒擾が発生、翌13日には非常事態宣言が発令された(10月10日解除)。2005年になって、ガユーム大統領は、今まで認めていなかった政党活動を保障し、複数政党制を導入、行政と司法の分離等民主化を進めている。現在、国民の基本的人権を拡充すべく憲法改正に取り組んでいる。
外交・国防
1.外交基本方針  独立以来非同盟中立政策を外交の基本方針とし、全ての国との良好な関係維持に努めている。
2.軍事力 (1)予算 437.9百万ルフィア (2001年予算)(対GDP比6.8%)
(2)兵役 志願制
(3)兵力 約1,500人の主として国内秩序維持及び密漁防止を目的とする国家保安隊のみ。
(出典:「モ」政府資料)
経済(単位 米ドル)(出典:「モ」政府資料)
1.主要産業 漁業及び観光
2.実質GDP 753百万米ドル(2004年)、(2003年691百万米ドル)
3.一人当たり実質GDP 2,401米ドル(2004年)、(2003年2,262米ドル)
4.経済成長率 9.0%(2004年)(2003年7.8%)
5.物価上昇率 3.3%(2005年)(2004年6.4%)
6.失業率 0.9%(2000年)(95年0.8%)
7.総貿易額(2004年) (1)輸出(FOB) 162.0百万米ドル
(2)輸入(FOB) 655.5百万米ドル
8.主要貿易品目(2002年) (1)輸出 水産物、衣料製品、鉄くず
(2)輸入 機械、鉱物、食料品、繊維製品
9.主要貿易相手国(2004年) (1)輸出 米国、タイ、スリランカ、日本、英国
(2)輸入 シンガポール、スリランカ、U.A.E. 、インド、マレーシア
10.通貨 ルフィア
11.為替レート 1米ドル=12.80ルフィア(2004年平均値)
1ルフィア=8.29円(2004年平均値)
12.経済概況  モルディブ経済は水産業と観光産業が基盤となっている(実質GDPの約4割はこれら産業が寄与)。観光業が深刻な影響を受けた米国同時テロの発生した2001年以降、経済は順調に回復していたものの、2004年末に発生したインド洋大津波の影響で2005年の実質GDP成長率は-5.2%に落ち込んだ。
経済協力(単位 億円)
1.我が国の援助実績 (1)有償資金協力(2006年度、ENベース)27.33
(2)無償資金協力(2004年度まで、ENベース)242.30(内2004年度実績 22.56)
(3)技術協力実績(2004年度まで、JICAベース)48.28(内2004年度実績 2.70)
2.主要援助国
(2003年DAC資料) (カッコ内数値はDAC諸国合計に占める割合)
(1)日本(71.3%) (2)オーストラリア(13.8%) (3)ニュージーランド(4.6%)
二国間関係
1.政治関係 我が国はモルディブの独立以来良好な関係にある。
2.経済関係 (1)対日貿易
(イ)貿易額
  「モ」への輸出 約 709.1万ドル(2004年)
  「モ」から輸入 約2177.1万ドル(2004年)
  (我が国財務省統計、IMF"International Financial Statistics")
(ロ)主要品目
  「モ」への輸出 一般機械、電気機械、輸送機械、自動車
  「モ」から輸入 魚介類(まぐろ、かつお等)
(2)我が国からの直接投資(我が国財務省統計、許可・届出ベース)
   1989年度から2003年度までの累計3件約15億円
(3)モルディブへの邦人観光客数(「モ」観光省資料)
   約23,269人(2005年)(英、伊、独に続き4番目)
3.文化関係  文化無償協力(1979年度から2003年までの累計8件、246.1百万円)、南西アジア青年招聘計画の実施。
4.在留邦人数   154人(2005年10月1日現在、在「ス」日本大使館調査)
5.在日当該国人数 23人(2001年12月末日現在、法務省)
6.主な要人往来 (1)往(1980年以降)
80年12月 愛知外務政務次官
81年8月 奥田衆議院外務委員長
81年12月 小渕日・モ友好議連会長
85年7月 小渕   〃
93年11月 小渕特派大使(大統領就任式参列)
2005年1月 谷川外務副大臣
(2)来(1980年以降)
80年5月 ジャミール外相(非公式)
80年10月    〃   (外務省賓客)
84年10月 ガユーム大統領(非公式)
88年6月 イリヤス・イブラヒム貿易工業大臣(外務省賓客)
89年2月 ガユーム大統領、ジャミール外相(大喪の礼参列)
89年3月 カマルディーン公共事業・労働大臣
(UNDPラウンド・テーブル会合事前協議)
90年11月 ガユーム大統領(即位の礼参列)
91年9月 シャフィーユ計画・環境大臣
(UNDPラウンド・テーブル会合事前協議)
92年5月 ジャミール外相(非公式)
93年11月 ジャミール内務大臣(日本国際観光会議出席)
94年11月 ザキ観光大臣(大阪ワールド・ツーリズム・フォーラム'94)
95年9月 ハミード国民議会議長(福田元総理合同葬参列)
95年11月 ザキ観光大臣(第10回日本国際観光会議)
96年3月    〃  (WTOアジア太平洋地域委員会)
97年11月    〃  (日本国際観光会議)
98年2月 ジャミール外相(非公式)
2000年6月 ジャミール外相(小渕前総理合同葬参列)
2001年9月 ガユーム大統領(WTOミレニアム観光会合)、小泉総理と会談
2004年5月 ザヒール建設・公共事業大臣
2004年8月 ヤミーン・モルディブ貿易・工業大臣
2005年9月 シャウジー観光大臣

7.二国間条約・取極 青年海外協力隊派遣取極(1981年12月6日)

<以上、外務省資料一部引用・・>


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(Foto資料提供:KURAMATHI Resrot、 Maldives..)

続「東京裁判史観一考」(2/6)徳富蘇峰先生の歴史観から東京裁判検察側の起訴状を解せば・・

2006-08-26 19:05:20 | 教養・文化・歴史
 今や、靖国参拝問題は、空騒ぎする中韓からの文句や注文から如何に言い逃れするか?を、云々する?そんな暢気な事態ではない。ひとえに、日本に生を受けた我々日本人自身の問題である。下手に立ち回ると、向う数世紀に亘って(あるいは永久に)、我が国の存亡を問う「歴史的大問題」となる。自虐的歴史観を持ち続け、未来永劫子々孫々に伝える事などでできよう筈もない。我々日本人をして我国を放棄するか捨て去るか?の問題である。要は、我々国民挙って我が国を失ってもよいのであれば、これ以上何も問わない。しかし、そうはいかない!

*(日本人の心の中、国と故郷を失ってはならない!日本の文化と伝統を守り、日本国民の「誇り」と「自尊心」に加え、「国を愛する心」を子々孫々に伝え、我国の将来に向け育んでいきたい。加えて上述、病原菌の如く我国を苛み続けている「自虐史観」こそ、我国を滅ぼす根幹であり、一刻も早く捻じ曲がった国家史観を払拭したい!と、お考えの方、以下のBARをクリック応援願いたい!)

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 靖国参拝の是非は、今もってA級戦犯を許さないとする我国の歴史認識の問題に遡り、サンフランシスコ講和条約条項(条件)の重要な根幹を成した東京裁判判決の受け止め方に、歴史の大きな分岐点があるのではないか。我々日本国民における「近代史・昭和の歴史」を如何に解釈し受け止めるか。の、問題である。今更、大東亜戦争を「美化」すべし!等々、馬鹿げた事は一切言わないし、肯定もしない。しかし当時の国際法で(今もそうであるが)、国家は他国と交戦できるのである。大東亜戦争も当時の国難を戦争にて打開しようとしただけの事であるから、今の世の中のモノサシで推し量ってはいけない。勿論、日清戦争も日露戦争も、同じ日本の国家の浮沈をかけて戦ったもの。結果として、たまたま勝利した歴史の事実が残るのであって、それ以上も以下もない。
ならば、大東亜戦争はどうか?
大東亜戦争も、日清・日露の両大戦を推し量ったと同じ歴史の物差しで計らなくては、我国歴史の筋道は立たないのではないか。
すなわち、(前記事参照)何度も言及するように、東京裁判の成り行と結果について、昭和二十二年当時の日本人は如何なる受け止め方をしたか。が、問題なのであり、当時の受け止め方解釈の仕方そのものが、今の世に尾を引いているから大問題なのである。
残念ながら今の世の我々は(ほとんどの一般国民は)、挙って東京裁判の経過過程における国家的屈辱すなわち「事実の詳細」を、さほどに知らない。
しかし知りたい(私的気分として)、、、。
知らねばならぬ!・・・
若しかすると、A級戦犯なるものは、この世に存在しなかったのではないか?
(この一行はしかし、むやみにA級戦犯の方々に味方しようという趣旨の問題ではないので、あらかじめ断わっておく・・・)
 今日に於いて今日的な尺度にて判断すれば、今や過去の歴史となった東京裁判の判決結果と裁判過程を、現時点にて吟味した場合、彼等(A級戦犯)の罪は、罪にならないのではないか?という大いなる疑問が生じても決して可笑しくない。

 確かに、日本は敗戦した。
 まず、物理的に敗戦した。
 さらに、昭和二十二年当時、東京裁判によって敗戦国日本は、究極として「精神的敗北」を喫した。
 すなわち、東京裁判により文化と人道の罪を地球規模の大きさで背負わされた。国民としてこれ以上の屈辱と不名誉は、無い。しかしながら、戦勝国によって開廷された東京裁判は、上述の罪を我国の戦争指導者(A級戦犯を指す)に限定し、戦争遂行責任を背負わせることにより、あたかも一般日本国民も彼等(A級戦犯)から非道なる迷惑を蒙った被害者である。と、いう第二次世界大戦終了当時の世界の風潮を形成し、くわえて日本国内の一般世論を形成するに走ったから始末が悪くなった。
 往時の我国指導者(その実しかし、今となっては我国国民全体をも含む)は、人類史上類いまれな人道的文化的に間違った戦争を仕掛け、世界の多くの他民族と自国の国民に対し、多大な損害を与えつつ、悪の方向に走った。だから、反省せよ!歴史に刻んで忘れるな!と、きた。
 戦勝連合国に於いてしても、上記の人類に対する非道の定義を当てはめていけば、日本本土無差別爆撃から始まり広島長崎の原子爆弾投下、沖縄戦に於ける住民を巻き込んだ殺戮等々、数え上げればきりがない。戦勝国も敗戦国も、かの東京裁判A級戦犯に科せられた犯罪は、戦の勝ち負けは別として、日本軍部のみならず連合国軍共々等しく犯しているのである。
 敗戦後60年の歴史経過を経たこんにち、(昭和二十二年当時の)朝日や毎日新聞の偏った記事にて構築され、今も尚罷り通る偏った認識をかなぐり捨て、今や我々自身の資料収集とその解読且つ認識により、より正確な東京裁判の歴史を紐解き、過去の認識の間違いを訂正した「新たな認識」に立たねばならない。と、願ってやまない。
何も今更、東京裁判のやり直しを求めようとしているのではない。間違った我々国民自身の認識を是正し、正しい東京裁判史観を持ちたく、以って、国民の常識となってしまった「我国近代の歴史認識」を質し、正常なる常識を基盤に持った国民になりたいのである。かくしてまずは吾身において、世界に通用する常識をもった「国民の歴史観」を形成しておきたいのである。
 先日に続いて、小堀先生の論文を引用。東京裁判検察側起訴状の問題点指摘から始まる、徳富蘇峰先生の国家史観を拝読してみたい。

添付画像:(国民新聞社時代の蘇峰・・・

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東条英機 封印された真実

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<以下、引用文>

解説「東条英機の戦争史観について」<著・小堀圭一郎>
(p288~p294まで)

(2)
この試みは主として本書第一部第二章の「東條の内なる声」に関わっている。
東京裁判法廷を舞台としての被告東條の「孤独なる」戦いは、他の全ての被告にとっても同じ事だが、昭和二十一年五月三日の開廷当日の午後に於ける検察側の起訴状朗読にじっと聴き入った時を以って始まる。
今更何でそんなものを ― と、いった煩わしさを我慢して、我々はここにもう一度、その特徴ある「全文」だけにでもせめて眼を通してみよう。

