Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

バリ島「第3隠れ家」にて・・

2006-09-30 10:15:15 | インドネシアとバリ島の話
<オリジナル記事>
2005-03-14
「シャワータイム(バリの第3隠れ家にて)」テーマ:苦悩のバリ島


 夕方、サンセット30分前、

 「ビールがほしい!」

 「まず、その前にシャワーをとろうか?」

 「ウム・・・」

なかなか 気ィ~つかってるじゃないの・・・

スミニャック地区「Bali Ayu Hotel」のベッド、足元の位置にしつらえてある「タオルセッティング」・・・

まるで蓮華の花を想わせるバスタオルの折り紙(違う!タオルタタミ?)がアレンジされているのだ。

その真ん中に「花」、ハイビスカス、、

ほとんど日没に近い状態であるけれど、手前から射しこむ「夕日」に照らされた花びらの赤色にご注目いただきたい、、、。夕日のエネルギーが注ぎ込まれ、ハイビスカスの花弁発色は『超真紅』・・・

「それなりに、お洒落に考えるてるよな~・・・」

これ、熱帯地方的発想ではないか!



* 長期滞在向けホテル視察の為、当ホテルには何だかんだと1週間、滞在してしました。続き記事の稿稿します。

不良中年的中期滞在範例?「バリ島の一日」(転載分)

2006-09-29 10:12:25 | インドネシアとバリ島の話
 「インドネシア・ロングステイ(長期滞在)」に関し、昨年春先、一度纏まった記事にしたいと企画していました。
 この度「意」を決して、あらためて「それなりのエッセイ」として連載したいと考えました。
是非連載実行します。
(小説フォワイエ・ポウも書きかけですが、コレはこれとして・・・)
 以って本日、一度掲載した記事を再度掲載します。当記事、2002年度の春先から秋口にかけて約半年間、「例の安宿」に滞在中に、我が郷里における主治医の先生宛メール送信した「日記的メモ書き」記事、、、。
 いささか長文ですが是非ご通読を・・・

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2005-03-11
バリ島・隠れ家の一日
テーマ:苦悩のバリ島

乾季真っ只中の滞在です。

たぶん、一階の部屋は湿気(特に雨季)が多そうです。

わずか10数棟のコテッジの中、私は敢えて、わずか3部屋ほどしかない2階の部屋に2ヶ月近く滞在していました。

風通し良く、10畳程度の適度に日当たりの良いテラスが付いており、その奥の部屋も10畳程度です。
レラスを計算に入れなければ奥の部屋自体、そんなに広くありません。ツインルームですが、シングルベッド一つであれば逆に広く使えると考えました。さっそくホテルのスタッフに作業してもらい、もう一つのシングルベッドをテラスに持ち出し、昼寝用のスペースと訪問者が来た時の自分のソファーとして使用できるよう模様替えしました。正解でした。
昼夜を問わず、このテラスが私の居間であり、完全なプライベートな生活空間に組み込めていました。
コンピューターと携帯電話で、午前中は真面目に仕事をこなす。
室内には、(ホテル内すべての客室に)電話は一切なく、外部(外線)から電話が架かってきた場合まず事務所に架かり、ホテルスタッフがわざわざ客室まで連絡に来た後、滞在客は事務所まで出向き、電話にでる。という、大変複雑な、前時代的な単純人的作業でとり行われる訳ですから、たいていの場合、私の知人は直接私の携帯電話に電話をしてきました。最初は不便に感じましたが、部屋に電話が無いのもいいものです。

さて、私のホテル滞在の行動は、おおむね以下のとおりです。
おおよそ起床は7時半。低血圧ですからなかなか頭脳のエンジンがかからない。
まず、熱いコーヒー、ボトルウオーターをたっぷりとのむ。
この間約20分。
それからシャワーを浴び、着替えを済ませてのったりとカフェに向かい、バリ・コーヒーとトーストにジャムとバターを基本としたコンチネンタルスタイルの朝食をとります。オプションで必ずフレッシュフルーツを注文します。日本円約30円ですが、私の感覚では大変価格的に高いのですが、健康を考え、必ず注文していました。このフルーツ、時として出来損ないの未熟フルツを食べさせられます。ですから、自分で買出しに行ってパパイヤを丸ごと冷蔵庫に入れさせてもらう。朝、必要な量をカットしてもらって、朝食に具していました。さらにはチーズも持ち込み、冷蔵庫に預け、優雅な自分のオリジナル朝食を楽しんでいます。
週一回は必ず、朝食時間に仕事の打ち合わせがあり、そのときは迎えの車でデンパサールかサヌールにでかけてゆき、仕事仲間で朝食を取ります。
それ以外の通常日、特別なアポイントや外出予定がない限り、朝食は約一時間半をかけて、ゆっくりとくつろぎます。その間に読書したり、あるいは仕事の段取りの為にメモ帳やダイアリーなどをチェックしたりしながら、コーヒーは最低3杯くらいおかわり(追加料金なし)します。
場合により、部屋のテラスまで朝食を運んで持ってきてもらい、そのままパソコンに向かって仕事時間に移行することもあります。

昼時間(私の昼時間とは、午後1時過ぎです)になれば、その日の気分により(毎日ではありませんが)はたまた、先のコーヒーショップから冷たい瓶ビールを一本持ってこさせ、食前の一杯を引っ掛ける。私の場合、さしたる「つまみや酒の肴」等、これを一切必要としません。
気分がなごんだ所で近所の屋台店で中食するか?安レストラン(オーストラリア人がよくつかっている)でインドネシア料理を食す。ここのナシゴレンは野菜たっぷり、変な脂っぽさが一切無く、最高です。いつもがら空きですから1時間以上、たっぷり時間をかけてくつろぎます。ホテルに帰ればすでに午後2時過ぎです。
帰ってきてからまたシャワーを浴び、テラスのベッドで昼寝開始となります。
(昼寝の時間、携帯電話が架かってきても出ない事にしています)
二階部屋のテラスを通る快適なそよ風の中、硬めのベッドで一時間半ばかり眠ると、もう気分爽快です。昼寝覚め時に、ミネラルウオーターをビアグラス程度の大きめのグラス一杯。一息に飲みほします。こうしておけば、あまり酔いは残っていないのです。
早い夕方から日が落ちるまで、ほとんど読書に時間を費やしました。
夜はパソコンに向かって気分が集中する限り何時になろうとも仕事をする。(朝の早い時間、あるいは夜になってからが、仕事に集中しやすいのです。理由は?涼しいからか?)
夕刻になると、部屋の中に一箇所とテラスに2箇所、蚊取り線香をセットしていますが、風向きにより、それでも十分に蚊に噛まれます。

