Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵
志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート
 




期待していない、諦めていた日誌、発見!  …驚きました。

歴史ファンタジー小説執筆中のトーマスにとって、最大にして最高の発見がありました。

それは、
満洲國鞍山市における、鞍山日蓮宗法華寺の過去帳、本照寺第25世住職筧義章師の執筆によるもの。
執筆年度は、昭和7年?~昭和21年。

すなわち、
現在の、第27世本照寺住職筧義就師のお爺様にあたられる日蓮宗僧侶筧義章師の若かりし時代、満洲國鞍山市にてご活躍中の記録、自筆によるもの。東京軍事裁判インド代表判事パール博士の広島市訪問時に秘書兼通訳の重責を担われたA.M.ナイル氏の自伝書籍に記載される史実を裏付ける、最強の証拠史料が発見されました。

発見して下さいましたのは、
現27世本照寺住職・筧義就師。
よく探して下さいました。
ありがとうございます!

これ、
トーマスにとって、
令和元年の最大にして最高の贈り物です。
さあ、
がんばって執筆継続します。

   <投稿:トーマス青木>


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<添付画像>『大聖院さんで一番ハンサムな地蔵尊』
(撮影年月日):平成26年の初秋
(天 候):快晴、秋晴れ  
(撮影場所):広島県廿日市市宮島町大聖院境内
(撮影機材):FUJIFILM X20
(撮影者):トーマス青木


 宮島の大聖院さん本堂は、『波切不動明王』の祀られている勅願堂である。

 その右横の小道を南方向即ち弥山山頂方向に向け約十メーターほど歩くと、進行方向右手に見えてくる異次元風景あり。

 その風景景色とは、大小様々各種の仏像お地蔵さん群像の事。

 さて、
この写真画像の地蔵尊様、お名前が思い出せない。

 でも、
ひときわ目だつ『ハンサムな地蔵尊』・・・

 あの当時、この地蔵尊から、いろいろと、知恵と元気と勇気を与えて頂いた。

 感謝、、、。

 令和の時代になって、初の秋、あらためて、またお礼に参上します。
 


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『添付画像』:<南満州鉄道会社 (South Manchuria Railway Co.) 集客用宣伝.ポスター>
(昭和10年頃制作)満州鉄道の利用を喚起する旅行宣伝ポスターです。クオリティーの高い作品だと思います。


お待たせしました!

未だ推敲途中なのですが、来春(令和2年正月)発刊予定の書籍、

 題して『追憶・大亜細亜の奇石』(仮題)

 その『まえがき』(案)のご紹介です。

明治以降、昭和初期の時代から平成まで、めまぐるしい日本近世歴史のなか、間違った解釈をされたまま、令和の次世代に語り継がれることの無いよう、不肖トーマス青木の歴史解釈を語る一冊。ファンタジックな歴史小説として面白く語りながら、その実、真面目に描き切ってみたいと思います。

本日は(ファンタジック以前の)真面目で少し硬い前書き(案)をご紹介します。


   ------------------

『追憶・大亜細亜の奇石』(仮題)


  ー まえがき -

 (碑文の文言によせて)


東京軍事裁判インド代表判事パール博士の石碑がある。それは、広島市中区小町の本照寺境内にある。

さて、
一体全体、

石碑を建立した人は? (Who made it?)
(誰が、いかなる経緯で、パール博士の石碑を建立したか?)

碑文を書いたのは誰か? (By whom was written it?)
(何の目的で、いかなる経緯で、お書きになったか?)

何故にこの碑文なのか? (What is the purpose?)
(一体全体、何の目的をもって書いたか?)

 いつ頃、この碑文の文章は書かれたのか? (When this poem was written?)
 (原爆投下後、いつ頃書かれたものか?石碑に刻まれた文言の中には、それぞれの文章を揮毫した年月日がある。その日時の意味するところは、何なのか?)