《 起 訴 状 》
<以下本起訴状の言及せる期間に於いて日本の体内対外政策は犯罪的軍閥に依り支配せられ且指導せられたり。斯る政策は重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり。
日本国民の精神はアジア否全世界の他の諸民族に対する日本の民族的優越性を主張する有害なる思想に依り組織的に蠹毒(とどく)せられたり。日本に存したる議会制度は広汎なる侵略の道具として使用せられ且(かつ)当時ドイツに於てヒットラー及びナチ党に依りイタリアに於てファシスト党に依り確立せられたると同様の組織が導入せられたり。日本の経済的及び財政的資源は大部分戦争目的に動員せられ、為めに日本国民の福祉は阻害せらるるに至れり。
被告間に於ける共同謀議は他の侵略国即ちナチ・ドイツ並にファシスト・イタリアの統治者の参加を得て約定せられたり。本共同謀議の主たる目的は侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び本目的の為め本裁判所条例中に定義せられたるが如き平和に対する罪、戦争犯罪並に人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励するにありたり。斯くて自由の基本原則と人格に対する尊敬を脅威し毀損したり。
該企図の促進並に達成に対し此等被告は其の権力公職及び個人的声望及び勢力を利用してアメリカ合衆国、中華民国、大ブリテン・北アイルランド聯合王国、ソヴェート社会主義共和国聯邦、オーストラリア聯邦、カナダ、フランス共和国、オランダ王国、ニュージーランド、印度、フィリッピン国並に他の平和的諸国家に対し国際法並に神聖なる条約上の誓約、義務並に保証に違背して侵略戦争の計画、準備、開始乃至遂行を意図し且之を実行せり。該計画は俘虜、一般収容者並に洋上漂流者を殺害毀害並に虐待し此等に対し適当なる食糧収容所衣服、医療手当又は其の他の適切なる処置を与へず此等を非人道的条件下の強制労役に服せしめ、且恥辱を与へ以て広く承認せられたる戦争法規慣例の侵犯を企図し且之を実行せり。又日本の利益の為めに非征服国民の人的並に経済的資源を搾取し公私の財産を略奪し都市村落に対し軍事上の必要以上濫(みだ)りに破壊を加え蹂躙(じゅうりん)せられたる諸国の無力の一般民衆に対し大量虐殺、凌辱(りょうじょく)、掠奪、劫略(きょうりゃく)、拷問其の他の野蛮的なる残虐行為を加へ日本国政府の官吏並に機関に対する陸海軍の威令及び制圧を強め彼の翼賛会なるものを創設し国家主義的膨張政策を教へ戦争宣伝物を頒布し新聞及びラヂオに厳格なる統制を加へ以て日本国民の輿論を精神的に侵略戦争に備へしめ被征服諸国に「傀儡(かいらい)」政権を樹立し武力に依る日本の膨張計画を推進する為めドイツ及びイタリアと軍事同盟を締結せり。
故に上記諸国家は一九四五年(昭和二十年)七月二十六日のポツダム宣言、一九四五年(昭和二十年)九月二日の降伏文章及び本裁判所条例に従ひ、重大なる戦争犯罪人に対する下記署名の代表者に依りて上記の凡(すべ)ての者を以下列挙の諸点に付き本裁判所条例中に凡て定義せるが如き平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪並に以上の罪の共通計画又は共同謀議の罪ありとして茲(ここ)に指摘し此の故に本訴訟に於ける被告とし且其の氏名が夫々記載せられたる後述の訴因に拠り起訴せられたるものとして指名す>(起訴状了・筆者記入)

冒頭の<本起訴状の言及せる期間>というのは昭和三年(一九二八年、即ちパリ不戦条約締結の年)から二十年九月二日(即ち降伏文書調印の日)までをいう。昭和三年を上限としたのは、パリ条約を彼等の主張の根拠に据えておくのが裁判にとって好都合だからである。そして先に記した通り、彼等の言う「侵略戦争」を「共同謀議」を以て計画実行したのは一握りの軍国主義者と超国家主義者共であり、一般国民はそれに欺かれ引き摺られて自らも多大の禍害を蒙った、被害者の位置に在ったものだ、として支配階級と被支配階級との離間を画策する。さればとて軍閥の犯罪の被害者だったという国民一般がそれによって免罪されるのかというと決してそうではなく、他方でかの「戦争責罪周知徹底計画」を通じ、日本人は全体として非征服国の一般民衆に対する暴虐と経済的搾取の被害者だったのだ、との罪の意識を徹底的に叩き込もうとするのだった。
起訴状朗読に続いて、昭和二十一年六月四日のキーナン主席検事の冒頭陳述に始まる検察側の立証段階に入り、二十二年一月二十四日までに至る八箇月間、他の被告一同と共に法廷の被告席に坐ったまま、東条英機はこの起訴状の論法を基調とする検察側の訴追及び彼等の称する所の立証をさんざんに聞かさるわけである。しかもその間、被告・弁護団にはその訴追に対する反駁の機会を与へられることがないままに、検察官団とその証人たちの言ひたい放題が、記者団と一般市民との間に先入見として次第に根を張ってゆく有様を空しく拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していなくてはならない。
この苦痛の体験は、しかし頭脳明敏な東條には、或る意味で有益な試錬の期間だった。彼は検察側の構築する訴追の理論がいかなる性質のものであるかを十分に会得した。彼等の手の内を謂はば見抜いてしまった。さうなれば、当方がそれに対してどのような論法を持って反撃すればよいか、そこから先は要するに彼等の知恵競べである。検察側立証が終わればやがて弁護側の反証が始まる。その冒頭陳述を担当するのが、東條被告の個人弁護を引き受けた一人でもある清瀬一郎弁護人団副団長と、国際法学の大家として名声の高い高柳賢三博士である。東條の期待はこの二人に寄せられる。殊に清瀬弁護人は頻々と東條と面会し、口供書作成については十分な打ち合わせをしているはずである。清瀬は自著『秘録・東京裁判』のなかに「東條口供書」といふ一章を設けて口供書作成過程について語っているが、記述は比較的簡単なもので、詳しい経緯はわからない。
さうであるからこそ、本書に於いて著者の佐藤氏が引用している『政治的ノ質問予想』(検事との間の想定問答集)、「弁護団劈頭論告二対スル希望」(劈頭論告とは弁護側冒頭陳述のこと)、「近代日本ノ国際的地位ヨリ見タル大東亜戦争ノ責任」といふ三篇の史料の意義は重要なものになってくる。更に著者が第二部第一章の「獄中から書いた秘書官への手紙」で紹介している、東條の獄中での歴史研究への精進が注目に値する。謂つてみれば「東条英機史観」が徐々に形を成し、内容的にも熟してゆく過程がそこに認められるのである。
昭和二十二年二月二十四日の午前から午後にかけて朗読された清瀬弁護人の冒頭陳述は長大にしてしかも全編が緊密な理論によって貫かれた歴史的な名演説となった(だから現在でも中公文庫版『秘録・東京裁判』に収録せされて広く普及している。それを読んだ人は大勢居るはずだ。但しそのわりにはあまり強い影響力を揮っている様には思われない。前述の先入見の固定化の恐ろしい所以である)。東條を初めとする被告人全員が、ある種の心強さと、自己の内心の代弁者を見出した欣快(きんかい)の思ひをこめてその大演説に耳傾けていたことと思われる。ニューヨークタイムズを筆頭とするアメリカの諸新聞がこれに対する激しい非難・反駁の論説を掲げた。ということは即ち清瀬冒陳(冒頭陳述の省略形?筆者にて註付け)の衝撃力を傍証する様なもので、起草者にとっては海外からの反撥は勲章を意味するであろう。日本国内では例の如く朝日の社説を先頭とするジャーナリズムからの非難は当然として、民間には頗る評判がよかった。つまりこの段階では「東京裁判史観」は既に前記の如く「先入見」として広まりつつはあったものの、その汚染の毒はまだ巷間にそれほど深く定着してはいない。だから清瀬冒陳に素直に賛同し感奮するだけの健全な歴史観が巷間に生きていたわけである。
清瀬氏の苦心を礼賛した人々の中で徳富蘇峰などは別格というべきかもしれない。『秘録・道教裁判』には清瀬宛の蘇峰からの慰労と激励の私信が全文引用されているが、蘇峰の共鳴同感はある意味で当然のこと、清瀬冒陳を貫流している日本近代史への視点は、歴史家としての徳富蘇峰が、その長い健康な生涯を通じて営々として築いてきた近世日本国民史の、その国民史観に立脚しているからである。蘇峰の史観を手っ取り早く概観するには、清瀬冒陳より三週間ほど後、二十二年三月十八日に裁判所に提出され、全文却下の扱いを受けた「徳富猪一郎宣誓供述書」に拠るのが便利であろう。それを一口に言へば、今次大戦の日本の開戦決定を、元来最も平和愛好の国民である日本人が真に自存自衛の為、不本意ながら己むを得ず矛(ほこ)を執(と)って立ち上がったものと力説している。宣戦の大詔(たいしょう)の校閲・補筆の役を勤めていたといわれる蘇峰として当然の姿勢かもしれないが、<予は今日に於いても、日本国民の一として、昭和十六年十二月八日、宣戦の大詔を、その文字通りに信奉したる者である事を、確言するに憚らぬ>又、<百年の後公平なる歴史家が出て来つらば、必ず予の言を諒とするであろうと信ずる>という一節を読めば、やはり「日本人此処に在り」の感慨が胸を熱くする。検察側是にして弁護側非か、或いはその逆か、将来のわが身の安泰のためには何方(どっち)の株を買うべきか、との観天望気を決め込んで成行を見ていた戦後繁盛の歴史家達(とは限らない、知識人一般というべきだろうが)とは蘇峰は性根の据え様が違っていたのである。
蘇峰の供述書は却下されてしまったのだから即ち法廷で朗読される機会もなく、東條も他の被告達もその内容を知ることができなかった。だが清瀬冒陳は深く彼等の胸に浸み透ったであろう。それは東條の「弁護団劈頭論告ニ対スル希望」というメモに力強く応答し、そしてもちろんそれを大きく超える様な規模のものであった。(引用終了)

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<続く・・・>(続々東京裁判史観一考3/6・9月14日投稿は、こちらから入れます)

(先日掲載記事:「東京裁判史観・一考」(1/6)は、こちらから参照できます

PS:A級戦犯にも問われた「徳富蘇峰」は、目先の世の動向にとらわれない、毅然とした日本人ジャーナリストの雄。且つ正しき歴史家である。もって学者乃至知識人を自称する人々は「蘇峰の如くあるべし」。と、願って已まない。
 さて、現代の我国ジャーナリズムは、如何?

「東京裁判史観一考」(1/6)朝日毎日の両新聞によって歪曲し伝えられた「報道」≒「史観」あり

2006-08-24 17:02:15 | 教養・文化・歴史
 今日の我々日本人を誤った認識に導き、誤りを国民の常識として刷り込み、21世紀の日本人に必要な正しき歴史認識と歴史事実の判断を惑わせ躊躇させているのは、戦後まもない60数年前。我国歴史において未知なる体験即ち戦勝国による「東京裁判」の始まりと同時期に、やたら「戦後民主主義」を謳いあげ、非人道的な屁理屈を非法に押通した東京裁判判決の成行に加担し、裁判史観を国民に自虐的に移植したのは、朝日新聞と毎日新聞であるか、、、。

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 先のブログ記事にて述べたが、サンフランシスコ講和条約締結により、我国の戦後処理は決定し、条約に従って処理を済ませた我国は、すでに敗戦国の責務は全うしているといっても過言ではない。
これまた既に述べてきたけれど、今日の我国首相靖国参拝の是非を問う課題は、大東亜戦争敗戦から東京軍事裁判の判決を受けた結果により生まれたA級戦犯の存在から端を発する。すなわち、A級戦犯に対する間違った認識(私論である)は、当時の偏ったメディア報道より(当時の)日本人の心に刷り込まれた。今も尚「偏った認識」は、今日の常識として一般国民の思考回路と身体の細胞に活きているから、恐ろしい。
 サンフランシスコ講和条約締結の時点にて、すでにA級戦犯の戦争責任追及は終わっており、それ以降になっても何故にA級戦犯をして、諸悪の根源的に特定人物(A級戦犯死刑者)として敵視するか。
 冷静に考えれば、当条約締結時点に於いて全ての(我国の)敗戦処理は終わっていると考えられる。ならば今もって何故に(往時の)A級戦犯に対し、いかにも感情論的に当時の日本国の国家責任を負い被せる我国の(一部)世論風潮は、我輩には到底理解できない。
 理解できない根拠は、唯一つ、東京裁判をして当時の戦勝国による「国際法に違反した不当なる裁判」であると受け止めているからである。さらに第二の根拠を加えれば、当時の日本政治は独裁者の手に委ねられていたわけでもなく、陸海軍の軍部もさることながら国会議員にて選出された(大東亜戦争期間中の)複数の内閣によって遂行されたものであり、戦争責任を問うとするならば当時拘わりのあった全内閣の全大臣により(戦争責任を)負うべきと判断する。
 かくして我々の手元には、我国の昭和史をもっと冷静に判断する素材が少なすぎ、あまりにも戦後日本の付け焼刃的民主主義の『名』の基に、「言論の横暴」を極めた当時のマスメディアの論調を正調と曲解しすぎていた事態から、目を覚ましたい。
 幸いにも、この8月上旬の有線TV番組ヒストリーチャンネルは、一週間以上にもまたがって東京裁判の実録画像を放映した。編集は米国にて行なわれたものであるが、東京裁判の実録であるから雰囲気的ではあるが実態がよく掴めた。如何にして昭和天皇を戦犯として東京裁判に引きずり出され、天皇をして戦犯とならぬよう、当時のマッカーサー自らをして「非合理的な配慮」を行なっていたのかが、十分に読み取られる。(マッカーサーは日本占領直前まで、昭和天皇を最大の戦犯として絞首刑に処する所存であった)その反動にて(昭和天皇を「絞首刑にできない」がため、その代わりとして)、東条英機をして如何に当時の日本政府の最高戦争責任者に仕立て上げ、法律的に通らない理屈を通してまで、当時の日本政府の「侵略戦争遂行責任」と「非人道的行為の責任」を被せるか、非理論的であるからこそ悪戦苦闘した東京裁判の状況は、ヒストリーチャンネルにて放映された実録フィルムにて、完全ではないが十分に感じ取れた。
 東京裁判実録画像からは、ますます当時の「東京裁判」の不公平さを思い知らされ、さらには現在に漏れ伝わる「東条英機人物史観」の偏より且つ間違った(自分自身の)感覚に、ひと筋の新しい光源に照らし出され、この歳になるまで見えていなかった我国近代史に於ける歴史解釈の不条理な個所が見え始めた。
 おりしも、首相小泉純一郎氏により8月15日靖国参拝。先の「昭和天皇ご発言メモ騒動」等々、マスコミ一連の空騒ぎ報道の中、自分自身あらためて昭和史に関する無知無学を痛感するとともに、今までにない興味をおぼえ、「もっと理論武装したい人のための靖国特集」等と謳う『正論9月号』をはじめ、小室直樹・渡部昇一両氏による対談集「封印の昭和史・戦後50年自虐の終焉」(1995年8月31日初刊・徳間書店)などに加え、700数十ページの長編「国民の歴史」(西尾幹二著)等々、あらためて紐解きこの10日間は読書に邁進した。
国民の歴史