午後9時近くになって、蚊取り線香持参で、ホテル入り口左横の「ホテル事務室」に向かいます。事務所のコンピューターケーブルを拝借し、Eメール通信をする。(なにしろ自分の部屋からは、通信不可!ですから、、、)もちろんメモにまとめて週一回、通信料は必ず払います。1分間80ルピア。日本円で1円10銭程度、納得の通信料金設定です。しかし通信速度が極めて遅いので通常メールだけで10~15分繋ぎっ放しになります。 返信の緊急を要するメールがある場合、さらにそこで作文し、送りなおす。さらに10分かかるか。それが終了してから、ようやくビールを飲み始める。
以上全て、テラスで「作業」し、且つ、テラスで「くつろぐ」のであります。
夕食は取ったり取らなかったり、、、。
時には、ホテルの近所の屋台で買ってくる焼き鳥と、「買い置きのチーズ(乳製品は輸入商品だから大変高価なのです!)」をかじりながら、ビール(主食か?)で済ませたり、時にはふらふらと近所の高級?観光客向けレストランに出かけて雰囲気を楽しむ。大体、一週間に2度の間隔で地元の連中と食事しています。
時には昼食、あるいは夕食を共にするのですが、たいていの場合、昼食ミーティングをしていました。
月に2~3度、朝食ミーティング等もやり、朝7時半位に車で迎えが来てからスミニャック海岸に出向く。
高級ホテルや高級レストランの並ぶ「クタ・ビーチ」沿を避ける。観光客が多くて、うるさい気分になるからです。
クタ海岸からほんの2~3キロ、少し西北に向かったところ、「スミニャック地域」の然るべき行きつけのレストランに集合し、朝食ミーティングなどしていました。スミニャックとは、最近になってコッテッジなどが開発され、主として欧米人の長期滞在者が住み着き始めた地域です。おしゃれで高級感もあり、逆に、まだ田舎っぽさ(バリ島らしさ)が十分に残っている大変環境のよい場所です。

さてさて、
住み着くには「足の確保」が必要です。
レンタカーはもちろん、貸しバイク(ホンダの250cc単機筒が多かったです)があります。
中長期滞在している豪・欧・米人の若い?連中は、ほとんどこのバイクで行動しています。
私も一時は、この手のバイクを借りようか?とも思ったのですが、「危機管理」を第一と考え、自らの運転ましてや二輪の運転は拒否しました。

同じホテルに長期滞在している白人連中、OO出身の30代の男性JICAスタッフとも仲良しになり、ホテル内の狭っくるしいプールサイドカフェに集まる。ホテルの冷蔵庫にそれぞれの飲み物を常にキープしており、適宜自分のものを取り出し自分勝手に飲みながら小宴会を開催します。気が向けば、その気になれば、コーヒーショップの安物オーディオで自前のCDを楽しむ。時にはスミニャックの海岸沿レストランまで足を運び、ささやかな夕食や豪華なブランチを楽しんだりしていました。

豪州人の老人夫婦が滞在していました。
が、
全豪州で約80数ヶ所のモーテルを経営している旦那がにわかに忙しくなり、先にオーストラリアのパースに帰ってしまったとのこと。結局、奥方(年のころどう見ても70代後半)だけが一人で居残り、昼となく夜となく、大きくて派手なストローハットを小粋にかぶってサングラスをかけ、ゆっくりとした口調の丁寧な英語を使い従業員に話しかけ宿泊客とは挨拶を交わし、いつもご機嫌麗しく、一人でうろちょろとホテルから出入りしていました。あるとき、ある日、この奥方は私が聞くオペラのCDが気に入りました。数年前にヨーロッパで買ってあちこち持ち歩いていたオペラのCDを聞いていたサウンドが、夜風に乗ってホテルの中庭を伝わり鳴り響き、部屋に居たそのオバ様がわたしのCDを聞きつけ、
「なんといい曲だこと、いいオペラですね。私も聞きたい、が、宜しいか?」
「どうぞ、歓迎いたします」
といったら、
「幸せですこと。まさか、バリ島まで来てオペラを聞けるとは思っても見なかった」
と、プールサイドでオーストラリア人のオバア様と一緒に、CD鑑賞会?を開きました。

また、
40代最前半の男性アメリカ人とも、ヒョンなことで知り合いになりました。
彼は何と、バリ島とジャワ本島間の遠泳世界記録保持者なのです。世界一の男であり、そういう男と知り合うのもうれしいものです。本人、もともと水球のオリンピック選手で、ロサンゼルス大会だったか、バルセロナ大会?に出場経験があるそうです。二人の妹がいて、二人ともオリンピック選手だとのこと、親父さんはふるさとのカリフォルニア州ドイナカにて今尚「開業外科医」を営んでいるとのこと。優雅なモンです。
彼は大学卒業後、ヨーロッパ界隈で男性ファッションモデルをやり、欧州と米国といったりきたりの生活が続き、(無論そんな中あらゆる女性モデルとの交際経験があり)そんな中、在米有名日本人音楽家や邦人服飾デザイナーならびにスポーツ選手と交流があるらしく、ポンポン私の知っている日本人なら誰でも知っている有名人の名前が正確に出てきました。そんなことで、ごく最近まで、東京にも長期滞在し、且つ、個人的なスポンサーが東京にいるので日本もしょっちゅう行ったりきたりしているとの事。東京では「英語教師」として小遣い稼ぎをしていたようですが、バブルがはじけて余りよくないとの事でした。彼は、必ず朝一(午前6時頃)でバイクに乗ってレギャン海岸に出かけていました。帰ってくるのは午前十時頃、私が朝食でカフェにいる時間帯です。バリ滞在理由は、もちろん水泳のトレーニング。しかし、第二番目の理由は「ガールハント」のようでした。彼は時に、一週間くらい外泊していた。にわかに彼女が出来ると、そちらの「滞在先」に出向き、出張サービス?をしていた様子です。
彼は彼なりの人生観があり、
『一生、贅沢せずに、人に迷惑をかけないようにしながら、しかし遊んで暮らしたい!』
と、こう本人が言っているのですから、もう手のつけようがありません。
彼の風貌は、
アラビアのロレンスの映画の主演男優(=ピーター・オツール)をもっと端整な面構えにしたような純金髪、正統派の、きりりとした甘さを持った二枚目です。こんなのが典型的なアングロサクソン男であると再確認した次第です。絶え間なく、あちこちうろつく私にとっても、こんなレベルの輩とは久方ぶりに会見した次第です。もちろんスポーツマンですから、かなり背は高く(188cmとか云ってましたが)、水泳をやっていますから体つきは決してマッチョ的ではなく、みごとに均整の取れた、きれいな身体をしているのです。まあ~、何と申しましょうか、こんな男に「正しい上流社会英語」(=流暢で、且つ、会話進行速度が適度に遅く歯切れがよく、発音やアクセントに癖がなく、すなわち聞き取りやすい英語の事、を、いう)で、上品に丁寧に話しかけられたら、洋の東西を問わず年齢問わず、どんな女性でも「イチコロ」でしょう。受け取る内容は、理解する側のレベルにより若干?大いに?違えども、、、。
ここで小生、男女問わず美しい「人物もの」には、やたらと「納得」できる性質(たち)なのです。人間だって、ある種の美術芸術品なのでしょうか?
でも正直言って、こんな男とは、一緒に歩きたくないんです。比較されたくないという、悟りきれない「下種な見得」が未だに残っているのか?!?
(ま、私もそれなりに年取ったから、もう、どうでもいいのですが、、、)
なかなか上品で雰囲気のイイ男でした。
実は、
彼が「私の観光開発に関する論文」を一晩で読破してくれました。(彼、一応、UCLAの経済学部卒業です)
さらに二回通読してくれたそうで、加えて、採点?「優」の評価を出してくれたのです。その評価基準とは、「バリ島観光開発の将来に関する発展的な構想の良さ」と、あとは「英文法を基調とする英語力?」である、というのです。
にわかに、うれしくなりました。
しかし、惟二箇所、どうしても治しておいたほうが良い「好くない文章=センテンス」があるとの事でした。
その箇所を、聴こう聞こうと思いながら、彼も私も時間がミスマッチ。で、私が日本に帰ってきてしまいました。
彼とは、あれからまだ会っていませんし、通信もやっていない。
縁があればまた会えるでしょう。
などと、
いつも思って海外旅行(滞在)を続けつつ、すでに30数年経ってしまった今日なのです。
<本記事・完・・>

