Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

謹賀新年 '11.

2011-01-01 08:49:47 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<添付画像>:ハンガリーの首都 ブダペスト市内にて

 
 あけましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願いします。


(ご挨拶はこのくらいにして、、、)

 今年は本気でブログ記事書きたいと思っています。

 宜しくお願いします。


 ということで、今年の年賀状画像の紹介です。

 なにを隠そう! これ、ずいぶん古い画像でして、確か、1999年(今から12年前?)のこと、それこそ久しぶりにブダペストに入った時、アンティーク店のショーウインドウが懐かしくて、思わずシャッターを切った時の画像、、、。

 かくして、




 かくかくしかじか、関係先の方々に賀状としてお送りしました。
 
 拙い!

 こういうことでは埒があきませんぞ。 今年は何とかしてフレッシュな自作画像を擁立しなくてはならんと考えています。が、はたしてどうなることやら、、、。



 

マッチョダンサーのモデルとなった男たち・・・

2010-02-03 09:38:10 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<添付画像> ジミー&ミシー
(撮影月日)1999年7月
(撮影場所)ハンガリー・ブダペスト市内


 右に「ジミー」で左は「ミシー」、、、
 小説上のニックネームであるけれども、事実、ダンサーとしての彼らの芸名なのだ。
 想えば、ちょうどこの頃、左手ミシーの横顔は、中央ヨーロッパ諸国の町々に溢れていた。
 なぜか?
 そのわけは?
 そう、吾輩の知らぬ間に「ヨーロッパ・ペプシコーラ」の宣伝モデルになっていて、ヨーロッパ大陸中の巷に彼の横顔のポスター張り巡らされていたのだ。 彼の鋭角的な横顔と黒髪が、ドイツ・オーストリーは勿論のことチェコ・ハンガリーや、少し跨いでイベリヤ半島、戻ってバルカン半島の諸地域に特有なコズモポリタン的多様人種の複合体国家に住んでいる欧羅巴大衆に、ポピュラー且つ美しく判断される面持ちだった訳だ。
 知り過ぎるほどにミシーを良く知っている吾輩は、別段取り立ててミシーが美男なのかどうか等々、考えたこともなかった。が、さすがにちょっとした小劇場のスクリーン並みの大きさに拡大されたペプシコーラの看板には、迫力を感じたものだ。(そう、今となっては街中に掲げられたその看板を撮影し損ねたのが悔やまれる) いまだに我が瞼に焼き付いているけれど、真夏の太陽を体いっぱいに浴びながら、空を見上げて水しぶきを浴びる(?否!ペプシコーラの飛沫か?)彼の横顔は、いかにも中央ヨーロッパ風にして爽やかな男臭さを漂わせていたぞ…
 そうなのだ、ミシーのツラの蘊蓄をあらためて申しあぐるならば、ミシーは中央ヨーロッパ的醤油顔なのであり、エセ男爵基準に於いて測ればそれなりのダンディズム漂うか。

 二人とも、トーマス青木の長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』(Pozsonyi utca)の登場人物だ。 以下、『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻から、第一章(20p~21p)の初記述の場面を以下に切り抜いておこう。 この章はさわりだけ、且つジミーの事しか触れていないけれど、どうぞお眼通し下さい。 (・・続く・・・)


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黄昏のポジョニ・ウッチャ
トーマス青木
リトル・ガリヴァー社