 あれこれ考えていると、日本を取り巻く大アジアの歴史が流れ往く四次元の空間が見えてくる。
 事の始まりは、どうやら日露戦争の終りの頃からか、昭和に入り、満洲國の建国を境にインドをはじめとするアジア諸地域で独立運動が芽生え、活発になる。その活動拠点が新興国家の満洲國となる。インド人独立運動の活動家ナイル氏と、宗教家である本照寺先々代住職の筧義章(かけいぎしょう)氏との出会いがある。膨大な第二次世界大戦の荒波を乗り越えつつ日本の敗け戦さとなり、ポツダム宣言受諾前の原爆投下あり、終戦を向かえる。
 明治の中頃日清日露戦争の時代から、昭和20年の終戦まで。戦後の復興から、今日に至るまで、四次元を突っ走る時空移動超特急に乗車し、日本近代史を駆け巡ってみたい。

 さあ、歴史探訪の旅へ、出発しよう。

 少し遠回りしながら、パール博士碑文に至るまでのアジア大陸に関わる日本の、近代歴史的背景を解きほぐしつつ、上述の疑問の答えを探り当てる、、、。

 〆て、
 世界平和を謳う仏教世界の在り方を将来世代に投げかけ、求めるもの必要なものを探り、後世に繋ぎたく、本書の目的としたい。   



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 もっと早くから取り組んでおけばよかった。

 言い訳がましいけれど、不肖トーマス青木の自負するところ、あり。
 若かりし頃から
 いろんなものに興味を持ち、手に持って、触って、耳で聞いて、両目で視て、

 そう、
 物理的に感じ、
 食して味を感じ、
 化学的に理解しようと試み、
 さらに音楽を聴き絵画を視て捉えWatch & Recognizeし、それを総合して精神的に捉え理解Understandし、そのような作業をたえまなく継続して、且つ貪欲に、我が身心に取り込んだ、と思い込んでいた。

 つまり、
 やりたいことは全部やった。それなりの時間をかけて、許せるだけのお金かけて、肉体を駆使して、試してみた。
 好き放題やってきた。

 ところがこの年齢になって、何か、もう一つ、それ以外のものが、欲しくなった。 自分自身の範疇に取り込みたくなった。心身を打ち込みたくなった。

 それは、
 物欲でも 食欲でも 肉欲でもない。

 精神的に捉えることの可能な知的な欲望が大きくなってしかたがない。

 それは、
 その対象は一体全体何なのか?自問自答した。


 そして、
・・・答えが、出た。


 あらためて宗教世界に接することである。 ということが、解った。

 宗教世界と云うと大げさなので、
              自己満足的哲学と言い換える。


 では、当面、

 何をするか?
  何に取り組むか?
   と問われれば、答えは一つ、、、

 我が菩提寺と自分自身の関りを『小歴史』として振返って整理し、
 
 お寺に存在する『東京裁判インド代表判事パール博士慰霊碑』に焦点をあて、
 
  将来に向けて『お寺と自分』とは一体全体何なのか?
 
 について整理整頓し
                『お寺と自分・未来へ向って』と題し(仮題)、
  
  令和元年(2019年)師走迄に原稿を書き上げ、

 来春(令和二年 / 2020年)早々に書籍発刊し、

         『読み伝えられる本』として 未来に繋ぎたく思っています。


  (投稿:トーマス青木)


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『コケシ好きなカナダ人女性』(添付画像)
撮影日時:2014年9月初旬
撮影場所:世界遺産宮島・大聖院境内にて
撮影機材:FUJIFILM‐X20
撮影者:トーマス青木

 スタートしたのは10年前?

 長きにわたってお世話になった大聖院さんでの出来事 、、、

 コラム『大聖院さん日録』にしたためる段取りでいたけれど、やはり日記的に日々乃至毎週投稿するのは不可能に近いくらい(この5~6年間のトーマスにとっては)大作業だったから、放っていた。

さて、
 自分にとっての宮島プロジェクトが一段落した今日この頃、画像ファイルを捲れば膨大な量の物理的記録があり、あれこれ想い出を辿れば、書きたいことが山ほどある。

 今から、追憶的に少しずつ、回想しながら写真投稿していきたいと思い、、、

 本日はとりあえず、2014年9月上旬にFacebook投稿したエッセイと画像を掲載します。 その頃は、元気で気合入っていた。いささか長いけれどトーマス青木的メリハリのある日記風エッセイを、gooブログに書き留めたく、、、、(一気に、通読してみて下さい)