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<添付画像>:安宿Pホテル中庭にあるプール。極狭なるプールサイドカフェテラスから撮影。尚、このプールにて泳いだり水に浸かったことすら、一度もありません。その理由、消毒目的にて塩素は満々、且つオーストラリア人オランダ人たち人間の垢(あか)だらけにて(我輩にとっては)不潔この上ない「悪しき水質」なのです。

続・バリ島の隠れ家(2)

2006-09-28 09:55:25 | インドネシアとバリ島の話
バリ島の隠れ家(2)
テーマ:苦悩のバリ島

長期滞在のための隠れ家「安宿」。敷地内の一角にある楕円形のプール(5mx15m?)を廻るように植え込まれた熱帯植物がうっそうと茂る中庭を「コの字」型に囲み、15棟18室(内3室が、2Fとなる)のコテッジが立てられている。
エアコンの付いている部屋とそうでない部屋、部屋の広さも大小違いがある。
この安宿を見つけた切っ掛けは、2日にあげず出入りする「エセ男爵お気に入り」のレストランバーの副支配人から紹介されたもの。
地元バリ島の友人達も、
「よく見つけましたね!さすが、あなたは海外旅行プロですよ!!」
などと、お世辞?(本心かもしれない?)を言ってくれるほどに、利便性抜群環境快適なる「棲家」である。けれども、ちょいと贅沢な日本人訪問客など「ご案内」する向きには、お勧めできないかも知れない。それには訳がある。この理由についてはまた、改めて紹介したい。

そう、
重要なるテーマは「部屋代(Room Charge)」について・・・
部屋の大きさと形はマチマチであるから、もちろん各部屋代にも違いがあり、タリフ(料金表)は「約3種類の料金」に分かれる。
おおむね1室30米ドルから15米ドルまで、若干の幅がある。

原生林のごとく欝蒼とした中庭の樹木が宿泊客の気分をやわらげてくれる。
通り抜ける風が樹木の葉っぱや枝に絡まれば、わずかな音を奏でて中庭を通り抜け、さほど暑くもない昼間の気温上昇は、意外にさらりと凌げます。

ここに住んでいて多くを望んではいけません。

所詮、単なる隠れ家ですよ。
カクレガ、ただ、それだけの事です。

オーナーはドイツ人女性。
それとなく、別に現地に「地元の男」がいる訳でもなさそうだし、粋ですね、しゃれた事しますね。
年に1~2度しか現場に来ないのですが、毎日従業員との連絡が綿密にいっているようで、ジェネラルマネジャー始め、良く躾けられた従業員の起ち居振る舞いで、ドイツ人オーナーの人となりが伺えます。

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 ブログ記事ではあまり紹介したくない事項であるけれど、まず(読者諸兄におかれて)「気になること」、ホテル滞在費。即ち部屋代であろう。
 我輩流のルームチャージの交渉と支払方法があるのでそれを紹介しておきたい。このホテルの「公示料金」は、一泊朝食付きにてUS$35~US$20or15$程度。ちなみに、2階のテラス付きの部屋は一泊35ドルであるし、エアコン付きの部屋とエアコン無しの部屋もある。US$15の部屋は、おおむねエアコン無しであり、インドネシア人のビジネスマン出張者か、現地の家族連れ旅行客の利用が多い。通常、間違っても日本人観光客は泊まらないし、このホテルの存在そのものを知っていない。
US$20x30日=US$600なり!
これ、単純に1ヶ月分の滞在費である。
いずれにしても、決して高くない。
しかし、おおいに交渉可能である。
我輩は、長期滞在(1ヶ月単位)にて料金交渉する。
たとえば、
たまたま3週間の滞在であろうと、必ず1ヶ月分の滞在費を支払うようにしている。(2年前のRoom-Chargeにて)1ヶ月約200ドルで交渉成立。当時しかし、3ヶ月間滞在にて、全額前払いして成立させたルームチャージである。半年単位、一年単位にて交渉すればどうなるか?もっと値切れるかも・・・
食費はどうか?自炊しなくてもいくらでも安くて美味しいレストランは見つかる。
宿泊費と食費(すべて外食)を含め、おおよそ日本円で5万円もあれば、バリ島で1ヶ月間、普通の生活ができる。
東ジャワと比較すればバリ島のレストランは、高い。
しかし、日本での「外食費」と比較すれば、天地の開きがあり、当然バリ島の食費は安い。
あれこれ考えれば、団塊世代の諸兄?並びにシニア世代のご夫婦連中?、年金の入るまで「繋ぎの生活」をエンジョイする?或いは年金生活をもっと有意義に過ごす目的?には、かの地「バリ島」は最適の場所かもしれない。或いはその逆かも知れない、解らない!その人それぞれによって価値観が違い、生活のレベルと人生の価値観の違う物差しでもって計測するから、測った数値は人それぞれの違い誤差が生ずる。
あれこれ考え想えば、「バリ島長期滞在プラン」を計画するのも面白いか、、、。
「生活費節約且つ高次元レベルの日常生活」実現のため、『バリ島ロングステイ研究』に関し、ブログ記事にて触るか?・・・