産経新聞ニュースサービス

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 そんな時、究極の論文に出会った。
 佐藤早苗著「東条英機・封印された真実」の締め括りにある小堀圭一郎氏による『解説』がすばらしい。

 解説文は1万6千文字の長文であるのも珍しい。しかし、その文字数に含まれている内容は凝縮されている。その十数倍の文字表現によって書かれた内容を包含しているから見事である。またまた目から鱗が落ちた。
自分自身の知識の整理と記録を兼ね、以後、3~4回に分け、継続して全文転写掲載したい。

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* 当記事は、櫻井よしこBlogにトラックバックするを目的として投稿したものである。過去の関連記事「拝啓櫻井よしこ様『昭和天皇ご発言メモ騒動』(3/5)は、こちらから入れます

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(東京裁判の始まった戦後間もなき頃、朝日及び毎日新聞の両社により、如何に当時、日本人の平均的知識人の戦後の付け焼刃的民主主義意識と我国歴史への自虐的感覚なるものを形成していった経緯、よく読み取れる。
東条英機 封印された真実

講談社

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 東条英機の私文書を取り扱った佐藤女史著なる本文は、初刊当時、左右いずれからも脚光を浴びたとのこと。こうして拝読すれば、今、さほどの違和感や驚きは感じなく全て冷静に受け止め得る。しかし、本書を著された佐藤女史には申し訳ないが、本書に解説を付けられた小堀圭一郎先生の文章はすばらしい。
 今や、21世紀の我々に於いては、如何にしてこの論文を読み解釈するか。
 本書著作の後、僅かに10年?
 さりとて10年の年月時間経過を歴史として捉えれば、見えて来るものあり。見えて尚且つ、より鮮明に見通せてくるのである。我輩は、(解説文の)筆者・小堀先生の洞察と構築理論に平伏する。未だ当論文をご覧無き方、是非一度精読していただきたい・・・)

書籍名:『東条英機 封印された真実』
佐藤早苗著(1995年8月13日初刊)
発行:講談社

解説「東条英機の戦争史観について」・小堀圭一郎 著(p282~p288を抜粋引用する)
(部分的に、現代仮名使い及び送り仮名の現代手法に変更し、写入力する。漢字読み、ふり仮名は、原文章に順ずる)

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<以下、引用資料>

(1)
東条英機の運命は幾つかの大きな誤解に包まれて、その本来あるべかりし姿とはかなり違ったものが世人の目に写っている。
 彼が受けた数ある誤解の中の最大のものは、言うまでもなく大東亜戦争の開始と遂行と、それが内外にもたらした多くの禍害の最高の責任が彼にある、という見解であって、それは他ならぬ極東国際軍事裁判(東京裁判)が二年半に及ぶ審理の結果として導き出した結論の主要な眼目である。したがって世に謂(い)う所の東京裁判史観が然るべき論拠を以って且つ適正な手紙を通じて是正・払拭(ふっしょく)されるという事態の生じない限り、東条に被(き)せかけられた不当な誤解も亦(また)いつまでも訂正されぬままに続くだろう。
 東条の受けた不当な誤解は即ち東京裁判の起訴状―検察側論告―判決文を一環して流れている、戦勝国特有の勝ち誇った傲慢(ごうまん)な歴史観に源を発するわけだが、多くの人が東京裁判を貫流している検察側の理論を着実に追跡して理解しているわけではないし、長大にして難解な判決文に目を通しているわけでもない。それにも拘(かかわ)らず、東京裁判史観の枠内での平和攪乱犯人としての東条英機像が一般に広く普及し定着したについては、裁判進行当時に既(すで)に或る一定の方向に向かって国民の意識操作の作業に乗り出していた国内の新聞論調にその大部分の責任があると見てよいであろう。
 東京裁判の審理の進行過程で、一連の動乱の歴史に於ける東条英機個人の罪責の問題が議論の遡上(そじょう)に上ったのは、弁護側反駁立証の日程が個人反証段階に入ってからの事で、具体的には昭和二十二年十二月二十六日午後と二日飛んで十二月二十九日午前から十二月三十日午後にかけての正味二日間に亙(わた)る「口供書」の朗読、十二月三十一日午前に始まり、明けて昭和二十三年一月二日(午前・午後)と、一月五日・六日(午前・午後)の検察側から東条英機へ向けての反対訊問、一月六日午後から七日午前の裁判長による再訊問といった機会に於いてであった。
 殊(こと)に昭和二十二年の大晦日午前に開始された検察側反対訊問は、東条とキーナンの一騎打とも呼ばれ、彼我の歴史観の対決の山場とも目されて甚(はなは)だ注目を浴び、話題となったのである。当然、年末の東條口供書の朗読と年頭にかけての反対訊問に対する内外のジャーナリズムと論壇の反響は囂(かまびす)しいものだったが、この時の日本の代表的新聞が東條の口供書と陳述とに寄せた論評の趣旨こそが、裁判所を代弁して、*筆者の謂う「誤解によって歪められた」東條像を国民一般に強制的に売りつけたのだ、といってよいだろう。(* 筆者:佐藤早苗氏を指す)
 例えば二十二年十二月二十八日付朝日新聞社説は「戦争の罪を銘記せよ」と題して東條口供書に対し感情的な敵意をこめた非難を展開している。一部を引用してみると、この戦争は日本の自存自衛のための已(や)むを得ざる蹶起だった、との東條の主張に対し、
 <我々国民はこの「自衛権の発動」という言葉を、満州事変勃発当時にさかのぼって思い起こす。当時リットン報告書は、この自衛権の発動という思想を否定した。国際連盟理事会は十三対一、同総会は五十三対一の圧倒的多数をもって、この主張を否認した。にもかかわらず、軍部は全世界の世論を無視してこの主張を貫き、その後幾度か自衛戦争の名において帝国主義的侵略戦争を正当化しようとした。そしてこの主張が東條口供書においても臆面もなく繰り返されている>
 と書かれている(以下新聞記事は、朝日新聞東京裁判記者団著『東京裁判』、昭和五十八年、講談社刊より引用)。<感情的敵意>と呼んだのはこの<臆面もなく>といった表現である。自衛戦争論を説くのは<臆面もなき>厚顔なのだという、甚だわかりやすく飲み込みやすい説明がこれをもって世間に浸透してゆく。
 <ことに対米交渉において、外交と武力の二本立てでゆくといいながら、相手のある外交交渉に一定の時期を画し、その後は戦争の手段に訴えるということでは、すでに戦争を行なうという根本的な国是が確立されていて、外交は開戦の準備までの単なる手段にすぎなかったとしか受け取れない。そこには世界平和への熱意など毛頭もうかがわれない。戦争に訴えないで平和のうちに難局を収拾するという考え方など全く影をひそめているのである>
<世界平和への熱意など毛頭うかがわれない>という。認めまいと心に決めて物を見れば、それは決して眼に映らないものである。だがこの独善的断定も甚だ歯切れはよいから、これを読んだ世人は、なるほど東條は平和を望まぬ戦争屋だったのか、との単純明快な結論を与えられて多いに安心する。そして結びの一節、
<国民に対し惨害を与えたにすぎなかったこの憎むべき戦争が、ただ軍部の独裁的な強硬方針によって断行され、国民はただその言うがままに追従してゆかざるをえなかったあの恐るべき事実をどう釈明するか。軍閥は存在しなかったなどという形式的な自己弁護は一顧だに価しない。東條口供書は過ぎ去った悪夢のような旧日本の政治の非合理性と醜悪さを自ら暴露するものである。
われわれは敗戦の結果、自由かつ民主国家の国民として更生した。戦争を永遠に放棄した平和国家として再出発した。閣僚はすべて文民でなければならなくなった。しかし本当に平和な、民主的な国民として再起するためには、過去のわが軍閥がひき起こした戦争が、いかに世界平和に大きな罪悪を流したかという自覚が、個人個人の心の底に銘記されなければならない。東條口供書はこのためにのみ読まれるべきである>
ここに表れているのは東京裁判の「起訴状」が画策した、独裁的な軍閥政府と国民との間の隔離反目という目標の見事な達成、「戦争責罪周知徹底計画」(ウオーギルトインフォメーションプログラム: War Guilt Information Program)の顕著な効果、そして以後半世紀にわたって朝日新聞の牢固たる体質となった「戦後民主主義」の模範生ぶりである。こうした因子の全てが東條を敵視し、怨念をぶつけ、彼への憎悪組織化すべく働いた。戦後の国民一般の東條観を弾劾(だんがい)と仇敵視(きゅうてきし)一色に染め上げてしまったのは主としてこの頃の新聞論調である。因(ちな)みに翌々日の毎日新聞「余録」はこの口供書を論じて「戦争犯罪の第一人者」という見出しを付けているのであるから、これも実に激しい。内容は引用するまでもない罵倒の語の連続に過ぎないが、表題の「戦争犯罪」というのは全く「極東国際軍事裁判条例」に謳っているところのそれであって、元来国際法に照らしてそれが果たして戦争犯罪と呼びうるものか、といった批判的視点は完全にかけているのである。
東條対検察官の対決が終わった翌日(一月八日)の新聞論調についてはやはり朝日・毎日二紙の「天声人語」と「余録」が、論理的ならぬいたって情緒的な非難の標語を掲げているのが眼につく。一つ興味を惹くのは「天声人語」が、東條の検察官に対する果敢な反撃をよしとする巷の声を伝えているところである。
(▼このごろ電車の中などで「東條は人気を取りもどしたね」などというのを耳にすることがある。本社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。沈黙して大部分の国民は、今さら東條らのカストリ的、璽光様的迷句に酔うとは思われない。が一部に東條陳述共鳴の気分が隠見していることは見逃してはならない)
そしてその東條への民衆の共感を<見逃してはならない>と説いているのだから、この新聞が如何に意図的に東條全否定の輿論操作に執心していたかがわかるのである。