  \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\


        
    


   【以下、Facebook投稿(2013年9月初旬)分の引用転載】

予想していた以上に、9月の声を聞いた途端に外国人旅行者の絶対数が激減する。そんな中、9月2日の午後早い時間にひょっこりと、船ともつかぬ航空機ともつかぬはっきりしない交通手段で中期(1ヶ月半)旅行中のカナダ人女性がお見えになる。30分以上も店先で「ああでもない、こおでもない……」と、
ご自分の自己紹介ともつかぬ故郷カナダの紹介ともつかぬ全くの無駄話を挟まれつつ、
「アンティークコケシのメンテナンスに、カナダ中部の乾燥した空気が良いのかよくないのか?」等々、
さらにはコケシの歴史的経緯の質問から、コケシ自体の顔立ちやスガタカタチの好き嫌いを、トーマス青木めにご質問なさる。
いよいよコケシ2体お買上げ決定するかと思いきや、「もう少し考えてから決めます。ちょっといまから大聖院さん一回りしてお大師堂まで行って戻ってきます」と、一旦決定するかと思った商品を「予約しますから、他のお客様がお見えになっても売らないでおいて下さい……」等々お申し付けになっていったん店から離脱された。入れ替わりに小グループでお見えになったドイツ人男性が立ち寄られる。同行していた日本人の男女(素人)通訳が、「コケシとは、『子供を消す』乃ち間引く堕胎するという意味に繋がる」とかなんとかかんとか、上手な?ドイツ語で下手且つ無用な!薀蓄並べたて、ろくでもない翻訳通訳をやるモノだから(時々商売に繋がらない逆宣伝をしてくれる日本人ガイド多々あり、また別にお話します)ドイツ人男性はたちまち商品に興味を失って立ち去り、あっけにとられた日本人女性同行者一人残り、「何だか商品の説明は難しいですね。わずかコケシを巡るだけでも、日本の歴史文化を正しく外国人にお伝えすることの難しさがよくわかりました」等々、不肖トーマス青木のぶっきらぼう且つメリハリあるマジャール訛り英語に任せて暮れればいいものを、要らぬ事をする無粋な日本人の多いこと多いこと、、、。
とかなんとか30分も遣っていたら、カナダ女性が舞い戻られる。
いよいよ薀蓄も極まり、一本友人のお土産用が増えてコケシ3本をお買い求めになる。
年季の入った弓なりに曲がっているクレジットカードをハンドバックからとり出され、おもむろに商品代金をお支払頂いた。
間違いなく、9月はじめの宮島大聖院境内でお過ごしになったひと時を、お楽しみ頂いたに違いありません。
久しぶりに喋くり捲られたカナディアン英語の羅列にご満足頂いたはず。こうしてお話をお聞きするのも仕事の一つ。すなわち『大聖院宮島おかげ市Annex』に出店させて頂いている、重要な目的の一つと心得るのであります。
「お買上げ頂き、たいへんありがとうございます」
てなことで、
これでもって、すてきな『おかげ市Annex』夏季商戦の締めくくりが出来ました。
おっと、すてきなカナダ人女性のお名前をお聞きするのを忘れていました。
(いやお聞きしないことにしていますし、おクレジットカードのお名前など、出来るだけ見ないようにしているのであります……)

(ならば仮名にて)……
「カナダのスージーさん、ありがとうございました。ボンボヤージ……」
……すてきな日本の旅をお楽しみください。





 

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広島市中区の本照寺山門前より、向って右手に建てられている石碑(案内標)です。

 
 東京軍事裁判インド代表判事
 パール博士筆慰霊碑  在當山


            と
              石碑に彫り込まれています。

 場所は、本照寺
 住所は、(〒730‐0041)広島県広島市中区小町7番24号
 連絡先は、
       Tel: 082-241-5758 寺院専用電話
      または、   
       080-3877-0822( 当ブログ管理者(トーマス青木)
      Fax: 082-241-5799 寺院専用ファックス