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以下、黄昏のポジョニ・ウッチャ、抜粋・・ (20~)
 「行ってきたよ、ブダペストとアムステルダムに、、、二度ほどね。それで僕が直接話し決めたんだ。ホラこれ、連中の写真だ。東京に同じような店があるが、奴らはアメリカ人のダンサーだ。東京よりイイよ。やっぱり、ヨーロッパだよな、品があるよ、ムードが違う。深みがあるよな、何だかアメリカ野郎は情緒が薄っぺらいね、、、東欧の連中はまるで雰囲気が違うよ」
 などと、四十過ぎのオーナーが、自己満足の頂点に達し、ひとりでしゃべりまくっていた。新装開店一ヶ月前の薄暗いナイトクラブの店の中での一方的な会話であった。
 昼間のナイトクラブは、サマにならない事は良く知っている。それは、夜のトバリにチラつくネオンの光の中、厚化粧して着飾った夜の女が闊歩し、その上、心地よいミュージックが流れていないと様にならない。今、それらが皆無の開店前のクラブの中は、それは殺風景であった。これほどになさけない無用な空き箱は、他に比較できる対象がないのである。三ヶ月も閉店していた店にもかかわらず、空調を止めている店内には空気がどよみ、長年しみ付いた、安物ウイスキーとタバコの臭いに加え、からだ中にアルコールのまわりきったヨッパライの吐き出す吐息と、お店のホステスの夜の体臭が、いまだに臭ってくるようだった。
 話がすすむなか、興にのったオーナーは、わざわざ皆に芸人の写真を見せる。
 (オー、なかなかイイじゃないか!)
 おれはまた独りごとをいっている。
 なかなかのマッチョマンが六人、それぞれのポーズをとっている。いちおう、プロのカメラマンが撮った写真のようだった。しかしその写真は何となく、数十年前に撮った写真のように感じられるほどクオリティーがかんばしくない。その右端には、シュワルツネッガー風の金髪男もいた。さすが東欧の雰囲気である。その真ん中にいるのが「ジミー」。彼は、若い頃のポールマッカートニーを金髪にしたような、どことなく子供っぽい感じがした。彼がしかし、このメンバーのリーダーだそうだ。ジミーが三十二才。日本なら、とっくに引退している年頃である。
 (いや、しかし若ぶりだ)
 おれはしばらくその写真に見入った。そして、思った。写真を見ただけでは、いや、実物を見たとしても、かいもくヨーロッパ人の年齢は読めない。他に写って入る連中の年齢は二十五前後との事。なんだか急に彼らに興味がわいてくる。もう暫くすれば、いやがうえにでもこの連中に接して仕事をしなければならない。おもしろくなるな~。でも、ヨーロッパの芸人についてはおれはまったく未知数である。その上、全くその世界の存在すら意識していなかったのだ。おれは今まで、日本とアメリカしか知らずにいた。いや、正確にはそれ以外の国の存在そのものに、まるで意識がなかった。

 おれは本気でこの仕事を引き受ける事にした。とにかく、この連中と付き合うチャンスが訪れた事が唯一の喜びだった。しかし、不安があった。ただ一つオーナーに質問があった。それを直ぐ聞いた。
 「オレ、英語できないんです、が、それで、ほんとうに仕事になるんですか」
 「オレで、間に合いますか?」
 全く基本的な質問である。普通の大人としては、かなりねぼけた質問である。
 「お~、大丈夫よ、彼らは英語しゃべらんからさ、マコト君さ」
 「それホント、心配ない」と、あっさりとオーナーがいう。
 (ええ?どういう意味だ、さっぱりおれには解らん?)ここに至ってオーナーは、なんだか、おれが理解できる範疇を飛び出した、わけの解らない事を言い始めたのである。
 (外国人は、みんな英語をしゃべるのではないか?)
 この会話の時点で、おれの基本知識として、
 (世界中の人間が互いに話す言葉には、英語と日本語しかないはずだ)
 (それ以外の言葉ないことはなかろう、いやあるかもしれない)
 といった程度の、小学校の子供でもわかるやつはわかっているような事、それすら分かっていなかった。
 「それって、オーナーが自分で、ハンガリーへ旅行して、探したんすか?」
 「いやいやいや、マコト君、あのさ、僕のフレンドよ、向うにいる、ね」
 「なに、彼がさ、面倒みてくれとるんよ、だから心配ないんよ、ま、なあ、、、」
 結局、ヨーロッパに別の友人がいる、というのである。いいかえれば、オーナーになり代わって、 全ての段取りを取ってくれる人物がいる、という事になる。しかもおれの想像では、その人物が日本人であるという事だ。
 (なんだこのオーナーは、いかにも自分が段取りとった?まことしやかな話は、ただの虚勢じゃないか)