遡(さかのぼ)れば大凡(おおよそ)このあたりで形成されたと思われる、誤解と偏見に満ちた東条英機像は半世紀に近い年月にわたり、日本人の「合意」を得ていた。本書の著者佐藤早苗氏が十六年前にふと遭遇した機縁から、自分自身の固定観念をも含めて、世間一般の歪められた東條像に訂正を要求し、歴史の真実を追究するという立場から宰相東条英機の再評価を試みる作業に着手した時、その勇気と壮図に惜しみない拍手を送った読者も十分多かったが、他方、自らがその上に安住していた固定観念を揺さぶられたことから来る不快感や違和感を表明する向きも又多かった。
簡単に言うと、その一派の人々は東条英機観の変更要求を契機として、己が棲息する東京裁判史観というエレメント自体も亦(また)脅かされるという不安にかられたのである。
典型的な一例を挙げると、平成六年五月刊の雑誌『正論』に「東条英機史観と酷似する東京裁判史観克服論」(西義之)という奇妙な表題の論文が載っている。その論者は自分の立場を脅かす「東京裁判史観克服論」を「東条英機史観」にそっくりだと説明することによって即ちそれを全否定したつもりになっているのだが、ということはつまり「東条英機史観」といへばそれは輿論一般が全否定している対象であり、その名を出すことで即ち自分は輿論一般を味方につけることができる、との前提に立った甚だ幼稚な修辞を弄(もてあそ)んでいるわけである。その論者が念頭に置いている一般輿論というのは、つまり半世紀近い昔に朝日新聞や毎日新聞の社説とコラムが操作して作り上げたものなのだが、その人はこの古い輿論形成の仕掛人の無謬(むむびゅう)性をいまだに疑っていないのであるらしかった。この論者は何か新しい思いつきででもあるかのようにその幼稚な修辞をふり廻したのだが、所謂(いわゆる)東京裁判史観克服論の根源の一端が東条英機口供書の趣旨と同根のものであることは、これは今更言うまでもない当然自明の話なのである。佐藤早苗氏の論考の一助をなすべき本解説文は、その東条英機史観なるものの由来と性格について、いささか一般的理解への寄与を志すものである。

<続く・・(8月26日掲載)こちらから入れます>

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管理者追記:

 当著書に於ける「小堀氏による完全解説文」は1部から2~3部にわたり、本日掲載分の約4倍に及ぶ長編論文である。二百数十ページの「佐藤早苗女史の一冊」に対し、そうとう熱の入った解説文にて、佐藤女史の「試み」への最大の賛辞と受け止める。全文を抜粋引用掲載するので目を通していただきたい・・・

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 尚、(上記転載論文の筆者である)小堀先生をはじめ、本著の筆者佐藤女史並びに講談社関係各位には、事前のことわりなしにて無断転載をするに至った事、ここにお詫びする。万一の場合、関係各位からの「お叱り」を受けする事、敢えて辞さないものである。

よくぞ表明してくれた「新憲法制定内閣たるべし」!さすが、我らの安倍氏なのだ!

2006-08-22 20:55:15 | 教養・文化・歴史
 今夜の7時NHKニュースの冒頭、「本日、横浜にてポスト小泉3氏による論戦あり」との報道を観た聴いた。
 なんと、「次の内閣は、新憲法制定に向かって歩む内閣となる、云々・・・」
大写しにされた安倍官房長官の画像から、何ら加えるものなく差し引かれるものなく、安倍氏直々の発言により、上記の言葉を聴いた!

 かくして、「昭和天皇ご発言関連、富田メモ」以来の長きに亘って我輩の脳裏の片隅に鎮座し、日夜消し去る事のできない「捻じ曲がった歴史認識」を主流とする亡国論者と売国奴的TV報道に醸し出されシコリとなって残っていた「後味の悪さ」、今尚それを引きずりつつ「近代歴史と昭和史の再確認」に心血を注いでいる今日この頃、この安倍氏の「一言」を聞き、一気に吹き飛んでしまった。
 痛快である。

 そう、
 ポスト小泉たる「新内閣の責務」として、まず第一に掲げられるべき「政治目標」は、新憲法制定のはず!

「憲法改正にはこの先10年は掛かるであろう?」
等と嘯(うそぶ)く、我国未来の国家観なき無責任政治家ども、媚中に浸りきったジャーナリストの報道に国民は惑い迷わされて久しい。憲法改正の必要な時期到来を解っているものの、政治家生命をかけてまでも憲法制定に手を下そうとせず、60年も経過した。21世紀の我国にとって一番大切且つ必要不可欠なものは、一にも二にも「国家の背骨を有する」こと、すなわち新憲法の制定である。と、信じて止まず、このような風潮に対し、いかにもじれったく歯痒い気分を拭いきれなかった昨今。
1945年夏の敗戦による明治憲法の壊滅以後は、GHQの定めた「仮の憲法」しか持ちえなかった日本。不自由極まりなくも、60数年間の長きに渡り誤魔化しに誤魔化しを重ねつつ、「これを云わなかった」? なさけなきかな、我国政治のテイタラク。現行の仮憲法のもと、日本の健全なる将来と未来は描けなく、このところの我輩はブログ記事更新も儘ならず、一人で癇癪を起こしつつ憂鬱になり、深く憂慮していたところなのだが、、、。

 期せずして(いや、大いに期待をしていたが)、本日を以って安倍氏は、新憲法制定内閣を目指す旨、公言してのである。

 感慨無量である、、、。

 頼もしいかぎりである!!!

本日は、これ以上多くを語らず、このあたりで筆を置く? いや、キーボード叩くを止めたい・・・
  <本日記事・了>

(安倍新内閣誕生に、大いなる期待を願われる諸兄!是非とも下記ランキングバーをリックいただき、不肖エセ男爵の順位低迷脱出にご協力願いたい・・・)

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以下、読売ニュース引用(こちらから入れます・・)

『安倍氏「新しい憲法書いていく」…政権構想に盛る意向』

 安倍官房長官は22日昼、横浜市内で開かれた自民党の再チャレンジ支援議員連盟の会合で講演し、次期政権で憲法を全面改正すべきだとの考えを示したうえ、9月の総裁選に向けた自らの政権構想に憲法の全面改正を盛り込む意向を表明した。

 安倍氏は、「21世紀にふさわしい新しい日本の創造に向け、私たちの手で新しい憲法を作っていく気持ちを持たなければならない。既に自民党は憲法草案を作っており、次のリーダーはこの新しい憲法を政治スケジュールに乗せていくリーダーシップを発揮しなければならない」と述べた。

 また、「新しい憲法を書いていく。その精神こそが新しい時代を作っていくことにつながる」とも強調した。  (読売新聞) - 8月22日13時47分更新

<以上、引用終了・・>

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<添付画像>:ウィキペディア百科事典より、『大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目』(明治憲法より現行憲法への「おさらい」は、こちらから入れます・・)

台風10号よ!「もっと速度を上げてくれ~い!」

2006-08-18 18:57:26 | Weblog
ついに?
    不肖エセ男爵ブログも「地に落ちた」?・・・

「いよいよ、書く記事がなくなったか?」

「違う!」

「仕事が忙しいか?」

「違う!!」

「書く気分になれないか?」

「ウム、残念ながら90%当っている・・・」

まさか、
それなりに撮り貯めた画像は(すでに)底を付き、ついに天気図(台風進路図?)まで画像に取り込む事態になろうとは、我ながら(1年前?のこの次期)予想もしなかった・・・

テレビのスイッチを入力すれば「台風情報」?・・
なんだかんだ、既に4~6日、いやもっとそれ以前から「台風10号の予報」進路予報は出ている。例年ならば、日本上空はとっくに過ぎ去って消滅しても可笑しくないにもかかわらず、自転車の速度以下ののろのろ運行か。
まるで小学生低学年の悪餓鬼の下校途中の道草しながら帰宅する速度ではないか。しかし悪餓鬼といえども日暮れまでには帰るだろう?腹が減るから晩飯までには帰るだろう。
しかし、この台風、人間のガキではなく自然現象であるからして、いつまでたっても腹は減らない。くわえて、昼夜関係なく活動する輩、、、。
誰かを、
「いじめてやろう!」
とか、
「悪さをしてやろう」
等と、企んでいる訳でもないであろう。

いい加減にしてほしい。
我輩、低気圧と湿気は、肉体的身体よりも精神的気分に「堪(こた)え」て、もう我慢ならず「堪(た)えられ」ない。
気圧の低いのは苦手である。首から上は、高山病的状態にて、平素より朦朧としている頭脳は、この台風の低気圧でますます不鮮明になるからたまらない。
長続きする湿気多き天候は、身体に合わない。
汗が出そうで出ない状態は、我輩の持病に悪影響である。
「痛風発作」の引き金になる。
「嗚呼この時期、日本から脱出したい!」
「・・・?」
「そう、バリ島かスコットランドのエディンバラに行きたい・・・」
「・・・!」
「贅沢ですか?はい。いや、そう、軽井沢でいい、、。軽井沢で十分だ・・」
「・・・?」
「そう、軽井沢も雨が降っている・・」
「北海道でもいい・・・」
「・・・!」
「そうですか!北海道も大雨ですって?!・・・」
「‘?$‘*!!」
いや、この夏、自宅で、ズウ~と我慢し、耐え忍びます・・・

とにかく道草もどきの台風10号。いずれにしても台風の影響か?天候不良で「気分不爽快」ならびに「不愉快」なる方、せめて不肖エセ男爵のブログランキングの降下状態でもご確認頂き、是非とも『気分転換』願いたい。
「・・・(喝)!」
「ハ、ハイ!ゆめゆめ『お天道様に向かって唾は吐かない』ように致しますので、お許しを・・・」

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<以下、洒落にもならない添付資料・・・>
天気より引用?!?・・・
『台風10号』
2006年8月18日16時30分発表 台風10号は、18日15時には島原市付近にあって、ほとんど停滞しています。中心気圧は982hPa、中心付近の最大風速は23m/sです。この台風は、19日3時には福岡市の北北西約50Km、その後、日本海西部を北上して21日には温帯低気圧に変わるでしょう。台風周辺海域および進路にあたる海域は、シケとなるため警戒が必要です。また、九州地方、四国地方、中国地方西部では、暴風や大雨に厳重な警戒が必要です。次回の台風情報は、8月18日17時30分の予定です。

台風10号
アジア名 WUKONG(ウーコン)
位置 北緯32度40分
東経130度40分
大きさ ---
強さ ---
中心気圧 984hPa
最大風速 23m/s
進行方向 北
速度 ゆっくり
暴風半径 ---
強風半径 中心から330km
  
*??・・・
速度:ゆっくり?!
せめて小学生の徒歩速度なり、中学生か高校生か、女子高校生か男子高校生か?一体どういう「速度」なのか???????
こういう予報は、予報といえないですよねえ~・・・

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シナ共産政権をして「我国首相靖国参拝」に反駁する、その論拠とは。シナの本音と核心は?・・

2006-08-16 23:55:28 | 教養・文化・歴史
 2006年の終戦記念日(昨日8月15日)、待ち受けていた報道陣に取り囲まれ粛々と靖国参拝を済ませた小泉首相。靖国参拝問題ヤラセ空騒ぎは午前7時40分に勃発!その後、各局テレビ報道は「小泉首相靖国参拝」ニュースばかり、終日喧しかった。
 「少し騒ぎすぎではないか!」
「小児性痴呆症的ばか騒ぎ」としか見えないTV各局のヒステリックともいえる狂乱的報道振りは、我輩日本人の一人として、恥ずかしすぎる・・・
もって空騒ぎTV報道は、可能な限り観ないようにした。

そんな今年の終戦記念日の夕刻、ご存知我輩の先輩OT氏からメールが届いた。
驚いた。
過去一度も、OT先輩とは政治問題について論議していない。にもかかわらず、頂いたメールの内容は靖国参拝問題の小論文ではないか!
3回読んだ・・・
シナ共産主義国家から観た「靖国問題」は、我々日本人のものとは違う。靖国を判断する根拠たるや、如何に我々日本人の歴史文化を基礎にした精神構造とは異なるものか!
冷静且つ包括的に靖国問題を捉えておられ、論旨展開の切り口は見事である。
思想哲学や宗教の分野は我輩の専門からかけ離れている。加えて憲法問題(法律全般も含め)に関しては、学問と言うよりも一般常識論的にも学習不足知識不足は甚だしく、未踏のフィールド。靖国問題を深く突っ込めば必ずや対峙しなければならぬ思想・宗教・哲学・法学等々、難しい学問的分野は、厚く高く深き位置に横たわっているのである。
そんな時に、思いがけない論文が届いた。
OT先輩のメールを拝読し、整理できた。
あらためて我輩、目から鱗が落ちた。

未だ未知なる知識とフィールドに好奇心を持ち続け修練を続けるものの、未だ不十分。今尚未熟者なる不肖エセ男爵の勉強不足をお許し頂き、本日も、まずは、以下ランキングバーをクリック応援願いたい。
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<我が先輩OT氏より頂いたメール>

エセ男爵殿

今日は61回目の終戦記念日です。
そして、中国や韓国それに一部の日本のマスコミが注目するなかで、小泉首相がとうとう公約どおり8月15日に靖国神社を参拝しましたね。参拝後、
「いつ行っても批判する勢力がある。ならば今日は適切な日と判断した」
と、テレビで語りました。
そして、中国外務省も直ちに声明を発表し、小泉首相の靖国参拝を
「中日関係の政治的基礎を破壊する行動だ」
と指摘し、首相が意地を張って参拝したことは
「国際正義に挑戦し、良識を踏みにじった」
と、激し批評で反発。更に、興味深い報道として、
「参拝で中国人の感情を傷つけることは国際社会だけでなく、日本の国民の信頼も失う」
と、指摘し、
「中日友好に努力することを重視する日本の政治家や広範な人々」
と共に
「今後も日中両国の平和共存、友好協力関係に向け取り組んでいく」
とあったことです。
これは色々な観点から言って胡錦濤指導部の苦肉の策であることに間違いないのです。ここで、究極の選択として、もし小泉首相が靖国に行かなかったら、教科書問題、東シナ海ガス田開発、遺棄化学兵器問題、尖閣諸島などは解決するのでしょうか。