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バリ島「隠れ家」界隈の、小さな友人たち

2006-09-27 09:25:15 | インドネシアとバリ島の話
本来、子供の相手は不得意である。

このガキ達は、我輩のバリ島「隠れ家」付近に生息する。

親の顔、そんなもの知らない。

我輩のカメラを連中に向けたら、大喜びであった。めいめいポーズをとってその気になった。

デジカメのデータを開き、撮りたての「この写真」を見せたら、驚いていた。

いま撮った映像がすぐに見れる、あたりまえであるが、彼らにとっては驚異であろう。

それ以来、我輩の姿を見るなり、写真を撮ってくれ、とせがんで来る。

ガキと付き合うのは、はなはだ面倒だ。がしかし、大人と付き合うのは、もっと面倒である。

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 いわずもがな、本日も手抜き投稿!飴風呂転載記事である。

当時、読者から頂いた心温まるコメントがありますので、下記に転載させていただきます。

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<飴風呂より転記>

『コメント』[コメント記入欄を表示]

■言い得て、妙
最後の一行でピリっと日記が締まるあたり、さすがですね~。
ちなみに私のカメラはオリンパスデジタルキャメディア3.0メガピクセル…
広角レンズは、人力です。(しゃがんで見上げると、広角に見える…ような)
最近、熱帯雨林気候でご機嫌ナナメなんです。あと1年は使いたいッ!

水砂子 (2005-03-07 14:24:49) [コメント記入欄を表示]


■カメラと熱帯雨林気候は、肌が合わないですね
もう丸5年使っている私のデジカメは、SONY DSC-F550DX
一応ズームレンズが付いているのですが望遠?を効かせばきかすほど、ピンがめちゃくちゃ甘くなってくるのでして、この写真も50mmレンズの感覚でシャッターをきったのですが、どうしても焦点が合ってないのです。
バッテリー2個、メモリースティッカー(128M)3枚を当初より装備?し、事に当ってフル回転。もうバッテリは2個ともよれよれになってきました。ご承知の通り、当時この機種の画素はもう通用しない幼稚なものになってきました。
ここでひとつ、上級機材を入手したいのですが、なにせ手元不如意。
今しばらくの我慢です。
熱帯の気候、風呂桶をひっくり返したような熱帯スコール、カメラの天敵大敵ですよね。
あと一年、十分に気をつけられて、しっかり使ってやってください。
さぞかしカメラも満足、よろこびますでしょう。

エセ男爵 (2005-03-07 14:52:49) [コメント記入欄を表示]


■いい
笑顔ですね。
無邪気というか。
彼らには、男爵は魔法使いに見えたのでは??

花子 (2005-03-07 16:20:29) [コメント記入欄を表示]

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PS:最初にコメント頂いている「水砂子さん」!(ブログタイトル『人生は、人それぞれに宝物?・・・』こちらから入れます)
我輩(ご承知エセ男爵流身勝手に)憧れの(お会いしたこともない、ブログ記事のみ・・)の大好きな女性です。ステキな写真とポエムを、辺鄙この上ない太平洋の果ての地「米領サモア」から発信される・・・

そして、「花子さん」!?
失礼!
物忘れの専門家、不肖エセ男爵。今となっては思い出せません。たぶん、よく存じ上げている高貴な女性のお一人であると想像、且つ回想します・・・

バリ島の隠れ家(1)

2006-09-26 14:38:45 | インドネシアとバリ島の話
バリ島の隠れ家(1)
テーマ:苦悩のバリ島

今朝は、我輩の誇る「バリ島の隠れ家」で朝食を召し上がれ、、、。

「な~に、何もコーヒーショップまで足を運ぶことないさ」

「スタッフに一声かければ、コーヒーでも紅茶でも、コンチネンタルスタイルで、このバルコニーまで、セットして持って上って来てくれます・・・」

隠れ家はコテッジの2Fにあり、他の宿泊客からは一段高く逃れた位置にある。


写真は、隠れ家の部屋に付属する2Fのバルコニーであり、我輩専用のスペースとなる。
このスペースが「アウトドアー書斎」すなわち我輩のバリ島連絡事務所であり、つまり多目的スペースとなる。

朝、野鳥やニワトリの鳴き声と共に活動を開始し、昼間は海側からのそよ風を受けて涼しく、夜は山側からの塩分を含まない風が爽やかである。
レギャン通りが西に切れるあたり、海側から一本山手に入った場所に位置する。

レギャン通りまで徒歩2~3分、バイクで45秒。
クタの海岸まで徒歩12~3分、バイクで2分。
空港からおおよそ20分、デンパサールの中心街まで20分。
かけがえのないロケーションである。

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 例によってしばらく飴風呂引越記事・・・
 長らくバリ島に足を運んでいないけれども、「この安宿」には、我輩流インドネシア生活必需品一式を(約2年も経過した今も尚)、預かってもらっている。パンツやシャツの下着類やTシャツ、半パンに数本の替えズボン、インドネシアでの礼装となるバティックも高級ブーツからカジュアルシューズ等々の衣類一式、箱詰めしたままの状態にて、ホテルマネジャーに預けっぱなしである。中でも一番大切なものは、シンガポール界隈で入手しバリにて保管する洋書、専門書籍など十数冊。日本から持ち込んだ司馬遼太郎先生の著作「この国のかたち」全巻も置きっ放しである。
 海洋性気候といえども湿気の多い土地柄にて、(東ジャワ州での体験上)すでに書籍類にカビなど湧きくっ付いているかもしれない。海外出張集には常時持ち歩いているハンティングナイフにも、すでに錆が廻っているであろう。さらには、約100数十枚あるスライド写真(ポジフィルム)などにも、疵やカビがくっ付き、すでに全く使用不可なるダメージを受けているかもしれない、、、。
 「・・・!?」
 考えれば考えるほどに、書籍関連の保管状態に関する「心配事」多く、そのまま忘れてしまえばさほど「大したこと」もない・・・
 このところ、世界的なオイルの高騰にて各航空会社の航空運賃は値上げし、かつての安い航空運賃での渡航は、叶わない。現地の知人友人にお会いしなければならず、ならばこの冬場に、是非ともバリ島と東ジャワ州には足を運んでおきたいものだ、、、。

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執筆と創作について一考(回想)・・・

2006-09-25 05:16:10 | 趣味の話&本と雑学メモ
 このところ、
    ブログを「書く」作業。いささか自己嫌悪?の感あり・・・
 「・・・?」
 「これではいけない!」
と、思い、試行錯誤しつつもこの一年間を振り返り、反省を含めて「過去記事」を読み返してみた。
 