 <以上、長編小説『黄昏のポジョニ・ウッチャ』第一巻より引用・・>

ブダペストの親友: ジミー君(Jimmy),,,

2010-01-30 11:00:45 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<画像>:通称ジミーこと「マーカス・イムレ君」(ハンガリーにおけるエセ男爵の親友)
(撮影日)1999年7月中旬
(撮影場所)ブダペスト市内の某居酒屋風レストランにて
(撮影機材)コンタックスG1 (Lens: 45mm F:2.8)


 10年ぶりにこの写真と出会った。
 あらためて眺めてみれば、まことに良く撮れているワンショットではないか! この一枚を取った時の状況は今でも鮮明に覚えている。 そう、ジミー(画像本人)と彼の相棒のミシー(あらためて画像紹介する)の2人に初めてディナーに誘われたのがこの時。 吾輩ハンガリーに出入りし始めて既に8年以上も年月の過ぎた頃、ハンガリー通を自負し始めた頃だったにも拘らず、さすが連中は地元住民のプライオリティーを発揮し、吾輩が全く出入りしていない地元レストランに案内した。 場所はヴァチー通りの東端、さほど大きくもない店構えの2階のテーブルに案内された。 かくしてシャッターを切ったのは、ホスト役のジミーが今夜の食事を決めるためにメニューを開き、まことに真剣なまなざしでメニューを覗き込んでいるところ。 この時、三脚はおろかフラッシュすら持参していなかった為、左腕肘をテーブルに突きカメラを固定し息を殺し超スローシャッター(たぶん1/30秒くらいだったか?)を切った事を覚えている。
 撮影した翌日、ブダペストで直ちに現像しつぶさにプリントコピーを吟味したところ、「明らかに手ブレによるピンボケになってしまった失敗作だ、、、」と判断せざるを得なかった。 入魂のショットをだけに期待は大であったから、落胆も甚だしいものだった。 原因はスローシャッターによる手ブレであると、判断した。 「アマチュアでも撮影の巧い人なら1/30秒くらいなら全く手ぶれなく撮影できるし、場合によっては1/15秒あたりまでクリアーできる優秀な撮影者が存在する・・・」とのこと、過去に何度か耳にしたことがある。
 でもってこの度、あらためてデジタル記録し再現した画像が目の前にある。

 んむむ、、、?

 如何なものか?
 素人目には、すなわちエセ男爵自身の目から見れば、決して『手ブレ』ではないのだ!

 ???

 さて、どうなのか?

 例えば、DPE専門店が大量に現像や焼付けの注文を受ける場合、時としてプリント(焼付け)現場にて煩雑や急ぎのあまり『ピント調整を雑』に行った結果ピンボケ状態が発生することも考えられるか? したがってその結果、プリントされた作品は当然ながらピンボケ状態で仕上がってくるのだ。
そう! このデジタル画像を如何様に見ても、当時の画像より凛としたモノに仕上がっている気がする。
 ただただ残念かな、強いて言えば、手前のジミーの左肩中ぐらいの所にピントが合っているか?すなわち僅かに前ピンと思われるが、読者諸兄姉のご評価は如何? (・・続く・・・)

ジプシーキングスに目覚めた地≒於!ブダペスト、時は?・・・

2010-01-26 12:03:35 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
 初めてジプシーキングサウンドを耳にしたのは? そう、ハンガリーはブダペストのナイトクラブにて、金髪ジプシー歌手がギター一丁で歌った曲がジプシーキングスの曲だったのは今から15年くらい前か。

 その後、何度も何度も其のナイトクラブに通い詰めて歌手と一杯酒を酌み交わせる間柄になり、あらためて『曲名等々問い質した・・』ところ、曰く

 「この曲のオリジナル曲はジプシーキングス也、云々・・」ときた。

 吾輩は、てっきり其のジプシー金髪女性のオリジナル曲だと思い込んだほどに、彼女の演奏センスと歌唱力は抜群で、何はさておきブッタマゲた。 てなことで、本日ブダペスト旅行回想記事の合間に、ジプシーキングスのサウンドをお聞き頂きたい。


   GIPSY KINGS - ALLEGRIA




 ?
 