 
 位置は、広島市内の満々中。
 JR広島駅南口から(タクシーにて)約10分。(朝夕のラッシュアワー時になると約20分)
 そのほか目標(ランドマーク)、三井ガーデンホテル広島から、平和大通りを挟んで、ちょうど南側対面に位置し、ホテル正面入口より徒歩5~7分あれば、本照寺山門に到着します。 




 <『三井ガーデンホテル広島』正面入り口>
 (公式ホームページ『三井ガーデンホテル広島』へは、こちらから入れます・・・)

 三井ガーデンホテル(ホテル建物の南側に在る)のおしゃれな看板を見上げました。

 さあ、三井ガーデンホテル広島から、パール博士碑の在る本照寺へ(徒歩にて)向ってみましょう。 
 



 <三井ガーデンホテル広島>

 平和大通りを横切って、南側側道辺りから、三井ガーデンホテル広島の全容を撮影しました。

 なんともシンプルで美しい建物です。




 <ホテル正面玄関車寄せ>

 一旦、ホテル正面に立ち戻ってご案内。

 あらためて、広島市中区小町の本照寺に向け、出発します。





 <ホテル正面玄関より平和大通方面(南側)を望む>

 車寄せ辺りから、ホテルの正面南側を眺めた風景にて。
 平和大通り建造時に敷設されたグリーンベルトは、この初夏の時期は特に美しく、、、




 <ホテル正面付近、平和大通り緑帯グリーンベルト>

  造園のプロによって美しく整えられ、維持管理されているグリーンベルトを横切ります。

  画像撮った時、見事な炎天下の快晴!
 (令和元年8月7日午前中の撮影に撮影したもの)

 グリーンベルトは、早朝ならば市民の憩いの場? 昼間から夜中にかけては車通行量が多すぎて、ちょいと無理か?

 はたまたいつも混み合っている平和大通りを運転するドライバーの気分を和らげる働きがあるか? 




 <平和大通り北側歩道部分>三井ガーデンホテル正面より平和大通りを横切って北側グリーンベルト>


 広島市によるグリーンベルトの維持管理は経費と人手がかかります。

 かなりの税金を使って、よく整備しています。くわえてきょう日、企業や市民団体を(良い意味で)巻き込んで、グリーンベルトの保全を推進しているようです。 




 <平和大通り北側歩道>(広島三井ガーデンホテル正面入り口の対面付近、比治山方面南側に向いてシャッターを切る)

 広島の『平和大通り』は、通称(地元の人たちからは)『100メーター道路』と呼ばれていて、被爆後焼け野原になった広島市の都市再建を計画した時、大火災からの延焼を防ぐ目的で緩衝地帯を設けるため、市の中心部を東西に横切る大通りを造る計画をした、とのことです。その道路の路幅が(おおよそ)100メーターにされた事から、通称『100メーター道路』と称されています。
 まさに、100年先を見越した素晴らしい都市計画だったといえます。(被爆後の広島都市計画について、あらためて投稿したいと思います・・・)




 <三井ガーデンホテルの四差路南側から、対角線上に『クリスタルビル』(ホテルより西側)を望む>

 平和大通りが敷かれて約70数年も経過。したがってグリーンベルト地帯の樹木の歴史も同じく70年に亘って成長の歴史を重ね、今やほとんどの樹木は大木にまで成長を遂げている。
 こうして、少し距離を置いて各樹木を観れば、灰燼から立ち上がった『復興広島市』の生きた歴史の数ページが窺えます。
 



 <平和大通り沿い南側の道路に、『本照寺』あり>


 ホテルの位置する場所からは、南対面にあたります。

 道路を一本南に入った通りに、『本照寺正門』があります。
 そう、
 平和大通りグリーンベルト側道を、一つ南に下りますと、その辺りから進行方向左手前方に『本照寺本堂の屋根が見えてきます。

 
 

 <本照寺境内の北側にある歩道>

 この道路は、本照寺北側の歩道です。画像は、境内脇の壁を右手に見て、東側方向(山門方向)に向け、シャッターを切っています。
 この位置から徒歩30秒以内にて、山門に到着します。