 以下、昨年5月、書く面白みに目覚めた「某女性メル友」に宛てた長文メールを転載公開する。かくして添付のメールは、不肖エセ男爵の文章創作がらみの苦悩と、「文章を書く作業」そのもの「歴史」をご披露するものであり、飴風呂記事より抜粋し、恥ずかしながら再掲載する。

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2005-02-17
回想と進展
某・私信(メール)より、
(2005/01/中旬・発信)

YTさま

 「多忙」とは、何を意味しての多忙なのか?
 などと、突き詰めて考えていけば特に私の場合、けっして多忙ではありません。
 ただ、オーベルジュの3ヶ月間は多忙でした。
 なぜなら、拘束時間が長い上、自分で時間をコントロールできていなかったという意味からです。
 また、お休みの日も2回に1回は東京に出張。以前の会社の先輩や友人の会社のよろず相談、出版社の社長との会合など、前もってアポを「組み立て」、ミーティングのスケジュールで一杯でした。
 くわえて、上記の延長線上に「酒の席」が付加するからこれまた重労働です。
 しかし、東京に出向けば「オーベルジュ」のワンパターン的時間拘束から外れ、私の本来の動きで十分な対応が出来るわけですから「多忙」とは感じない動きでして、「良い疲れ」を生じさせる能動的な「正しい行動」なのです。
 福岡出張も、上記のパターンでした。

さて、この3年間、私は可能な限りビジネス面での「多忙さ」を回避するよう時間を組み立てており、平均して3時間(労働)を心がけています。その代わり平均時間にして約4時間、「読書」と「執筆」に割く時間を如何にして捻出するか?に、苦心しています。この2つをあわせて約7時間労働、ということになります。
本来、読書嫌いではなかったと思いますが読書に割り当てる時間をあまりにも無視してきた悪弊(思い込み的記憶か?)があります。
 とにかく、
 「読書に割り振る時間がもったいない・・・」
 「読書している閑などあればその間に、一人でも一件でも多くのクライアントにお会いし、営業活動に時間を充てなければならない!」
 出来るだけ多くの人に会い、情報交換や仕事の打合せの時間がほしい。と、真剣に思い行動しながら四十代の半ばまで過してきたのです。加えて、活字に目を通すという意味では、(当時の物理的キャパとして)
「それでも自分は十分に、活字に触れていた!」
と、勘違いしている状況下にありました。つまり、会社(特に大企業)組織にいれば(すなわち企業人であった現役時代)、明けても暮れても毎日毎日、特に管理職になってからは、机の上は書類の山積み状態なのです。稟議書や社内通達、公館庁や航空会社その他関連産業からの通達書類社案内パンフ等など、それはまるで洪水か?はたまた津波?のごとく、半日そこいらでは目を通しきれないばかりの膨大な文章に、必ず目を通さなければならない状況下にありました。流し読み状態がほとんどで、実際には読んでいなく、読んでいると勘違いしていたのですが、、、。
 さらに、文章作成について、
 学生時代から始まり(卒業後)企業に所属。曲がりなりにも管理職になるまで、文章作成に関して何をどうしていたのか?あらためて思い起こしてみました。

 作成していた文章は確かに存在。そしてその内容とは、

 * 大使館宛の英文作成。=クライアントの査証取得のための英文経歴書はたまた英文推薦文章、等など。

 * 外務省宛の公式文章。=旅券早期取得申請書を外務大臣あてに作成する(やや定型文章)等お役所宛の関連文章くらいか。

 * 後半は広告宣伝用の短い文章?=旅行のパンフレットに掲載する文面くらいを書くだけで、本来の文書らしきものは書いたことがなかった。

 * 管理職になってからは、社内稟議書。=これまた定型文章であるけれど、自分の意志を上司に伝える為、自分の企画した少プロジェクトを実行に移せるよう、必要経費の予算枠を獲得する為、当時はそれなりの工夫をして、必死になって「説得力ある名文(迷?文章)」作成に日夜励んだものです。

 あらためて文章を書き始めたのは、脱サラ後。独立したのち、企画するイヴェントや企業の新規プロジェクト提案のための「企画書・提案書」を創作し始めてたのが切っ掛けで、ようやく自分の文章を書かなければならなくなったのです。
 当時、ようやくパソコンを導入する時代になる。それ以前、(ワープロはすでに20年前から導入していたのですが)全ての作成文章は手書きでして、辞書を片手に苦労しつつ(今と比較すれば)膨大なる時間をかけて、文章作成に挑んだものです。
 今にして思えば「手書きの文章を書く」作業とは面倒で面倒で、今やろうとなれば、もうお手上げ。手書きで漢字が書けなくなっているから、もう手書きは不可能。考えただけでそら恐ろしくなりますが、当時はそれを実行していたのです。
 しかし今、こうして書けば書くだけ、さらに書こうと思えば思うだけ、ますます「自分で納得できるレベルの文章」は、なぜか書けなくなっているのです。
 理由は、自己の文章力に関する劣等感と不信感です。文章を書く基礎が出来ていない。と、考え、悩む?からだと思うのです。
 