 否! ちょいと違う。 やはりジプシーキングスは、もっと以前に聴いている。

   !!

The Best of the Gipsy Kings

Nonesuch

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 そう! 鬼平犯科帳サウンドにて、20年以上も前から聞いていたのであるからして、
ハンガリーの地に立った時、あらためてジプシーキングスとの絡みを再確認したと言ったほうが正しかろう。(エセ男爵)

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シャンゼリゼと言われる所以?

2010-01-25 07:25:25 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
 ですよね!?!

 なにが?

 いやなに、ハンガリーブダペストのヴァーツィー通りが、巴里のシャンゼリゼと喩えられるゆえんは、この画像にあり! ? と云うことです。

 ま~ 理由のほどはよく分かりませんが、シャンゼリーゼ通りにあるお店と言っても過言でないほど華やかだということでしょうか?

 20世紀末の「この頃1999年」、街中に点在していた昔ながらのハンガリー料理店が姿を消し、ハンバーガーショップを皮切りにこの画像の店のような西側風デリカショップが急増していた。

 さて現在は? その後どうなったか? そろそろハンガリーに足を運ばねばならぬ時期になった。 今年晩秋あたりが良いか。

HUF950.- ?

2010-01-23 18:27:45 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<画像>ブダペストのケンピンスキーホテル、コーヒーショップにて
(撮影日時)1999年7月17日
(撮影機材)コンタックスGI / レンズ:カールツアイス50mm


  この絵を観ていると、ほとんど消滅しかかっている10年前の記憶が走馬灯のように繰り出してくる。

 自分の歴史の彼方に、歴史的記憶として残らずに葬り去られていく一歩寸前だった記憶が、この画像によって鮮明に蘇り始めたのだからうれしい。だから敢て、この画像をブログ掲載した。

 先ずはこの旅行(1999年当時)自体のこと。ほとんど忘れ去られようとしていた『この旅行』は、確か、インドネシア東ジャワ州に約3~4週間滞在した後、乗り換えの為だけに日本(関空)に立ち寄り、そのままヨーロッパ線に乗り換えてハンガリーに向かった記憶が蘇ってくる。
 第2にカメラのこと。この画像そのものを撮影したカメラのことだ。 当時、すでに流行遅れとなりかかっていた『コンタックスGI』を入手し、初めてカールツアイスレンズの優秀性を体感した。 とにかくカールツアイスを使いたかった。 使ってみた解ったけれど、レンズの味は抜群だ。 なにはともあれ掲載した「この画像」をもう一度眺めて頂きたい。もっと至近距離撮影したかったけれど、このカメラ(Contax GI / 50mm Lenz)にして約50cmの「この距離」が、最も至近撮影距離だった。なぜならば、コンタックスGIは、(一眼レフではなく)ヴューファインダーシステムのカメラだからだ。 このシリーズの画像はすべて、カールツアイスとコダックフィルムによって創作されている。
 第3に記憶から吹き飛んでいたはずの当時のケンピンスキーホテル・コーヒーショップのコーヒーの価格が(添付画像)から判明。一杯のコーヒーの値段はHUF950.-(ハンガリー・フォリント)日本円との正確なレートがさだかでないけれど、おおよそ日本円で450円程度だった記憶がある。つまり、当時、日本円とフォリントの交換レートは1HUF=日本円の5~40銭だったはず。

 さてこの時、一体全体なんのためにホテルケンピンスキーに出向いて行ったのか?おおよそ思い出してきた。最初に「ミス・クビチャ・ジュジャ」との再会?いや、ジミーと合流し、そしてジュジャとの再会だったか?あれこれ記憶をたどると懐かしくてたまらない。

