Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

本照寺への道順(三井ガーデンホテル正面入り口より、、、、)

2019-08-28 10:24:46 | 教養・文化・歴史

広島市中区の本照寺山門前より、向って右手に建てられている石碑(案内標)です。

 
 東京軍事裁判インド代表判事
 パール博士筆慰霊碑  在當山


            と
              石碑に彫り込まれています。

 場所は、本照寺
 住所は、(〒730‐0041)広島県広島市中区小町7番24号
 連絡先は、
       Tel: 082-241-5758 寺院専用電話
      または、   
       080-3877-0822( 当ブログ管理者(トーマス青木)
      Fax: 082-241-5799 寺院専用ファックス

 
 位置は、広島市内の満々中。
 JR広島駅南口から(タクシーにて)約10分。(朝夕のラッシュアワー時になると約20分)
 そのほか目標(ランドマーク)、三井ガーデンホテル広島から、平和大通りを挟んで、ちょうど南側対面に位置し、ホテル正面入口より徒歩5~7分あれば、本照寺山門に到着します。 




 <『三井ガーデンホテル広島』正面入り口>
 (公式ホームページ『三井ガーデンホテル広島』へは、こちらから入れます・・・)

 三井ガーデンホテル(ホテル建物の南側に在る)のおしゃれな看板を見上げました。

 さあ、三井ガーデンホテル広島から、パール博士碑の在る本照寺へ(徒歩にて)向ってみましょう。 
 



 <三井ガーデンホテル広島>

 平和大通りを横切って、南側側道辺りから、三井ガーデンホテル広島の全容を撮影しました。

 なんともシンプルで美しい建物です。




 <ホテル正面玄関車寄せ>

 一旦、ホテル正面に立ち戻ってご案内。

 あらためて、広島市中区小町の本照寺に向け、出発します。





 <ホテル正面玄関より平和大通方面(南側)を望む>

 車寄せ辺りから、ホテルの正面南側を眺めた風景にて。
 平和大通り建造時に敷設されたグリーンベルトは、この初夏の時期は特に美しく、、、




 <ホテル正面付近、平和大通り緑帯グリーンベルト>

  造園のプロによって美しく整えられ、維持管理されているグリーンベルトを横切ります。

  画像撮った時、見事な炎天下の快晴!
 (令和元年8月7日午前中の撮影に撮影したもの)

 グリーンベルトは、早朝ならば市民の憩いの場? 昼間から夜中にかけては車通行量が多すぎて、ちょいと無理か?

 はたまたいつも混み合っている平和大通りを運転するドライバーの気分を和らげる働きがあるか? 




 <平和大通り北側歩道部分>三井ガーデンホテル正面より平和大通りを横切って北側グリーンベルト>


 広島市によるグリーンベルトの維持管理は経費と人手がかかります。

 かなりの税金を使って、よく整備しています。くわえてきょう日、企業や市民団体を(良い意味で)巻き込んで、グリーンベルトの保全を推進しているようです。 




 <平和大通り北側歩道>(広島三井ガーデンホテル正面入り口の対面付近、比治山方面南側に向いてシャッターを切る)

 広島の『平和大通り』は、通称(地元の人たちからは)『100メーター道路』と呼ばれていて、被爆後焼け野原になった広島市の都市再建を計画した時、大火災からの延焼を防ぐ目的で緩衝地帯を設けるため、市の中心部を東西に横切る大通りを造る計画をした、とのことです。その道路の路幅が(おおよそ)100メーターにされた事から、通称『100メーター道路』と称されています。
 まさに、100年先を見越した素晴らしい都市計画だったといえます。(被爆後の広島都市計画について、あらためて投稿したいと思います・・・)




 <三井ガーデンホテルの四差路南側から、対角線上に『クリスタルビル』(ホテルより西側)を望む>

 平和大通りが敷かれて約70数年も経過。したがってグリーンベルト地帯の樹木の歴史も同じく70年に亘って成長の歴史を重ね、今やほとんどの樹木は大木にまで成長を遂げている。
 こうして、少し距離を置いて各樹木を観れば、灰燼から立ち上がった『復興広島市』の生きた歴史の数ページが窺えます。
 