消費税、社会保険庁問題、少子化対策など、たくさんの政治・経済・教育・福祉対策などの諸問題が山積みになっているにも関わらず、マスコミ、経済人、そして多くの外交官は、「靖国参拝問題」をもてあそんでいるとしか思えません。谷垣財務相の靖国参拝は差し控える、とか麻生外相の非宗教化を促し、国立施設とするなどは茶番の何物でもありません。もういい加減に目覚めて欲しいです。

今朝の小泉さんの言い分の中で、特に注目したのは、
「一つの案件に反対だからといって、首脳会談を拒絶するのは理解できない。もし、日本の国連常任理事国入りに反対した中国を日本が根にもって、中国との首脳会談には応じない、と私が言ったら中国は何とするのか。日本はそんな子供じみた国ではない」
と、断言されましたね。
何故、そんな気持ちが中国に理解されないのでしょう。そこで、日ごろ、中国共産党の実情はいったいどうなっているのだろうか、という小生の疑問に対する回答が実は一冊の雑誌から得られたのです。

本日の結論を先に述べますと、
「靖国を参拝するのは、死者の魂を「慰霊」する宗教的行為なのだと考える日本人と、「魂」の存在も死者に対する「慰霊」の宗教的意味も決して認めない唯物主義的無神論者の中国共産党との間に現存する「文化的断絶と世界観の対立」
なのだから、
日本はこれ以上無意味な反応を中国に示す必要はない、と思うのです。今日のNHKその他のテレビ報道はあまりにも中国や韓国を意識しており、むしろ滑稽なほどです。誰かが、早く中国や韓国に引導を渡すべきです。

それでは、本論にはいりましょう。
産経新聞社発行の「正論」9月号の靖国特集を読まれましたか。その中で、評論家石平氏(せき・へい)の特集「魂の存在が理解できない胡錦濤世代の世界観」を読んでみますと、そこには中国共産党一党独裁体制の支配からの呪縛、
すなわち
1)唯物主義の無神論者、
2)生きているというA級戦犯、
3)「死者の利用」は中国の政治文化である、
などが詳しく記述されていました。私はこれらを読んで「目からうろこ」になってしまいました。石平氏は次のような人物です。

評論家石平氏(せき・へい)1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。1988年来日。神戸大学大学院文化学研究科博士課程終了。2002年に「何故中国人は日本人を憎むのか」PPH研究所を著して中国における半日感情の高まりについて先見的な警告を発して以来、評論活動に入る。新著に「日中の宿命」扶桑社が執筆、と注釈されています。

さて、以下は長編の中から小生が特に感じた部分の抜粋です。

小泉首相が就任後5回目の靖国参拝を果たしてから、中国はこの問題だけを理由に日本の首相・外相との「いかなる形での会談に応じない」というかたくなな対日姿勢を打ち出している。事態をそこまで深刻化させた中国指導部の思惑には、当然、「靖国参拝問題」を政治カードとして用いたいとう一面がある。「靖国問題」を含めた「歴史認識問題」で、日本をたたくことによって、対日関係において優位に立とうとする常套手段の繰り返しなのである。

しかしその一方で、「靖国参拝問題」だけに固執して日本政府との政治交渉を自ら絶ってしまうという、この硬直極まりのない姿勢が逆に、中国政府自身の対日外交のさらなる展開を封じ込める結果にもなっている。

中国側からの圧力に対して、小泉首相は「一つの意見の相違があるからといって会談に応じないのはおかしい」という正論を吐いて容赦のない反撃を繰り広げた。こうした中で、一度挙げた拳を下ろせないままに立ち往生しているのは、むしろ胡錦濤指導部の方である。

そして今年の夏に入ってから、中国政府が今まで拒否してきたはずの日中外相会談に一転して応じるようになった。また、日本首相の顔もみたくないはずの胡錦濤主席が突如、「日本訪問への意欲」を示したりするというあわただしい動きを見せている。それは間違いなく、胡錦濤指導部が自ら作り出した日中関係の難局の打開に焦っていることの証拠である。ここまでくると、「靖国」は中国にとっての外交カードというよりも、むしろその対日外交の足かせとなっている観がある。つまり、「靖国参拝問題」に対する異常なほどの固執が、結果的には中国政府自身をその対日外交の袋小路に追い込んでしまった、といえるのだ。

だとすれば、「靖国問題」をカードとして用いたい思惑以外に、中国指導部がこの問題にそこまで固執するのは何らかの深層的な理由があるのではないか、と思わざるをえない。その深層的な理由が一体なんであろうか。それが今回の3つのテーマである。

1)第一のテーマ:

中国政府が小泉首相の靖国参拝に対して:
現実の政治問題で、具体的に言えば次の2項目である。

(1)日中関係の政治基礎がそれによって破壊された。
(2)靖国参拝問題が日中関係の政治的障害となっている。

ところが、日本から見れば、靖国参拝という行為は本来現実の政治や外交の世界とは縁遠い一種の宗教的行為のはずである。神社という宗教的施設に祀られる死者の「魂・英霊」を現在生きている人間が「お参りする」、「慰霊する」、のは宗教的行為のなにものでもない。

生きる人間と死者の魂との関係を中軸とする宗教的行為である靖国参拝がどうして中国政府から日中両国間関係の「政治基礎」とみなされるような政治問題として取りざたされなければならないのか、これが問題なのである。

中国共産党政権の指導者達は、日本における靖国参拝を一体どうみているのか。実はこの点から見ると、いわゆる「靖国参拝問題」の背後に潜む重要なポイントに気がつくのである。

それは、すなわち、彼等共産党政権の指導者達は、そもそも、一切の宗教的行為の正当性も認めない「唯物主義の無神論者」である点である。

共産党の指導理念とされているこの唯物主義の世界観においては、宗教の存在意義や正当性が完全に否定され、「神様」や「魂」の存在が全く認められていないのである。唯物主義者からみれば、人間の精神というものは肉体という「物質的基礎」があってこそのものであって、一人の人間が死んでその肉体が消滅すると、その人間の精神もそのまま永遠に消え去るのである。だから、死後の魂などがあるわけがない。魂というものがそもそも存在しないのだから、死者に対する「お参り」も「慰霊」も全くのナンセンスであり、そのような行為に何らかの意味があるとは決して認められないのだ。言い換えれば、最初から存在もしていない「魂=霊魂」にどうして「慰霊」が必要なのか、ということである。

このような世界観が背後に控えていることを考えれば、中国共産党政権のエリートたちが、小泉首相自身を含めた大半の日本人とは全く異なった仕方で靖国参拝の意味を理解し、解釈しているのがむしろ当然だとわかるであろう。

つまり、彼等の世界観においては、「靖国参拝」に託された、死者の魂に対する慰霊という宗教的意味も「心ならずにして戦死した者達に哀悼の意をささげる」という純粋なる宗教的心情も、まったくナンセンスとして排除されてしまうのである。その結果、靖国参拝という行為の「宗教性」は完全に無視され、靖国参拝が単なる世俗における一つの現実的な人間行為としてとらえられているのだ。現実世界における現実の人間行為には何らかの現実の動機や理由がなければならないのだから、日本国首相という政治指導者の行った靖国参拝は、当然、何らかの現実的な政治動機に基づく政治行為でなければならない、と共産党の指導者達が考えるのである。

魂や英霊は彼等にとって、そもそもありもしない虚構だから、小泉首相は単にそれらの「魂」の「慰霊」にために参拝しにいくわけがない。小泉首相がいくら口舌を尽くして、それが単なる「死者に哀悼の意をささげたいためである」と説明しても、それは単なるウソの方便ではないのかと、彼等はそう考えてしまうのである。これが第一のポイント。

第2のテーマ:

すでに説明した共産党指導者たちの世界観からすると、「A級戦犯」の合祀を問題にするのはそもそもおかしな話である。というのも、彼ら自身は「魂」というものの存在自体を認めていないから、A級戦犯の魂が合祀されていようとされていなかろうと、彼等にとってはどうでもよいことではないのか、ということになるのだが、実は問題はまさにこの点にあるのである。

共産党の指導者たちは死者の魂というものと、その宗教的意味を認めていないから、決して多くの日本人と同じように、東条英機元首相などの死者の魂が靖国神社という場所に「祀られている」とは認識していない。彼等自身の世界観と言語体系において、この事実は「東条英機元首相などのA級戦犯=侵略戦争の指導者が今でも靖国神社において記念されている、あるいは表彰されているという政治用語に翻訳して理解されなければならないのである。

つまり、共産党の指導者達は「人間が死んだ後に、生きた人間とは異質の魂となる」という観念を最初からもっていないから、靖国神社に祀られている東条英機元首相達が今でも生前と同じくA級戦犯=戦争指導者のままであると認識しているのである。

現在の小泉首相という日本の政治指導者が、靖国参拝を断行することによって、過去の侵略戦争の指導者たちを記念し、彼等と政治的関係を持つ事となれば、それはすなわち、小泉首相が彼等の行った侵略戦争の罪に対する「容認と美化」であり、かれらの推進した戦争政策に対する共感と賛意の表れにほかならない。つまり、小泉首相がそれらの侵略戦争の指導者と政治的関係を持つ事によって、小泉首相および彼の率いる日本政府と、過去の侵略戦争との連続的関係性が現実に生じてきた、と解釈されるわけである。そして、中国指導部から見れば、A級戦犯を美化する小泉首相の靖国参拝はそれこそ中国政府に対する重大なる挑発以外の何物でもない。

かつての、抗日戦争において、日本軍国主義を打ち破って中国人民を侵略軍の残虐無道から救い出したのはほかならぬ民族の英雄としての共産党だという政治神話は、現在の共産党政権を支える思想的支柱の一つになっている。この政治神話の中で、いわゆるA級戦犯こそは残虐無道の日本侵略軍の象徴であり、英雄が輝いていくために必要な悪魔なのである。彼等が戦犯として断罪された事は、中国共産党が英雄として勝ち取った歴史的勝利の証でもある。このような政治神話を維持し、再生産していくためには、彼等A級戦犯はまさに犯罪者として永久的に糾弾されていかなければならない。

しかし、中国共産党の発想からすれば、A級戦犯が合祀されている靖国神社へ日本の政治的指導者が参拝しに行く事が、すなわちA級戦犯の「名誉回復」であり、残虐無道の日本軍国主義に対する美化であるから、それは、共産党自身の歴史的功績に対する「けなし」となるのである。だからこそ、絶対に許す事ができない、ということになるのである。

これこそ、中国共産党指導者の目から見た、小泉首相の靖国参拝という政治的行為に付与されるべきところの政治的意図なのである。だからこそ、共産党指導者は小泉首相の靖国参拝を「日中関係の政治的基礎を破壊した」行為として激しく糾弾し、首脳会談の拒否という純政治的行動によって対抗しなければならなかった。日中間における靖国参拝問題の最大のポイントと本質はまさにここにあるのではないか、と考える。

第3のテーマ:

参拝という行為に対する、このような理解の仕方は日本の靖国参拝に対してだけではない。それはむしろ、「死者の利用」という中国共産党自身の政治文化に深く根ざしたものである。「毛沢東主席記念堂」には死去して30年もたった毛沢東の亡骸を防腐措置に施された後、記念堂の中心部に透明のガラスの棺桶に入れられて大きなホールの中で展示されているのである。多少とも宗教的観念のある国であれば、人の亡骸をガラス箱に入れて何十年もさらしておくというのは、ぞ~とするような行為であろう。だが、彼ら共産党の人間達はそれを平気でやっているのだ。これから見ても、「死者」というものに対する彼等共産党の持つ観念は、文明社会の一般的通念からどれほどかけ離れていた異常なものであるかがわかる。

一国の首相たる政治家が靖国神社に行って誰かを「参拝」するというのは、決して宗教的理由や「個人的心情」に基づく行為であるはずもなく、必ずや何らかの政治的思惑や目的をその背後に持つ政治行動でなければならない。そしてその「参拝」の対象に「戦争指導者としてのA級戦犯」でも含まれているとすれば、小泉首相の「政治的目的」はもはや明々白々なものではないのか、ということである。これがすなわち、日中間における「靖国参拝問題」の第3のポイントである。

さて、長々と書きましたが、本日の靖国参拝を中国がどのような反応にでるか、大いなる興味はありますが、でも知りえる結論は見えているようですね。ならば、これからの日本はどのような態度で対処するのか。次期政権の課題でしょう。

以上です。

 (先輩OT氏より頂戴したメール、了)

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*連載中「昭和天皇ご発言メモ騒動」の関連記事、暫く続けます。継読方、宜しくお願いします。

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続々「昭和天皇ご発言メモ騒動」(3/5)によせて。サンフランシスコ条約論議の今は?