 以上、

 三井ガーデンホテル広島正門入口付近から(撮影なしに)ゆっくりと歩いて約7分、(平和大通りの信号待ちの時間を含めても10分以内)本照寺山門(正面入口)に到着します。


     <投稿:トーマス青木>



 <追伸>:
 昼間であれば、山門は解放されており、(現在のところ)ご自由に『在本照寺パール博士碑』の参詣見学を行って頂けます。
 尚、団体様(約5名以上)のご訪問ご見学は、事前のご連絡を取って下さるようお勧めします。



 下記、
 関連記事のご案内です。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、(こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、(こちらから入れます・・・

  総括編『パール博士碑と広島市中区本照寺(3)』へ、 (こちらから入れます・・・
 


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「添付画像」本照寺の本堂(令和元年8月上旬、撮影)、、、


 毎年8月5日になると、広島市中区小町本照寺にて盂蘭盆施餓鬼会の為、早朝からお参りに行く。当山(本照寺)には少なくとも年間4回の行事あり、本堂入り口の斜め前に位置するパール博士関連の石碑はその度に礼拝し、その存在には慣れ親しんでいるにもかかわらずこの数年間、境内に入る度に、気になって仕方のない「とある事柄」を思い出す。



 それはトーマス青木自身のこと、あまりにも中途半端過ぎ(卑怯にも)忘れてしまおうとした事案を握ったままにしていることを思い出すからストレスが溜り続けていたのだ。
 先週末、とある方に相談し、アドバイスを頂き、ようやく前に進む意欲がわいてきました。

 たいへんありがとうございます。

 そして、本日(令和元年8月21日)、関連ブログ記事を更新できました。



    ~~~~~~ 以下、<本日本文> ~~~~~~

 あれから5年以上にもなるか、、、
 連載投稿の執筆が途切れてしまったままになっている『大亜細亜悲願の碑(1)~(2)』副題(東京軍事裁判判事パール博士のこと)につき、当ブログに記事掲載したのは下記の通り、2013年10月3日付にて第2巻目を記事掲載してのち5年11ヶ月間も放り投げたまま中断しているのだから、みっともなさ過ぎる。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、こちらから入れます・・・

 放り投げていた理由は?
 言い訳にも出来ない、かなり大きな「中断の理由」がニつあった。

 第一に、投稿始めた年2013年の12月、我が実弟、急死する。以後数年間に亘り若干寺関係との問題あって我が人生の道すがら、予想外の多忙を極めたこと。

 第二に、投稿の為、聞き取り調査をお願いしていた当時(2013年10月)の住職様が、急に(3年前?に)お亡くなりになってしまい、トーマスには十分な聞き取りが叶わず、作業中断していたこと。


 さて、
 こうして放り投げていた「本照寺における『パール博士碑』の建立されている経緯」に関し、トーマス青木自身と本照寺の関係から判明しいている基本情報と、この度聞取った断片新情報をかき集めてみれば、極僅か、以下のようになる。

 本照寺境内に於けるパール博士石碑建立のきっかけは如何か。戦前(1945年以前)の独立国家だった満州国と、英国に対して独立を求めていたインドとの、政治運動風架け橋(橋渡し)的な絆を携えておられたキーパーソンが(今となっては先々代となられる)本照寺住職であったとの事が、石碑建立の理由である。と思われる。

 1945年夏、先の大戦に於いて敗戦の憂き目に遭遇し、満州を追われた当時の日本人は全員引揚者として敗戦日本本土に帰還(引上げの途中、命を落した人々、大多数あり)。当時宗派組織大本山(本部)より、満州国布教を拝命される。(確か、昭和10年に)大陸に渡られた先々代住職が帰還され(昭和21年)配属された勤務先が、何と被爆後の広島本照寺(昭和23年)であったとのこと。戦後も、インド独立運動家と先々代住職との交流は継続し、そのアジトが広島市内の本照寺本堂であったと聞き及ぶ。