 <平和大通り沿い南側の道路に、『本照寺』あり>


 ホテルの位置する場所からは、南対面にあたります。

 道路を一本南に入った通りに、『本照寺正門』があります。
 そう、
 平和大通りグリーンベルト側道を、一つ南に下りますと、その辺りから進行方向左手前方に『本照寺本堂の屋根が見えてきます。

 
 

 <本照寺境内の北側にある歩道>

 この道路は、本照寺北側の歩道です。画像は、境内脇の壁を右手に見て、東側方向(山門方向)に向け、シャッターを切っています。
 この位置から徒歩30秒以内にて、山門に到着します。


 以上、

 三井ガーデンホテル広島正門入口付近から(撮影なしに)ゆっくりと歩いて約7分、(平和大通りの信号待ちの時間を含めても10分以内)本照寺山門(正面入口)に到着します。


     <投稿:トーマス青木>



 <追伸>:
 昼間であれば、山門は解放されており、(現在のところ)ご自由に『在本照寺パール博士碑』の参詣見学を行って頂けます。
 尚、団体様(約5名以上)のご訪問ご見学は、事前のご連絡を取って下さるようお勧めします。



 下記、
 関連記事のご案内です。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、(こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、(こちらから入れます・・・

  総括編『パール博士碑と広島市中区本照寺(3)』へ、 (こちらから入れます・・・
 

パール博士碑と広島市中区本照寺、、、

2019-08-21 17:11:00 | 教養・文化・歴史

「添付画像」本照寺の本堂(令和元年8月上旬、撮影)、、、


 毎年8月5日になると、広島市中区小町本照寺にて盂蘭盆施餓鬼会の為、早朝からお参りに行く。当山(本照寺)には少なくとも年間4回の行事あり、本堂入り口の斜め前に位置するパール博士関連の石碑はその度に礼拝し、その存在には慣れ親しんでいるにもかかわらずこの数年間、境内に入る度に、気になって仕方のない「とある事柄」を思い出す。



 それはトーマス青木自身のこと、あまりにも中途半端過ぎ(卑怯にも)忘れてしまおうとした事案を握ったままにしていることを思い出すからストレスが溜り続けていたのだ。
 先週末、とある方に相談し、アドバイスを頂き、ようやく前に進む意欲がわいてきました。

 たいへんありがとうございます。

 そして、本日(令和元年8月21日)、関連ブログ記事を更新できました。



    ~~~~~~ 以下、<本日本文> ~~~~~~

 あれから5年以上にもなるか、、、
 連載投稿の執筆が途切れてしまったままになっている『大亜細亜悲願の碑(1)~(2)』副題(東京軍事裁判判事パール博士のこと)につき、当ブログに記事掲載したのは下記の通り、2013年10月3日付にて第2巻目を記事掲載してのち5年11ヶ月間も放り投げたまま中断しているのだから、みっともなさ過ぎる。

  前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、こちらから戻れます・・・

  続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、こちらから入れます・・・

 放り投げていた理由は?
 言い訳にも出来ない、かなり大きな「中断の理由」がニつあった。

 第一に、投稿始めた年2013年の12月、我が実弟、急死する。以後数年間に亘り若干寺関係との問題あって我が人生の道すがら、予想外の多忙を極めたこと。

 第二に、投稿の為、聞き取り調査をお願いしていた当時(2013年10月)の住職様が、急に(3年前?に)お亡くなりになってしまい、トーマスには十分な聞き取りが叶わず、作業中断していたこと。


 さて、
 こうして放り投げていた「本照寺における『パール博士碑』の建立されている経緯」に関し、トーマス青木自身と本照寺の関係から判明しいている基本情報と、この度聞取った断片新情報をかき集めてみれば、極僅か、以下のようになる。

 本照寺境内に於けるパール博士石碑建立のきっかけは如何か。戦前(1945年以前)の独立国家だった満州国と、英国に対して独立を求めていたインドとの、政治運動風架け橋(橋渡し)的な絆を携えておられたキーパーソンが(今となっては先々代となられる)本照寺住職であったとの事が、石碑建立の理由である。と思われる。