2006-08-14 19:35:15 | 教養・文化・歴史
 この新聞記事(8月12日金曜日・一面トップ記事)を一見したのち、日本人の中年はどう反応するか?千差万別?いや、もしかすると総理の判断よりも阿南氏(前北京大使)の言動は正しいと支持するか。

無垢なる若者は、
国を愛する根本理念なきマスコミ報道を鵜呑みにし?小泉総理の「間違い」と認識するか。外務省官僚から叱責叱責を受ける「誤った判断をした?」と読み取り、阿南氏のとった行動は正しい。と、刷り込まれるかもしれない。

<記事その1>
この(添付画像新聞の)見出し、
1)今年8月には入ってからの出来事?一両日の出来事だと感じるであろう。
2)13日の日曜日とお盆の最中14日の月曜日をはさんで、(明日)15日火曜日は、まさに終戦記念日であり、小泉総理の靖国参拝を前もって牽制した記事に見受けられ、
3)前駐シナ共産国家大使である阿南惟茂氏から公電にて直接小泉首相宛「靖国参拝反対」を進言したもの。
4)注書きにて、阿南前北京大使のお父上のプロフィールにまで及び、靖国に合祀されたる元陸軍軍人の子弟と明記。

さて、読者の反応は、

(1)これはまさに、先の「安倍官房長官の今年4月(無断・無報告・未公表)靖国参拝スッパヌキ?風、過去記事」と同等、意図された同種の目的を持つジャーナリスト的ヤラセ記事ではないか。

(2)まさに終戦記念日であり、小泉総理の靖国参拝を前もって牽制した記事に見受けられる。もって靖国参拝に反対の意向を示す片寄った「報道記事」である。このようなジャーナリズムは、日本国内の議論をより複雑にする、亡国奴意図を持った媚支(シ)的報道である。

(3)意図的に、靖国合祀されている遺族(元・阿南駐シナ共産国家大使を指す)に於いても、日本国の総理自らの靖国参拝には、猛烈に反対している。という印象を、世間一般に垂れ流す意図、明白に見えてくる。終戦当時陸軍大臣の要職にあり、ポツダム宣言受諾に反対した張本人は、阿南氏の父上惟幾氏は「東京裁判」に於いてしてはA級戦犯の筆頭に上げられ東条英機氏と共に絞首刑を宣告されても可笑しくない立場にあったものの「自決」してしまっている。敗戦国家の戦争責任を全うせず、自決したものまで合祀しているのが「靖国神社」である。 

〆て、
なんともはや情けない我国のローカル新聞・・・
世界初の原爆投下された「我が郷土広島」を代表する「良識ある言論の砦」とならねばならぬところ、残念かな左翼亡国論を奉りつつ懲りずに媚支発言に片寄るから、いかにも「腹が立つ」!

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<記事その2>
さて、話を先にすすめる。
先の投稿にも書いたとおり、未だ我国の「大東亜戦争」は終結していない。
サンフランシスコ講和条約の後、未だ我国の国民総意により明治憲法以降の新憲法は制定されていないからだ。(第9条に束縛され、象徴天皇を配した<「拝した」ではない>現行憲法は、あくまでも占領統治下にあった時代のGHQからあてがわれた「仮の憲法」と考える)
また、当時の「ソ連」と「中華民国(台湾)」政権、並びに蒋介石に代わってシナ大陸を占領した「毛沢東共産政権」は、この講和条約に参加していない。しかし当講和条約と並んで蒋介石台湾政権とは「別途会議」にて敗戦後日本新政府との講和は成立する。
したがって現在ロシア及びシナ共産国家との領土問題は、あやふやに放置されたまま。
且つ、「東京裁判」問題に関しても、未だ「日本国内」に於いての国家的認識は定まっていない。すなわち、国内に於いても異なるA級戦犯認識も靖国参拝問題も、歴史を振り返ればまず真っ先に「サンフランシスコ条約」の共通認識が未だに構築されていない実態に、端を発する。つまり、我国は、主権ある独立国家として、先の大戦の戦後処理が未だ放置されており、したがって未だに「大東亜戦争」は継続中なのである。
問題は11条の解釈!と、ある。東京裁判結果の解釈の問題である。
我輩は"the judgments"の解釈を外務省説「裁判」と考えず、「各判決」とし、渡部昇一先生説を正しく受け止める。したがってA級戦犯たるは、時代を遡って(我国の)歴史には存在しない犯罪者と考える。

締め括れば、
この度の「昭和天皇ご発言メモ騒動」も、このあたりから問題提起し解決しなければ、今後も似通った騒動を起こそうとする不逞の輩は、後を絶たないであろう。

(前回掲載関連記事:「拝啓櫻井よしこ様:昭和天皇ご発言メモ」関連記事は、こちらから入れます・・)

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以下、『中国新聞(8月12日朝刊)記事』

タイトル:「首相に参拝中止具申 阿南前中国大使」
(中国新聞HP記事は、こちらから入れます)
(以下記事本文、転載)
 阿南惟茂(あなみ・これしげ)前駐中国大使が在任中の昨年の終戦記念日を前に、小泉純一郎首相に対して靖国神社参拝を中止するよう要請する公電を打っていたことが11日、関係者の話で分かった。日中関係悪化を憂慮したとみられるが、現職大使がこうした形で首相に意見具申するのは「異例」(外務省幹部)。公電は外務省を通じて首相官邸に届けられたが、小泉首相は10月17日、就任後5回目の参拝に踏み切り、結果として受け入れられなかった。
 阿南氏は同省アジア局長などを歴任、対中関係を重視する、いわゆる「チャイナスクール」の筆頭格だが、1945年、ポツダム宣言受諾に反対し自決した故阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の子息としても知られる。惟幾氏は靖国神社に合祀(ごうし)され、阿南氏は「遺族」の立場にもある。
 阿南氏は取材に対し、具体的なコメントを避けている。公電を打った日時は明確ではないが、昨年の7月前後とみられる。数枚にわたる長文で(1)中国側にとって2005年は「抗日戦争勝利60周年」という記念すべき年(2)05年前半からデモが頻発するなど中国国民の反日感情が高ぶっている―などを理由に小泉首相に参拝を中止するよう求めている。外務省は小泉首相あてだったため、そのまま首相官邸に伝えた、という。
 昨年7月前後は郵政民営化関連法案をめぐる攻防が激化、7月初めの衆院本会議でかろうじて可決。しかし、8月の参院本会議採決で否決の見通しが強まる中、局面打開や有終の美を飾るため、小泉首相が公約である「8・15」参拝を実行するのではないかという見方が広まっていたことも背景にあったと思われる。
 阿南氏は今年3月、離任にあたり「靖国問題は政治問題化しており参拝方法を変えても解決しない。参拝するか、しないか、しかない」と、間接的に小泉首相の参拝を批判する趣旨の報告を関係者に行っている。
 一方、首相は昨年の参拝後、記者団に対し「心の問題に他人が干渉すべきではない。外国政府がいけないとかいう問題ではない」と述べ、中国などへの不快感を示した。 (初版:8月12日2時3分)

(以上、8月12日中国新聞朝刊一面トップ記事より・・)
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『サンフランシスコ講和条約』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(抜粋)

日本国との平和条約(にほんこくとのへいわじょうやく、英: Treaty of Peace with Japan)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約である。アメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約・サンフランシスコ平和条約・サンフランシスコ講和条約などとも呼ばれ、ほかにも対日平和条約・対日講和条約などとも呼ばれることがある。なお、条約の正文は英語・仏語・スペイン語であり、日本語の正文はない。 (ただし、日本の外務省がおこなった和訳が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認され、国会承認・内閣批准を受けた公式なテキストとして日本国内では扱われている。) 1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年4月28日条約第5号として公布されている。

この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条 (b) )。なお、国際法上では、この条約が発効されるまでは「戦争状態」が続いていたとされ(第1条 (a) )、ポツダム宣言の受諾を表明した1945年(昭和20年)8月15日や、降伏文書に署名をした1945年(昭和20年)9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとされる。

目次

1 内容・解釈等
1.1 要旨
1.2 領土
1.3 いわゆる外地人の日本国籍喪失
1.4 著作権保護期間の戦時加算
1.5 極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾
1.5.1 第11条の意味
1.5.2 中国・韓国との関係

2 講和会議
2.1 署名した国

3 日本国内の経緯
3.1 会議前
3.2 会議後

4 署名から50年後

5 関連項目

6 外部リンク


1. 内容・解釈等

1-1 要旨
日本と連合国との戦争状態の終了(第1条 (a) )
日本国民の主権の回復(第1条 (b) )
日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権限及び請求権の放棄(第2条 (a) )
(英文では“Japan, recognizing the independence of Korea”なので、“独立を承認”ではなく“独立を認識”が妥当と考えられるという少数意見も存在する。しかしその独立はポツダム宣言の受諾日1945年8月9日では無い。詳細ラスク書簡。)
日本の台湾・澎湖諸島の権利、権限及び請求権の放棄(第2条 (b) )
主権を持っていた千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条 (c) )
南洋諸島の権利、権限及び請求権の放棄(第2条 (d) (f) )
南西諸島や小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する。(第14条 (a) 1 など)
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾(第11条)
(所謂、東京裁判の判決結果を受諾した)
(英文では“Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan”なので、ここでいう「裁判を受諾」の裁判とは、一般に用いられる意味では“判決を受諾”の意味と解するのが妥当と考えられるという意見も存在する。)

1-2 領土
日本には領土の範囲を決めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。

1-3 いわゆる外地人の日本国籍喪失
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は、当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)により、本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示され、最高裁判所も同旨の解釈を採用した(最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁)。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については、本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である(最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁)。これに対し、千島列島・南樺太は、法体系上は内地であったため権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。

1-4 著作権保護期間の戦時加算(省略・・)

1-5 極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾
各国に承認された外務省訳(条約正文ではない)では第11条の"Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan"を"極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾"と訳した。外務省は"Japan accepts the judgments "を"裁判を受諾"と訳したが、通常"the judgments"は"諸判決"と訳すため、その文意については議論されてきた。"裁判を受諾"では日本語文として意味が不明瞭であるので問題は書き下し方である。以下に表で分類する。"the judgments"を"裁判"と訳すか"諸判決"と訳すかでまず大分類される。
"the judgments"を外務省訳の"裁判"と理解する者にもその"裁判"の語意を"一連の訴訟手続きそのもの"つまり通常我々が"裁判"として使っている語意で受け取るべきという見解と、"裁判"という言葉は法律用語で"判決"を意味するから"判決"と受け取るべきという見解がある。通常の意味の"裁判"の意味で受け取るべきと言う見解では”裁判を受け入れる"と日本語文で書き下し、"裁判"を判決と受け取るべきと言う見解では"結果を受け入れる"と日本語文で書き下す。
“Full sentence”: By Article 11 Japan accepted the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and agreed to carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

"the judgments"を"諸判決"と理解する者にも、外務省訳に敵対する書き下し方とそうでない書き下し方がある。外務省訳の"裁判"を"諸判決"と受け取る者や、穏便にすませようとする者は"結果を受け入れる"と書き下し、そうでなく、外務省訳に異議がある者は"諸判決を受け入れる"と書き下す。

1-5-1 第11条の意味
東京裁判における判決、ないしは、そこにおける事実等の認定をめぐっての解釈に関する争いの中で、この条約の第11条の規定の一部により日本が「東京裁判を受諾」したのだから、その判決ないしは事実認定、ときにはそこから導かれた現在の政治状況等について、日本自身が認めているものと解する主張と、それを否定する主張の対立が見られる。
政府は答弁において、ジャッジメントの訳語については裁判という訳語が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認されていることから、「これはそういうものとして受け止めるしかない」とした上で、「ジャッジメント」には、「ジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれている」としている(第162回国会 外交防衛委員会 第13号 平成17年6月2日(木曜日))。これをもって、政府は事実認定等を含めた裁判全体を受諾したのであるから、裁判の対象となった事項について、東京裁判の事実認定等以外の解釈はできない、などの意味で「東京裁判を受諾」したとし、政府もそれを認めている、と解する見解がある。
これに対する主張としては、国際法においては、講和条約が発効すると占領時に行われた施策の権限が失われることから、何の措置も取らないで日本国との平和条約を発効させると、発効と同時に極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷で下された判決が無効となり、裁判が終わっていない場合は直ちに釈放されることとなるとして、かかる事態を恐れた連合国、とくにイギリスの要求により、日本国との平和条約発効後も刑の執行を続けることと、日本が恩赦を与えることに制限をつけるために設けられた条項が第11条である、と解する見解がある。