 開き直れば、しかし、美文でなければ書ける。

 「もとより文才のない自分には、『美文』は書けない。美文を書こうと思うから書けないないのだ・・・」

と、開き直れば、「自分の意志を他人様に疎通可能な文章?」は、何とか書けるようになりました。

 合わせて近年(約10数年前から)、現役時代(企業人という意味)に比較して(一人で行動していると)、あまりにも情報源に乏し環境にいることに気付き、『情報量のパイ』が、あまりにも小さいことに猛烈な恐怖感を持ち始めたのです。
「すでに、時代に取り残されるのではないか?」と、、、。
(現在は少し違いますが、、、)
 そこでいろいろ考えた結果、思いついたことは何か?
 本屋さんに走り本を買い求め、猛烈に読書がしたくなり、自分の専門分野?の「新本」などなど、手当たり次第に読みまくったのです。
 しかし逆に、新聞や週刊誌を読まなくなりました。
 読んでみても、情報のぶつ切りであり記事を書く編集者あるいは記者の「情報と知識の貧弱さ」が、認識できるのみで、ほとんど役に立たない読み物であると解りました。
 その代わり、(先輩の薦めもあって)タイム誌を定期購読を始め、すでに15年になります。
 タイム誌の記事について、一言。
 これは情報の収集という意味でも、情報の整理という意味でも、先を見通すという意味でもたいへん重要な定期刊行物であると認識しています。タイム誌の記者連中は、平べったい日本人新聞雑誌記者やTV取材陣とは大きく違います。自分で取材し自分で記事を書き、きちんと自分の意見見解を述べ、記事に対する責任を持って「レベルの高い」文章と、写真(=写真もすばらしいですよ)を競って投稿し、それを毎週続けている。世界中の「英文もの書き」プロ集団の「文章」を(十二分に)読めて且つ、的確な時代の流れを掌握できると思うからです。これ、あくまでも比較対照的な発想でして、その比較の対象はあくまでも、我国特有の金太郎飴的な三流新聞記事や紙芝居的TVニュースです。
 欧米と比べ、あまりにも貧弱な日本のマスコミの取材能力と、取材陣の体制に流される「無能さ」に辟易しています。(ま、コレこの問題にはこれ以上触れないようにします)
 私の専門は英文学でもなく語学専門ではありません。しかし、タイム誌を読み続けているおかげで、このところようやく英語がわかるようになって来ました。英語でビジネス契約文章、英語で自分の意志を疎通できる文章が書けるかな~?と、ようやく思えるようになりました。
 しかし、英文の組み立てと、日本語の文章の組み立てと、全く「構造」が違う。 ですから、英語を読む、英語の文章を書く、と、日本語の文章が書き辛くなります。が、これ、言訳です。まだまだ修行が足りない証拠です。明治の文豪「森鴎外」かはたまた「夏目漱石」か、当時の皆さん、英語も漢文も出来た人達が、日本語で小説を書いていた時代があるのです。映画「ラストサムライ」の脚本の基礎となった新渡戸稲造先生の著作「武士道」も、当時の英文で書かれており、小冊子ですが、なかなか中身の濃い立派な「英文著書」です。当時(100年前)の英文の中、日本の伝統的な思想(武士道という狭義の意で)を、欧米人の知識人層に説き紹介するため、聖書から始まり、ヨーロッパ中世の騎士道、さらには近代西欧思想との比較引用され、日本の武士道を比較説明している論文文章構成には「驚愕」の限りです。
 そうです。
 当時の西欧人にとって(日本文化を全く知らない)、若し、比較対照可能な「西欧思想と文化」の引用と解釈が皆無なら、この「武士道」の英文著作は繰り返し読んでも読んでも解釈不可能意味不明であり、当時の西欧知識人から無視された。に、違いありません。新渡戸博士は見事に「比較対照」を引用され、難しいながらも理解可能の門戸を開かれたわけでして、いつ?年齢、幾つの時から?何処で何処から?そんな見識を重ねる時間があったか?実際、新渡戸博士は農学の研究で若くから渡米され、何時からか解りませんが(確か)キリスト教徒になられ、アメリカ人女性と結婚された。そういうバックグラウンドがあったにせよ、尋常ではない。即座に比較対照がこのレベルにいかないまでも、こうして思えば、自分自身がいかに怠け者であるか、もう一回生まれなおし二度人生を繰り返しても追いつけないほどに学問をやってらっしゃる、等と考えると、あらためて往時の日本人知識人に敬意と尊敬の念を抱くのです。
 まず、自分の意見を書くこと、人様に理解可能な文章を書くことは大切であり、たいへん難易度の高い所業なのです。

 もう一度、私の実態に戻ります。
 英語は、まず読めないと書けない。多くの英文を読みこなし、ようやく書けるようになったのです。頭の片隅に残っている「どこかで読んだ英文」の語彙や言い回しの組み合わせを引用しながら書いているのは事実です。
 ですから、
 日本語も、そうしなければならないと痛感してまして、最近になって「コレだ!」と思う著者の「近代文学」を読み始め、本来中学生時代高校生時代に済ませておかなくてはならないこと、今になってやっているようなテイタラクなのです。がしかし、残念かな若き頃に読んでないわけで、ひと歳取った今、初老に差し掛かった歳になっても、尚、それでも、まず、読まなくてはコトが始まりません。読むことに、ようやく飢えて来たのです。
 そんなわけでして、
 確かこの3~4年、猛烈に読書を重ねていますが、オーベルジュにいた期間、それが出来なかった。
 しかし逆に考えれば、(一度メールで触れていますが)Field-Workができて、たいへん満足してます。
 今改めて必要な「フィールドワーク」が出来るなら、3ヶ月間の読書を中断してもやぶさかでなく、むしろ読書を中断してでも「やりたかった」内容でして、差引勘定はプラスであったと判断しています。

 その点、「書くことが好きです!」と宣言したYTさんに、あらためて拍手を送ります。

 今からも、おおいに書いてください。
 書くこと、(あなたは)お上手です。たいへん面白く読ませて頂いてます。
 私で差し支えなければ、どんどん読ませていただきますから、多忙に感じるくらい、とことん書いてみてください。

<「完」以下、8行省略・・>

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<添付画像>"The Remains of the Day" written by Mr. Ishiguro.

東ジャワ州ルマジャン県の漁村にて・・

2006-09-23 17:57:25 | インドネシアとバリ島の話
本日も飴風呂引越記事、インドネシアジャワ島東ジャワ州より、、、。

<オリジナル原稿>

2005-03-15
子供シリーズ第2弾(東ジャワ州・ルマジャン県)


カメラレンズの目は、なぜか子供に向いている・・・

ジャワ島は、東ジャワ州のルマジャン県。

さる「うらびれた漁村」でのone-shot・・・

「うらびれた漁村」とは我輩の比較対照尺度であって、地元ではこれがあたりまえであり、決してしてうらびれてはいないのだ。

「朝早起きして漁村に向かい、そして撮った写真である」
と、言いたいのだが、そうはいかない。
何故か?
理由をご説明する。
まず第一に光の具合。この写真は、少し橙色(だいだいいろ)がかっている。これが朝だと、少し青みがかった色調になる。
第二に太陽光線の方向である。ご存知の通り、太陽は東から上り西に沈む。
この写真の太陽光線は右手斜めから差し込んでいる。事実、2001年の師走(日本で)、つまり南半球側に太陽が位置する午後3時過ぎ、撮影した写真である。
ちなみにインドネシアでは雨季、湿気だらけ、、。
湿気と塩分から、カメラ保護を如何に計らうか?かなり神経過敏な気分にて、かろうじて撮影す、、、。

子供の背中の方向が、海。

海はインド洋であるから、日本を背にした我輩は、当然北方向からインド洋つまり南方向に向けシャッターを切っている。
ならば、右手から射しこむ日差しは西方向からのものであるからして、簡単に東西南北の方向が判断できるのである。
西からの日差しであれば、時間は「午後」。