 1945年夏、先の大戦に於いて敗戦の憂き目に遭遇し、満州を追われた当時の日本人は全員引揚者として敗戦日本本土に帰還(引上げの途中、命を落した人々、大多数あり)。当時宗派組織大本山(本部)より、満州国布教を拝命される。(確か、昭和10年に)大陸に渡られた先々代住職が帰還され(昭和21年)配属された勤務先が、何と被爆後の広島本照寺(昭和23年)であったとのこと。戦後も、インド独立運動家と先々代住職との交流は継続し、そのアジトが広島市内の本照寺本堂であったと聞き及ぶ。

 ともあれ先々代住職の存在が大きな要因にて、戦後1957年に建立されたパール博士碑は、日本の敗戦と広島の原子爆弾による被災、パール博士の理念と『東京裁判』のあれこれ、先々代住職の満州国におけるご活躍、等々の絆と絆を手繰り寄せて今日、本照寺境内にある。
 お亡くなりになった先代住職の口述解説のみでは、あまりにも受け取る側トーマス自身の基礎知識が脆弱過ぎた。そのため、基礎知識拡充のため、数冊の書籍を紹介下さり、それを読み進めながら時間をかけてご解説下さる予定だった、と思える。

 となれば、当時簡単に考えていた満州国の国際的背景に関しては、未知なことが多く、5年経った現在、そこはかとなく満数国関連の歴史を知りたく、未知の知識習得に欲が出てしまう。
 広大なアジア諸国(戦前は独立していなかったからアジア地域)とヨーロッパ列強に米国と中国とロシアの政治的立ち位置の比較をフィールドワーク(書籍資料上にて)してみたく、もちろん日本敗戦後の東京軍事裁判の判決等にも、さらに一歩踏み込んで資料整理し、パール博士の周辺(インド独立運動など)にも踏み込んで資料調査し、研究したく思います。

 当ブログの投稿シリーズ記事としては、現時点での結論を得るまでもなく、近未来への発展的思考に転換したく先駆けとして位置させ、この投稿(No.-3)の手仕舞をさせて頂きます。

 〈追伸〉パール博士碑関連記事の続編を発表ます。その内容としては、中区の広島三井ガーデンホテルから中区小町本照寺迄約5分間の道のりを、写真画像で紹介させて頂きます。

『ウィキメディア財団からの感謝』;ささやかな自慢話……

2014-07-11 07:28:40 | 教養・文化・歴史

 おはようございます。

 本日はささやかな自慢話風呟き的な『ご報告』を致します。

 「一体全体、それは何だ?」

 「はい、笑ってニコニコ、いつもお世話になっているウイキペディアに寄付(2回目)致しました!」 しかし指定されたなかの最少額(800円)のみ。

 月間数回程度?私はウイキペディアのお世話になります。日本語と英語の2か国語に渡り、便利に利用させて頂いております。何とこの財団は宣伝広告なしに運営されているとの事。私の気分は僅かな使用料?程度の意味合いで寄付いたしました。

 御礼は私の方から申し上げたい。

 ウイキメディア財団殿、ありがとうございます。(トーマス青木)


 (以下、今朝方届いたウイキメディア財団からのメール、転載します)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Thomas A. さま

世界中のすべての人に知識を届けるという、かけがえのない贈り物をしてくださいましてありがとうございます。

私はリラ・トレチコフ、ウィキメディア財団の事務長です。この一年間、287言語版におよぶ百科事典を展開し、またそれを世界中でさらにアクセスしやすいものにするという私たちの営みは、あなたのような方々からの贈り物によって支えられてきました。私たちは特に、教育を受けられないような人たちの状況を変えることに邁進してきました。私たちが知識を届けたのは、例えばインド・ソーラープル出身のアクシャヤ・アイエンガーのような人々です。織物業が盛んなこの小さな町で育ったアクシャヤは、ウィキペディアを一番の教科書として学習してきました。この地域の学生には、本はほとんどなかったものの、携帯からはインターネットに繋げることができたので、ウィキペディアがとても役立ちました。アクシャヤはインドで大学を卒業し、今ではアメリカでソフトウェアエンジニアとして働いています。アクシャヤは自分の知識の半分はウィキペディアのおかげだと考えています。