 そう、そうなんです。

 なにしろ書きかけの長編小説『黄昏のポジョニウッチャ』を今年中に仕上げなくちゃならんのです。2月中に第2巻を完成させ、夏迄には全巻(計4巻)書き上げたいのです。なにはともあれ、一連のこの画像は、小説背景となった当時ハンガリーの記憶を蘇らせ、小説作品の舞台裏を整備するヒントになること、必定です。 (投稿・トーマス青木)

黄昏時のヴァーツィーウッチャ (Vaci ut. Budapest) 界隈,,,

2010-01-21 17:25:59 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<添付画像> Vaci ut., Budapest Hungary, on Jul. 1999.
(撮影機材):コンタックスGI

 古い画像が出てきたので、しばらくシリーズで掲載したい。

 毎年のこと、年明けて滅茶寒い頃になると、やたら書斎の掃除を始める癖がついてしまった。 でもって先週中ごろ、本棚の奥から古いフィルムが10数本出てきた。当然現像処理済みのものであるが、放っておくと劣化して拙いから、数日前に街中のカメラ屋に繰り出してデジタル化した。

 かくして出来上がった。 出来上がったCD内のフィルム3本相当分がハンガリー時代のものだから、なおさら喜んだ。 さて本日、このところ記事更新儘成らぬ状態打破のため、前世期玩具風ハンガリー画像を以ってブログ更新に至った。

 いいなあ~(と、手前勝手に喜んでいるエセ男爵なり、、)

 1999年7月中旬、夏に入ったばかりのブダペスト。

 時間は午後7時30分頃。 この時期、まだ日没までにはかなりの間がある、、、。

 ハンガリーの首都ブダペストを訪れた観光客が必ずと言っていよい程に訪れ、且つ屯する『ヴァツィー・ウッチャ(通り)』には、10年経過した画像を通して今も尚、これぞブダペストのシャンゼリーゼ!的?な、ある種の空気感が漂っているのだ。 

            「・・・!?!」

 「な、なに?・・・」

 「そう、歩いている人は(巴里の詩屋是李伊是とは)ちょいと違うんだよなぁ」

 そうなんです。 ここいら辺りにハンガリーのドン臭さが漂っているのである。
   

ある晴れた週末の午前、ブダペスト「ドナウ川東岸」を散策する・・

2007-05-22 16:45:20 | 酔狂的欧羅巴徘徊記
<添付画像>
撮影場所:ブダペスト市内にて、ドナウ河東岸。日曜蚤の市にて・・・
撮影年月:1998年5月
撮影機材:Minolta/alfa7700i / lenz:minoltaZOOM 35mm~105mm


 先回投稿記事の為に古い画像を探していたら、芸術写真とはほど遠い「ドナウ河東沿岸日曜蚤の市」の一こま、見つかったので掲載したくなった。

 ナヌ?
 こうして視れば、オカマッぽい「ハンガリー人おにいちゃん」が写っているぞ!? 邪魔立てするな! 我輩は目の前の「蚤の市」屋台の撮影に挑んだのであるからして、これも重大な失敗写真! 非芸術的作品であるか。

 なあ~に、本日も頭は空っぽにて、何らさしたる「エセ男爵的・意図」はありません。

 あるのは只一つ、『懐古』!あるのみ・・・

 あの頃のブダペストの日々を回想しているだけのことですよ、、、。

 しかし、あまり度を越して寝惚けすぎてもいけないので、せめて「ハンガリー政府観光局」(こちらから入れます)位には、せっかくお越し頂いた読者諸兄姉をご案内したい。

 加えて、毎度の常套手段と化した「ウイキペディア百科事典」より、ブダペストの歴史的経緯など切り抜き、以下、貼付けしておきたい。


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『ブダペスト』:: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ブダペスト(Budapest)は、ハンガリーの首都で、産業、商業、交通におけるハンガリー第一の中心都市。ハンガリー語の発音に基づき「ブダペシュト」とも表記される。

人口は、1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。ドナウ川の両岸に広がった都市で、右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。両岸の地区を結ぶ代表的な橋がセーチェニ鎖橋である。北緯47度29分57秒、東経19度2分38秒。