1-5-2 中国・韓国との関係
第25条によれば、「第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益を与えるものではない。」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。」とある。
そのため、ここでの「中国」と「朝鮮」が何を指すとしても、第11条が除外されており、また、両国と終結した平和条約にも特別の言及が見られない以上、中国(中華民国及び中華人民共和国)及び朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)との関係で、中国・韓国が、東京裁判、そしてその裁判ないし判決の結果について干渉する権利はないとする主張がある。


2. 講和会議
1951年7月20日、米英共同で、日本を含む全50カ国に招請状を発送。中国に対しては、代表政権についての米英の意見(中華民国か中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして、招請は見送られた。(1952年4月28日、中華民国との間に日華平和条約を調印。1952年8月5日発効。)

8月22日、フランスの要求を容れ、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)にも招請状を発送。
9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にある戦没者追悼記念オペラハウス(War Memorial Opera House)において、全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。インド・ビルマ・ユーゴスラビアは招請に応じなかった。
日本の全権団代表は、首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6名。
9月8日、条約に49カ国が署名し、講和会議は閉幕した。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの共産圏3国は、条約の内容に反対して署名しなかった。

2-1 署名した国
アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カンボジア、カナダ、セイロン(→スリランカ)、チリ、コロンビア(※)、コスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、エルサルバドル、エチオピア、フランス、ギリシャ、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インドネシア(※)、イラン、イラク、ラオス、レバノン、リベリア、ルクセンブルク(※)、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦(→南アフリカ共和国)、イギリス、アメリカ合衆国、ウルグアイ、ベネズエラ、ベトナム、日本
署名順【日本を除きABCD順に署名している】。
※は、署名はしたが批准していない国。
→は署名後、国名が変わった国。
なお、講和会議に続いて、日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地に場所を移して、日米安全保障条約を締結した。この2つの条約をもって日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したと言える。


3. 日本国内の経緯

3-1 会議前
日本国内では、主に左翼陣営が、ソビエト連邦などを含む全面講和を主張した。

3-2 会議後
1951年10月26日 衆議院が締結を承認
1951年11月18日 参議院が締結を承認、内閣が条約を批准
1951年11月28日 アメリカ合衆国政府に批准書を寄託
1952年4月28日 日本標準時で午後10時30分(アメリカ合衆国東部標準時で午前8時30分)に条約が発効
この後、日本は、この条約を締結しなかった国々と個別の平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、北方領土問題などを残している。


4. 署名から50年後(省略)

5. 関連項目(省略)

6. 外部リンク
日本国との平和条約(中野文庫)

<ウイキペディア引用、完・・>

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* (前回掲載関連記事:拝啓櫻井よしこ様「ボタンの掛け違い風歴史認識の延長線上か」は、こちらから入れます・・)

あっぱれ、小泉純一郎君!「いざ往かん、靖国へ・・・」

2006-08-11 19:33:05 | 教養・文化・歴史
昨日のTV報道にて、何と、小泉首相は、ことのほか声を荒げて明言した!
「この夏、靖国神社に参拝する!」
と、、、。

我輩は安堵した、そして勇気を持った。

小泉首相は、これで立派な日本国宰相の一人として「日本国歴代総理名簿」に名を連ねる。もって、小泉純一郎の「名」は、我国の政治の歴史に刻み込まれるであろう。
感無量である!
そう、
我国NIPON!まだまだ大丈夫・・・
我国の将来、まだまだ見捨てたものではない。
と、確信した。

我国マスコミの偏見報道に対し、毅然として、凛として、政治公約を実行する意思を、前もって明らかにした。シナ共産国家とそれを支持する我国マスコミの亡国論風屁理屈は、もう聞き飽きた!!!!

何という凛々しい姿勢か、これぞ日本宰相の「あるべき姿」なり、、。

この姿勢、現在の我が国の、もっとも欠如した「政治姿勢」を補完して余りあるものか。

靖国参拝は、理屈ではない。

「小泉首相におかれては、きたる8月15日には是非とも靖国参拝を実行してほしい!」と、ご賛同下さる方、是非下記のバーをクリックいただきたい!

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歴史分析を「虹と水滴」に喩えるは?渡部昇一先生的「心眼」か!

2006-08-10 19:35:15 | 教養・文化・歴史
 まずは「虹」と「富士山」の話をしてみたい。
「・・・・!」
「歴史というものは虹のようなものである。それは近くによって、詳しく見れば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉に過ぎない」
この文章にぶつかった時、私はそれまで歴史というものに関してなんとなくもやもやしていたものが一挙に整理され、分かったような気がした。
(上記、3行~6行目まで、渡部昇一先生から、引用・・)

なんと、羽田空港から、わが国のシンボル富士山がくっきりと見えた経験があるのを、思い出した。
数年前のお正月のさなか、羽田空港の滑走路から飛行機に搭乗するときのこと。
「滑走路から航空機に搭乗?きょうび、ジェット機の搭乗はゲートから直接機体に密着するジャバラを通って機内に乗り込むのでは?」
「・・・?!」
「滑走路から飛行機に乗る?」なんて、たぶん前時代的な表現である。しかし、我輩の郷里のローカル空港に向け出立する航路はマイナーにて、ターミナルゲートも端っこの端っこ。搭乗案内の放送を聞くやいなや、乗客は数台のバスに分乗し、エプロン(駐機場)に並み居る大小さまざまなジェット機の機体と機体、主翼と主翼の隙間を潜り抜けつつ、さらにまたエプロンの端っこに駐機してあるジェット機の傍まで走ること、約5~6分。
たぶん、元旦から2~3日間、都心とその界隈の交通量の激減にあわせ、いつもの澱んだ東京都心の空気は、年末年始数日の間に少しばかり、本来あるべき自然の清浄?正常?な状態に戻っていたのであろう。
葛飾北斎の絵画の中、日本橋と富士山の組み合わせ?
そう、江戸のど真ん中から富士山の見える「確証」を、初めてつかんだのはその時であった。

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飛行機といえば、台湾からの戻り(広島行き)に、逆光の夕日で赤く照らされ黒潰しシルエット状態になった(長崎沖の)夕暮れ時、茜色の西の空のもと、五島列島の島影と東シナ海の穏やかな洋上を、左手に見ながら帰った記憶あり。はたまたシンガポールから夜行便で関西空港に向かう帰路には、沖縄上空あたりから夜は白みはじめ、午前5時頃?に四国沖を通過する。晴れていれば!という、条件付。(なだらかな中国山地と比較し)いかにも山懐深く緑多き四国の山並みと、地図上では到底確認できない四国太平洋側の複雑な海岸線の傍を通る海は、いかにも黒潮をたたえているごとくに海黒く、太平洋に流れ出でる土佐の高知四万十川も、確認。その後わずか数分すれば、見る見る飛行高度を下げて淡路島上空に至り、ジェットエンジンの回転数を落としつつ飛行高度を緩やかに下げ、少しばかり行き過ぎて、すでに和歌山市上空か。堺市あたりの上空からは見る見る地上が近くなり、航空母艦に滑りこむように、海上に浮かんだ関西空港に着陸する。
ヨーロッパ線の記憶もある。
夏場に限るのであるが、ちょうど昼にオランダのアムステルダムを発つと、約1時間30分(あるいは2時間近くか?)後には、ロシアの古い都サントペテルブルグの上空に達する。すでに夕刻となる。地球の自転に逆らうから、時間経過はめっぽう早い。スウェーデンやフィンランドの海岸線からロシア西北部などなど、バルティック海の事細かな情景を目視できるから、楽しくて面白い。
もちろん、何度も何度も夏のシベリア大陸も目視しながら緩々と且つ確実に、地球の表面を移動しているのを逆目視(ぎゃくもくし)し、体感し、実感した経験を思い出す。
ジェット機の窓から観る夜の北京上空は、圧巻である。漆黒の空間の中、橙色の光りに取巻かれ、かの橙色の一郭にある(はずの)紫禁城のその時の有り体を、勝手に想像するは幻想的か。
太平洋上の無数の入道雲は高度1万メーターには届かず、白い碁石模様の入道雲を眼下に見下ろしながら太平洋洋上を航行するハワイ航路などなど、、、。思い出は尽きなく、合わせて各種世界地図的航空動画は、今尚、我が瞼に焼き付き、動く立体鳥瞰図として記憶の引き出しに入っている。
地球は丸く、且つ一年かけて太陽の周りを一周し、一日に一回、一年間で365回自転しているという実感を、何度も何度も体感した。

話を本筋に戻す。
我輩は今、我国の近世近代現代の歴史に興味を持っている。もちろん、自分の専門分野ではないし、事前の知識は浅い。しかし一旦興味を持ったなら、ある程度は突っ込んでみたい。今、靖国問題に端を発し、1945年を境とした第二次世界大戦前後の我国の史実の認識に、没頭している。手元資料は限られているものの、しかし、片寄った資料ではない。すでに年表順次確認的な世界史の知識はある。いかにも世界の歴史の中の日本の歴史をみていかないと、「事」を誤る。加えて、可能な限り高所高見から「日本」を見てみたい気持ちは、十二分に持ち合わせている。
そんな時、渡部昇一先生の一冊を、思い出した。取り出してみた。そして本日、本シリーズの確信から、少し距離をおきたい。
渡部先生の著書「日本史快読」の中から抜粋し、あらためて我が目視と精神的審眼の「正常なる距離感覚」を取り戻しておきたい。

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以下、渡部先生の一冊より、抜粋・・

渡部昇一の日本史快読!

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「歴史というものは虹のようなものである。それは近くによって、詳しく見れば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉に過ぎない」
この文章にぶつかった時、私はそれまで歴史と言うものに関してなんとなくもやもやしていたものが一挙に整理され、分かったような気がした。
 自分の国の歴史を書くことは、弁護士が自分の依頼人のための弁論をするようなものである。そこに虚偽があってはならないが、「言い分」の筋は通さねばならない。各国にはそれぞれの「国史」があって、それぞれの国の「言い分」があってよい。
 戦後に日本は、相手側の言い分だけを尊重し、自分の依頼人(クライアント)の言い分を故意に無視する弁護士みたいな歴史家が横行し、しかも、それが公平な史観であるかのごとく錯覚した時代である。そんな事件・発言が毎年のごとく起こってきた。
 弁護士が自分の依頼人の言い分を無視して、相手側と通じ、その言い分に有利な発言をすれば、それは刑事的犯罪であり、弁護士資格は褫奪(ちだつ)される。つまり取り上げられる。敗戦後の日本の歴史家には、弁護士資格を取り上げられてしかるべきであるような人が少なくなかった。
 -------------------------------------------------
虹は、見る人から一定の距離と角度を置いた時に初めて、明瞭に見える。逆にいえば、その距離と角度が適当でなければ虹は見えない、ということである。同じ時間に空を見ていながら虹を見なかったという人は、いた場所が悪かったか、あるいは虹に近すぎたからにほかならない。
それでは、歴史に於ける水玉というのは個々の資料や個々の歴史事実といったものであろう。だが、こういった歴史的事実を集めてみても、その観察者の立っている場所が悪ければ、歴史の事実は一向に見えてこないのである。
見る側の人間がいなければ、虹と同様で「歴史」は存在しない。いわゆる客観的なものは個々の「史実」だけであり、それはあくまでも虹における水滴のごときものである。たとえば、この前の戦争、すなわち第二次世界大戦の歴史を考えてみれば分かるであろう。
 -------------------------------------------------
第二次世界大戦に関しては、その虹の水玉一滴一滴を全て数えられるほどに、私たちは情報を持っている。参戦国の政策決定に関する内部文章、当時の政権担当者たちの詳細な日記、新聞・雑誌の記事、さらに死んでいった兵士達の遺言までが出版され、容易に入手する事ができる。読者の中にも、そのような精細な記録の一部を読まれた方は多いであろう。
もちろん、そういった記録を読めば、あの戦争が如何に日本にとって勝ち目のないものであったかは、誰の目にもよく分かる。また、勝ち目のない戦争を指導していた当時の軍部は政府がいかに無能な集団であったかも、同じ日本人として一種、歯がゆいくらいの思いがするほど、よく分かるのである。
だが、そのような記録を読めば読むほど、「なぜ日本人全体が、あのような勝ち目のない戦争に平気で突入したか」という疑問ばかりが湧いてきてしまうのは、どうしてであろうか。そして、この疑問に答えてくれる専門家はなぜ少ないのであろうか。
もちろん、「あの当時の日本人はバカの寄せ集めだったから、無謀な戦争を始めたのだ」と単純に決めつけて満足していた人が終戦後多かったのは、よく知っている。また、そういう決め付けに終始するような“歴史書”も、たくさんある。
しかし、そのような単純な結論では問題の解決にならないことは、だれにでも分かる事だ。第一、そんなに「バカな日本人」なら、どうして戦後わずか十数年で経済や技術などの重要な面で世界のトップに立つような奇跡をなしとげられるというのか。それとも、終戦を境に、日本人はまったく別の民族になってしまったのか。
それは、おとぎ話としては面白いかもしれないが、理性的な結論とはいえないであろう。やはり、日本がなぜ戦争に突入したのかに関して、今日のわれわれが納得できる説明が必要なのであり、それが歴史における虹を見せるということではないのだろうか。
そして、これは“水玉”を一生懸命に見つめていたところで、答えが出てくるというものでもないだろう。なぜなら、この問題に関しては、少なくとも明治維新から現代に至るまでの日本史と世界史を見通さねば、答えは分からないと思えるからである。(この問題に関する私なりの答えは、後章できちんと述べるつもりである)。
繰り返すが、いくら歴史的事実を山のように積んでみても、全体像としての歴史、つまり“虹”はなにも見えてはこない。やはり、距離と角度が必要なのだ。
(以上、抜粋引用・了)
『日本史快読』渡部昇一著2003年9月20日初版より、前書きと序章「日本という虹を見よ」を抜粋したものである。
 ご存知、渡部昇一先生は英語学者にて今尚上智大学の名誉教授であらせられる。なんと今、「文明評論家」とも評価されているから世の中は面白い。さて我輩、渡部昇一先生とは(直接の師弟関係はないものの)現存される学者の中、数少ない尊敬に値する師であり、師と称するに値する人物である。以って学問としての英語学の師にとどまらず、教養人としての人生の先輩であり先生であると信じている。