このような話は珍しくありません。私たちには志の高い使命があり、険しい道のりを歩んでいます。ウィキペディアが非営利団体で運営されていて、皆さまの寄付で資金を賄っていると聞くと、ウィキペディア利用者の多くは驚きます。例年、人類の知識の総和を誰にでも利用し続けられるようにするのに、何とか足りるだけのご寄付を皆さまにいただけています。この使命を可能なものとしてくださって、ありがとうございます。

ウィキペディアの5億人の読者、何千何万人のボランティア編集者、そして当財団職員を代表し、御礼申し上げます。おかげさまで、今年もウィキペディアを、広告なしで運営できました。

ありがとうございます。
リラ

ウィキメディア財団
事務長
リラ・トレチコフ
donate.wikimedia.org

お控え:あなたが 2014-07-10 に行った寄付の金額は \ 800 、寄付番号は CNTCT-6697825 です。

この書類は寄付の記録としてご利用いただけます。このご貢献に対して、いかなる財やサービスの一部または全部も提供されません。ウィキメディア財団は非営利の慈善団体で、アメリカ合衆国において501(c)(3)の非課税適用を受けています。所在地は 149 New Montgomery, 3rd Floor, San Francisco, CA, 94105. U.S. で、非課税番号は 20-0049703 です。

宗教と象徴

2014-02-13 12:20:45 | 教養・文化・歴史
<添付画像>小さな如来像(殆んどハンドボールの大きさ…)
(撮影月日)平成24年1月13日
      昨年12月上旬に他界した実弟の四十九日法要に参加
(撮影場所)本照寺本堂玄関先
(撮影機材)FUJIFILM X100S 
(撮影者) トーマス青木

 A.H.さんの投稿された画像3枚(正月明けのイタリア旅行中撮影されたもの)を拝見。 実に訴求力あってあれこれ考えさせられた次第です。 ヨーロッパの教会や寺院の建造物や絵画も、日本の仏教寺院の仏像や絵画も、表現したいことの共通性を感じます。 それは全て、人間の『愛と幸せ』を象徴するものであると考える限りにおいて、それが異なる宗教と雖も、到達するところは一つです。 しかししかし、宗教の存在するところに富と金が集まる。そこに人間の欲得権力が咲き誇ると悪が芽生える。 A.H.さん仰せの『え~~~?って人間』は、こんなところに屯する輩でしょう。 そこらあたりが人間社会の面白いところです。この度、私は私の実弟の死去に纏わる一連の出来事で、あらためて宗教と人間の死、加えてお寺と日本人の関係の将来像を観た気がしています。そんな時のA.H.さんのこのFB記事に出くわし、なにやら私ごとのように人生の悲喜交々、その多くを感じました。 ごめんなさい、書きすぎました。
__________________________________________________________________

 上述のこと、フェイスブックのコメント欄に記述しようと思って書き下ろしたもの。結局投稿を中止。FBから削除したメッセージです。 少しフェイスブックのメッセージとしては長すぎた。だから、《ごめんなさい。書きすぎました。》と締めくくっています。
 しかし、ブログ記事にしようと思い一旦コピペし、加筆削除等添削しようと思いながら草稿記事にてスタンバイしたもの。本日あらためて(添削無しにて)掲載に至る。尚、AHさんとはトーマス青木のフェイスブック友達のお一人です。

井上和彦著『日本が戦ってくれて感謝しています・アジアが称賛する日本とあの戦争』

2013-10-25 18:17:46 | 教養・文化・歴史
 産経新聞出版書籍編集部のつくった本・井上和彦著『日本が戦ってくれて感謝しています・アジアが称賛する日本とあの戦争』……
カフェマガジン旅遊亭より転載しています)
 
産経新聞さん、トータル的にありがとう。

日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争(2013/09/29)井上和彦商品詳細を見る

 良書です。

 夜な夜な(寝る前になって)寝床で読んでいます。お書きになった時間場所や原稿の書き方が異なりゴッタマゼでつぎはぎだらけの、纏まりの無い雰囲気の一冊です。しかし書かれている内容は一本筋が通っていて、非常に良いです。

 いわゆる自虐史観による近現代日本史の書籍が蔓延る中、まともな歴史書はなかなか見当たらないのが現状です。近代史の物事を推し量るのには、必ずや基準が要ります。基準(秤?物差し!)無くして、異なる文化や歴史の比較は不可能です。比較しようもない状態で、歪曲された日本史を鵜呑みにしてはいけません。