「歴史」

1975のブダペスト地図記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。ドナウ川の対岸にあたる現在のペシュト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていた。

900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がやって来てパンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国を形成した。ハンガリー王国における重要都市となったペシュトは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入による破壊からすぐに復旧されたが、1361年にハンガリーの首都となったのは1247年以来王宮所在地であったブダであった。

16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服すると、首都の座を失ったブダペストの発展は一時停滞した。ペシュトはモハーチの戦いによってハンガリー王国がほぼ壊滅した1526年にオスマン帝国によって侵略された。1541年にはブダが占領され、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となった。一方のペシュト地区はこの時期ほとんど見捨てられていた。1526年以降、名目だけにはなっていたが、オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねていた。ハプスブルク家は1686年に王国領を奪回した。

1723年、王国の行政組織が置かれたペシュトは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになった。ブダとオーブダの合計より多かったペシュト地区の人口は、この世紀の間に20倍の600,000人に増え、ブダとオーブダの5倍になった。

3つの地区を単一の行政に統合する試みは、1849年のハンガリー革命政府によって最初に一時的に行われたが、これを鎮圧したハプスブルク帝国によって撤回され、1867年のアウスグライヒによって成立したオーストリア・ハンガリー帝国下でオーストリアから自治を獲得したハンガリー王国政府によって最終的に実現された。合併して成立したブダペスト市の総人口は、1840年から1900年に7倍となる73万人に増加した。

20世紀の人口の増加は、主に郊外で起きた。工業化による都市の発展により、ウーイペシュト(Újpest, 新ペシュト)は、1890年から1910年の間に人口が2倍以上になり、キシュペシュトは、1900年から1920年の間に5倍以上になった。第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は首都にも一時的な打撃を与えたが、オーストリアとの分離により主権国家となったハンガリーの首都になった。1930年までには、都市の人口が100万を超え、さらに郊外には40万人が住んでいた。

第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストで3番目に多いユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡した。それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復しなかった。共産主義政権(1947年 - 1989年)によって、1960年代から実用的な目的のためにいくらか都市が拡張された。1980年代からは、ハンガリー全体と同様に、移住による人口増加と人口の自然減少の釣り合いが取れている状況である。(ブダペスト『ウイキペディア百科事典』より引用=続きはこちらから入れます・・)

 <引用・終り・・>



Merry Christmas! 2005・・・

2005-12-25 00:35:23 | 酔狂的欧羅巴徘徊記

 本日、
  「クリスマス」の日・・・

 この、キリストの生誕の日は、
厳粛荘厳にして(決して騒ぎ立てず、いとも静かに)祝福する「聖なる一日」である。

我輩にして、
本日は、多くを語らず、静かな一日を過ごしたいと思っている。さりとて我輩、無国籍者では無いが、無宗教者の一人。要は、全世界のキリスト教信者様に敬意を表しつつ、静かに穏やかに過ごそうとしているだけに他ならない。

と云いつつも、「除夜の鐘」のなり終わるまでの宿題は、いまだ十分に捗らず、、、。

今日もまた、
また頑張って「書き続け」なければならんと思っているのですが、果たしてどこまで捗るものやら。読書は、人の書いたものを読むから受身であり、ならば一日8時間~10時間は可能でしょう。しかし創作世界?は、自らを能動的にして挑まねばならず、その時々の気合と爆発と集中力を必要とする。つまり「閃きの維持継続」がどれだけ可能か?唯之あるのみ。これ、我輩の場合、一日あたり、せいぜい4~5時間が限界なり!迷い曇った感性に加え蛮勇的元気を振り絞ってみても、全くもって「事が進む」ものでは無いのでして、、。

「・・・!」
「何だか安ワインなど片手にしながら、悠長に三文ブログなど書いてる閑あったら、自分の事やれよ!」
          ・・・ですって?
「・・・?!」

いやはや、
何とご説明して良いものか、、、。
つまり、ブログはブログで全くの別世界なのです。

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