したがって、「朝の写真」ではない。
が、この景色は朝のショットがいい、是非撮りたい、と思う。

子供の背後は「入り江」になっており、右手をわずか数キロ下ると、海岸線から外洋に繋がる。さらに背後の椰子の木が点在する位置から2~3キロ先、ようやく海岸線に到達する。あることはあるのだろうが、なんだか日本ではあまり見なれない海岸線到達までの有態だ。はたまた、数十年前はこの入り江の場所が海岸線であったという。
南の方角の砂洲は少なくとも2キロ以上にわたって盛り上がっている。
浜の砂は、真っ黒。
重くてきらきら光を発する。磁石にくっつく。つまり、砂鉄の海岸だ。
南西から、つまりオーストラリア方向から一定の風速で四六時中、いや、年がら年中吹き上げてくる風が、この砂洲を形成していると聞く。
この砂洲は、一年間で2~30cmも海岸に伸びつつあるという。たいへんな勢いで、風が陸地を造成する現場を見た。
自然の「力」は大きく、
あらためて、
地球は生きているのだ!と、気付く。

当時、海岸線に辿り着こうとする調査隊隊員(我輩一人のみ)は、地元ルマジャン県庁職員10数名のご同行の中、まず、わずか50メートルにもならない川幅で浅い入り江を敢えてカヌーで渡り、さらに砂鉄の砂洲をひたすら4~50分歩き、ようやく海岸線に到達した。そして砂鉄海岸線に上がってきた「漁師」たちのショット、これが先にご紹介した「かじきマグロ」の写真となるのである。

写真の子供は、たぶん、初めて日本人(我輩)を見たに違いない・・・
我輩も、彼らと出会うのは初めてである。
また会える日があれば、その時、彼らは一人前の漁師になっているだろう、、、。

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許せない東京地裁判決!「国旗国歌強制は違憲」か?とんでもない!

2006-09-22 12:38:10 | 教養・文化・歴史
  ??!!?

 まずは驚いた!
 
 そして嘆いた。

 かくして我輩、腹の底に響く「重低音の如き怒り」が込み上げてきた・・・

 昨日の不愉快極まりないHNKニュースを見つつ、朝になれば地元ノンポリシー新聞(中国新聞)一面記事しかもトップにでかでかと・・・

 未だに、共産主義的世界国家の夢想を肯とし、付け焼刃的民主主義と空理空論なる言論思想の自由を振りかざし、もって戦後日本国の存在を否定し無政府主義賛美風史観歪曲的茶番劇の創作演出に、創意工夫あれこれ四の五のちょうちんと、愚なる御託をならべているのか!
 我国将来の宝ともいうべき児童生徒の「精神的健康」を害し、引いては国の将来を破滅に陥らせようとする「我国教育界」の腐敗と堕落を助長する我国法曹界の体たらくぶりに、唖然とした。
 加えて(添付画像の如く)、またもや我が郷土新聞社は、もろてを挙げて「当判決」を賛美するが如く、一面トップ記事に掲載してくるから本日は、秋晴れにて天気晴朗なれど、我輩の気分は鉛色に曇る。本来在るべき我輩の創作活動を、かくも悪しき気分に貶められ阻害されてはたまらないから、今日は吼える。
    
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(以下、9月22日付け中国新聞朝刊記事の冒頭を引用)
 「東京都立高校などの教職員等四百一名が都と都教育委員会を相手に、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めて訴訟の判決で、東京地裁は二十一日、国旗国歌の強制は違憲として請求を認め、斉唱しないことなどを理由とした処分を禁じた。
(途中省略)
難波裁判長はまず「日の丸、君が代は第二次世界大戦終了まで皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱で、現在も宗教的、政治的にその価値が中立的なものと認められるまでには至っていない。信仰に準じた世界観、主義、主張から国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人は少なからずいる」と指摘。・・・
(以上、新聞記事写し引用、完了・・・)

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 この判決は、問題視されている我国教育世界の脆弱性と究極的腐敗を象徴するものだ。
 学校行事で、しかも式典にて、教職員に対する「国旗掲揚時に起立し、国歌斉唱を共に唱える」は違憲なのか?これらの行動を教師に促すを強制というか!
 皇国思想が何処にある?軍国主義思想と何処で繋がる?日の丸と君が代の何処が宗教的?世界観と如何繋がる?日の丸否定と裁判長の真意を敢えて結びあわせるなら、無政府主義たらしめんとする「共産主義的唯物論」に基因した世界国家観あればこそ我国の教育世界の腐敗に加担するか?加えて難波何某のいう「主義・主張」すなわち国旗掲揚国歌斉唱への反対論とは、まぎれもなく現存するシナ共産主義賛美乃至亡マルクス主義に他ならない。誰が何を唱えようと我輩の知った事ではないのであるが、ゆめゆめ日本国の滅亡に繋がる思想を具現するような我国法曹世界の人材は、ことごとく排除しなければならない!と、考える。

 ?オリンピックの国旗掲揚は如何か?難波何某は反対するか?

 国旗掲揚と国歌斉唱する場面、数え上げれば限がない。日教組に組する教員どもよ!東京地裁の難波裁判官よ!これを見逃すのか? 
 
 もういい加減にしてほしい!
 諸悪の根源は、どうやら戦後のGHQ憲法か?
 ならば、安倍新総裁の掲げる「新憲法制定」と「教育の改革」は、国家の急務なり!

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冬の動物園

2006-09-21 21:24:15 | つれずれ紀行
 かれこれ一年半前に書いた記事。実のところ書いた当時、現場には足を運んでいない。記事は7年も遡っての回想記である。昨年亡くなった父の十分に元気だった頃、ようやく現役を引退し郷里に帰って間もない頃の出来事である。日課となっている毎朝の新聞に目を通していたオヤジは突然何を思ったか、我輩に向け、
「まだ、一度も動物園に行っていない・・・」
と、のたまうではないか!
我輩は即座に反応し、
「たわいもない事、さっそく今から連れて行ってやろう!」
と、ささやかな親孝行を試みる。
30分後に自宅から両親を連れ出し、車で山道を走って約45分。安佐北区の山奥に繰り出した次第である。その時の「大ねずみの檻の前」の記憶を思い起こし、書きしるした。当時の動物園内は紅葉真っ盛り!オヤジを伴って「動物園訪問」の記憶は今も尚、我が脳裡と瞼に焼き付いてはなれないものは、動物ならず庭園内の紅葉織成す美観のみ。
すなわち当時の動物園訪問は、年老いた我がオヤジ殿に動物を見せに行ったわけではなく、紅葉を見せに行ったわけであるから、たぶん、時節は10月の下旬のはず。つまり、この記事はブログをはじめた頃の2月に書いたから、「冬の動物園」というテーマは全くの作り話。しかしながら「大ねずみのピラミッド」は、現実事実の話である。この頃の我輩、如何していたか?思い起こせば長かった7年間、ちょうどハンガリーでの契約仕事を終え、郷里に帰ってぶらぶらしていた頃である。