 本書は、日本近現代を考察する際の基準(≒norm)となる記述がなされている、と考えます。


(投稿:トーマス青木)

<追記>:優柔不断な文章(上述本文)を書いた不本意な気分おさまらず、その反省を込め、とあるFacebook Frend に再度、評価をお願いしたが、さほど酷評は頂きませんでした。以下(トーマス青木の返事のみ)紹介します……

<以下FBコメント欄よりコピペ掲載>
  ありがとうございます。Kさんの『お考え』をお聞きし、ひと安心いたしました。既にご推測の通り、本書の内容はいろいろな形で発表されたもの、貴兄ご承知の事ばかりにて、ジャーナリスト井上氏が各方面にばら蒔いた原稿を寄せ集めただけの、無編集且つ乱暴極まりない寄せ書きの一冊です。ま、若きジャーナリストだけに活動的で若き頃から体張って集めた旧大東亜(の各国)各地の生(ナマ)の情報を記載しているので面白いです。となれば思想の左右を問わず、ひとつの共通基盤的事実集になると考えます。そこに、私的な表現『norm=基準』が出来る。基準無くして公平な評価出来ず。試行錯誤の続く近現代日本史の評価基準を(その一つを)、例えばこの一冊に於くのも良いではないか!?と、我が左的FBF乃至、方向感覚の無い不感症的左巻きFBFにはちょうど良い参考資料になるのではないか?と思った次第です。なるほどKさん仰せの通り、小学校中学校の副読本にすればいいという志向も実に佳い思考です。総じて、実に心地よいコメントを頂きました。ありがとうとございます。11月に入って、選挙も済んで、彼是一段落して、またお会いしましょう。<以上、コピペ引用終り…>

大亜細亜悲願之碑(2);東京軍事裁判、判事・パール博士のこと

2013-10-03 08:45:55 | 教養・文化・歴史
<添付画像>パール博士揮毫石碑
(撮影年月日)平成25年9月23日
(撮 影 者)トーマス青木

 石碑の文言によれば、パール博士は昭和27年に来広されている。
 その時分に、(在広島の?)某団体からのリクエストをお受けになって揮毫された、とある。
 書き写ししながら、碑文建立の趣旨や経緯について詳細を知りたくなった。
 もちろん過去に幾度か、パール博士碑文のお話しをお聞きし掛けたけれども、それを主題にする状況ではなかったので、しかと聞き及んではいない。
 こうなったら、いてもたってもおれなくなった。
 是非とも今月中旬迄にアポイントをとって、本照寺ご住職にお会いしたい。石碑の経緯を、あらためてお訊ねしてみる。
 戦時中のこと、先代住職(現在のご住職の御父上)が満州に渡り、布教に勤められた。終戦後(昭和20年)から数年経って引き上げ者として帰国された。新たに配属された寺が、原爆で被災した広島市内のお寺(現在の本照寺)になった、と聞いた。その時以来、本照寺が満蒙開拓団の引揚者達のアジトになり、先代住職を取り囲んで毎晩酒盛りが繰り広げられた、とも聞く。ここら辺りの武勇談や豪傑話は今のご住職がしっかり引き継いでおられるはず。 しかとお聞きして、パール博士の石碑との関連性を整理したい。
 したがって石碑もう一回、最終章を認めます。(トーマス青木)

   -------------------------------------------------------------

(以下、石碑本文の写し)

 ベンガル語の慰霊文は東京軍事裁判でただ一人

 心理と国際法に基づき 日本の無罪を主張し

 原爆投下の非人道性を指摘した インド代表判事パール博士が 

 昭和二七年の秋来広の際 期の碑文建立の趣旨に共感し 

 半日瞑想推敲して揮毫されたものである

 アジアの民族解放運動と戦禍にたおれた

 満蒙華印等動乱大陸の人々の面影偲び 浄石にその名 記し

 石窟内に奉安 有志恒友相倚り碑を建立した

 慰霊の式典をかさねこと三十三回

 昭和四十三年五月 恒友協力 浄域を整え再建す


    日 文 源田松三筆

    英訳文 エ・エム・ナイル

    碑 銘 大亜細亜 は 

    宮島詠士先生 遺墨に依る


             (以上、下記写し了)