 ともあれ先々代住職の存在が大きな要因にて、戦後1957年に建立されたパール博士碑は、日本の敗戦と広島の原子爆弾による被災、パール博士の理念と『東京裁判』のあれこれ、先々代住職の満州国におけるご活躍、等々の絆と絆を手繰り寄せて今日、本照寺境内にある。
 お亡くなりになった先代住職の口述解説のみでは、あまりにも受け取る側トーマス自身の基礎知識が脆弱過ぎた。そのため、基礎知識拡充のため、数冊の書籍を紹介下さり、それを読み進めながら時間をかけてご解説下さる予定だった、と思える。

 となれば、当時簡単に考えていた満州国の国際的背景に関しては、未知なことが多く、5年経った現在、そこはかとなく満数国関連の歴史を知りたく、未知の知識習得に欲が出てしまう。
 広大なアジア諸国(戦前は独立していなかったからアジア地域)とヨーロッパ列強に米国と中国とロシアの政治的立ち位置の比較をフィールドワーク(書籍資料上にて)してみたく、もちろん日本敗戦後の東京軍事裁判の判決等にも、さらに一歩踏み込んで資料整理し、パール博士の周辺(インド独立運動など)にも踏み込んで資料調査し、研究したく思います。

 当ブログの投稿シリーズ記事としては、現時点での結論を得るまでもなく、近未来への発展的思考に転換したく先駆けとして位置させ、この投稿(No.-3)の手仕舞をさせて頂きます。

 〈追伸〉パール博士碑関連記事の続編を発表ます。その内容としては、中区の広島三井ガーデンホテルから中区小町本照寺迄約5分間の道のりを、写真画像で紹介させて頂きます。


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おはようございます。

本日も佳き一日をお過ごしください。


  Good morning and,

Have a nice day,,,



添付画像:定期クルーズ航行中、宮島第三桟橋に寄港直前の『銀河』
撮影日時:令和元年7月4日
撮影場所:広島県廿日市市宮島町
天 候: 梅雨入り特有の天候、超曇天の朝
     お昼前には太陽が顔を出しました、、、
撮影機材: FUJIFILM X10
 Lenz: FUJINON ASPHELICAL LENS Super EBC f=7.1 - 28.4mm 1:2.0 - 2.8


  船上会議あって、貴婦人を想わせる『銀河』に乗船、宮島までのクルージングを楽しんだのは、かれこれ11年前になるか?
 もっと若くて(新しくて)大型で、現代的なスタイルのクルージング船は多々あるけれども、この優雅な老貴婦人こそトーマス青木の大好きな船なのです。
 瀬戸内海クルーズに今なお現役就航中の『銀河』、ご案内はこちらから入れます。



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<添付画像>:JR西広島駅にて臨時停車中の『mizukaze』
(撮影月日)令和元年6月上旬
(撮影場所)JR西広島駅南改札口
(天 候) 曇り
(撮影機材)FUJIFILM X100S
(撮影者) トーマス青木


おはようございます。

本日も佳き一日をお過ごしください。


  Good morning and,

Have a nice day,,,


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我が町の隣に西風新都と称する街が開発されて久しい。
計算すると開発開始は25年前?否、開催が25年前だから開発開始はそれよりも以前!
広島でアジア大会が開催された時に、選手村として開発された地域が発祥の地、だと思います。
すなわち、アジア大会の為に建設された高層建築物が核となって周辺の山間部が切り開かれ、新都市が形成されました。



街の名前は”こころ”。
広島市立大学に修道大学の二大学キャンパスを飲み込む学園都市風にイメージアップされた振興都市化が進んでいる事、そしてアウトレット広島を中心に開発されている街”そらの”も含めて、更なる開発の一途進行している事、あらためて実感しています。

添付画像は、この令和元年の大連休後、あまりにも美しい新緑の中のサツキのウエーブを観賞しに、お隣の街”こころ”迄、わざわざ約10分間のドライブ、行ってきました。




〆て、
他の地方都市に比べ、あまりにも進歩発展の立ち遅れている我が故郷ヒロシマを恥じるトーマス青木なのであります。がこの日、灯台下暗し風老兵的勉強不足且つ平素の視察不足を知り、遠慮なく降り注ぐ初夏の太陽と爽やかな皐月的そよ風を浴びつつ、いつもにない心地よさを感じました。





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