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ちなみに、高度1万メートル前後を航行するジェット機の窓から「虹を見た」記憶は、思い出せない・・・

<添付画像>:衛星画像技術について(こちらから入れます)

拝啓櫻井よしこ様・続編「昭和天皇ご発言メモ」によせて(2/5)-(2)戦陣訓を読む・・・

2006-08-08 23:22:40 | 教養・文化・歴史
本日、さっそく『戦陣訓』より以下引用する。
「戦陣訓 本訓 其の二 第八 名を惜しむ」より、
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

まず、
(私論にて)上述戦陣訓の一節を以って「武士道精神」の片鱗を視る。
当時、日本人全員により何らの抵抗なく支持され日本人の持つ誇りと潔さの象徴として受け入れられた「文言」なり。と、断言したい。
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さて本日、なぜに「戦陣訓」の一節を引き抜いてきたか?その理由をご説明したい。
先の拙ブログ記事、
『拝啓櫻井よしこ様「昭和天皇ご発言メモ騒動の顛末は」(2/5)今尚ボタンの掛け違い的自虐外交史観か・・』(先回掲載記事はこちらか入れます・・)にお寄せいただいた読者コメントの中、上述戦陣訓について触れられたと思えるコメントを頂いたので、まずは以下に抜粋する。

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Unknown (さむそん) 2006-07-30 12:19:29
侵略戦争か自衛戦争かなどといった論点よりも、祖父が英霊として祀られている遺族のひとりとして思うのは、戦犯として裁かれた者の中に「捕虜になるくらいなら自決しろ」といったメンタリティを推進していた者が確かにいたことである。そうして無駄死にしていった多くの英霊たちのことを想われたに違いない、今回の天皇陛下のメモ。
私は他国に干渉されることなく、靖国問題は自国で討議し、A級戦犯分祀を強く望んでいます。
櫻井よしこ氏の主張は今回の件においては全く破綻しており哀れな印象を私に抱かせていることも追記させてください。
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前回記事に記している通り、
本シリーズ投稿の趣旨は、「昭和天皇ご発言メモ」に端を発する「靖国参拝是非の問題」から「A級戦犯分祀の賛否」、別追悼施設の必要性の問題。シナ共産国政府と韓国政府からの内政干渉的指摘の数々、それを得意げに報道する亡国論的マスコミ各社の無責任さを指摘しつつ、靖国問題且つA級戦犯問題先の発端となった「東京裁判の歴史観」からさらに遡り、負け戦となった大東亜戦争を称して「侵略戦争」ではなく当時日本国に於ける「経済圏防衛且つ国家の存続を目指す自衛戦争」であったと位置付けしたく、関連する論拠を組み立てるを目的とする。そのために我国近代歴史を紐解き独学自習しようとする最中、上記載のコメントを頂いた。
 初めて送られた見知らぬ第3者からのコメントである。コメント欄で論争するにも半端であり、いっそ(コメントにてお断りし)削除に及ぼうとも考えたが、実は我輩自身、かの有名な「戦陣訓」の全文に遭遇したことなく、
まず第一に、自分自身、戦陣訓全文に目を通したく、
第二に、上記「さむそん氏」の論には全面的に反論いたしたく、
まずは、その原因となる全文(戦陣訓の全文)を(以下に)掲載する。
 
 本日記事冒頭に述べたとおり、戦陣訓の有無にかかわらず、現在の我々の常識的ものさしでは推し量れない精神的感度にて、兵士は捕虜になることに恐怖を感じていたに違いなく、かの戦陣訓の云わんとする精神内容とは違った感性にて、すなわち捕虜になることの恥ずかしさ以前に、自殺の苦痛よりも捕虜になれば間違いなく虐待暴行拷問等の恐怖が待ち受けていたと「信じ込んでいた」兵士や当時の外国生活をしていた一般国民が存在していたに他ならない。と、想像をするのである。
 また、戦陣訓に目を通してみれば、将に、昭和のあの時期に想定できうる限りの「美しき武士道精神」を文言にし、兵士の精神的紀律を意図したものに他ならないと考える。日本の伝統的武士道精神にも、平安時代から鎌倉時代へ、室町時代から戦国時代へ、戦国時代から江戸時代、江戸時代も初期と末期では多いに変化しているはず。要するに同じ武士の精神模範といえども、その時代時代により隔たり異なるはず。さらには下級武士と上級武士によって違いはあろう。時代は明治維新へ向かって士族は一旦消滅。代わって召集兵なるものが軍隊の中核をなすものの、武士道精神を嗜好する志は存続していたと考える。しかし全国津々浦々より召集兵として駆集められた一般国民において「戦陣訓」を十分に理解し、四六時中戦陣訓に記載された事項の精神構造を維持全うするなど、至難の業且つ不可能であったに違いない。しかし、一部将校下士官の中には、上述戦陣訓を捻じ曲げて解釈し、最前線における敗戦必死の土壇場で捕虜になることを否定し、兵士を無理やり「死に追いやったケース」、乃至、サイパン島や沖縄戦に於いて一般市民を巻き込んだケースもある。当時、サイパン島には多数の民間人は存在し、兵士と共に生活基盤を形成していた。太平洋上の絶海の孤島に於いて、米海軍の強襲を受けた場合、民間人と兵士を区分しながら戦を遂行するなど、米軍に於いても日本陸軍に於いても物理的に不可能であったはず。加えて、多くの民間人は自国の兵士と共に戦う事を望んだはず。沖縄戦の場合は、また違った戦の様相を呈し、日本本土決戦さながらの様相であったに違いない。
欧州戦線にして然り、シナ大陸戦線にして然り、満州に於けるソ連軍の条約違反を前提に日本将兵及び民間人に対する虐待然り、多くの最前線で「戦陣訓」に乗っ取らない要因で自決した将兵及び民間人は多く存在したはず。
おしなべて「死して奉公する精神」など、全く以って希薄であったかもしれない。

落城直前の、城主乃至上級武士による「切腹」に及ぶ境地。そしてその精神的意義、我輩には理解できる。理解できるから「戦陣訓」も理解できるし(自ら死を選ぶ!こと、実践するを前提として)受け入れられる。しかし人様々にて、自決を拒み俘虜となるを望む将兵や民間人も多く存在したはず。したがって投降した兵士、自決前に救助された民間人の数もあまた多く存在するのも現実である。
もって、「戦陣訓」の影響力拘束力に関しては、後の世の人間が添加した無用なこじつけ屁理屈と判断する。

かくして、A級戦犯の何某をして上述「戦陣訓」を戦場の兵士に適用し無駄死させた張本人とし非難中傷の挙句、60数年経った今からでも、靖国神社から分祀までして、祀られた英霊に制裁を加えようとするか?
となると、我輩の精神的思考可能な範疇から逸脱してしまう。
今尚靖国神社に祀られて居られる御祖父も、このような暴言と暴挙の企てをお聞きになれば、さぞかしお嘆きになるであろう。
我が日本国の存続する限り未来永劫において、分祀は、いかにも不必要である。
もって我輩には、本件(戦陣訓と戦争指導者の責任問題)に関するこれ以上の論争議論を必要としない。

加えて、
このコメントのくくりとして、
「昭和天皇ご発言メモ」の拙ブログ記事投稿日時から逆算して、コメントの括りに「櫻井女史」の非難中傷をこういった文言でなさるはお門違いも甚だしく、櫻井女史のジャーナリズム姿勢と論旨は、この10年間を切り取ってみても「論旨論調」一切!ブレる事など皆無にて、基本姿勢を崩された論旨を喋ったり書き記された事など、一切見当たらない。櫻井女史は一貫して「国を愛し、正しい歴史認識の必要性」を説いてこられた。櫻井女史の論文をある程度通して読破した人物ならば、このような発言はしないはず。コメント最後の文言、誰か他のジャーナリストとお間違えなのだろうか、あるいは桜井女史の本を一冊も読んでいないか、もともと桜井女史の論旨をご理解なさらない超亡国論者なる御仁か?そのいずれかであろう。

 <シリーズ、続く・・>(8月14日投稿記事、こちらから入れます

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「戦陣訓について」(ウイキペディア百科事典より抜粋)
戦陣訓
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戦陣訓(せんじんくん)は、1941年(昭和16年)1月8日、当時の陸軍大臣・東条英機が示達した、陸軍軍人としてとるべき行動規範を示した文書。島崎藤村が文案作成時に参画した。

敵の捕虜となることを戒める本訓其の二第八「名を惜しむ」の「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が特に有名であるが、反面、占領地住民に関して「仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」との注意もあった。

太平洋戦争中の日本陸軍兵士の行動を強く支配し、捕虜になる事を拒否しての投降呼びかけ無視・おびただしい集団自決、沖縄戦における住民虐殺や敵軍の捕虜への虐待などを引き起こす原因となったとの説もある一方で、陸軍で小隊長を務めていた経験のある司馬遼太郎が「そんなものがある位の事は知っていたが、特に意識もしなかったし、暗誦させられたこともなかった」とエッセイで語ったように、実際にどれほどの拘束力があったのかは不明とする見方もある。ただし、太平洋戦争を通じて日本軍が組織的な降伏を行ったことは皆無であり、この戦陣訓が守られていたこと自体は事実であると言える。

内容から、葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一節と混合されるケースがあるが、この一節は「自身の死を意識して常に真剣に生きる」と言う意味であり、「生きて虜囚の辱めを受けず」とは意味が違う。
その構成は以下の通り。


本訓 其の一
第一 皇国
第二 皇軍
第三 皇紀
第四 団結
第五 協同
第六 攻撃精神
第七 必勝の信念
本訓 其の二
第一 敬神
第二 孝道
第三 敬礼挙措
第四 戦友道
第五 率先躬行
第六 責任
第七 生死観
第八 名を惜しむ
第九 質実剛健
第十 清廉潔白
本訓 其の三
第一 戦陣の戒
第二 戦陣の嗜


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「自由文庫」戦陣訓より引用

陸軍省

 夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいづ)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘竝に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本(たいほん)を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

本訓 其の一

第一 皇国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。

第二 皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現(げん)ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。

第三 皇紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

第四 団結
 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥(あつ)き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心(まごころ)を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

第五 協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

第六 攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。
 勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

第七 必勝の信念
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。


本訓 其の二

第一 敬神
 神霊上に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

第二 孝道
 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

第三 敬礼挙措
 敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
 礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。

第四 戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

第五 率先躬行
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。
 戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

第六 責任
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

第七 生死観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第八 名を惜しむ
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

第九 質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

第十 清廉潔白
 清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争(いか)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。


本訓 其の三

第一 戦陣の戒

 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警(いまし)めざるべからず。
 敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。

 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。

 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。
 哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。

 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。

 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。

 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初(かりそめ)にも身を罪科に曝すこと勿れ。

第二 戦陣の嗜

 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。

 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
 屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。

 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(ばひつ)を愛護せよ。

 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。

 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
 他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
 国際の儀礼亦軽んずべからず。

 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。


 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
 戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢(ぬき)んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。

(陸軍省、昭和16年1月)

(「自由文庫」より引用)
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<添付画像>『サイパン島同胞臣節を全うす』藤田嗣治
藤田嗣治画伯についての解説、
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita, 男性, 1886年11月27日 ? 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスパリにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
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