   <…第3章に続く…>



* 前編『大亜細悲願の碑亜(1)』へ、こちらから戻れます・・・

大亜細亜悲願之碑(1);東京軍事裁判、判事・パール博士のこと

2013-10-02 09:08:17 | 教養・文化・歴史
<見出し画像>本照寺境内にて
撮影年月日:(平成25年9月23日)
撮 影 者:(トーマス青木)
撮影機材 :(FUJIFILM X20)

 広島市内のまん中に日蓮宗『本照寺』あり。
 そのお寺の境内に佇む石碑あり。
 それは、『大亜細亜悲願乃碑』……
 数年前から、「この石碑の文言に目を通しておかねばならぬ……」
 と思っていたのです。
 先日、秋季彼岸法要に出席した際、とりあえず石碑文言を画像にし、書き下ろしました。 パール博士碑と広島の本照寺との関連について述べなければならないこと多々あるのですが、先ずは石碑文言通読が先だ。


  『大亜細亜悲願乃碑』



  『日蓮宗・本照寺』山門、、


 山門を入る。右手の庭園に石碑は建立されている。


  『パール博士石碑』……


 大亜細亜悲願之碑

 激動し変轉する歴史の流れの中に

 道一筋につらなる幾多の人達が

 万斛の思いを抱いて死んでいった

 しかし

 大地深く打ちこまれた

 悲願は消えない




 ②

 抑壓されたアジアの

 解放のため その嚴粛

 なる誓にいのちを捧げた

 魂の上に幸あれ

 ああ真理よ

 あなたは我が心の

 中に在る その啓示

 に従って我は進む

  一九五二年二月五日

   ラダビノード・パル




 English Translation From
   Bengal Language Text of this moment: ―

 For the peace of those departed souls who took upon themselves the solemn

vow at the salvation ceremony of oppressed Asia,

 “Oh! Lord, thou being in my heart,

    I do appointed by you”

    1952.11.5 Redhavinod Pal



以上、
 石碑に刻まれた文言の紹介。

次回、
 継続して石碑建立の経緯が紹介された文言を紹介します。


               <…続く…>

 
   (続編『大亜細悲願の碑亜(2)』へ、こちらから入れます・・・


評論家・屋山太郎 東京五輪を「武士道」で迎えたい

2013-09-29 17:50:22 | 教養・文化・歴史
 オリンピック2020開催が東京に決まって数日の後、

 我等が尊敬する屋山太郎氏の清々しい論評を見た。

 2度、読んだ。

 以下、

 9月13日産経新聞『正論』のコラムから、

 完全コピペして、エセ男爵ブログの歴史に刻みこみたい。

 (エセ男爵 & トーマス青木) 

  -----------------------------------------------------------

 評論家・屋山太郎 東京五輪を「武士道」で迎えたい
 2013.9.13 03:11 [2020東京五輪]

 《世界の心動かす精神の発信を》

 アベノミクスが成功の兆しを見せている中、2020年の夏季オリンピック開催地に東京が決まった。長いトンネルを抜けて、出口の明かりがひときわ輝いてきたように見える。開催までに7年の期間があれば、日本のことだから、施設の整備や運営に怠りはないだろう。世界の人もそう信じていると思う。しかし、東京オリンピックをただの運動会に終わらせてはならない。世界の人心、文化を動かす精神を発信する絶好の機会だと心得るべきだ。

 滝川クリステルさんは「お・も・て・な・し」の心を訴えたが、「おもてなし」はまさに日本の心の表現だ。これを日本人の女性的な表現だとすれば、男性的な表現は「武士道」だろう。この日本精神は今や国際的な普遍性をもって世界に広がっている。

 日本のマンガは世界中に普及している。『ワンピース』というマンガは、力を合わせて難局を乗り切ろうという趣旨で福島の被災地を勇気づけたが、フランスでも大流行だという。数年前、フランスとスペインの国境にあるバスク地方の田舎町の本屋の店頭に、日本のマンガが平積みになっていた。どうしてだろう。なぜだろうと考えさせられたことがある。