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<引越記事本文>

2005-02-20
冬の動物園
テーマ:ブログ
二月に入り、たまたま広島安佐動物園に行ってまいりました。
野外の檻に入ったまま放置されている動物が如何に少ないかを「実感」しました。
でも、いた。
野外に放置されている動物が、、、。
南米ブラジルで見た「大型ねずみ」(正式名称記憶なし!)です。
体長3~50センチか?、子豚くらいの大きさのリまるでスを大きくしてリスのオッポをちょん切ったような、ねずみに、似つかわない動物です。
この連中、寝床があるのですが、ほとんど全員?、我々家族が訪れた午後の早い時間帯には寝床から出て、逆に我々を眺めているのです。
その姿が面白い、、、。
同じ檻に集団で入っているのですが、何と、まるでチアーリーダーの積木のように、集団が下から順にそれぞれ背中の上に乗っかり、三角形を形成しています。
一番下が10匹ぐらい、その次2段目が7~8匹、3段目が4~5匹、4段から5~6段くらいまで積み上がり、一番上に2匹が乗っかっているではありませんか?
良く観たら、その集団積木のねずみの廻りに2~3匹、積木に加わっていないネズミがいる。
どうしてそうなったか?
一瞬考えましたが、どうも、積木になって重なっている集団の為に、見張り役をやっているのではないであろうか?と、おもいました。

間違いなく連中は、積木状態に積み重なり、互いの体温で互いを暖めつつ、寒さをしのいでいるのです。

誰かが考え、そして皆で積木を作ろう。
でも、誰がリーダーになって?、いつごろから?、この方法を編み出したのか?
今でも不思議です。
そうだ、春先にもう一度行ってみよう。
もし、積木をしていなければ、やはり暖房目的であったに違いない?、そう、でしょう。
そう思いますが、
確認したくなりました。
もう一度、4月に行きたくなりました。
必ず行きます。

<-完->

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PS:そう、あれから10年経つか。。その後、安佐動物園には足を運んでいない・・・

ジャワ島に伝わる「宮廷ダンス」

2006-09-20 09:38:50 | インドネシアとバリ島の話
バリ島の舞踊と、どう違うのか?

ジャワ本島に住まう人たちの95%は、イスラムで、
バリ島の人たちの多くは、ヒンズー、、、

でも、よくわからなくなるのです。
なぜか、
それぞれの古典舞踊、さほど違いなく、変わらないのでして?

<上記、飴風呂記事より転載>
(原記事: 2005-03-02 伝統的宮廷ダンス テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行)

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PS(回想と追記):

 原記事の投稿は、ブログを始めて1ヶ月。初心者にてBlog記事内容はいたってシンプル(Simple)。
 Simple is best!? とはいえ、如何にも心もとない!
 よって、本日転載投稿にあたり少し加筆する。

 ジャワ島文化の歴史をみるに、古くはインドに源流があるようだ。例えば、マヤーナ物語に代表されるヒンズー教にまつわるものをして、古代ジャワ島の人々を目覚めさせた文化の全てのようである。そののち、中華系商人たちの出入りがあり、おのずと仏教が伝わる。さらに中世後半になってイスラム系商人の出入りが頻繁になる。イスラム世界の商人たちは(無節操に?)現地人と婚姻を繰り返し、血を交え、かくして父方の宗教が踏襲され、数世紀もの歳月をかけてイスラム化されていったか。

 オランダ統治は(現在から遡ること)約400年前から始まる。
 想えば不思議?にも、オランダ統治領には現地人との混血が少ない。オランダ人シーボルトと日本人妻の間に授かった混血児?=日本発の女医?「イネ」の存在は如何に?否、シーボルトはドイツ人であったそうな・・・ 当地インドネシアに於いても、青い目をした西洋人混血は未確認である。が、そういえば一人存在する。我輩の知るドイツ人とのクオーター (Quarter)。ご尊祖父がドイツ人大学教授の若き美女はスラバヤに約1名存在、地元テレビ局に勤務する才女である。これは、歴史の流れと何ら関連性はない。オランダ人の残した唯一の遺産は、今総人口の約1%にも満たないキリスト教人口であるか。となれば、やはりインドネシア人のキリスト教への教化の所業か。この比率からして、本気で布教していたとは思えない。約350年に及ぶ統治時代に、オランダ人の残したものは皆無である。「お見事!」としか、言いようがない。台湾朝鮮半島を始め、満洲に多くの痕跡を残した日本人。小さな親切、大きな迷惑となるか?19世紀型帝国主義を引きずった先の大戦即ち大東亜戦争時代に於いて、日本人の原住民に対する親切は、今となって「お節介」であったか。現代に入ってからも尚思い出せば、日本国旗に火をつけ焼き払うほどに大迷惑であったのか?大虐殺の作り話をしなければならないのか?しかし当地インドネシアに於いては、終戦後にも心ある日本兵は地元独立運動家達に知恵と力を貸し、オランダからの独立戦争に寄与したことが伝えられ、「日本の兵隊さんは頭がよく多くを教わった」等々、良き日本人のイメージは言い伝えられ、今日に至る。
 かくして20世紀、広くアジア諸国に残された日本人の遺産とは、何か?
 今の我々に伝えられるているものは「悪しき日本人の所業」しか、伝わってこない。しかしながら実際にアジア諸国を歩いて見聞きすれば、伝わってくるものは日本人の善行も良き評判も数多く存在する。
 今から、21世紀の歴史の語るところであるから、未だ結論は見えないし、今後の修正と補填により、如何様にも歴史は塗り替えられる。以って、急ぎ焦り結論を出す必要もない。

 話しを宮廷舞踊に戻す。
 ジャワ島宮廷ダンスに観る舞踊作法は、いかにもヒンズー系である。当地東ジャワ州には、当時のイスラム勢力に押され、東ジャワ山奥に逃げ込み、ひそかに生活していた名残は、今尚遺跡として残る。さらにさらに制圧され滅んでいくけれど、ある部族はバリ島に逃れた。現在は観光地となったバリ島に於いてジャワ島ヒンズー文化は再度花開き、さらに滅んでいく。
 現在に伝わるバリ島の舞踊の所作と衣装を、この画像と比較すれば、我々素人の目から見ればほとんで違いはないものの、こうして比較すればバリ島の衣装の方がきらびやか、且つ、派手すぎる。ジャワ島の宮廷ダンスは、しなやかに感じる。添付画像はインドネシア共和国東ジャワ政府観光局からの引用である。

<続く>

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(またもや舞踊の話題から強引に歴史の話に転じてしまったのはエセ男爵流の悪癖なり、、、。ひらにご容赦願いたい・・・)