 日本のアニメも国際的に大流行だ。各国のオーケストラにも日本人の団員が多いのが目立つ。ソロで活躍している音楽家、歌手、ダンサーも数知れない。日本料理も世界に浸透し、モスクワには寿司屋が900軒もあるそうだ。

日本人の誠実さも遍(あまね)く世界に知られている。50年も前のことだ。ローマ駐在特派員を引き揚げるとき、家主から後釜に日本人を見つけて入れてくれと懇願された。その熱心さを見て、古くから日本人は信用されているのだなあと、祖先に感謝したものだ。

 《父と剣の師から教わったこと》

 武士道といえば、佐賀の「葉隠れ」を思い浮かべる人が多い。その神髄は「武士道とは死ぬことと見つけたり」で、戦時中、軍部がこれを戦意高揚に利用したため、「死に急ぎの哲学」ともいわれた。しかし、葉隠れの真髄(しんずい)は「武士はいつ死んでも悔いがないように日々立派に生きよ」ということにある。進駐軍はこの葉隠れの精神を嫌って剣道の競技まで禁じた。父は後年、「アメリカ人はもっと他に良い生き方があると教えてくれるのかと思ったよ」と笑っていた。

 父は終戦の年の東京大空襲で顔面と手足を大やけどし、3カ月間も入院し、私も家が焼けて居場所がないから同じ病室に寝泊まりして看病した。終戦後、何カ月かたち、父に秘密を打ち明けた。「一発で何百万人も殺すような爆弾を作ってお父さんと広島でやられた20万人の仇(かたき)を取る」と。父は言ったものである。「米国との戦争は終わったんだ。勝負がついたからには諦めろ。仇を討(う)つよりは『潔い』ことの方が難しいんだよ」

 大学生になって剣道が復活されたので、私は剣道部を創設し、夢中になった。団体戦で先鋒(せんぽう)に出て勝ったときのこと。席に戻って面を外したとき、嬉(うれ)しさがこみ上げてついにっこりと笑った。その時、監督の師範から竹刀で思いっきり背中を叩(たた)かれ、耳元で「笑うな! 負けた相手の心情を思いやれ」と言われた。惻隠の情である。私は以上、たった2つの出来事で武士道の心を悟った。この精神はあらゆる勝負事、立ち居振る舞いに通じるもので、克己心の深い意味も知るようになった。外国人が好む「クール・ジャパン」の本質も武士道ではないか。

 職人の世界でなぜ日本だけに「匠(たくみ)」が多いのかという特集取材に加わったことがある。4、5人の町工場の長がグループになって徹夜も厭(いと)わず、精魂込めて製品を試作する。聞いてみると、請け負ったのはそのうちの1社である。「儲(もう)けがないのになぜ一生懸命やれるのですか」という問いに、「人が喜ぶのを見るのが嬉しいからだ」と町工場の社長は答えた。これこそ、武士道の精神なんだあ、としみじみ思った。

 「義を見てせざるは勇なきなり」という精神も武士道の柱の一つである。それが廃れたからこそ、陰湿ないじめが流行(はや)ってきたのではないか。「強きをくじき、弱きを助く」を実践したことがあるが、あれほど恐ろしかったことはない。が、2、3日経って満足感がこみ上げてきた。

 日本は常時、世界の世論調査で最も好きな国の一つに挙げられる。日本の文明、精神が人や芸術を通じて広く世界に受け入れられているからだろう。日本の文化は宗教や文明の違いを超えて、普遍性を持っていると信じる。東京オリンピックを通じて、日本は武士道、おもてなしの精神を発信し、フェアで人類平等の楽しい価値観に尽くそうではないか。

 最後に、どうしても付け加えたい。韓国では「日本は五輪開催にふさわしくない」とメディアが煽(あお)り開催地決定前日、政府が福島など8県の水産物禁輸を発表した。この汚い手口は武士道にはない。(ややま たろう)

櫻井よしこ氏特別講演会『日本よ のびやかなれ』

2013-07-14 17:49:50 | 教養・文化・歴史
<添付画像>櫻井よしこ氏講演会
(撮影年月日)平成25年7月13日
(撮影場所)広島国際会議場
(撮影機材)FUJIFILM X20


 旧友の誘いを受け、昨日(平成25年7月13日土曜日)の午後2時30開演『櫻井よしこ特別公演日本よのびやかなれ』に参加した。 櫻井よしこ女史講演会を主催した公益法人の代表曰く、
 「櫻井さんには平成10年に当地広島にお越し頂いた。その時の評判良くて是非また櫻井さんに来て頂きたいとの声多く、15年経った今年今月、ようやく念願かなって櫻井よしこ氏の講演会開催できた……」等々、
 幸運にも私は昨年十月を加え、この一年間で二度に亘り櫻井よしこ女史講演会に出席できる幸運を得たことになる。
 公演時間の1時間30分。相変わらずスローモーション風な櫻井よしこ女史の会話テンポはゆっくりと進むもののメリハリあって正調。心地よく爽やかに、元気出て勇気湧くお話の内容だった。

 講演会の開始前提として、櫻井女史曰く、
 「この度の参院選は日本の将来を決定付けるたいへん重要な選挙だから、『どこの党に投票したらどうか云々』は一切私は言わないから自分自身でお決め頂き、必ず投票に行くように云々……」
 のワンセンテンス、前置きあり。
 お話のあらましは以下の通り。
 習近平政権支那国家の動向は横暴を極めオバマ政権米国と「太平洋を二分割しようではないか」との提案あり。これは乃ち支那共産国家の21世紀的世界観を呈するのも。支那は益々軍事費を増強するのは今世紀の世界覇権国家を支那とする、その布石に他ならない。太平洋2分割とは?その西側に位置する我国日本は(無言の内に支那の中華国家圏内に属する小国すなわち日本省也?)如何なる対応をすればいいか?
 また、
 同時に今、アメリカも大きく『軍事費削減』へむけ変化してきている。
 すなわち、
 二期目を迎えたオバマ大統領は乃ち『アメリカ国民皆国民保険』実現に向けて完全に米国内の福祉政策に国家予算を振り向けたいがため、世界に拡散した米軍の軍事力を縮小政策の実現達成に舵を切っている。
 すなわち日米安全保障条約に基づいて我国日本の安全を確保するための軍事予算にも影響し、例えば周辺国境に散在する島嶼部(竹島及び尖閣諸島等々)の防衛等は、今後米軍頼みで日本が傍で見ているような図式は描けなく、到底現実的ではない。乃ち我が家に賊が侵入しているのに我家では何も対応抵抗防御できず、隣家のご主人様にお出ましを乞い願っている状態は冗談を通り越して現実的ではない。そのためには集団的自衛権の発揮できる憲法解釈や自衛隊の対応を薀蓄している段ではなく、自衛のため防御のための軍事力を発揮できる国家的ルールと実力を保持し維持しなければならない。
 このまま放っておけば支那共産国家は、尖閣諸島はおろか沖縄列島をとりに来るだろうし、すでに長崎県の五島列島は傀儡日本人土地買収業者を通じ地元住民から支那人へ、土地が買収され続けている。このままでは九州全土が支那共産国家に奪い取られかねない。
 等々、多分に日本は今、国家滅亡の脅威に晒されている。すなわち土地取得の法改正なくして国土は守れず。
 これの対応策はただ一つ、現行憲法の改正だ。
 早急に我国の現行憲法を改正し、自分たちの手で国を守れる憲法を施行すべきだ。
 そのためには、衆参国会議員の3分の2以上の議決を得て憲法改正の議決を通す。そののち粛々と国民投票に委ねて憲法を改正し、ようやく我国日本が21世紀の将来に向け目指す道が開かれるのではないか。
 これは緊急事態である。日本国民が自国のことを決められない状態が現行憲法であり、この決められない状態をこれ以上長く継続してはならない。この度の参院選の結果如何で、それを失することになる。ならば、次の機会までに我国日本は(国土を失い国民の自立心は遺失し)消えて無くなる可能性すらある。
 最後に、
 「だから、日本の国を左右する『みなさまの大切な意見』を反映する大切な参院選挙になりますから、かならず選挙に出かけ、一票を投じて下さい!」
 
 等々、お話がありました。


 寸足らずではありますが、以上、櫻井よしこ女史講演会のあらまし、、、

    (エセ男爵)